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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XVI 大海嘯
207/410

10 嵐の前

 疲れたら休めばいいのよ。

 マリーはシェレンベルクにそう言った。しかし、と彼は思う。戦時の情報将校が、どこに休暇などとる暇があるというのだろう。

 子供は”自由”で”身勝手”だ。

 そう憮然としても見るが、心の片隅ではどこかマリーの存在を、認めつつあることを自覚していた。それがシェレンベルクにしてみれば我ながら苛立たしくも感じていること。

 諜報部員のひとりとして、そして国家保安本部に所属する情報将校のひとりとして、彼は誰にも心を開かずに生きていく事を決めた。

 巨大な国家の秘密をその内に抱え込んだまま、死に行くだろうことを選択した。今さらそれを悲しむことだとは思わないが、それはシェレンベルク自身が予測した以上の(ひず)みとなって現れつつあった。

 良くも悪くもヴァルター・シェレンベルクという男は、その知性ゆえに自ら置かれた状況をほぼ完全に、そして冷静に把握している。

 状況の把握と分析。そしてそれらを自分の意志のコントロール下におくということは、なかなかできることではない。そしてなまなかなことではできることではないからこそ、シェレンベルクの内側にすら亀裂が生じていくのだ。

 ――彼も、所詮は人間(ひと)の子であるということ。

 それはシェレンベルクが嫌悪し、目障りな存在とも思っていたラインハルト・ハイドリヒとも同じ。

 自嘲するようにシェレンベルクはほほえんだ。

 そんな自己分析と言う名の頭の体操に興じながら、シェレンベルクはふと壁に掛けられたカレンダーを眺めると片目を細めてからおもむろにデスクの隅にある外線用の電話の受話器を上げる。彼が回したダイヤルはティルピッツ・ウーファーの国防軍情報部(アプヴェーア)だ。

 シェレンベルクは自分の手の内にある”カード”がそれほど多くはないことはわきまえている。ドイツの同盟国も小国ばかりだ。お山の大将を気取ったところで勝ち目はない。問題は、それをどのように扱うかであって、彼が観察するところシェレンベルクの”上官”たちはその扱い方を間違っている。

 そして問題はその運用をする政府首脳部が自分が道を誤っていることに気がついていないこどだ。

「大問題だ」

 ぽつりとシェレンベルクは独白した。

 誤った道具の使い方に気がついていない上層部。そして、その結果、導き出されるありとあらゆる状況に性格に対応していかなければ、ドイツに勝ち目はない。

 アメリカ合衆国とソビエト連邦の潜在能力は計り知れない。

 間抜けなソビエト連邦のヨシフ・スターリンとそれに追従する愚か者たちを失脚させたことによって、時間を稼ぐことはできた。

 そして彼を失脚させたニキータ・フルシチョフのこれからの動向も気にかかる。

 軽くこめかみを指先でたたきながらシェレンベルクは思考を巡らせた。

 ドイツの総人口は九千万人余。

 これに対して、アメリカ合衆国とソビエト連邦を含めた連合国だけで五億人。

 総人口の差は簡単に言えばそのまま国力の差につながった。

 一部の戦力が大日本帝国が軍事展開を行う東亜戦線に割かれているとはいえ、未だに大舞台はヨーロッパ戦線を睨んで展開されている。

 政府と軍部とはつかず離れずの位置関係が理想的だとシェレンベルクは思う。

 少なくとも、アドルフ・ヒトラーにしろゲーリングにしろ軍事的な問題に対して口を差し挟みすぎる。もちろん、将軍として素晴らしい人物が政治家として素晴らしい人間であるとは限らない。

 現状として親衛隊情報部――というか、シェレンベルクの個人的な判断から――としては、ヒトラーには軍事的な第一線から引いたほうが好ましいのではないかと考える。もっともこれはまだシェレンベルクの胸中にあるだけで、今後、彼の思惑通り状況を進めるためには障害は多すぎた。

 どちらにしたところで、残念なことに目先の利く者が圧倒的に不足している。それは親衛隊情報部に限った話しではなく、国防軍情報部も同じことだった。

 カナリスの率いる一部の高官たちは評価に値する、が。

 より高度な情報網を形成するためには、より多くの高度な専門的知識と技術を持つ者が必要だ。



  *

 執務室のふたりがけのソファに転がった国民啓蒙・宣伝省のトップを務めるヨーゼフ・ゲッベルスはこれみよがしに提出された国家保安本部からのファイルを開いて憮然とした顔つきのまま、ソファの片隅に乗っかっていた足の装具を床に蹴落とした。

 ――ドイツ人男子は強健であるべし……!

