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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XVII 地獄の門
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2 危機意識の欠落

 プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセ。その特別保安諜報部にあてがわれた事務室の一室――アルフレート・ナウヨックス親衛隊少尉のもとに報告が入った。

「……宣伝省情報部に少佐殿を拉致されました」

「は?」

 報告を受けたナウヨックスは部下の言葉を受けてしばらく黙り込んでから口元に手を当てて考え込んだ。

 ヨーゼフ・ゲッベルスの強い影響下にある宣伝省とは言え、いくらなんでも強制収容所や警察、軍隊などの暴力を本分する機関ではない。

 彼らがいかに国家保安本部を苦々しく思っていたとしてもゲシュタポなどの強硬な拘束権などは持っていない。何よりも宣伝省が拉致したのは正真正銘のSDで、その気になれば国家保安本部の強権をもって「彼女」の保護が可能だった。

 そんな相手を「拉致」したのだから、それなりの思惑があるのだろう。

「宣伝省に逮捕権はない。あのゲッベルスの私兵の仕業と考えれば、そうそう悪いようにはしないだろう」

 どちらにしたところで、最終的に政治犯の(たぐい)は親衛隊のところへと回されることになっている。

 それをわかりきっているゲッベルスが安直な考えで国家保安本部の幹部を拉致するなどということは考えがたい。

 ナウヨックスからマイジンガーを経て報告を受けた首席補佐官のヴェルナー・ベストは訝しげな顔のままでそう言った。

「目的がわからんな」

 目的がわからない。

 マリーに何があったらどうするつもりだと食ってかかるマイジンガーにベストはちらと睫毛をあげた。

 ほんのかすかに。

 ひどく物騒な光が文官でしかないベストの瞳に閃いたような気もする。

「国内で地位のある男がマリーになにかしてみろ。そのときは、わたしが法の裁きを下してやる」

 マリーの前では決してみせることはない、不穏な眼差しでそう言ったベストは苛立たしげにとんとんと小さな音をたてて執務机の面を指先で軽くたたいている。やはり、マイジンガー同様にベストも苛立たしいものを感じてはいるのだろう。

「……話しはそれだけか?」

 冷ややかなほどの口調で問い返すベストに、マイジンガーは息を飲み込んだ。苛つく様子で目の前の警察官僚を見やる彼の瞳は、ややしてから憮然としたまま軽く右手を振った。

 まるで自分の気持ちなどマイジンガーには理解できないと言わんばかりの態度だ。しかしそれがいくら面白くなくとも、ベストは親衛隊中将で、マイジンガーは親衛隊大佐だ。

 つまるところ、そこには明白な上下関係が存在している。

 それがわからないマイジンガーではなかった。

「……失礼します」

 煮え切らないものを感じながら、それ以上ベストに食ってかかることは余り好ましくはない。それを察してヨーゼフ・マイジンガーは追及の手を緩めた。

「マイジンガー大佐」

 扉が閉まる寸前、ヴェルナー・ベストの声が飛んだ。

「……は」

「心配しなくていい」

 「しかし」とベストは自分のことを棚に上げてマイジンガーを分析した。先の会議での彼の態度といい、今の焦り具合といい、まるでまともな人間のようではないか。

 一九三九年――三年前のポーランドにあって「ワルシャワの殺人鬼」と呼ばれたヨーゼフ・マイジンガーが、人並みにマリーを心配している。それがなぜだかベストにはおかしくてならなくて鼻から息を抜くとかすかに笑う。

 もっともそんなベストも、大概自分のことを理解していないと言っても良かったのかもしれないが。

「マリーになにかあったら、宣伝大臣といえど、ただではおかん」

 一度は出世コースから外れた身だ。

 今さら、高官から不興を買うことなど恐ろしくはない。

 ヨーゼフ・マイジンガーが変わったように、ヴェルナー・ベストもまたひとりの人間として一回り成長した。本人はそのことを自覚してはいないが、彼らのやりとりを見守っていたヨストはベストの変化を肌で感じ取った。

 ヨストは、ベストがハイドリヒと連日のように衝突していた時代を知っていた。そして最後には、結局、ラインハルト・ハイドリヒという男の凶悪な権力に押しつぶされて失脚した。

 優秀ではあるが融通が利かない。

 ヴェルナー・ベストはそんな男だった。



  *

 マリーは宣伝省の豪勢な応接室のソファに腰を下ろしたまま、行儀良く両膝を合わせてきょろきょろと室内を見回した。

「どうもお待ちしていました、お嬢さん(フロイライン)

