6 守護聖人
唐突な些事。
それが”世間的”な認識で、国家保安本部の高官たちも同じようにそうした世間的常識に乗っ取って些細な出来事であると認識した。もっとも、内心でどう考えているかはさておくとする。
「なぜ、地下に行ったんだね?」
出勤してきたばかりのマリーに向けて、ヴェルナー・ベストは問いかけた。容赦なく目の前に書類を提出するのが彼らしいとハインツ・ヨストは思った。
彼女の身の回りの危険に心を痛めていても、余程のことがない限りヴェルナー・ベストはそれを彼女の前で口に出すことはない。マリーは国家保安本部の一員で、それなりに危機管理能力もある、とでも思っていたいからなのか、それとも過保護な父親面をしていると思われたくないのか、というところだろう。
「フライスラー判事とお話したかったんです」
「それで、話しはできたのかね?」
「あんまり」
壁にたたきつけられた瞬間のことは覚えていないと、マリーは言った。
おそらく、たたきつけられた衝撃でそのまま意識を失ったのだろう。
「フライスラー判事だって法律家だ。君より間抜けではない」
「わたしが馬鹿みたいじゃないですか……」
余りなベストの物言いに、マリーが唇を尖らせていると首席補佐官の元判事は執務机の上に据えられているデスクペンを抜き取ってマリーの目の前に差しだした。
「とにかく、無駄話は良いから君が休んでいた間に溜まっていた書類を片付けてしまいなさい」
軽率な行動は慎むように説教しろ、というゲープハルトの言葉を思い出したベストだが結局彼女になにを言ったところで効き目は知れたものではないと、それについて口をつぐんでしまった。
「しかし、なぜフライスラー判事は君を振り払ったのだね?」
「さぁ?」
全身のあちらこちらが痛むのか、マリーは時折筋肉痛に顔をしかめている。まともな男ならばマリーほど華奢な少女に対して乱暴を振るおうとは思わないだろう。もちろん敵がどう思うかというのは別として、だ。
それなのに、ローラント・フライスラーはマリーを壁にたたきつけるほどの強さで振り払った。そしてそんな行動に出たフライスラー自身もそれほど頑強な男ではない。
つまるところ、それが指し示すのは、ローラント・フライスラーが驚くほど力任せにマリーを振り払ったということになる。
――これは仮定の話になるが、おそらくフライスラー判事はマリーに対して意図的に暴行を振るったわけではないのかもしれん。
可能性として、とカール・ゲープハルトは言った。
「可能性としては、彼はなにかに本気で怯えたのかもしれない」
そうでなければ考えられない。
ローラント・フライスラーは確かに命の危機を感じて、彼女の体を振り払った。フライスラーから供述を得られもしなければ、マリーからも要領を得ない説明しかされていないとなるといまひとつ状況の再現は難しい。
マリーは手を伸ばしただけだと言った。
そして、フライスラーが悲鳴を上げて彼女の腕を振り払った。
なにを話したのかと問いかけてみても、ローラント・フライスラーはぶつぶつと気が触れたようになにかをひたすらつぶやき続けるだけだ。
では、彼は何に対してそんなにも怯えたと言うのだろう。
なにが彼に命の危機を感じさせたのか、それが国家保安本部の捜査官たちにはわからない。
ただ、医師という職業に就くゲープハルトだけが、フライスラーは気が触れたのだと思った。
なにかが、その引き金を引いた。
「わたしは、フライスラー判事にこう言っただけです」
――忠告してあげたのに。
マリーの言葉にヴェルナー・ベストはヨストを流し見てから首をひねった。
「忠告したとはどういうことだ?」
「ベスト博士は健忘症ですか?」
マリーが聞き返してクスクスと笑った。
ベストとヨストは、マリーとフライスラーが初めて会ったときのことを覚えている。しかし、彼らが今聞きたいのはそんなことではない。
「だって、わたしは忠告したじゃないですか。敵とする相手を間違えれば、寿命を縮めることになるんじゃないかって」
たかが人民法廷長官の分際で。
確かに、ベストはそう思った。
けれども、だからといってフライスラーをどうこうする権力などベストは持っていない。彼は確かに親衛隊中将という地位に就いてはいるものの、実質的にはパリの民生本部に左遷されたときに実権を失っていると言っても良かった。
