1 持つ者と持たざる者
大日本帝国の特別高等警察は……――。
ヨーゼフ・マイジンガーは、国家保安本部国家秘密警察局長ハインリヒ・ミュラーと、刑事警察局長アルトゥール・ネーベ、そしてふたりの諜報局長と、特別保安諜報部長とその首席補佐官を前にして発言することになった。
「大日本帝国の特別高等警察は正しくは防諜組織とは言えませんな」
マイジンガーの言葉に、椅子に深く背中を預けていたミュラーは首を傾げる。
「しかし、連中はゾルゲを追っていただろう」
「一応彼もドイツの情報将校という地位にありましたので、相応の警戒心は抱いていたものと思います。ですが、日本本土はあの通りの島国ですから、第三者が本土に極秘裏に侵入し、その機密を盗み出すことは骨が折れます。しかも彼らは東洋人であるため、我々のようなヨーロッパ大陸の人間が諜報活動を行うには目立つことこの上ありません」
東洋の国で肌の白い人間が行動するのは良くも悪くも目立って仕方がない。マイジンガーの指摘は的を射ていた。
日本で諜報活動を行うのであれば、それなりの困難が伴うのだということを覚悟しなければならない。
ゾルゲが日本の機密を盗み出すことができたのは、彼が駐日ドイツ大使館に所属する同盟国の人間だったからであるのだ。しかし逆を言えば、白人が怪しまれずに行動するためには公的な立場が必要であると言うことを如実に現している。
そしてそれをマイジンガーは身をもって実感した。
そんな島国だからこその弱点――日本人に防諜という概念が余り発達しなかったのはそうした特殊な地理的な理由に恵まれたのだろう。
島国という地理的条件に加え、更に大陸からは広大な海によって阻まれる。船舶が発達していなかった時代は、たどり着くことすら難儀しただろう。温暖な海と冷たい雪に守られた天然の要塞。日本列島という隔絶された島国で生きてきた人々は「残酷な世界」から優しく穏やかに守られながら生きてきた。
だからこそ純真で潔癖だ。
もちろん当の日本人にも言い分はあるだろう。だが、それでも陸続きの国境を持たず、激しく広大な海がそのまま外国の人間を阻んでいたということがどれほど幸福な歴史を刻むことになったのか。
悠久の……――。
長い時間を。
母なる海と、父なる大地に守られて、慈しまれて生きてきた。
「どちらかと言えば政治警察により近い性質のものかと思われます」
淡々と語るマイジンガーは嫌な思い出でもあるのかわずかに眉をひそめてから、言葉を切った。
「なるほど、それでその防諜の素人の手のひらの上で弄ばれたというわけだな。貴官は」
ミュラーの容赦ない追撃にマイジンガーは一瞬だけ言葉を失ったようだ。しかし自分と目の前にいる男たちの立場の違いも一応わきまえているから、余分なことを言わないのはマイジンガーなりの分別だった。
「その点については申し開きもありません」
それだけ言ってからマイジンガーは数秒視線をさまよわせてから、ちらりと自分の隣の椅子に腰掛けて手慰みのように鉛筆を転がしている少女を見やる。
「ゾルゲの目的を読み切れず、その対人関係に踏み込むことができなかったのは本官の失態です」
きっぱりと自分の失敗を認めたマイジンガーは「しかし」と続けて会議用のテーブルに両手をついて身を乗り出した。
「しかし、今、論議しているのはゾルゲのことではありません」
そう。
論議の的は日本の特別高等警察によって逮捕されたリヒャルト・ゾルゲのことでもなければ、特別高等警察が率先してユダヤ人を保護していたことでもない。そんなことは今の国家保安本部の面々にとってどうでも良いことだ。
ドイツとの同盟国であるという関係もあるから、日本はドイツのユダヤ人政策に対して特別これといった口出しをすることはないが、だからといって率先して協力的な対応をするわけでもない。
どちらかと言えばイタリアと同じで非常に非協力的だ。
しかしそれはやむを得ないことだとも国家保安本部首脳部は冷静に分析していた。
ラテン・ヨーロッパに属するイタリア人たちと、東洋の果てである日本人。彼らと中欧、東欧諸国とのユダヤ人観は全く異なると言ってもいい。
だからこそ「彼ら」には、その「憎しみ」を理解することなどできはしない。
ついでを言えば、別にドイツの勢力圏の外でユダヤ人が生きていたとしてもそれはドイツ人には関係ないことで、国家保安本部の面々の全員が「憎しみ」から任務を全うしているわけではない。
