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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XVI 大海嘯
211/410

14 付け入る隙

 十月の半ばを過ぎて、マリーがショル兄妹を大学へ戻すと言い出した。

「別に君がそれで構わないのなら一向に構わんが、君こそショル兄妹がいなくて困らんのかね?」

 首席補佐官のヴェルナー・ベスト親衛隊中将がそう言いながら、彼女にミルクのたっぷり入ったコーヒーを差しだすと、マリーは大まじめな顔をして眉をひそめてから口を開いた。

「困ります」

「ではどうするのだ?」

 突然、マリーのことをさっぱりわかっていない者を秘書に起用したところで、特別保安諜報部内が混乱に見舞われることはわかっていたから、ベストが問いかける。

 物事を順序立てて考えるとか、身の回りを自分が動きやすくするだとかいったことが全くと言って良いほど苦手な彼女は仕事をしていく上で、補佐官であるベストらの存在は必要不可欠であったし、彼女の良くも悪くもいい加減なところを気遣う秘書官の存在はもっと必要不可欠だ。

 そういった雑用までしている暇などベストにもヨストにもなかったし、根本的にそんな仕事をするつもりは全くない。

「どうしましょう……」

 真剣に困った様子で長い金色の睫毛を伏せてしまった彼女は、いつものことだが後先を考えて発言しているわけではなさそうだ。

 ついでに言うなら、ショル兄妹の通っていたミュンヘン大学はとてもベルリンから通えるようなところではない。

「別の秘書官を探せばいいんじゃないですか?」

「思いつきでものを言うのはやめたまえ」

 きっぱりと断言されてベストに差しだされたカップに唇をつけながらマリーはじっと考え込んでいる。頭が悪いのだから考えたところで無駄だろうともたまには思うのだが、ベストらの考えなどマリーは全く考慮に入れている様子はない。

「君にも学校に行ってもらいたいのだがね」

「……――」

 ちろりとマリーは視線だけを上げてベストを見たが、小言めいた彼の言葉には答えを返すことはせずに、しばらくしてから「そうだ」となにかを思いついた様子で相づちをうつ。

「飛行機で送り迎えすれば……!」

 どこまで馬鹿なんだ、とベストが渋い顔をするが、そんな彼女の表情はしっかりヨストにも見られていたようで元国外諜報局長はからりと笑う。

「君が彼らがいなくて困るというのであれば、ミュンヘン大から、ベルリンにあるどこか別の大学に転校させればいいのではないかね? 仕事のほうにはパートタイムできてもらえばいいだろう」

 ハンス・ショルと、その妹のソフィア・マグダレーナ彼らは休学中の身であるとは言え大学生であり、大学生である以上は勉強が本分だ。

「そういう難しい手続きとかよくわかりません」

 唇を尖らせる彼女に、ヨストは自分の執務机から穏やかに笑うと万年筆を握ったままで、少女と首席補佐官を交互に見つめる。

「なに手続きといったことにまで君が口を挟むことはない。彼らの希望があるならこちらで勝手にやっておく」

「じゃ、ふたりに聞いてきます」

 ぴょこりと革張りの椅子から立ち上がったマリーは、ベストに手を差しだされて数秒考え込んでからにっこりと笑った。

「ひとりで大丈夫です」

「……そうか」

「はい」

 午後の明るい日差しに照らされたような、花のような笑顔をたたえてマリーは執務室を出て行くと、それを見送ったヨストがしばらくしてから口を開いた。

「ここは国家保安本部だから心配はなかろうが、ひとりで行かせてしまって良かったのか?」

「彼女がひとりで大丈夫だと言っているのだから問題はあるまい」

 マリーはか弱い存在だ。

 一般的な親衛隊員とは話が違う。一見しただけでは考えなしの、少々軽率な行動を取る嫌いのある性質で、そのうえ体格は貧弱で腕っ節もからっきしだ。

 端的に言うならば、彼女は「健康的な」ドイツ人少女とはほど遠い。

 たとえるならば儚げで、か弱いまるで鑑賞用に栽培された鉢植えの花。

 ショル家の人間はゲシュタポを含む国家保安本部に対して、少なからず面白くないものを感じているだろう。もっとも幾度となく「政治的」な理由で投獄されているのだから当然のことと言えば当然の成り行きだ。

