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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XVI 大海嘯
202/410

5 混沌の中

 なにかが壁にたたきつけられるような音が響き、その音に駆けつけたゲシュタポの捜査官が地下の独房の壁にたたきつけられて昏倒している華奢な少女と、独房の隅に縮こまり頭を抱えて震えている人民法廷長官を発見したという報告が、ナチス親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの元に届いたのは当日の昼近くだった。

 ヒムラーは驚きの余り呆然としてペンを床に取り落として、しばし言葉を失っていたということだ。そうして、全身でわなわなと震えると真っ青な顔色になって吐き出す言葉も失って掠れた声を上げるばかりだ。

「ラ……、ハイドリヒ少佐は無事なのかね!」

 咳き込むほどの勢いで問いかけたヒムラーに、第一報を国家保安本部長官のカルテンブルンナーから受け取った親衛隊全国指導者個人幕僚本部長官カール・ヴォルフはメモを見ながら頷いた。

「はい、大きな怪我はないそうです。打撲が心配だと言うことですが」

 ヴォルフが告げたのはベルリン市内の総合病院の名前だった。

 そこまでヴォルフの言葉を聞いてから、ヒムラーは慌てて机の上の電話の受話器を上げた。

 特別保安諜報部には彼の旧知でもあるカール・ゲープハルトも勤務している。

「どうしてすぐに連絡を寄越さなかったのだね!」

 ヒムラーは電話の向こうのゲープハルトに対して切羽詰まった声を上げた。

 それほどまでに彼は動揺していた。

 彼女が、ベルリン市内で連合国のスパイによって襲われた時も、心臓が止まるかと思った。また、こうして再びそんな思いをする羽目になるとは、思ってもいなかった。

 いや、そうではない。

 少なからずそうしたことを思ってもいたがまさかこんな早くに同じような危機感を抱くとは思いもしなかった。

 とりあえず大した怪我はない。

 少々強く打撲をしただけだろうから、それほど危険な状況にはない。そうゲープハルトに告げられて、ようやくヒムラーは胸をなで下ろした。

 痩せて軽い彼女のことだ。フライスラーに振り払われた時に、思わぬ勢いで壁にたたきつけられることとなったのだろう。そして、フライスラーも彼女を昏倒させるほどの力を振るったつもりはどうやらなかったようだ。

 もっとも、ローラント・フライスラーから「供述」がとれない状況であり、その程度の行為で人民法廷長官に罪を着せられないことから、カルテンブルンナーとしてはマリーを病院へ急遽搬送し、フライスラーの独房に鍵をかけ見張りを立たせるにとどまったとのことだった。

「彼女のことは心配いらんよ、ハイニ」

 そうゲープハルトに告げられた。

「くれぐれも職務を放棄して見舞いにくるなどということがないように」

 釘を刺すような名医の言葉にヒムラーは困惑したように、自分の執務室で肩を落とした。旧知の友人にはすっかり行動が見透かされている。

「マリーのことは、わたしが責任もって治療にあたる。だから心配などする必要はない」

「そう……、そうだな。頼む」

 迷いを振り払うように、カール・ゲープハルトに告げてからハインリヒ・ヒムラーは受話器を置いた。

 彼が大丈夫だと言うのだからそう信じたい。

 しかし、そのカール・ゲープハルトの手を持ってすら、ラインハルト・ハイドリヒは死んでしまった。かつての彼のように、彼女を失うわけにはいかない。

「……ラインハルト」

 戻ってきた君は、ヒムラーが心配になるほど華奢で心許ない。

 きっとこれは神が自分に与えた試練なのだろう。そう思った。

 かつて、生前のラインハルト・ハイドリヒの強さに頼ってばかりいた自分に対する神の試練。両手で顔をおおったヒムラーは下唇をかみしめる。

 きっと、神は自分が弱かったから、あきれ果ててラインハルト・ハイドリヒを自分のそばから奪っていったのだ。自分の足で立つこともできない、ヒムラー自身を自立させる試練として、神はラインハルト・ハイドリヒをその御許(みもと)へと奪っていった。