彼らにとってそれが仕事なのだ。
「そうね、ゾルゲなんてどうでもいいわ」
マイジンガーの言葉にマリーが冷徹なほどの素っ気なさでそう言った。
リヒャルト・ゾルゲは現在、日本の拘置所に抑留されている。さすがにのほほんとした日本人でも国益を損なった外国人に対して寛容になれるほど心が広いわけでもないようだ。
「でも、彼はまだ生きているのよね?」
「そのようだ」
大日本帝国政府から、ゾルゲの死刑が執行されたとは報告を受けていない。おそらく、まだ取り調べの最中なのだろう。
「……そう」
そっと響く声で囁くようにつぶやいたマリーの青い瞳は表情をたたえておらず、一見しただけではなにを考えているのかわかりにくい。けれども、とマイジンガーは彼女の横顔に思う。
マリーのその瞳こそ彼を深い底なし沼に引きずり込むほど誘惑してならない瞳だ。
青く、深い碧をたたえている。
しばらく彼女の横顔に目を奪われていたマイジンガーは、それからはたと我に返って小さく咳払いをすると会議室に集まっている一同に視線を戻す。
――別に興味ないけど。
ぽつりとつぶやいた少女の声が聞こえた様な気がした。
ヨーゼフ・マイジンガーの言葉にマリーが同意したように、議論の対象はゾルゲのことではない。
「日本の防諜部門が弱点であるということは同盟を組むドイツにとっても損失があるということで、事実、ゾルゲは二重スパイとしてソ連の連中にも日本の情報を流していた。そしてそれが昨年の対ソ戦の失敗につながったわけです」
シベリアの精鋭部隊。
彼らの存在によってドイツは冬期の作戦で困難を強いられた。そして今年の夏に行われた夏季大攻勢がまたも失敗に終わっていたら、ドイツは決定的な一撃を受けることになっていただろう。
そうした意味では、まさにソビエト連邦内部で起こった反スターリン派による軍事クーデターはドイツの情報部にとっても青天の霹靂だった。
幸運だった、とシェレンベルクは思った。
なぜなら国外諜報局長の椅子に座るヴァルター・シェレンベルクはすでに昨年の作戦の開始から、対ソ戦はドイツに極めて重大な損害を突きつけることになるだろうと予測していた。これは国防軍情報部のヴィルヘルム・カナリスも同様だったようだ。
「歴史に学べ、とはよく言ったものだ」
カナリスは苦々しい表情を隠そうともせずにそう言ったことをシェレンベルクは覚えていた。
歴史に学べ……。
十九世紀初頭のナポレオン・ボナパルトの失敗から学ばなければならなかった。
「まぁ、いずれにしろ日本がそうした意味ではまだまだ経験が浅いことは確かだな」
オーレンドルフはそう分析する。
防諜関連組織が全く素人同然であったとしても、日本人の全員がそうした方面に対して憂慮していないわけではないだろう。それでも、防諜というものは地味なデータの積み重ねであることには違いない。
戦争がはじまってから焦って他国の情報を得ようとしたところで遅いのだ。とはいうものの、結局、大陸を挟んだ向こう岸のことを心配しても時間の無駄というもので、日本がアメリカに負けないように、かろうじて支援してやれる程度のことしかしてやれることなどない。
事実上、同盟を組んでいるとはいえ、日本とドイツはそれぞれ全く別の時間を戦っているのだと言ってもいいだろう。そして、彼らの奮闘にアメリカは当初推測していた以上に、戦力を割かざるを得なくなった。
「経済封鎖を行えば、日本程度の新興国はすぐに音を上げるとでも思ったのでしょう」
シェレンベルクがオーレンドルフに対してそう告げると、行動部隊の指揮官をも務めた知識人の青年は曖昧に頷いてから首を傾げた。
「日本には独特の美学があるのかもしれん」
「どこの国にも理解できない文化というものがあるものです、オーレンドルフ中将」
日本人がドイツ人を理解できないように、ドイツ人に日本人のことなど理解できるわけがない。
「無駄話はともかくとして、マイジンガー大佐はどう見る?」
ミュラーに促されてマイジンガーは適切な言葉を探して口をつぐんだ。
「わたしは諜報部員ではありませんので、適切な情報分析はいたしかねますが少なくとも、アメリカとソ連には日本を戦争に引きずり込んだ疑惑があると考えます」
情報を分析した結果。
彼も警察関係者として、情報将校の知識人たちと同じ結論に達した。もちろん、そこまでに至る道筋はやや雑で、一方的な思い込みは多々見られるのであろうが。