「ただ、マリーが彼らがいなくては困ると言うのだから、彼女の思うようにことが進めば良いとは思う」

 独り言でもつぶやくように言ったベストを見やって、次席補佐官のハインツ・ヨストは答えるわけでもなく万年筆を指先でくるりと一回転させただけだった。

 ハンスとソフィアが、マリーになんと答えるだろう。

 そして彼女は大学に戻した彼らになにを期待しているのだろう。そして、彼らをどのように処分するつもりなのか。マリーの意図がどこにあるのか、実のところ曖昧にも感じるヨストとベストだった。



  *

 ユーラシア大陸を挟んだ東の果てに、ドイツの同盟国である島国――東洋の列強とも呼ばれる大日本帝国は存在している。

 大日本帝国の海軍力は、おおよそ陸軍国であるドイツのそれと比較すると目をみはるべきものがあったのだが、それも先頃行われたミッドウェー島を巡る日本とアメリカとの海戦において大日本帝国は多数の海上機動部隊を喪失した。この戦いを機に日本は大幅に失速しつつあるように見えた。

 ――袋の鼠。

 ――窮鼠(きゅうそ)猫を噛む。

 ミッドウェーでの日米の衝突の後、さらに八月になってソロモン諸島を巡って大規模な海戦が行われたが、これはアメリカ側の敗北で終わったらしい。

 手近な資源にも恵まれていない大日本帝国という国を追い詰めようとするのならば、輸出国による経済封鎖がより手っ取り早い。現在の技術水準では島国で、資源もない国が孤立無援で世界の超大国と長期間の戦争を挑むのはほぼ困難に等しい。

 書類的な意味では孤立無援というわけではないが、それでも現在の状況は日本にとって残酷なほど絶望的だ。

 とてもではないがドイツには日本を支援する余裕などないし、日本付近の同盟国はどこも小国で装備面で優れるヨーロッパ諸国に対抗する力もない。

 つまるところ大日本帝国は巨大すぎる敵を相手に、まさに獅子奮迅の戦いを演じていた。

 その現実は大いに評価に値する。

 しかしそれでも戦争の長期化は日本にとって決して得にはならないだろう。

 長期的な戦争継続は日本に不利な状況を与えるどころではなく、決定的な痛手をもたらすことになりかねないが、当初の当ては多少は外れたとしても、それでも尚、ドイツとしては少なからぬダメージを受けても同盟国である日本には戦争を継続してもらわなければならぬ。

 仮に日本がアメリカ合衆国との戦争を終結させてしまえば、怪物――アメリカ合衆国の全戦力がヨーロッパ戦線に投入されることになるだろう。

 それだけは”あっては”ならない。

「どのみち日本の展望などたかが知れている」

 シェレンベルクは書類を前に考え込んだまま独白した。

 そんな状況の中、変化の兆しが見え始めたのはソロモン沖での海戦が終わってからしばらくしてからのことだった。

 八月の半ばを過ぎて正体不明の熱病が発生。これを大日本帝国海軍所属の軍医は天然痘であると断定した。

 天然痘が発生した以上緊急事態である。

 一九一八年に発生したスペイン風邪のような世界規模の感染拡大に繋がらないような適切な処置が必要に迫られた。

 大本営での一悶着の後、急遽全戦線に異常事態宣言を発令、作戦行動の停止が命じられる。しかし、実のところ敵対するアメリカ軍のほうが、事態はより深刻であり、すでにこの頃には日本軍が――把握していなかったが――展開する東南アジア地域のさらに向こう側の北アフリカ方面で天然痘の局地的汎発流行(はんぱつりゅうこう)が発生していた。

 この後すぐ、国際赤十字の発表により一部の熱帯地域に天然痘の大規模な発生が確認されていたことを確認するが時はすでに遅く、アメリカ政府は国内の流行を阻止するために躍起になっていた。

 こうして国内の人種差別問題と同時に、天然痘の発生はアメリカ政府に大きな衝撃を与えることになる。

 まさに激震……。

 有色人種の人権問題と、日米戦争でもたらされたアメリカ国内における大きな(ひず)み。

 アメリカの中産階級以上の白人はたちはヨーロッパにおけるユダヤ人を含めた少数民族に対して、ドイツの強制収容所からの開放を唱えながら、ヨーロッパ諸国のアジア、アフリカ地域に生活する有色人種に対しては極めて冷淡であり、非人道的だ。これはアメリカの掲げる理想と信念のダブルスタンダードにほかならないのではないか。

 有色人種の国民にアメリカ国民としての義務の全うを求めるのであれば、白人と有色人種とに関わらず、差別なき同等のありとあらゆる権利を与えるのは政府の義務である。

 アメリカはヨーロッパ諸国の植民地支配を事実上黙認しながら、その解放を訴える日本を悪の枢軸として非難している。しかし、これは裏を返せば有色人種であるからと、蔑んでいるのではないか。

