11 マンハッタン計画
アメリカ合衆国戦略情報局のトップを務めるアレン・ダレスは本国首脳部からの限りなく命令に近い要請を受けて帰国していた。
十月のワシントンD.C.――。
帰国の理由はワシントンで行われる諸々の会議への出席するためなのだが、主に対ドイツ戦における現状の把握と、将来的な展望に関して議論された。
午前中の会議が終わり、休憩中のロビーで一服するダレスは背後に歩み寄る男の影にそっと片目を細めると、ゆっくりと振り返る。
「どこも国を上げての新型兵器開発に躍起になっているようですな。ミスター」
「……ですな」
相手の男を振り返った彼は努めて無表情を装った。
兵器――こと、従来の性能を大きく上回る兵器を開発していくと言うことは決して生やさしいことではない。
そんなことはさすがに門外漢のアレン・ダレスにもわかっていることだった。
単に資金繰りの問題もあれば、物理的、あるいは人的資源など多すぎる問題が際限なく持ち上がってくるものだ。
加えて現在は戦時であり、研究に費やすことのできる余裕は当然のように限られてくる。
より効率的に、いかに資金を節約することができるか。それが最大の関門だ。そして必要に迫られてこそ、開発は加速度を増し、急速に技術の向上を果たすことになる。
そして新型兵器の開発がいかに残酷な結果をもたらすことになるのか。愚かな人類とは我が身に降りかからなければ学ぶこともできはしない。
「わたしは物理学者ではありませんので小難しい理論的なことはいまひとつ理解致しかねますが、例の新型爆弾は”現実的”に可能なのですかな?」
「理論的には可能なはずです」
そうでなければ、と男は続けた。
「ドイツと日本が共にそれぞれ研究していることは、おかしな理屈になります」
そう言われて窓の外を見つめたままで、アレン・ダレスは目の前に迫りつつある”深刻な脅威”に厳しい表情をたたえた。
「ドイツの科学者共、か……」
深刻な脅威。
絶望的な恐怖。
物理学的な理屈はわからないわけではないが、正直なところ、理論上の仮定の話をされても今ひとつぴんとこない。
人的、物理的資源を含めた莫大な国家予算を投入してまで開発しなければならない兵器であるのか。そして、それに相応しい”国家的品位”の兵器であるのか。ダレスは情報官であるゆえに、懐疑的な視線を向けもする。
仮に、その開発計画が失敗すればアメリカ合衆国という偉大な祖国は、膨大な国力を無駄に浪費することになるのだろう。
――マンハッタン計画。
それは諸刃の剣だ。
成功すれば敵を葬り去ることが可能だが、失敗すればアメリカを含めた”連合国”は多くのものを失う羽目になる。
そしてそれらの国力の消失は、おそらく一般市民の視線から隠蔽することはできなくなる。
そのときこそ、アメリカ合衆国という国家は大きな代償を支払うことになるのかもしれない。そしてその徴候はすでに見え始める。
白人社会に投げかけられた波紋は思うよりも大きい。
人種の坩堝。
アメリカという国がこれから進んでいくために衝突するだろう問題の片鱗はすでにダレスには見えているが、それを言葉で表現するには彼にすらもひどく勇気のいることだった。
長い溜め息をついてから張り詰めた眼差しで、アレン・ダレスは自分の隣でタバコを吸っている陸軍の将軍――レズリー・グローヴスを横目で見やる。
「グローヴス将軍」
「うん?」
「……わたしにそうした話しを持ちかけた、ということは、つまり、問題の新型爆弾のドイツの研究がどこまですすんでいるのか、情報を集めろ、ということですかな?」
「……できれば、研究の成果も盗み出してくれれば願ったりだが」
「ふむ」
困難な任務になりそうだ。
ダレスはそう思った。
「研究成果を盗み出せというのは、厄介な難題ですな」
「しかし、それこそに国家の命運がかかっている。ミスター・ダレス」
レズリー・グローヴスはそう言ってタバコの煙を吐き出した。
「尽力しましょう。余り期待はしていただきたくはありませんが」
「……よろしく頼みます」
礼儀正しい陸軍将校に戦略情報局長は発生した頭痛の種に緊張した面持ちで首の後ろを撫でる。
提案するのは簡単なことだ。
指揮を執る人間は”簡単に”言える。