「……はぁ」

親衛隊少佐殿シュトゥルムバンヒューラーと言うべきですかな?」

「……どっちでもいいですけど」

 腹が立つほど泰然としたゲッベルスの態度は、普通の人間であればぞっとしただろう。しかしマリーは特になにも感じることはないのか、靴音を鳴らしながら室内へと入ってくる上背の低い男を大きな瞳でじっと見つめている。

「えーっと、ゲッベルス博士?」

 大臣閣下とは呼ばない彼女のどこか不躾な態度に、ぴくりと片方の眉尻をつり上げた。

「最近の子供は、礼儀も知らんと見えるな」

 フンと鼻を鳴らしながらそう言ったゲッベルスはマリーの前のソファに腰掛けてから頭の先からなめ回すような眼差しを向ける。

 どこからどう見ても発育不良の子供にしか見えない彼女。

 彼の情報では、今目の前にいる少女こそナチス親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの私設警察部隊の隊長と目される親衛隊将校らしい。しかし、彼が見るところ全く親衛隊将校らしいところがない。

「礼儀ってなんですか……?」

 ゲッベルスがなにを言っているのかさっぱり理解できないと言った顔で告げる少女は、なにかを考え込むように視線をさまよわせると真剣に悩んでいるようにも見える。

 ――本当に彼女が、ナチス親衛隊の将校なのだろうか?

 カーディガンにハイウェストのスカート。膝丈のフレアースカートから除く膝頭が、少女らしい色香を醸し出しているが、成熟した女性を好むゲッベルスにはマリーを性的な対象として見ることはなかった。

 ヤセギスの、発育不良の子供。

 ただそれだけだ。

「いいかね? 少佐。君は栄えある親衛隊の将校なのだろう。そうであるならば、もっと礼儀正しく目上の者をたてるべきではないのかね?」

 ゲッベルスのもっともらしい言葉に、しかしマリーは動じない。

「でも、ゲッベルス博士は大臣なのかもしれませんけど、それってそんなにわたしにとって大切なことなんでしょうか?」

 彼の言葉が全く理解できない。

 そう言いたげな少女は、金色の睫毛を揺らしながら小首を傾げた。

 まともな人間であればヨーゼフ・ゲッベルスに意見をすることがどれだけ危険なことであるのかわかるはずだというのに、彼女は一歩もひきはしない。

 ゲッベルスの言葉が、心の底から理解できない。

 わずかに眉をひそめて不愉快そうな表情をした金髪の少女はまるで反抗期の子供のようだ。しかし、反抗期の子供であれば、本人の発言がどれだけ危険なものであるのかを理解している大人たちが矯正するはずだというのに彼女にはそれがない。

「わたしにとってゲッベルス博士は他人じゃないですか。ただ、ゲッベルス博士は宣伝大臣というだけで別にわたしにとって目上というわけじゃありません」

 あなたは「有名人」であるというだけの他人だ。

 マリーの一言に、目を丸くしたのはゲッベルスのほうだった。

 彼女の物言いは確かに失礼極まりない。しかし、彼女の語る言葉は確かにある意味的を射ている。

 おそらく、少女は自分が取り締まりをするべき側の人間であるということをはっきりと理解しているはずだ。そして、それを知っているからこそ、ゲッベルスに対して真っ向から立ち向かうことができるのだ。

「……――君は(ドゥー)

 本来なら無礼な彼女をしかり飛ばさなければならなかった。だというのに、なぜだか毒気を抜かれてしまったとでも言えばいいのか。

「年上だというだけで、礼儀を払わなければならないのなら、間抜けな浮浪者にも礼儀を払わなければならないという道理になります」

 それに。

 そしてマリーは続けた。

「”あなたがた”だって、そんな”目上”の人たちに対して無礼な態度をとっているじゃないですか」

 誰に対して、とは彼女は言わずに顎を引き上げる。

「君は、わたしが怖くはないのかね?」

「どうして?」

 間髪入れずにマリーが問い返した。

 まっすぐにヨーゼフ・ゲッベルスの瞳を見つめ返して、彼女は背筋を正した。

「別に怖くないわ」

 顔色も変えずに応じたマリーは、足を引きずるようにして歩み寄ってくるゲッベルスを凝視する。目の前にいる男が女には目がない男であることをわかってもいないらしい。

「女は男に屈服するものだ……」

 強い語調で言ったゲッベルスがマリーの隣に腰を下ろしてその肩を抱き寄せてささやきかける。

 彼――ヨーゼフ・ゲッベルスは常に社交界の中心にいた。ゲッベルスが声をかけてベッドを共にしなかった女はほとんどいない。そうして拒んだ女は、社交界から追放させる指示を下していた。

