7 尊厳の意味
そうした国家保安本部――プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセで起きた一連の騒動に対して、各界の多くの博識な知識人たちが注目していた。
国家保安本部とは、「金髪の野獣」と呼ばれるラインハルト・ハイドリヒが築いた権力の城塞。その、本拠地がハイドリヒの死という本震から、今なお余震に悩まされている。それを彼らの協力を取り付ける良い機会と見るか、それとも瓦解させるための機会と見るべきかは人によって思うところは異なるだろう。
――ケダモノ、ラインハルト・ハイドリッヒ。
「カルテンブルンナーはかせー」
間の抜けた声で名前を呼ばれて、外出しようとプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセのエントランスにずらりと副官や護衛官たちを引き連れていた、国家保安本部長官エルンスト・カルテンブルンナー親衛隊大将は首を回した。
そこには、背後に元ゲシュタポの捜査官でありポーランド戦の際に悪名を馳せたヨーゼフ・マイジンガー親衛隊大佐を控えたマリーがいる。
マイジンガーの姿を認めて、カルテンブルンナーはわずかに眉をしかめた。
それはそう。
彼がもっと注意深くいれば、彼女は”また”入院する必要などなかったはずだ。
フライスラーに単身、会ったりしなければ……――。もちろん、そんなカルテンブルンナーの勝手な感想は、マイジンガーにしてみれば全く勝手なものであって、彼とて個人としては目を離すこともあるし、なによりもローラント・フライスラー相手にこんなことになるとは誰が思うだろう。
五十歳近いひょろりとした筋肉のない男が、よもや少女を昏倒させるほど――いくら痩せていて軽いとは言え――の腕力を発揮するなど。
「あぁ、マリーか。体のほうはすっかり大丈夫なのかね?」
長い腕を伸ばしてマリーに歓迎の意を示したカルテンブルンナーが目尻を下げて、マリーに笑いかけると、少女は「はい、大丈夫です」と言った。
少し離れたところに控えているマイジンガーは、カルテンブルンナーのそんな批難の空気を肌で感じたのかも知れない。どこか不機嫌そうな顔をしたままで姿勢を正している。ついでを言うならば、カルテンブルンナーの副官や護衛官たちも、マイジンガーが親衛隊大佐であるということから、彼の姿に対して姿勢を正す。
「まだ痛むだろうに」
「どこか行くんですか?」
「あぁ、公用でね。ところで、今日はどうしたのだね?」
彼女から声をかけられることなど、最近ではほとんどないカルテンブルンナーがにこやかに問いかけるとマリーは長身の国家保安本部長官に内緒話でもするように口元に手を当ててつま先立ちになって背伸びをすると声をひそめた。
そんな彼女に、腰を屈めたカルテンブルンナーは、しばらくマリーの言葉を聞いてからかすかに表情を曇らせた。
「確か、彼の私物は、弟が持って行ったような記憶があるが……」
「そうですか、ありがとうございます」
「それがどうかしたのかね?」
「いえ、特になんでもないですけど。あのですね、博士」
「うん?」
聞こえたのはそこまでは、周りの人間にはそれ以上聞き取ることはできなかった。カルテンブルンナーの耳元に口を寄せて話しをしているマリーに、大柄な元弁護士はやや気難しげな表情をたたえてからひとつうなずいた。
「わかった。どちらにしたところで、こちらとしては出方を見る以上のことはできんしな。しかし、問題が問題だ。こちらでも情報を収集すべきとは思うが、どう思うかね?」
「たぶんやっても情報なんてなにも出てこないと思いますけど。やってみてもいいかもしれませんね」
「なるほど」
三時のおやつの話しでもしているようなマリーの顔つきに、カルテンブルンナーは手を伸ばすと軽く頭をかき回してから、踵を鳴らして彼女に背中を向ける。
「では、そろそろ時間が迫っているのでな。君も余り無茶はしないように」
「はーい」
釘を刺したカルテンブルンナーは、副官に声をかけるとプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセの前に留められた車に乗り込んでいく。