しかしダレスに依頼した内容も含めて、グローヴスの推進する計画は困難な道の先にある。
少し腹は出ているが、軍人らしいその後ろ姿を眺めてダレスはテーブルにおいた手帳を広げた。
一九四二年も十月に入った。
状況は遅々として好転せず、それがアレン・ダレスを苛立たせている。
彼が予測もしていなかった不確定要素。それを調査するために放った布石も効果が見えてこない。
不意に思い出したのは、スイスでジャネットが提供してきたモノクロの写真だった。
親衛隊高級指導者のヴェルナー・ベストと共に映っていた色素の薄い長い髪の少女の存在。もしかしたら、とアレン・ダレスは新しいタバコに火をつけながら考え込んだ。
「もしかしたら、彼女こそが不確定要素なのではあるまいか」
それは勘だ。
特殊工作官のひとりとしての鋭い彼の嗅覚がなにかをかぎ取った。
フランス軍情報部の諜報部員であるジャネットがなにか不審なものを感じたように。
眉をひそめたままで、彼は遠くアメリカの空からヨーロッパの大地を思う。スイスでのドイツ情報部の活動もすでに彼が知るところだった。
「会議で帰国していると聞いたが、暇、というわけではないのでしょうな」
聞こえてきた別の男の声に、ダレスはちらりと視線を上げながら肩越しを振り返ると鼻から息を抜いた。
「ミスター・フーヴァー」
余り気持ちの良い男ではない。
レズリー・グローヴス陸軍少将はそれなりに評価もしているが、国内諜報を一手に掌握するアメリカ連邦捜査局の長官――ジョン・エドガー・フーヴァーはぎょろりと動く魚のような目からも受ける印象の通り、非常に疑い深い性質だ。
疑い深いことが悪いわけではないが、ジョン・エドガー・フーヴァーの有り様を見ていると、これでは気が休まるまいとも思う。きっと、晩年は悲しい死を迎えるのだろう。
とはいえ、それは謀略の世界で生きるアレン・ダレスにとってみても決して他人事ではなく、いつ自分の身に降りかかるかわからない問題でもあった。
悲しい人のサガ。
「……国内で暴動が頻発しているというのに、ミスター・フーヴァーはこのような場所で油を売っていてよろしいのですかな?」
顔色を変えずにダレスが告げると、フーヴァーは唇の端でにたりと笑ってかつかつと靴音を鳴らしてダレスの横に並ぶとぶっきらぼうにファイルを差しだした。
「先日の、テロ犯の排除に協力してくれたことは感謝する」
男の言葉にダレスはファイルを受け取りながら片眉をつり上げた。
彼がなにを考えているのかわからない。このひどく差別的な、白人至上主義者をアレン・ダレスは指導者の器ではないと思っていた。しかし彼の疑い深い性格はアメリカ連邦捜査局の性質の一端を支えている。
「別にミスター・フーヴァーのためではない」
いくらダレスがフーヴァーを好ましく思っていないとはいえ、どちらもアメリカ合衆国という国家の従僕である。
「まぁ、何でも良いが。どうにも面白くないのは、最近の首都の治安が悪化していることか。逮捕しても逮捕してもきりがない」
憮然として言ったフーヴァーの台詞は本心なのだろう。
通常、国内の治安を担うのは警察組織であって、フーヴァーの連邦捜査局が出る幕はない。だが暴力的な、そして凶悪事件が頻発するとなれば話しが違う。
ただでさえ、ワシントンは多くの警察組織が跋扈してその主導権争いに興じている。戦時下にそんな暇はそれこそないのではないかとアレン・ダレスは内心で眉をひそめた。どちらにしたところで、偏屈なフーヴァーになにを言ったところで意味などない。
「治安の悪化、か」
それはつまるところ、国内の情勢不安であり国内に不満が溜まっているということにほかならない。
「わたしは警察ではないからな」
「……しかし、諜報活動を旨としているのであれば、それなりに状況の分析をしているのではないのでは?」
質問のような形で言葉を投げかけられて、ダレスは短くなったタバコを灰皿に押しつけてから小さく肩をすくめた。
レズリー・グローヴスに続いて、また無理難題を持ちかけられそうだ。そろそろなんとかしてフーヴァーの前から離れたいと思いはじめた頃、アメリカ連邦捜査局長官はおもむろに口を開いた。
「わたしはミスター・ダレスの手腕を高く評価しています」
「……ふむ」
――……で?
