5 波紋
シェレンベルクはヒムラーに対して、マリーが「ラインハルト・ハイドリヒの生まれ変わりだ」と告げたことは言っていなかった。語る必要のないことだと思っていたからだ。
アーネンエルベなどに目をつけられればややこしいことになりかねない事態だったから、というのもある。なにより、ああいった手合いが国家保安本部の人間に対して興味を持つことを懸念した結果というのもある。
「長官閣下は、生まれ変わりという言葉を信じますか?」
シェレンベルクは全く信じていない。
オカルトだの、それを信仰する人間だの、愚かしいにも程がある。
そういった意味では、シェレンベルクとかつての彼の上官であるラインハルト・ハイドリヒとは意見が一致していた。
昨年――一九四一年五月十日にスコットランドに向けてメッサーシュミットBf110戦闘機で飛び立った総統代理ルドルフ・ヘスなどがオカルトを信じて居たことを知っていた。そして目の前の男も、そうした神秘的なものに時には取り憑かれる傾向があったのである。
「……どうだろうな」
シェレンベルクの顔色を窺うようにつぶやいたヒムラーの顔色は余り良くない。マリーに握られているらしい「弱み」が彼にとっては相当手痛いものなのだろう。
もっとも、この気の小さい親衛隊全国指導者のことだから、どちらにしたところで開き直れば良い程度の些事であろうとシェレンベルクは想像した。
「未だに確証が持てないことですが、彼女が言っていたことで、長官閣下に報告申し上げていなかったことがございます」
遠回しなシェレンベルクの言葉に、ヒムラーは眉をひそめたままで視線を上げた。
「なんだ?」
「……彼女が、まだ入院していた時に言っていたことですが、ラインハルト・ハイドリヒ親衛隊大将閣下の、魂を受け継ぐ者だ、と」
彼女の言う「彼」とはハイドリヒのことなのだ。
「そうか……」
それだけ応じてヒムラーはデスクに両方の肘をついたまま、組んだ指の上に顎を乗せると丸い眼鏡のレンズの向こうでじっと目を伏せた。
彼とて、別段本気でオカルトなどを信じているわけではない。
ほんの少しの気休めだ。
「長官はどう思われますか?」
「どうしてそれをわたしに聞く?」
シェレンベルクの問いかけにハインリヒ・ヒムラーが問い返して上目遣いに自分の目の前に立つ年若い青年を見つめる。
「……いえ」
短くつぶやいてから、シェレンベルクはかすかに目を伏せると考え込んでからややして思い切ったように視線を上げた。
「実は、アプヴェーアのカナリス提督のことなんですが」
冷静に考えてシェレンベルクは、「マリー」のことを気に掛けているわけではなかった。彼女自身が気にかかると言うよりも、彼女の言葉の内容が気になって仕方がない。
彼女は「充分に用心しろ」と言った。
仮に彼女がハイドリヒの生まれ変わりであったとして、マリーはまるで告げていた「あの男」とやらのことをシェレンベルクが知っているかのような口ぶりだった。「諜報部員」として考えるならば、彼女が言う「あの男」をシェレンベルクが知る人間だ、と考えるのが常識的だ。
「カナリス海軍大将がどうした」
「……カナリス提督が、マリーが入院していた時、ベルリンの病院にいらっしゃったことがありました」
シェレンベルクの言葉にヒムラーが片方の眉をつり上げた。
まるで「どうして報告しない」とでも言いたげだった。
「特別報告すべきことではないかと思いまして、……申し訳ありません」
「それで、どうした?」
「提督が彼女に会ったとき、ハイドリヒ、と……」
「ふむ」
世の中にはあり得ないこともたくさん起こるものだ。
「彼女に関する報告書は?」
「あれも本物です」
いけしゃあしゃあと言い放つシェレンベルクは、親衛隊長官を観察しながら言葉を選んだ。
実際は国防軍情報部のヴィルヘルム・カナリスの首席補佐官であるハンス・オスターが作成したものだが、カナリスとシェレンベルク、そしてオスターとシュタインマイヤーの中だけで「捏造された情報」とされているだけで、その他大勢の人間にとっては「本物の情報」だった。
