8 思惑の向こう
マリーの人騒がせな行動はともかく。
彼女を連れて夕食を共にするために訪れていた高級レストランでエルンスト・カルテンブルンナー親衛隊大将は彼女の健康状態や仕事の内容などに耳を傾けている。
ちなみに、天下の国家保安本部長官だと考えると、カルテンブルンナーの笑顔は若干薄気味の悪いものにも見えるが、それはあくまでも周囲の先入観もあったのかもしれない。カルテンブルンナーとて、反ユダヤ主義を根強く感じているとは言え、所詮人の子なのだから。
「しかし、本当に大したことがなくて良かった」
そう。
彼女は鍛え上げられた親衛隊員たちとは全く異なる。
もちろん、一部のナチス親衛隊員たちは武装親衛隊員らとは比較するべくもなく貧弱なのだが、それはそれでやむを得ないことだろう。
ナチス親衛隊とは言ってみたところでその内部事情は多岐にわたっている。
それはそれで、とマリーとの食事を楽しみながらカルテンブルンナーは小さく小首を傾げた。
原因らしきものと言えば、彼の部下のひとりでもある国外諜報局長、ヴァルター・シェレンベルク親衛隊上級大佐の一言である。ちなみに彼の一言は国家保安本部の首脳部に軽い混乱をもたらした。これに加えて、一部の中級指導者まで騒ぎ出したものだから手に負えない。
もっとも、シェレンベルク自身は組織内を混乱させようとしてそんな発言をしたわけではないのだろうが。
「ふむ」
彼の真意はいったいどこにあったのだろう。
シェレンベルクが言うには、マリーを武装親衛隊主催のパーティーに連れて行ったらどうかということだったが、これにカルテンブルンナーを含めたネーベやミュラーらも反対の意を唱えたのだった。
「あんなもんヤる相手を探すだけのけしからん集まりではないか」
ヒトラーの唱える人口増加政策もわからなくはない。しかし、カルテンブルンナーにしてみれば、たかがそんな政策のために自分が娘のように接している少女を、ケダモノの巣に放り込むことなどできるわけもない。
「どこの馬の骨かわからん連中ではなく、然るべき年齢になったら然るべき相手を選んでやることができるのだから、あんなところに行く価値もない」
ばっさりと切り捨てたカルテンブルンナーに、シェレンベルクは「大勢の人間と接することは良い社会経験になると思いますが」と言ったが、そんなパーティーに物見遊山で行って、警戒心の薄いマリーが悪い男に「お持ち帰り」されるような事態になったら目も当てられない。
カルテンブルンナーがそう一蹴した。
本人の意志はともかくとして、シェレンベルクなどにしてみれば、女の子は華やかなパーティーが誰しも好きなものではなかろうかとも思うが、結局、国家保安本部長官のカルテンブルンナーだけではなくミュラーやネーベも大反対したことから、結局武装親衛隊主催のパーティーにマリーが出ることはなかった。
「そういった手合いのところへやるのはわたしも心配だ」
ちなみにオーレンドルフまでもそう言った。
ついでを言うなら勝手にシェレンベルクを犬猿の仲と決めつけているアドルフ・アイヒマンの耳にもミュラーを通じてその情報が入ったらしく、「あんな武装親衛隊の嫁探しパーティーなど連れて行きたいなどと正気ですか」とミュラーに食ってかかったらしい。
そんなわけで、カルテンブルンナーと食事を一緒にしているわけだが、大人たちのやりとりなど全く知らないマリーはいつもの調子だった。
「ところで、オーレンドルフ中将とゲープハルト中将が、ブラント大佐と話しをしたというのは知っているかね?」
会話に色気がないのもいつものことだ。
カルテンブルンナーとしては他意のない共通の話題――大概警察業務に関するそれ――を楽しみながら、料理に舌鼓を打っている。ふと、彼は視界の隅に映ったイタリア人に片目を細めた。
何度か写真で見ただけの人物で、イタリア陸軍の高級将校だ。同じテーブルにドイツ陸軍のフリードリヒ・パウルスが見えたから、せいぜい同盟国軍の将校同士の親睦を兼ねた交流と言ったところなのだろう。
そんなことを考えながらコーヒーカップに唇をつけていると、目線の先で機嫌良さそうにイタリア人将校が立ち上がった。
――ラテンの人間は風土のせいもあるのか、明朗な性格に傾く傾向にあるようだ。
特に女性に対しては。
「やぁ、これはかわいらしいお嬢さんだ」