思わず口から飛び出しかけた言葉を喉の奥に押し込めて、ダレスは視線だけをフーヴァーに投げかけた。
疑心暗鬼の連邦捜査局長官の前でへたな言動を発するのは非常に危険なことだ。
ことさらに賞賛するようなフーヴァーの誘いに乗ってはいけない。彼と同じように諜報組織の指揮官のひとりとして、ダレスはその危険性を承知していた。
どの国でも、国内諜報と国外諜報とはそれぞれにその調査対象が重なり合っているものだ。まるで、いくつかの円形が、一部を重ね合わせているかのように。
「失礼だが、ミスター・フーヴァー。わたしは午後の会議もありますので、余り長話につきあっている暇はないのですが」
「それはそうですな。ところでご存じですか? ワシントンにも連中のスパイは紛れ込んでいます」
「でしょうな」
考えていることは同じだ。
同じ諜報部員だからこそ、同じ土俵で思考しなければ話にならない。自分たちがベルリンに諜報部員を送り込み反ドイツ派の地下活動を支援しているように、ドイツ側もまた同じように連合国の分裂を企てている。
おそらく、ドイツ側はアメリカとソ連の分裂を狙っている。なぜならばそうしなければならないからだ。
そうでなければ、最初から勝ち目はない。
アメリカがソビエト連邦に対して支援を続けている以上、連合国内で最も人口を有するソ連にドイツが勝つことなど不可能だった。
――そのはずだった。
けれども、幸運からかソ連内で内紛が勃発し、奇遇にもソ連内が分裂した。ドイツ軍はその機に乗じたわけだが、結局、そのソビエト連邦の動向は攻め込む側に有利に働くこととなる。
全てはそこから狂いはじめた。
むっつりと黙り込んだアレン・ダレスのそんな空気に気がついたのか、フーヴァーは腕を組むと底の知れない瞳のままで向き直った。
「協力ならば惜しみませんが?」
「……――」
フーヴァーの提案に黙り込んだ。
事実、ダレスだけでは手に負えない事態に発展しつつある。フーヴァーのことは気に入らないが、彼の目的のためであれば手段を選ばない下劣さは、ダレスには羨ましくも感じられた。
躊躇するように視線をさまよわせたアレン・ダレスに、連邦捜査局長官は右手を差しだした。
不遜で狡猾な男。
なにもかもが下卑で、鼻持ちならないがそんな男だからこそ、アレン・ダレスは彼の手を取った。
「共同戦線ですな。フランスもイギリスも頼りになりはしません」
勝ち誇ったようなフーヴァーの言葉に、戦略情報局長官は答えることもせずに彼に背中を向けた。
ドイツに勝つためには、悪魔とも死に神とも手を組める。
戦争は、はじめてしまった以上、引き返す事などできはしない。
勝たなければ意味などないのだ。
暗殺されたフランクリン・ローズヴェルトの置き土産の重さに、ダレスは眉間にしわを刻む。平和で幸せな時代を生きる政治家であれば、もっと「楽な生き方」の選択もできたかもしれない。
彼はそんなことを頭の片隅で考えた。