 ナチス親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーのそんなうたい文句がゲッベルスには忌々しくて仕方がない。

 きっと、と彼は思う。

 強健でもなければ、小柄(ちび)な自分は、党首脳部のより近いところにいなければ見向きもされなかったどころか、おそらくカール・ブラントの行ったT4作戦で始末される側であったことだろう。

 そんなことは、ゲッベルスにはわかりきっている。

 彼がナチス党本部の、ヒトラーの側近であったから始末されなかっただけだ。

 たまたま始末する側に回っただけ。

 歴史という時間の中の、偶然という幸運に恵まれたに過ぎない。

 刹那的なことを考えながら、ゲッベルスは思考を切り替えた。くだらない妄想にうつつを抜かしている時間など彼にはないのだ。

 ヨーゼフ・ゲッベルスには宣伝大臣としてやらなければならないことが多すぎた。

 現実と党の方針。あるいは政府の唱える理想のギャップをプロパガンダという言葉の弾丸で埋め合わせなければならない。

 宣伝と現実とが、必ずしも一致している必要などない。

 プロパガンダとはあくまで手段のひとつにほかならないのだ。

 ――宣伝の目的とは、計算通りの反応を引き出し、さらにそうして作り上げられた「偶像」を利用することで自分の頭などで考えることなどできはしない民衆の思想と思考とをコントロールして、ゲッベルスや政府首脳部が思うとおりの方向へと誘導してやることだ。

 ゲッベルスの言葉は、民衆心理を高揚させてやるための道具などではない。

「役立たずのリッベントロップが台無しにしてくれた」

 フンと鼻を鳴らした小柄な博士はぱらりと音をたててファイルをめくると、タイプライターで打ち込まれた文面を見つめる。

 今まではうまくいっていた。

 リッベントロップが無能であることも、ローラント・フライスラーが大根役者でしかないことも計算内だった。しかし、そんなゲッベルスの緻密な計算に狂いが生じ始めている。

 得体の知れない存在が、ゲッベルスの計算を狂わせているのだが、それが何なのかが彼にはわからない。なんらかの不確定要素であるならば、その存在を突き止めて、対処を考えなければならないだろう。

 そんな思うとおりにいかないことが不愉快でならなくて、ゲッベルスは軽く目を通した国家保安本部のファイルにある署名を確認してから、ソファの前のローテーブルに書類を放り出すと体を起こした。

「……国家保安本部か」

 ドイツ国内の謀略の中心となる舞台。

 そしてそれらを束ねるのは小心者で卑屈なハインリヒ・ヒムラー。

 そのヒムラーの権力が、ここのところ泣く子も黙るとまで恐れられたラインハルト・ハイドリヒが生存していた当時とは違う形で強化されつつあった。

 親衛隊全国指導者が組織内部の摘発のために新たに設置した「内部組織」は、時には派手に、時には密やかに。絶妙な力加減でその行動をナチス親衛隊内外へと展開していた。

 ヒムラー自ら組織内部を監視するその部署は当然のことながら、内部からは強い反発があったのだが、結局、ヒムラーが今までにない強さで我を通して現在に至っている。

 ハイドリヒを含めた親衛隊知識人たちの後押しがなければ何も決めることができなかった及び腰のヒムラーに、なにができるものかと高をくくるところもあった。しかし、あのヒムラーがはじめて自分を押さえつけ、操ろうとする者たちに対して強硬な姿勢を取った。それはつまるところ彼の中のなにかが大きな変化をはじめたと言うことで、そんなヒムラーの姿勢がナチス親衛隊という組織の中の権力構造を急速に、そして大きく変化させている。

 政治的なライバルでもあるヒムラーのそんな変化を、宣伝大臣のゲッベルスだからこそ感じ取っている。

 ヨーゼフ・ゲッベルスという男は、民衆心理の煽動の専門家だ。

 人間の感情のあり方において、ゲッベルスに見抜けないことはほとんどないと言ってもいいだろう。

 ひとりの男の、人間としてのあり方さえも変化させてしまう程、ヒムラーを突き動かしたのはなんだったのか、ゲッベルスはそれを見極めようとした。

「この目で見てみるしかないのか」

 ぼそりと独白した。

 ローラント・フライスラーは、ゲッベルスが予想したよりもはるかに三文役者で全く役に立たなかった。

 ゲッベルスの情報網は、主に彼の行うプロパガンダのために張り巡らされたものである。ともすれば、国家保安本部国内諜報局の調査対象と重なることも多いが、ゲッベルスにとってはそれはそれで煩わしいことこのうえない。