どこをどうすればそれなりの広さを持つホール内で、少女の存在に気がつけるのか。それはそれでイタリア人らしい才能だと、カルテンブルンナーが感心していると、イタリア訛りのドイツ語で話しかけられた少女の方は、びっくりした様子で顔を上げる。
ほろ酔いの彼が話しかけたのは、ひときわ妖精のようにも見える金髪の少女――マリー。
高級レストランだから、低俗な会話をするような兵士や下士官などは訪れることはないが、普通であれば、少女と同席しているのがナチス親衛隊高級指導者ともなれば余りお近づきになりたい相手ではない。
制服は大将を示し、菱形のSD章。それらが同居する存在は国家保安本部長官にほかならない。
「こんにちは?」
マリーが星のように青い瞳をまたたかせて応じるとイタリア人は馴れ馴れしく少女の手を取って、その手の甲にキスをする。
「これはかわいらしいお嬢さんだ。そちらの将校殿の娘さんですかな?」
「……初めてお目にかかるというのに、少々礼を失しているのではありませんかな? メッセ将軍」
マリーの手の甲にキスをしたジョヴァンニ・メッセに、少なくとも表向きは平静を装いながら、カルテンブルンナーはさりげなく立ち上がるとメッセの手から、少女の手を奪い返した。
「わたしの部下です、将軍」
カルテンブルンナーの答えも不機嫌さを隠しもせずにどこか素っ気ない。
「ほう、かわいらしい部下殿ですな」
どうですかな? 一曲。
マリーに対して差し伸べられたメッセの手に、カルテンブルンナーは眉尻をつり上げると、自分の体を盾にするようにして少女の前に立ちはだかった。
そうしてメッセに苦言を申しつける。
「情報将校が目立ちすぎるのは、こちらとしてもありがたくありませんので、そうしたお誘いは遠慮させていただきます」
それなりに正当なカルテンブルンナーの拒絶の言葉に、しかしラテンの太陽の明るさをそのままに写しとったような将軍はにこやかにエルンスト・カルテンブルンナーの体に遮られて見えない少女を差して言葉を続けた。
「言わなければ誰も彼女が情報将校だとは思いますまい」
情報将校、と言ってからメッセは小首を傾ぐ。
「……このような可愛らしいお嬢さんが?」
片や、マリーはカルテンブルンナーの制服の裾を軽く握ってから、ぴょこりと顔を覗かせてメッセと、その背後で困惑したような、それでいて憮然とした表情を浮かべているパウルスと、そして自分の上官でもあるカルテンブルンナーを交互に見上げると、彼らの顔色を窺った。
学生時代の決闘クラブの時の刀傷も勇ましいカルテンブルンナーの強面を、先入観のかけらもない眼差しで見上げているマリーに、パウルスはひどく興味深そうな眼差しを向けてくるが、当の本人は大人たちの間で進む会話にどこか困った面持ちだ。
「カルテンブルンナー博士?」
「あぁ、気にしなくて良い。大人の話だ」
「そうですか……」
とにかく、と言いながらカルテンブルンナーは腕時計を見やってからメッセとパウルスに向き直る。
「もうこんな時間だからな、わたしはマリーを自宅まで送らねばならん。夜も更けては、子供が起きている時間ではない」
強引にメッセとの会話を打ち切って、すでに食事も半分以上残してフォークで遊んでいる少女の肩に手のひらをおいた。
メッセの邪魔がなければ、もう少しマリーと水入らずで話しをしていられたのに、と小さく舌打ちをならしつつエルンスト・カルテンブルンナーは、小さな淑女をエスコートして足早にレストランを出る。
「……残念でしたな、メッセ将軍」
パウルスに言葉をかけられて、ジョヴァンニ・メッセは肩をすくめると通りすがったウェイトレスに甘い言葉をかける。
「美しい女性がいるのに声をかけないのは、イタリアの男にあるまじき礼儀です」
歯の浮くようなお世辞も平然と言ってのけるメッセに辟易しながらも、パウルスは大きな溜め息をついて新しい国家保安本部長官という地位に就いた男の消えたレストランの扉を見つめる。
彼――カルテンブルンナーのことは知らないわけではない。
一応、知っている、という程度のものだが。
しかし彼に連れられた少女はいったい誰だろうか。
金髪の、青い瞳の。
*
誰の元にも死とは、等しく訪れる。
ありとあらゆる不平等に満ちた現実という苦界にあって、「死」のみが唯一避けようもなく平等に、誰も彼にも降りかかるのだということを。
彼はそんな「人の死」を運命づけた。
正直なところを言えばなんとも面白くない、というのがカール・ブラントの感想だ。
