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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XVI 大海嘯
206/410

9 光と影のギャップ

 国家保安本部の国外諜報局長――かつて、ラインハルト・ハイドリヒの右腕とも、その寵児とも呼ばれたエリート中のエリート、ヴァルター・シェレンベルクが珍しいことに、上官の自分の頭の上を通り過ぎてエルンスト・カルテンブルンナーの命令によって、人民法廷長官であるローラント・フライスラー判事の拘束が行われたことに苛立ちを隠せずにいた。

 普段から冷静さを欠くことのないシェレンベルクだったから、それがひどく珍しくてオーレンドルフの関心を引いた。

 対人関係を完全にコントロールしているようにも見えるシェレンベルクが、プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセのバルコニーでマリーの椅子に腰掛けたまま、長い足を組んで煙草を吸っている横顔に、オーレンドルフはゆっくりと近づくと声を投げかける。

「イライラしていたようだな」

 過去形で言うのは、すでに彼がそうした精神状態から脱していることを、オーレンドルフが見抜いていたからだ。

「……――」

 ちらりと視線を上げてから、悠然と立ち上がったシェレンベルクはオーレンドルフに敬礼をする。

「ハイル・ヒトラー」

「形式は好かん」

「そのようです」

 にべもなく言い切ったオーレンドルフに、シェレンベルクは口元で笑うと「ところで」とマリーの椅子を指さした。

 彼女が国家保安本部の一員になってからというもの、ある程度彼女の居場所というものは決まりつつあった。

 それは特別保安諜報部に続く西向きの廊下であり、バルコニーであり、中庭のベンチだ。そうしたところに安らぎを求めて、高官たちが集まった。時にはその場所で意外な人物を目にすることもあるが、それが彼女の節操のなさを感じさせる。

 これが妙齢の女性ともなれば、節操なく複数の男性とつきあうと表現すれば色事を示唆するものにもなるのだろうが、それが色気の欠片もない少女ではそれらしい邪推も難儀した。

 マリーの年齢であればもう少しふくよかであってもおかしくはないのだが、なにせ彼女は痩せすぎで、骨格の細さを感じさせる四肢には危うげなものさえ感じさせている。しかし大人たちの感じる不安をよそに、当人は伸び伸びと振る舞っていてそれが、時に彼女に年齢らしからぬ幼さを感じさせているのかもしれない。

「ところで、このカバーはなんですか?」

 シェレンベルクが指さした椅子にはピンク色のカバーが掛けられていて、オーレンドルフはそんな彼の疑問に肩をすくめて応じた。

「それはこの間、アイヒマンがつけていったぞ」

 アイヒマンとピンクの椅子カバー、というのがどうにも想像できなくてシェレンベルクが小首を傾げていると、オーレンドルフは喉を鳴らしてから笑う。

「似合わんと思うよな」

「そうですねぇ」

 自己顕示欲と劣等感の塊。

 さんざん罵倒もしたがさっぱり使える男になる印象がない。

 ただ列車を走らせることに意欲を燃やす低脳。それがシェレンベルクのアイヒマンに対する評価である。

 もっとも、低脳であれば低脳で役に立つこともあるが、アイヒマンの場合はどうも階級の上下だけに捕らわれているような嫌いがあった。

「きっと、”彼女の存在”が彼の自己顕示欲を満足させたのかも知れませんね」

「マリーに?」

「マリーはアイヒマンよりも年少ですし、彼にしてみれば、我々よりも相手がしやすいというところはあるかもしれません」

「……要するに?」

「端的に言えば、彼が劣等感を感じずにいられる相手ということですか」

 シェレンベルクの説明を、予想はしていたらしいオーレンドルフが自分のタバコに火をつけながら鼻から息を抜くと肩を落とした。

 アイヒマンのことはオーレンドルフもよく知っている。

 ちなみにシェレンベルクがアイヒマンをいびって泣かせていたこともよく知っている。そしてアイヒマンはシェレンベルクに対して犬猿の仲だと思っているようだが、シェレンベルクなどにしてみればゲシュタポで「ユダヤ人の専門家」などと大仰に言われる彼は特別、気に留める相手だと思っている様子もない。