 さらに煩わしいのはオーレンドルフの指揮する国内諜報局の調査対象として、ゲッベルス自身が含まれていることだった。

 誰だって、秘密裏に個人情報を収拾されて面白いわけがない。

 ちなみに面白くないと思いつつ、ゲッベルスも他人相手に同じことをやっているのだが、それはそれだ。

 人間とは身勝手な存在なのだ。

 だからそれで良い。

 彼はそう割り切った。

 ヒムラーのお膝元。

 ドイツ国内全土の警察権力を一手に掌握するヒムラーに何があったのか。それを知るためには国家保安本部を自分の目で直接見るのが一番手っ取り早い。

 しかしゲッベルスの集めた情報によると国家保安本部は常に多くの事件を抱えており、多忙を極めている。出向いたところでまともに対応されるとは限らない。だが、情報を集めなければ話にならないのが現実だ。

 右手で軽く肩をたたいてから床に転がっていた足の装具を右足につけると、ズボンの裾をおろして立ち上がる。

 軽く足を引きずるようにして自分の執務机に向かって秘書を呼び出すと、時間を確認して宣伝省の前に車を回させた。

 こうして国民啓蒙・宣伝大臣のヨーゼフ・ゲッベルスは自ら動き出した。


 「大変だ」と、がなり立てながら国家保安本部のカルテンブルンナーの執務室にヒムラーが駆け込んできたのはその日の昼過ぎのことだった。

 最近、ヒムラーの良い傾向の一部は、無駄と言っても過言ではない「ヒムラーの昼食会」の開催が減ったことだった。

 無駄な時間を割いている暇など国家保安本部にはない。

「……と、申しますと?」

 カルテンブルンナーが真っ青な顔をしているヒムラーを見やって言葉を探した。

 ヒムラーが真っ青な顔をしているのも、いつものことだから内容の想像がつかめない。天下のナチス親衛隊全国指導者なのだから他人の意見に振り回されて右往左往することもないのではないだろうかとも思うのだが、それはそれでヒムラーの性格だからやむを得ないだろう。

「ゲッベルスが来るというのだ」

「なるほど……」

 ヒムラーとゲッベルス。

 彼らはどうにも犬猿の仲と言える。

「それで、宣伝大臣閣下はなにをされに国家保安本部(RSHA)にいらっしゃるのですか?」

「それがわからん」

 眉をひそめて気難しげな顔をしたヒムラーに、カルテンブルンナーは内心で肩をすくめてから長い息を吐き出した。

「本人は国家保安本部の業務の視察だと言っていたが、ゲッベルスのことだ。本音がどこにあるかなど怪しいものだ」

 穿ったものの見方なのかもしれないが、ゲッベルスを蛇蝎(だかつ)の如く嫌っているヒムラーにしてみれば、鬱陶しく感じるのもやむを得ない。

「ゲッベルス宣伝大臣がいらっしゃるのは了解いたしましたが、それで、わたしにどうしろとおっしゃるのですか?」

「……――」

 なにかを言いたげなヒムラーは、カルテンブルンナーの返事に思わず言葉を飲み込んだ。おそらく、とエルンスト・カルテンブルンナーは思った。

 ヒムラーはカルテンブルンナーに対して「ゲッベルスの相手などしたくないから、貴様がなんとかしろ」とでも言いたいのだろう。

 いずれにしろ気の弱いヒムラーが、口から生まれてきたようなゲッベルスにまともに相手をできるとは思えない。少し追及されれば、返す言葉もなく黙り込んでしまうようでは政治家に向いているとは言えないだろう。

「ゲッベルス大臣閣下のお相手を務めればよろしいのですか?」

 部下がそう言うのを、ヒムラーは待っている。

 わかっていてカルテンブルンナーは溜め息混じりにそう言った。

「む、……頼む」

 ヒムラーはそうしてカルテンブルンナーに言ってから、慌てた様子で時計を見ると、午後三時にはゲッベルスが来るはずだと言い置いてプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセを立ち去った。

 なんともいい加減というか、人任せな話しである。

 カルテンブルンナーは執務机の隅にあるマリーの写真の入れられた写真立てを眺めてから、ごきりと肩を鳴らした。

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