確かにヒトラー付きの医師であるという地位は魅力的でドイツ国内の医師にとってこれ以上にない程の名誉を賜ることになる。
「彼」はドイツ第三帝国国家元首――アドルフ・ヒトラーから特別な栄誉を受けた。
そして、カール・ブラントから見ても、彼はヒトラーの寵愛とも呼べる信頼を受けている。
近年、特に精神状態に左右されるようになったようにも見受けられるヒトラーに対して、たかが医師などには意見することなどできるわけもない。しかし、そうは言ってみたものの、政治指導者の健康状態を管理しなければならない以上、召使いでもあるまいしおべっかばかりを使っているようでは医師としての仕事を全うすることなどできはしない。
もちろん、医学の発展に犠牲はつきものだ。
しかし、それとこれとは話しが違う。
大きな矛盾を自分の中に抱えていることもわかっている。
ヒトラーの健康状態について、すでに多くの者たちが疑問を抱いていることもわかっている。けれどもそれを口にしてしまったとき、自分の身に降りかかるだろう事態を想像すると余り面白いことは考えられなくて、それらがブラントに二の足を踏ませている。
ヒトラーが安心するようなことを言ってやればいい。
それはわかっている。だが、本当にそれでいいのかどうか。
ブラントら、大人の世界にはより複雑に善と悪、光と影、そして裏と表が絡み合っているものだ。
とりとめもなく自分の下した決断と、自分の地位と、自分の思うところ。そうした全てのものを天秤に掛けながらカール・ブラントは何度目かの溜め息をつき、カルテの間に挟まっていた午後の来客予定者名簿を見直した。
医師の一日というのはそれなりに忙しい。
午後二時みったりに国家保安本部からふたりの親衛隊中将が来訪する予定になっている。立場上、多くの政府高官らがブラントの診察を受けている。もっとも、こうしたことはブラントに限った話しではなく、モレルやハーゼ、ゲープハルトなどの医師たちも同様に多忙に高官たちの診察に当たっていた。
政府高官とは言え、無病息災でいられる者はまれな例だ。
それにしてもオットー・オーレンドルフはともかく、ハインリヒ・ヒムラーの側近とまで言われた親衛隊医師が来訪するというからには、よもや健康上の問題について相談に来るというわけでもないだろう。
何かしらの「政治的」な訪問だろうか。
ブラントはそう思った。
国家保安本部。
ラインハルト・ハイドリヒの強烈なカリスマ性によって導かれた恐怖政治の代名詞。けれどもそんな国家保安本部ですら、国家の中枢を相手に戦うには力不足であったこと。
アドルフ・ヒトラーという男の機嫌ひとつで世界の色は変わっていく。そんな危うさを感じながら、カール・ブラントにはどうすることもできはしないのだから。
午後二時ぴったりに国家保安本部に所属するオットー・オーレンドルフとカール・ゲープハルトが訪れた。
特にブラントにとって同業のゲープハルトの名はよく知るものだ。
「国家保安本部、か……」
ぽつりとブラントは独白してから首を傾げる。
カール・ゲープハルトと言えば、一九三六年のベルリン・オリンピックの際、その医師団長を務め上げた大物医師で国際的な知名度も高い。
そんな彼が最近、親衛隊全国指導者個人幕僚本部から、国家保安本部へとその所属を変わったこと。
親衛隊員である以上、その転属は外面的にはおかしなところはない。
実際、警察組織の管理下に所属する医師は珍しくないのだ。警察組織にも医師資格の持ち主は必要とされる。
しかしそれがただの医師ならば、の話しだ。
親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの古い知己であり、側近中の側近とも言われるゲープハルトの転属とは、どういった風の吹き回しだろう。
自分の側近を手元から離したヒムラーの本心。
ブラントは、ヒムラーの決定の裏にあるだろうなにかを推測しようとするが、結局、その思考は秘書の女性の声によって中断されてしまった。
「国家保安本部のオーレンドルフ中将と、ゲープハルト中将がお見えになりました」
執務室に響いた声に、思考の湖底に捕らわれていたカール・ブラントは我に返って顔を上げる。
応接室へと自ら足を運んだ彼は、扉を開いて室内へと足を踏み入れる前に、さっと敬礼をした。
「ハイル・ヒトラー」