「そして、言葉通りそうなっただけ」
ただそれだけのこと。
マリーはそれほど口数は多くない。
いまひとつなにを考えているのかわかりにくい表情でいつでもニコニコと笑顔をたたえていた。
「ゾフィーとハンスが何の役にたつのかって、博士は言いましたよね?」
彼らの存在は国家保安本部を危うくさせる存在だ。
そう思った。
しかし、部署長であるはずのマリーはそんなベストとヨストらの思惑を知ってか知らずか、絶対に国家保安本部に勤務させると言って聞かなかったこと。
その理由。
「……――」
ベストはじっと彼女の言葉の続きを待った。
「彼らは釣り針。国家転覆を狙うテロリストであると理屈をつければ、どんな人間でも拘束できると思っている”一部”の自分勝手で傲慢な最悪の裏切り者たちをおびき寄せるための仕掛けの一部」
罠を仕掛ける――。
「わたしは仕掛けの一部を作っただけ。そしてその仕掛けに自分から勝手に転がり込んできたの。きっと、これからもこれまでと同じように、彼らを攻撃の材料とする人は出てくるわ。わたしたちは、獲物が罠にかかるのを待てばいいのよ」
マリーがそこまで言った時、失礼しますという若い男の声が響いて執務室の扉が開いた。
「あら、ハンス」
マリーが笑う。
ばさりとハンス・ショルの手の中からファイルが落ちた。
呆然と見開いた彼の目に、マリーが無邪気に笑った。
「今の、話しは……」
ハンス・ショルの声が掠れる。
しかし一方でマリーはまるで彼の感情の動きなどには頓着する様子も見せずに、身の丈には合わない大きなデスクについたまま青い瞳に光を揺らした。
「聞いてたの?」
「……申し訳ありません」
ぎこちないハンスの言葉は強い不安を感じているらしく、ぼそぼそとしていてひどく聞き取りづらかった。
「別にいいのよ。聞いていても。わたしはあなたたちを死なせるつもりはないし、今のところは役に立つと思ってるから。心配しないで」
邪悪さのかけらも感じさせない彼女の声に、ハンス・ショルは床から拾い上げたファイルをマリーの前に提出してからしばらく沈黙を保つと思い切ったように口を開く。
「……では、わたしが必要なくなったときに、あなたはわたしを反体制派の人間だと告発するおつもりですか!」
「……ハンス」
ねぇ、ハンス。
マリーがほほえむ。
「しーっ」
唇の前に人差し指を立てて悪戯っぽく笑っている彼女は、その辺りの公園で笑い合っている少女らの眼差しと大差はないように感じられる。
ハンス・ショルもほんの数年前までは同じような年齢だった。
「この国家保安本部、……プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセには盗聴器がたくさん仕掛けられているのは知ってるでしょ? だから、あんまり大きな声でそういうことを言うのは頭が良いとは言えないわ。そんなだからいつまでもお子様だと嘲られるのよ……」
どこか不思議な物言いをするマリーの年齢が、時折ハンス・ショルにはわからなくなる。
「未来という道はいくつもの方向に向かって伸びているわ。わたしが、生きていたら。わたしが生きていなかったら。そして、あなたが生きていたら、もしかしたら死ぬかも知れない。そして、過去に、未来にどんな選択をしてどんな行動を起こしたか。それによって幾多の可能性を持っている未来の中から最適な未来が選択される。神のオルガンによって……」
謳うように彼女は言う。
ごくりとハンス・ショルは自分の唾を飲み込んだ。
彼女が言わんとしていること。
それは、未来の可能性という物語り。
「だから、ハンス。あなたもね、未来を恐れる必要なんてないし、わたしだってそう。未来は自分たちの手で作り出すものよ。それを諦めた人間が敗者になるの」
あなたは戦う人。
「……ハンス、あなたは戦う事を放棄してはならない」
マリーの執務机に握りしめた拳に、少女の細い指先が触れた。
「し、失礼しますっ!」
ギョッとしたように手を引っ込めたハンス・ショルは、そうして駆け出すようにマリーらの執務室から出て行った。
「焚きつけて良かったのか? マリー?」
「……焚きつけた?」
ふたりのそんな様子に口を挟むこともなく観察していたらしいハインツ・ヨストに問いかけられてマリーは首を傾げる。