だから、ヒムラーにとってもその調査報告書は「本物」なのである。
嘘というものは、積み重ねれば真実となるのだ。
だからシェレンベルクは余り細かいことを気にしない。
どちらにしたところで、マリー――マリア・ハイドリヒの経歴の真偽など、彼女が敵国のスパイではない以上どうでもいいことだ。
少なくとも、連合国のスパイであるという可能性は低かった。
彼女に対して多くの情報将校や、警察官たちがアプローチしており、他方面から彼女を独自に分析している。だというのに彼女には明らかな不審の徴候がない。ただ正体不明だというだけだ。
身元がはっきりしないだけ。
本来であればそれだけでも充分逮捕の原因になり得るのだが、多くの人間たちがそれをしたがらない。
「閣下」
呼び掛けたシェレンベルクにヒムラーは思案にくれた表情のまま目線を上げる。
「彼女が怪しい、というのはとりあえず置いていただけないでしょうか」
わかっている。
誰だって怪しいと思ってあたりまえだ。
けれどもそれをどうか脇においてほしい。
切れ者の諜報員であるはずのシェレンベルクの言葉に、ヒムラーは革張りの椅子に深く背中を預けて長い溜め息をついた。
「彼女がハイドリヒ親衛隊大将閣下の生まれ変わりであるかどうかはともかく、ドイツ第三帝国にとって重要な情報を握っていると考えます。本来、部外者が中央記録所の情報を把握しているはずがありません。先ほどの訊問で彼女が言ったことは、おそらく我々をたばかるためのものではないかと思われます」
政治家であれば、弱みのひとつやふたつあって当たり前だ。
そして国内の政治家のそれを握っていると言うことは、敵国の情報も握っているだろうということ。
もちろん確証はない。
少なくとも、彼女の言動と影響力を見る限り、「利用価値」はある、とシェレンベルクは考えた。
「……医学的に」
シェレンベルクの言葉に聞き入っていたヒムラーはやがて切り出した。
「医学的に、彼女は確かにアーリア人で間違いないのだな?」
「間違いありません」
外見的な特徴も、見事に北方系白人のものだった。
透けるように白い肌と、金色の髪。そして青い瞳はまるで宝石のようだ。
「わかった」
渋い表情のままのヒムラーに、シェレンベルクはわずかに眉を寄せる。そうするとヒムラーはひらひらと顔の前で手を振ってから鼻から息を抜いた。
「わたしが責任を持って彼女の身柄を保障しよう。外野がうるさいだろうが、空軍のミルヒの例もある、大丈夫だろう」
巨大な権力があれば人種の問題などどうとでもなるものだ。
「彼女――ハイドリヒ嬢は、使えるか?」
ヒムラーの問いかけに、シェレンベルクは頷いた。
「そう思わなければ、カナリス提督とわたしが後押ししたりいたしません」
「……なるほど」
ドイツ国防軍空軍のエアハルト・ミルヒ元帥は航空機総監として”自殺した”エルンスト・ウーデットの失敗についての軌道修正という名の尻ぬぐいに追われることになった。
ミルヒにしてみれば良い迷惑だろう。
「君の観察眼を信じよう」
そう告げるヒムラーが、諜報部員でありラインハルト・ハイドリヒの部下であったシェレンベルクを完全に信用しているわけではないことを知っている。諜報部員などを頭から信じるような政治家がいたらそちらのほうが神経を疑うというものだった。
「よろしくお願いします」
年若い少女を殺すのは忍びない。
女に甘い、と言われればそれまでなのだが、シェレンベルクは決してそうではない。彼は名実ともに国家保安本部に所属する情報官なのだ。
甘いばかりでは親衛隊情報部の諜報部員はつとまりはしない。
「失礼します」
ヒムラーの前を辞そうとしたシェレンベルクを呼び止めた。
「シェレンベルク、待ちたまえ」
「……はっ」
「”あれ”のことについて、わたしは判断を下すことはできん。それ故、君がしっかりと手綱を放すな。いいな?」
「承知しております」
彼女に最も近しいのは君だ。