そんな彼らを見やって、ヨーゼフ・マイジンガーはマリーの金色の頭を見下ろした。
「長官閣下はどちらへ?」
「さぁ……?」
さぁ、と首を傾げてマリーは、エントランスの天井を見上げてから踵を返した。
「まがりなりにも国家保安本部長官閣下の予定なんて知るわけないじゃないですか」
「それもそうだな」
国家保安本部長官の行動に、たかが親衛隊少佐でしかないマリーが口を出す権利はない。マイジンガーも彼女の説明を「まったくだ」と同意してのんびりとマリーの後ろについて歩きだした。
「ところで、今さら蒸し返すのもなんだが、君はどうしてフライスラーに会いにいったのだね?」
「お話がしたかっただけです」
「ひとりで?」
「シェレンベルクがつけた監視はいましたよ」
「……――」
なんでもない顔をして言ったマリーに、マイジンガーは黙り込んだ。
彼女を監視しろと国外諜報局長のヴァルター・シェレンベルクは、アルフレート・ナウヨックスに命令した。そしてその命令を受けたナウヨックスは、マリーに対して徹底的な監視体制を敷いていたはずだ。
「甘いな、あの男は」
ぽつりとつぶやいた。
「どうかしたんですか?」
人の考えることなどに全く考えていないマリーの瞳に見上げられて、マイジンガーは肩をすくめた。
「いや、なんでもない」
所詮、アルフレート・ナウヨックスはせいぜい秘密工作員でしかない。それ相応の判断力しか、マイジンガーは期待していないし、おそらくヴェルナー・ベストやハインツ・ヨストもそうだろう。
もちろんシェレンベルク自身も、ナウヨックスなどに彼の能力以上のことなど期待などしていないはずだ。
「……マリー、君はナウヨックス少尉を信頼しているのかね?」
「どういう意味ですか?」
彼女の応答は余り考えていないようにも感じられる。子供そのものであるように、いつも明るく笑って、素直な瞳を向けてくる。
「わたしは法律を生業にしているわけではないからな、つまらん謀は本分とするところではないが、それにしたところでナウヨックスは軽率も良いところではないのか」
淡々と分析するマイジンガーに、マリーは視線を頭上に向けると考え込んだ。
「でもナウヨックスはがんばってくれてますし」
「そりゃそうだろう。任務だからな」
そうでなければ困る。
そう言いたげなマイジンガーは、ふと響いてきた足音に顔を上げた。
国内諜報局長オットー・オーレンドルフ親衛隊中将と、国外諜報局特別保安諜報部所属のカール・ゲープハルト親衛隊中将が並んで歩いている。
「おや、マリーか」
ゲープハルトに声を掛けられてマリーは「こんにちは」と笑う。
彼女はいつでも「そう」だ。厳しい顔で考え込んでいたり、不機嫌そうな顔をしているところなど見たことがない。自分が暴行を受けたときでさえもそうだ。
恐れも、怯えもない。
その瞬間は泣いたり、悲鳴を上げることもあるのだが、後に影響を残すことはない。けろりとした顔で恐れなど見せない。
その場で終わる、と言えば聞こえは良いが、それがひどく人間味に欠けている、ともマイジンガーは思った。もっともそうは言ったところで、マリーが人間味に欠けていたとしても、それがマイジンガーにとって障害になるわけでもないから見て見ぬ振りをしている。
マイジンガーにとって大切なことは、彼女がそこにいることだ。
純粋な瞳を持つ少女。
まっすぐな眼差しで彼女は彼を見つめている。
なんの偏見もなく、なんのしがらみもない。
――ワルシャワの殺人鬼と恐れられたマイジンガーに対して嫌な顔ひとつしない。
「オーレンドルフ局長と一緒なんて珍しいですね」
「あぁ、ゲープハルト中将の知識をお借りしたくてね」
オーレンドルフの言葉にゲープハルトは無言で頷いた。
ドイツ国内――あるいは世界的に名を馳せた名医カール・ゲープハルトの知識を借りる。
「そうなんですか」
では行ってくる。そう言ってオーレンドルフとゲープハルトはプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセを出て行った。
「どこへ行くんだか」
そんな高官ふたりの後ろ姿を見送って、マイジンガーは独白した。そしてマリーはその言葉には反応することもなくスキップするような歩調で、元ゲシュタポの捜査官の前をパタパタと歩いて行った。
*