「違うのかね?」
「別に焚きつけたつもりはありませんけど」
「だが、戦う事を放棄するなと言っただろう」
ヨストに言われてマリーは「あぁ、そんなことですか」と、いつもの調子で言った。
「別にそんなことで、ハンスが反体制派の運動を再開するとでも思ってるんですか?」
「……君の言動は理解に苦しむ」
「彼らの家族を人質にしているんですよ? 今さらゲシュタポの本拠地から監視されているのをわかっていて、彼らが派手なアクションをするほど馬鹿だと思うんですか?」
ゲシュタポ――国家保安本部の中枢から監視を受けているような状態のショル兄妹。彼らの家族、あるいは一族郎党はマリーの手の内にある。
彼らが不用意な行動を起こせば、血縁者の全てが強制収容所に連行されることになるだろう。
「つまり、君はショル兄妹が不用意な行動は起こさないと思っているんだね?」
ベストが口添えするとマリーはにこにこと笑いながら頷いた。
「未来は無限に広がっています。どう変わるか、そんなこと誰にもわからないのに、無駄な行動を起こして”命を粗末に”する必要なんてないじゃないですか」
無邪気に青い瞳で笑うマリーは、ハンス・ショルの持ってきたファイルを脇に寄せて、片腕で頬杖をつくともう片方の手でデスクペンをころりと転がした。
戦う事、とは文字通りの意味だけではない。
ペンは剣より強し、などと言うが実際のところそれも怪しいものだ。
ペンは決して強くはない。
圧倒的な暴力の前では無力に等しい。
「それよりも、このまま行けばおもしろいことが起こりますよ」
他意もなく告げるマリーの本心がわからなくて、ベストとヨストは言葉を失った。
「フルシチョフは、あれで”逃げられた”と思っている……」
そこに存在しているのはひどいギャップ。
「ね? そう思うでしょ?」
マリーは執務机に身を乗り出すようにしてベストとヨストにそう問いかける。いつもと変わらない笑顔のままで。
それは子供の持つ残虐な才能だということに、ふたりの法学博士は気がついた。
顔を真っ赤にしたハンス・ショルは大股でプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセの廊下を歩き抜ける。彼の余りの勢いに、すれ違った数人のゲシュタポの捜査員たちが奇異な眼差しを向けてくるが、ハンス・ショルには気遣っている暇などない。
――戦いもせずに逃げるのは愚か者のやることだ。
マリーが暗に告げた言葉が彼に突き刺さる。
彼女の言う「戦い」とは、幼稚なビラまきのことでもなければ、暴力的なテロリズムでもない。
大学生のショル兄妹にできる戦い方があるはずだ、と彼女は暗に告げていた。
――子供が大人に真っ向から戦いを挑むなど、頭の悪い人間のやることだ。彼女が言葉では告げなかったことが雷光のようにハンス・ショルの脳裏に閃いた。
どうして彼女の言いたいことに気がつけなかったのだろう。
彼女は、味方でもなければ敵でもない。
もっと純粋に、ドイツの味方だ。
ドイツの守護者。
戦士たちを正しい道に導こうとしているのだろうか?
「……くそっ」
不意に目尻に浮かんだ涙を乱暴に拭って、彼は廊下を抜けた。
そこは、マリーのお気に入りの中庭で、いつも彼女が転がっている日当たりの良いベンチがあった。
ぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。
気がつけないまま、学生運動を続けていれば、自分がその灯火を消すことになりかねなかった。
マリーがいたから、自分は気づくことができたのだ。
「ハンスー!」
反対側の廊下の窓からマリーが手を振っている。涙に濡れた顔を上げて、何度も何度も涙を拭いながらハンス・ショルは下唇をかみしめた。
「泣いちゃだめよ!」
いつものように、いつもの口調で彼女は笑う。
マリー。
聖母の名前を持つ透明な魂の少女――マリア。
彼女はこんなにも若いというのに。だけれども誰よりもまっすぐに、そして透明に、人の心を強く揺さぶる。
彼女の魂は、年上であるはずのハンス・ショルがそう思える程成熟している。全く「格」が違うのだ、と。明るく笑う神の炎そのもの。
ハンス・ショルはそう思った。