 まさにアイヒマンとシェレンベルクは正反対の存在だ。

「自分とは全く関係のない人間相手に劣等感もへったくれもないだろう」

「そうです。どんなに偉かろうが、自分と関係のない人間など気に留める必要もないのです。ですが、アイヒマンにはそれがわかっていない」

 冷ややかなシェレンベルクの言葉にオーレンドルフはタバコの先に点った小さな炎をじっと見つめて思考に沈む。

 シェレンベルクの時折、こうしたひどく人間味に欠けるエリート然としたところが、アイヒマンには鼻持ちならないのかも知れない。しかし、ナチス親衛隊が他者を蹴り落としていくことで、昇進していく組織である以上、シェレンベルクの冷徹に他者を切り捨てていくという姿勢は別段おかしなものでもない。

 仲良しごっこをしていても組織は成り立たない。

「それにしても”あの”アイヒマンが、ですか……」

 言いながらマリーの椅子を見下ろして、国外諜報局長の青年は冷たい風に首をすくめてからオーレンドルフを見やった。

「それはそうと、噂で聞いたが正気か?」

 しばらくタバコを吸ったままで考え込んでいたオーレンドルフが唐突にそんな言葉を切り出した。

「……正気、と言いますと?」

「あのインド人の件だ」

「あぁ……」

 インド人、という言葉にオーレンドルフは静かに笑ってから頷いた。

「いずれにしたところで”結果”を持ち帰らない限り、ドイツから色よい返事は受け取れません。彼らは、進むか退くか、その二択しか持っていないんです。そして、彼らの師はそれでも尚頑なな非暴力を謳って中道を進んでいます。うまく彼らをあおり立ててやることが、ドイツにとって有益です」

 諜報とは決して派手なものではない。

 戦争の裏方。

 そう言ったほうが正しいだろう。

「しかし、その情報を扱う政治家が先見の目を持たないというのは、嘆かわしいことだ」

「滅多なことを言うものではありません」

「……知っているさ」

 オーレンドルフのぼやきは主に発行する「帝国だより」に反映されているから、彼の言わんとしていることはシェレンベルクも理解しているつもりだった。

「わかっていても、目に余る」

 ぼそりと呟いたオットー・オーレンドルフは、深く煙草の煙を吸い込んでから溜め息をつくと足音が聞こえてきて首を回した。

「オーレンドルフ中将、ひとつお伺いします」

 慇懃なシェレンベルクの物言いにオーレンドルフは視線を戻した。

 足音の主は、マリーの補佐官を務める特別保安諜報部のヴェルナー・ベスト親衛隊中将だ。シェレンベルクとオーレンドルフにしてみれば、国家保安本部設立当時からの知己であり、政争の相手でもある。

「マリーの依頼を受けて、フライスラー判事の調査を行っていますね?」

「あぁ、どうせシェレンベルクの耳に入ると思っていたから、彼女には忠告したがね」

「なるほど」

 特別保安諜報部だけではなく、国内諜報局に捜査の依頼をするとなるとさすがに自分の頭越しに実行された任務に、シェレンベルクは嫌な顔をするのではないか、とマリーに言ったが、少女の方は笑顔で「どうせ、隠すつもりなんてありません」と笑顔で言い切った。

 結果的に、ベストやヨストの頭上も飛び越えて行われたフライスラーの拘束は、ふたりの補佐官だけではなくマリーの上官でもあるシェレンベルクの機嫌も悪化させた。

「それで、機嫌は直ったのか?」

 からかうようなオーレンドルフの言葉にシェレンベルクはかけらも表情を変えずに、無表情に近い笑顔を浮かべたままで頷いた。

「ご心配には及びません」

 感情をコントロールすることには慣れた。

 なにせ、ラインハルト・ハイドリヒのもとで長く諜報部員として経験を積んできたのだ。

 そんな彼がたかが子供ひとりに振り回されることなどあってはならない。応じたシェレンベルクに声を上げてオーレンドルフが笑った。

 彼らの背後で足を止めたベストは、無言で灰皿を差しだしてから顎をしゃくる。

「なに、片付けなくてもそのうち誰か人をやる。灰皿(それ)はそのままにしておいてくれて構わない」

 言ってから、ベストは更に続けた。

 貴官らのことだから、マリーの前で見境なくタバコを吸うことはなかろうが、彼女がいるときのタバコは控えてもらいたいものだ。

 ゲープハルトなどはタバコは健康を損なうと解いて回っているが、それでもタバコには確かに苛立ちをおさめる効力も持っている。日々神経をすり減らす国家保安本部の者たちにとってタバコはある意味で必要不可欠とも言えるだろう。