 アメリカ国内の暴動が多発する中でそうした冷静な世論も姿を現しつつあることを、国外諜報局長を務めるシェレンベルクはすでに知っている。

 もちろんそれらはあくまで未だ小さな声でしかなく、アメリカ政府を陥れるには力不足にも程がある。しかし、そんな声が上がるのは「自由の国」だからこそ、だとも言えるのかもしれない。

 良くも悪くも彼らは「議論」に慣れていた。

 とはいえ、余りに政府に不都合な言論を唱えれば抹殺されかねない世の中であることも彼らは知っている。それでも、そんな危険を冒しても尚彼らは理想を求めて戦い続けるのだ。

 ――実に都合が良い。

 それがシェレンベルクの見解だ、

 アメリカ合衆国の情報機関が関与する「国際的な犯罪」もすでに彼は掴んでいる。そこから”揺さぶり”をかけることが可能であれば、情報戦は次の段階に入るだろう。

 人道的に現地の医療活動に当たる日本軍を攻撃するとなれば、アメリカも世界的な非難を免れることはできない。

 「侵略者」から他国を守ることを大義名分としているアメリカだからこそ、民間人の医療活動に当たる「善良な軍隊」を攻撃するような真似は許されない。こと、国内にデリケートな人種問題を抱えていればなおさらだった。

 アメリカの掲げる理想と大義名分は、利用して余りある。

 ドイツ、あるいは日本と、アメリカとの国力の差は一朝一夕でどうにでもなるものではない。そんなことは素人目にも、火を見るよりも明らかだ。ならば問題のアメリカに、勝つためにはなにをしなければならないか。

 それを単純に試算するだけだ。

 ただ冷徹に人の命を省みず。

 感情など必要ではない。

 しかし、それにしたところで残念なことがある。同盟国である大日本帝国にそれなりに鼻の利く諜報員が存在しないことだった。

 こればかりは困ったことだ。

 溜め息をついたシェレンベルクはじっと窓の外を見つめてから小さく首を傾げた。

 はたしてこれは日本列島という島国のお国柄でもあるのだろうか? 箱入り息子か、深窓の姫君でもあるまいし。

 持ち上がってきた問題に唇を引き結んでからうんざりとしたものを感じつつ、彼は手元の報告書へと視線を戻した。

 悩んだところでどうしようもない。自分に成すべきことを成すだけだ。

 戦争とは非情なものだ。

「シェレンベルクー……」

 そんなことを考えていたところにマリーの甲高い声が聞こえてきて眉をひそめた。

 正直なところ、女子供の甲高い声は余り好きではない。

 「女」は好きだが……。

 冷静に自分のことを分析してから、扉が開くなり聞こえた声に視線をやればマリーが泣きべそでもかくやの勢いで小走りに青年に駆け寄ってくるのが見えた。

「どうした」

 ――あのね……。

 マリーが言った。とりあえずアメリカの大義名分も、日本に対する諦観も彼女には余り興味はなさそうだ。

「なんだ、利用していただけじゃなかったのか?」

 ショル兄妹に大学に戻っても構わないが、代わりにパートタイムで国家保安本部に勤務してもらいたいという趣旨の話しを持ちかけたらあっさり袖にされたらしい。シェレンベルクがそう告げるとマリーはふくれっ面で、さらに唇を尖らせて両方の眉毛をつり上げる。

 怒ってるのだか、いじけているのかわからない少女の表情にシェレンベルクは、当面の問題から意識を切り替えた。将来的な問題よりも、マリーの感情面での問題のほうがこの瞬間では重大だ。

「別に”利用してた”から”嫌ってた”わけじゃないわ」

 なんとも腑に落ちない発言をするがそれも今に始まったことではない。どこか冷徹な言葉にさえ感じる一言を、マリーはあっさりと言い放った。

 要するに変わって説得してほしいということなのだろう。

「あとで説得しておいてやろう」

 「やった!」と叫んで飛び上がったマリーがシェレンベルクに抱きついた。華奢でごつごつとした体を抱き留めて彼は眉尻を下げる。

 利用していたから嫌っていたわけではない。

 意味深な彼女の言葉を内心で繰り返しながらシェレンベルクはマリーを菓子でもてなしてやりながら、ことのいきさつを最初から聞く羽目になるのだった。

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