ソファに腰掛けて待っていたふたりの客人はブラントの敬礼を受けて、軽く片手を上げて返礼をする。
「ヒトラー万歳」
「国家保安本部はなにかと忙しいとお伺いしておりますが、本日は本官のところへどのようなご用件で起こしになられたのでしょうか?」
外見的には完璧に、内心の不審を取り繕ってブラントが問いかけながらソファへと座るとふたりの親衛隊中将に問いかけた。
国内諜報局長オットー・オーレンドルフの鋭い眼差しの前に晒されると、どうにも余り居心地はよろしくなくてカール・ブラントは小首を傾げた。
「どうだろうな、忙しいことには違いないが総統閣下の侍医であるブラント大佐もそれなりに忙しさは変わりないのでは?」
感情を余り表に出すことをしないオーレンドルフのつっけんどんな物言いに困ったように苦笑いを浮かべて、ブラントは両手の指を組み合わせた。
「それで、本日はどのようなご用件でしょう? ゲープハルト博士がいらっしゃるということはオーレンドルフ中将閣下の健康問題の相談というわけでもありますまい」
冷静なカール・ブラントの指摘にオーレンドルフは眉ひとつ動かさずに存外型どおりな男だ、と思った。
もっとも型どおりであることをオーレンドルフは別段批難するつもりはなかったし、それはそれで良いとさえ思う。
思わぬ反応をされることのほうが迷惑なこともある。
マリーのように。
「ブラント大佐にとっても極秘事項かとは思われますが、総統の健康状態についてお聞きしたいのだが……」
「総統閣下の?」
告げられた言葉をそのまま返してブラントはそっと眉をひそめた。
自分にその権限がないことくらい彼らは知っているだろう。
そもそも国家保安本部の職務を考えると、アドルフ・ヒトラーの健康問題などお門違いも甚だしい。
「閣下方のおっしゃりたいことを理解致しかねますが」
全くもって理解不能。
そう言いたげなカール・ブラントにゲープハルトは眼鏡の奥から瞳を閃かせて腕を組み直す。
「大佐の心中は察するものもある。たかだか医師のひとりでしかない我々などには、我が総統に意見具申を行うということはともすれば我が身を滅ぼすことになるだろう」
重々しくそう告げたゲープハルトにブラントはむっつりとしたままで息をつく。
要するに、ゲープハルトの言うところによると、国家保安本部の思惑がさっぱり理解できなくて危うく「謀略は好むところではないから、はっきり言え」と言いかけた。
「つまり、なにをおっしゃいたいのです?」
口から飛び出しかけた言葉をぐっと飲み込んで、カール・ブラントはヒムラーの側近と呼ばれる男に問いかける。
「ゲープハルト博士は現在、国家保安本部に籍を置かれていると聞いています。浅慮ながらそうした閣下方の所属から考えますと、それなりの問題が発生していると推測してもよろしいのですか?」
ブラントの前にいるのはゲープハルトばかりではない。
国内諜報局長――オットー・オーレンドルフも同席している。それゆえに、腹の探り合いなどするだけ時間の無駄と言うものだった。
「別にブラント大佐に対する疑いではない」
ぴしゃりとたたきつけるようにオーレンドルフが言った。
――どうだか、口先だけならばなんとでも言える。
皮肉げに考えてから仏頂面にも似た無表情をたたえているオーレンドルフに、ブラントは視線を走らせた。
「そうは言われましても、信じろというほうが難儀します」
鋭く切り込むオーレンドルフに、言葉を選ぶカール・ブラントはそうしてから数回睫毛をまたたかせた。
猟犬は慎重に機会を窺っている。
結局、先にぴりぴりとした空気に耐えられなくなったのは、とてもではないが謀に適しているとは言えないブラントのほうだ。
「わたしを疑っているというわけではないというのでしたら、まるで被疑者でも見ているような目はやめていただきたいものですが」
最低限の礼儀を払って告げるブラントにオーレンドルフは喉を鳴らしてから笑った。
「これは失礼。わたしのこの顔は生まれつきなので」
少しばかり愉快そうな光を瞳にたたえた若い国内諜報局長にブラントは顔色を悪くしたままだ。
「そのようですね」
素っ気なく答えてから、なんとか冷静さを保とうとするようにブラントは両脚を組み直した。
医師同士の話しはそうして主にブラントとゲープハルトの間で進められた。
どちらにしたところで、観察するような眼差しを向けられるカール・ブラントにしてみれば居心地の良い話しではなかったのだが。