「仮に、日本に謀略を仕掛けたのが、アメリカを含めた連合国であるとして、連中を陥れることができると思うか?」
ミュラーに言葉を投げかけられて、国外諜報局長のヴァルター・シェレンベルクは薄く笑いを顔に張り付ける。
ぞっとさせるほど冷たい笑みに、マリーを除く会議室に集う一同が瞠目する。
「えぇ、必要とあらば。ただし、その前提条件として、まず連合諸国を軍事的に叩きつぶすことが必要ではあります」
敗者に権利など存在しない。
それをヴァルター・シェレンベルクは知っている。
だからこそどんな手段を使ってでも必ず、ドイツは勝利を手に入れなければならない。
「……――ふむ」
シェレンベルクの冷徹な言葉に、ヴェルナー・ベストが頷いた。
彼も、先の欧州大戦でドイツが敗北したために青少年期に煮え湯を飲まされたひとりである。そして多感な時期に多くの経験を重ねた。
「どんな手段を使っても勝たねばならんということには異論はないが、あまりにも汚いやり方をとれば反発も大きくなるのは計算しているかね?」
ベストがテーブルの上で両手の指を組んだまま問いかければ、シェレンベルクは「もちろん」と頷いた。
「もちろん承知しております。ですから、戦後も見据えて我々は政策について審議しなければならないのです」
遠回しな青年の言葉に、ミュラーとネーベが顔を見合わせる。
それは国家保安本部を含めたナチス党幹部、そして政府首脳部の推進する政策の一部が、外国との交渉において不利に働くだろうということを表現していた。
シェレンベルクは目先が利く男だ。
そして若いからこそ誰よりも柔軟で、冷徹だ。
「ゲッベルス大臣のご助力を請わねばならないことになるかもしれません。ただし」
シェレンベルクはさらに続ける。
「ただし?」
「ただし、ゲッベルス大臣には総統閣下の影響力が強く、我々官僚などが割り込む余地が今は”まだ”ないということだけは充分自覚しなければならないことではありますが」
ヨーゼフ・ゲッベルスの力を借りなければならないかもしれない。
シェレンベルクがそう語るということは、まだゲッベルスには利用する価値があるということだ。大概政府首脳部に位置する「政治屋」共は口ばかり達者だ。
おそらく各国首脳部と比較しても、恐ろしく頭が悪い内閣なのではなかろうか、とシェレンベルクは分析していた。
判断能力が絶望的なアドルフ・ヒトラーなどに媚びへつらっているのが良い例だ。
ヒトラーの判断能力と自尊心が人並みのものであれば、ドイツの今の状況はまだそれほど悪くはなっていなかったかもしれない。
表情をぴくりとも動かさずにシェレンベルクはそんなことを思った。
一方で会議に同席しているマリーはなにをしているのかと思いきや、大人たちのやりとりを聞きながらひとりで書類の上に鉛筆を転がして遊んでいる。
「マリー」
ベストが彼女の手を握るようにしてその行為をやめさせると、マリーはベストのそんな反応を予想もしていなかったらしく大きな青い瞳を上げてぱちくりと睫毛をまたたかせた。
「だってベスト博士、わたしには関係ない話しじゃないですか」
関係がない。
日本の防諜網がぼろぼろであったとしてもマリーには関係ないこと。そう言った彼女に、ベストはマリーの向こう側でいささか肩を落とした様子のマイジンガーに視線をくれてから、少女の手の中におさまっていた鉛筆を取りあげた。
「マイジンガー大佐の上司として、もう少し彼の話を聞いてやりなさい」
おもしろいのは無粋な田舎警察官でしかないマイジンガーがマリーに良いところを見せようと思ったらしいということだ。彼女よりも階級が上の「大人」として、頼りになるところを見せたかったのだろう。
「ちゃんと、聞いているわ」
取りあげられてしまった鉛筆という遊び道具を目の端で追いかける彼女は、ベストの厳しい言葉使いにやや不満そうだが、そんな特別保安諜報部の面々のやりとりにオーレンドルフとネーベは顔を見合わせるとプッと吹き出した。
マリーがいるといつもそうだ。
どんなに緊張感があっても台無しになる。
本人はその場の雰囲気を台無しにしているつもりはないのだろうが、明るく朗らかな彼女のまとう空気はまるで春風のように心地よかった。
「マイジンガー大佐は、ベスト博士みたいに怒らないものー」
「厳しいことと、甘やかすのは別物だ」
マリーの口答えを一刀両断したベストに、結局、少女はうまい反論を見つけられずにふくれっ面で言葉を失う。
全てがいつもの国家保安本部の日常だった。