巨大な実験場――。
そこは許されざる人体実験を可能とする医師としては理想的な実験場なのだ。
「しかし、しかしだな」
アウシュビッツ強制収容所の幹部を前に、労働力配置総監であるフリッツ・ザウケルは食ってかかった。
「貴官らの言うことはもっともだ。今後の”医学の進歩”のための被験体を提供することは、君らにとって重要な任務だろう。だが、その被験体共は、我々にとっても重要なのだ」
「なに、わたくしどもは収容されている全ての”健康な”労働力を提供しないと言っているわけではありません」
アウシュビッツ強制収容所の所長を務めるルドルフ・ヘェス親衛隊中佐に告げられて、ザウケルは眉をひそめた。
「ですが、我々はそちらにのみ労働力を提供しているわけではないのです」
親衛隊経済管理本部、あるいは空軍、そして国防軍の軍需工場。多くの場所に労働力を提供しそしてその選別を行うヘェスの負担は大きなものだ。
ついでを言うならば、ヘェス自身が今抱えているのはそれらの労働力提供に対する問題だけではない。
「……――その旨については了承しているが、医学実験に耐えうるだけの被験体ともなれば、それ相応の健康状態を有しているということになるだろう。それは、労働力の浪費にほかならないのではないか」
ヘェスに告げるザウケルの言葉はもっともらしい。
しかし、多くの組織に間で板挟み状態になっているヘェスにどこまでの権限があるのだろう。やれやれとアウシュビッツ強制収容所という広大な場所を管理する所長は溜め息をついた。
腕を組んだヘェスはうなり声を上げてから窓の外を見やった。
刑事警察の捜査のために、多くの管理官たちがその対象とされていて収容所内の運営も滞りがちだ。その上、ヘェス自身に対する事情聴取もあっては運営に影響が出ていてもなんらおかしな話しではなかった。
「言ってることはもっともですが、なにぶん我々も人手に困っているのが現状です」
強制収容所内で行われる犯罪を見て見ぬ振りをしてきた。
そして、それは他でもなく、ルドルフ・ヘェス自身が楽だったからでもある。汚職を追及することにも骨が折れたし、それによって自分が甘い汁をすすることもできた。汚職や横領に手を染めた者たちの反発を恐れているところもあった。
広大なアウシュビッツ強制収容所という場所で行われている、多くの事件はすでにヘェスの手を離れつつあったこと。
それらに目をつむることのほうが、楽だった。
「ヘル・ザウケル、我々も最大限の努力をいたしましょう。ですから、どうかシュペーア大臣閣下にはいましばらく結論をお待ちいただけないかとお伝え願えないでしょうか」
忌々しい。
アウシュビッツだけではなく、強制収容所内の問題を掘り起こした者がいる。
それが誰なのかは、一収容所長でしかないヘェスなどに知るよしもない。
「お任せする」
そう言い置いて足音も荒々しく出て行ったフリッツ・ザウケルを見送って、ルドルフ・ヘェスは窓の外を見つめたままで考え込んだ。
そもそも、根本的に失態を犯したのは誰だったのか。
もちろん、アウシュビッツ強制収容所内にも様々な問題は抱えている。それはヘェスも否定しない。しかし、ドイツ国内及び、占領地域に点在している強制収容所内の管理に問題があると見た原因はなんだったのか。
突き詰めて考えれば、ブーヘンヴァルト強制収容所及びルブリン収容所の元所長でもあったカール・コッホとその妻の問題だ。
彼らの豪華な生活は人づてにヘェスも耳にしていた。そして彼らの稼ぎの方法を聞いて、自分でも可能なのではないかと思ったこと。
強制収容所内の会計管理は、正確に言えば親衛隊本部で行われているものではない。仮に監査が行われたとしても、大概の場合袖の下を渡せば何とかなってしまうことが多かった。
結局、そうした行為が水面下で重なって表面化しただけのことなのだが、ヘェス個人としてはなんとか問題をやり過ごさなければならなかった。
大きな溜め息を吐きだして、ルドルフ・ヘェスは迷うように自分の机に座り直すと、外線電話を睨み付けた。
結局のところ、一介の親衛隊中佐でしかない――与えられた権限の大きさはともかくとして――ルドルフ・ヘェスにできる選択は限られていた。
「ネーベ中将閣下はいらっしゃるか?」
執務室内にヘェスの声が響いた。