ハインリヒ・ヒムラーの言外の言葉に、シェレンベルクは小さく頷いた。
再三再四、情報部の人間たちが自覚しなければならないことがあるとすれば、自分が抱える「それ」が危険なものであった場合、男であれ女であれ、そして年寄りであれ子供であれ始末することを躊躇してはならないということだ。
国の崩壊は、自分の身を危険にさらすということ。
それを自覚しなければ、諜報部員は生きていけない。
ただでさえ、彼らは危険なゲームを犯しているのだから。
これで問題のひとつはクリアした。
なんだかんだで子供に甘いヒムラーだ。後はなんとでもなるだろう。もちろん、網の目のように情報を張り巡らせておく必要はあるが。
万が一、ヒムラーがシェレンベルクの意図を外れることを考えた場合の手も打っておかなければならない。
自分のオフィスに戻ったシェレンベルクは、そこに意外な人物を認めてからかすかに片目をすがめて見せた。
「ミュラー中将、どうなさったんですか?」
また彼女のことか、と内心でうんざりしつつシェレンベルクはゲシュタポの長官であるミュラーに言葉をかけると、彼は数秒黙り込んでから乱暴にソファに腰を下ろした。
なにか気にかかることもあったのだろう。
「東部に展開している行動部隊から報告が入ってな」
「……はい」
国家保安本部の幹部の中でシェレンベルクは最も若い部類に入る。
なにせまだ三二歳だ。
マリーの話題でなかったことにほっとしつつ、シェレンベルクが相づちを打つとミュラーは腕を組んでから頭上を睨み付けた。
「軍事クーデターがあったようだ」
「……クーデターですか?」
「ソ連の、クリメント・ヴォロシーロフが暗殺された事件があっただろう」
「犯人は内務人民委員部の情報将校でしたね、確か」
「そう、それだ」
そこで一旦ミュラーは言葉を切った。
「NKVDに対する不満と不審が募った結果らしい。モスクワで大規模なクーデターが起こって現在その始末に追われているという話しだが、六局に情報はもうまわってきてるんじゃないのか?」
「……そうですか」
情報の全てを整理していたわけではなかったから、確信はなかった。
不穏な情報は察知していたが、他国と戦争をしているこのタイミングで軍がクーデターに及ぶとはさすがにシェレンベルクも想定していなかった。
いや、それは言い訳だ。
自国と敵国の利益を考えれば、いくらなんでも敵の利益となるようなクーデターはタイミングが良いとは言えない。
粛正にしても同じ事だ。
数年前の大規模な赤軍幹部の粛正によって、軍が弱体化したことでヨシフ・スターリンも学習したのではないか?
奇妙なタイミングで巻き起こった粛正と、クーデターにシェレンベルクは首を傾げた。
「そうですか、クーデターですか」
東部に展開しているラインハルト・ゲーレンがなにかを掴んでいるとは思うが、今のところ国家保安本部にはアインザッツグルッペン及び、SDを通してしか情報は入ってきていない。
「わかりました、こちらでも情報を分析してみます」
早急に情報を分析しなければならない。
シェレンベルクはちらと視線を時計に放ってから溜め息をついた。
これは徹夜の作業になりそうだ。
「頼む、事の子細によっては行動部隊の展開について考えなければならんからな」
行動部隊は、ゲシュタポの管轄に入っている。かつてはハイドリヒがヒムラーの命令を受けて直接指揮を執っていたが、ハイドリヒ亡き今、ゲシュタポのミュラーにかかる負担も大きくなるばかりだった。
言い置いてシェレンベルクのオフィスからミュラーは出て行く。それを見送った若い六局の局長は首の後ろを手のひらで撫でながらやれやれと溜め息をついた。
そうしてデスクに着くと内線用の受話器を上げた。
明日の朝までには資料をそろえなければならない。
昨夜からのマリーの犯した殺人事件の件で仕事があまり進んでいなかったのだ。とにかく、モスクワで軍が蜂起したのならばそれはそれで大ごとだった。
ソ連赤軍のクーデター一派は何を企んでいるのだろう。