 ――自分に反抗的な態度を取る女の存在を許しはしない。

 やっとの思いで社会的な名誉と地位を手に入れたのだ。それを手放す事態などあってはならない。

「ゲッベルス博士……」

 少女の顎を引き上げたヨーゼフ・ゲッベルスの指先に、彼女は彼を呼ぶ。

「わたし、あなたの香り嫌いです」

 シェレンベルクのほうが良い香りがするわ。

 つけつけとゲッベルスを評価して、マリーはにこりと笑ってからゲッベルスの右手に触れた。そうして硬直してしまったように身動きを取ることもできずにいる男の手を自分から引きはがしてぱちりと大きく青い瞳を見開いた。

「ね? ゲッベルス博士もわたしみたいな女の子なんて大嫌いでしょう?」

 青い瞳はまるで沼の底を思わせる。

 人の心を引きずりこむ青い湖沼。

 ぎょっとして身じろいだゲッベルスは、思わず吸い込まれるようなマリーの瞳に捕らわれた。彼女の瞳から、まるで白い腕でも突き出すように、沼の底へと絡め取って引きずり込む。

 ――マリア・ハイドリヒの瞳に捕らえられてしまえば、おそらく決して逃げられはすまい。

 咄嗟にゲッベルスは少女の体を強い力で払いのけた。その衝撃に、少女の体がソファに倒れ込む。膝の上にめくれ上がったスカートから覗く白い足がどこか病的に思えて、ゲッベルスは思わずそのまま後ずさりするようにソファから立ち上がる。

「女性に乱暴を働くのは、余り紳士的とは言えないのではありませんか? 大臣閣下」

 響いた若い男の声に、ゲッベルスは血の気の引いた顔を上げた。

 そこには涼しい顔をしたヴァルター・シェレンベルクが立っている。

「うちの局員がお邪魔しているとお聞きしまして。なにぶん世間の道理を知らぬ不届き者ですので、ご迷惑をおかけしていないかと参上した次第ですが」

 なにもかもを見透かしているようなシェレンベルクの瞳に、ゲッベルスは憮然としてネクタイを直すと盛大に鼻を鳴らした。

「部下も無礼なら上官も無礼千万ときたか」

「失礼いたします」

 シェレンベルクはそう言いながらソファに倒れ込んでいたマリーの体を抱き起こした。振り払われた拍子に唇を切ったのか、少し唇に血が滲んでいたがそれ以外はなにをされたわけでもなさそうだ。

 マリーの状況をざっと確認してからシェレンベルクは、ゲッベルスに対して不遜な笑みを向けた。

「閣下は確かに大臣であらせられますが、我々を敵に回すことになるのだということを、もう少し冷静に考えられたほうが良いのではございませんか?」

 衣服の乱れもないということは、性的な行為をされたわけでもないだろう。わかっていて尚、シェレンベルクは追撃した。

「こういったことが(おおやけ)になれば困るのは閣下であるということを自覚されるべきかと思います」

 女を抱きたいのであれば自分の魅力で惹きつければ良い。

 権力を笠に着て女の抵抗を封じるというやり方は、どうにもシェレンベルクの好むところではなかった。

「それに、まだ未発達の少女に対してこのようなことをされるのは、いかがなものかとも思いますが……」

 廊下にいるだろう自分の部下に声をかけて、マリーの帽子とコート、そして手袋を回収すると彼女の背中を抱くようにして応接室を出た。

「閣下ほど聡明な方が、たかが子供ひとりのために失脚するようなことは国家の損失と本官は考えます」

「ねぇ、シェレンベルク」

 囁くように男を呼んで、マリーはなにかを小声で質問した。

 一言二言、シェレンベルクからの答えを受けてびっくりしたように目を開いてからなにを想像したのか顔を赤くしてから、青くなる。

 男女の情事にはまだまだ疎い年頃なのだと考えれば無理もない。

「そういうことだからもう少し身の回りに気をつけるように」

 高く響く靴音に混じって青年の小言が静かに宣伝省の応接室に届いて、そうして室内の空気の中へと消えていった。

「君は危機感に欠ける」

 自分が女であるということを自覚するように。

「はーい」

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