 そんな言葉を交わす彼らの視界にいつものようにマリーの姿が中庭のベンチに見えた。

 人事局長のブルーノ・シュトレッケンバッハと刑事警察局長のアルトゥール・ネーベに連れられるように、ふたりの真ん中をとことこと歩いている。

 一見しただけでは、ナチス親衛隊に連行されている少女のようにも見えなくもないが、そうではないことを伝えているのは彼らの笑顔が明るいことだ。

 白いマントのようなコートを着た少女は、買ったばかりだろうそろいのマフを首にかけて白いロシアン・ハットをかぶっている。

「なんだ結構早かったんだな」

 あのコート。

 そう言ったオーレンドルフは、娘の晴れ姿を見ているような優しい眼差しのふたりの中年を流し見る。長い金髪がキラキラと秋の日差しに煌めいていて、そんな光景に目を奪われた。

 白いマントは全く親衛隊将校のコートには見えないが、どちらにしたところで近々、ヒムラーがマリーのために作ったコートも仕上がってくるらしい。無粋で気が利かないヒムラーのことだから、少女が喜びもしないようなコートを仕立てたのだろう。


「無理を言ってついていった甲斐があったな」

 それなりに忙しい身分のアルトゥール・ネーベは穏やかな笑顔で、かつてハイドリヒ人脈に連なると呼ばれたシュトレッケンバッハを見るとそうしてからかう。

 コートを取りに行くというマリーとシュトレッケンバッハの話しを聞きつけたネーベが、無理矢理仕立て屋に同行して国家保安本部に帰ってきたところだった。可愛らしいコートに身を包んだマリーにネーベは目尻を下げており、仕立て屋を紹介してやったシュトレッケンバッハは満足げな様子でマリーを見つめて無言のまま何度も頷いている。

「こんなに可愛いなら、カメラマンのひとりも連れてきたほうが良かった」

 そう言いながら、ネーベは首から吊した白いマフを指さしてマリーに告げる。

「マフに手を入れてみなさい。ロシア帝国の貴族みたいでなかなかかわいい」

 マントというデザイン上、痩せすぎな彼女の体型もなんとかごまかせている。しかし、マントを身につけているというのに痩せて見えると言うことは、つまるところそういうことだ。

 新しいマントに帽子とマフ。

 それらを着てマリーはシュトレッケンバッハとネーベの前でくるりと回った。

 まるで新作の服を披露するモデルのようだ。

 褒められて単純に嬉しいのかニコニコと笑っているマリーは、シュトレッケンバッハの手に帽子を取りあげられて驚いた様子で彼を見上げた。

 娘の相手をしている父親の平和な光景。

 しかし彼女の相手をしている強面のシュトレッケンバッハも、そして穏やかな眼差しのネーベにも、マリーの見せる穏やかさとは真逆のところにある国家保安本部の影の部分を感じ取っていた。

 それらが彼らの心にひどい落差を生じさせていること。

「シュトレッケンバッハ中将に先に帽子とマフを作られてしまったからな。今度、わたしが良い手袋を仕立ててやろう」

 シュトレッケンバッハの手から帽子を取り返そうとして腕を伸ばしているマリーは、だけれども身長が足りなくてどうあがいても届かない。やがてふて腐れてネーベの背中にしがみついてしまったマリーは、意地悪ないたずらをするシュトレッケンバッハに恨めしげな視線を向けた。

「シュトレッケンバッハ局長が意地悪する……」

 泣きべそをかくようなマリーの声に、ネーベとシュトレッケンバッハが声を上げて笑い出すと、さらに機嫌を損ねてしまったマリーは唇を尖らせたままネーベの背中に顔を押しつけている。

 普段から物事をあまり考えている少女ではないが、それでもふたりの大人たちに笑われたのは彼女なりに傷ついたようだ。

「マリー、男と言うのは気を引きたい女性に対しては意地の悪いことをしたくなるもんなんだ」

 どこの子供だ、とシュトレッケンバッハは我が事ながら思いつつネーベの背中にしがみついているマリーの頭に帽子を返してやると、そこで機嫌を戻したのかマリーはようやく青い瞳を上げた。

「……気を引く?」

 マリーが不思議そうに言葉を返せば、そんな彼女の頭をシュトレッケンバッハは大きな手のひらで帽子の上から頭を撫でる。

「君のことが、大切だということだよ」

 シュトレッケンバッハはそう言いながら優しくほほえんだ。

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