 けれども、ラインハルトはそれを良しとしなかった。

 ヒムラーを支えるために。

 そしてヒムラーの力となるために、別の姿で戻ってきた。

 それももしくは神の意志のひとつなのかもしれない。

 ヒムラーを自立させるために、強い彼の姿は失われ、逆にヒムラーが保護してやらなければならない儚さをもって。

 姿形がどれほど儚くても、ラインハルトの精神の強さはそのままに。

「……マリア」

 ラインハルトが死んだのは神の罰で、そしてマリアが現れたのは神の試練だ。

「君を、守ろう……」

 誰にも聞こえないように、唇だけでつぶやいたヒムラーは長い沈黙の後に顔を上げると、執務机を挟んで彼の目の前に立っている副官――カール・ヴォルフに命令を下した。

「すまんが、病院に行ってマリーの様子を確認してくれたまえ」

「……――承知しました」

 なにか言いたそうなヴォルフだったが、結局なにも言わずにヒムラーの命令を承知してかっとブーツの踵を鳴らすと執務室を出て行った。おそらく、彼がそれ以上の要求をしなかったと言うことは、カール・ヴォルフに直接向かえという意味でもないのだろう。

 しかし、とヴォルフは考えた。

 彼女の存在が――公然の秘密であるとは言え――極秘である以上は、余り話しを大きくするわけにもいかない。

 ただでさえ、ナチス親衛隊内での権力争いは日に日に激しくなるばかりで、カール・ヴォルフ自身も安穏としていられない。

 良い例がクルト・クノブラオホの存在だ。

 彼は、ヒムラーとヴォルフの間の不仲を良いことに、その権力を拡大しようとしている。

「これはヒムラーに恩を着せる良い機会かもしれん」

 小首を傾げながら、ほほえんでいれば穏やかに見えもする親衛隊全国指導者個人幕僚本部長官は肩の力を抜いた。

 それに、あの可愛らしい少女がまた病院送りにされたと聞いては、おそらく突撃隊幕僚長辺りが黙っていないだろう。

 いの一番で見舞いに来るかも知れない。

 そんな面倒臭い政敵に先手を打たれるのはまっぴらだ。

 そこまで考えてから、カール・ヴォルフは腕時計を見やってから背後についている副官の青年士官に対して軽く肩の上で片手を振ってから、車の用意をするように告げた。

「大至急、車を回せ」

「……はっ」

 こうしてカール・ヴォルフが親衛隊全国指導者個人幕僚本部を出た時刻、国家保安本部の国家秘密警察(ゲシュタポ)局長のハインリヒ・ミュラーと、刑事警察(クリポ)局長のアルトゥール・ネーベ両中将は一足早く少女の見舞いに訪れていた。

「なんですかな、随分大袈裟ですな」

 ふむ、と言いながらカルテを片手に医局から出てきたのは親衛隊の制服の上に白衣を身につけたカール・ゲープハルト医師だった。

 丸い眼鏡の奥の人なつっこそうな瞳は、今はどこか鋭い眼孔をたたえていて、彼が正真正銘の医師であることを伝えている。

「大袈裟とはお言葉ですな」

 ミュラーの心ここにあらずと言った声色に、片眉をつり上げてから肩をすくめたゲープハルトは、そうしてからやれやれと溜め息をついて病院から提供された医局のシャウカステンの前にふたりの中将を案内して丸椅子を勧める。

 マリーに家族はいない。

 立場的なものを考えれば孤児も同然で、一応今のところは国家保安本部長官のエルンスト・カルテンブルンナーが若いながら父親面しているが、それにしたところで正式に彼女の容態を伝えるための人間はいないということになっている。

「レントゲン上は特に問題はありませんな。先ほど意識は戻りましたが、打撲痛が出てくるでしょう。仕事には差し支えないでしょうが、ひどい痛みが出てくるかも知れません」

「差し支えないのに痛みが出てくるとはどういうことだね」

 ミュラーに問いかけられて、ゲープハルトは思わず「なんだ、その難癖は」と思った。仮にも警察官で現場の捜査を経験しているミュラーならば多少の筋肉痛の経験はあるはずだ。

 マリーとて国家保安本部に勤める情報将校であるなら、そうした危険は否めないわけでなにもそれほど目くじら立てるほどの問題ではない。

「なに、マリーは中将方よりも若いですからな。回復は早い、心配することはなかろう」

 ゲープハルトは生真面目に応じてやって、心配しすぎて挙動不審になっているミュラーをなだめているアルトゥール・ネーベに視線を投げかけた。とりあえずはミュラー同様にネーベもマリーが心配でならないのだろうが、人間というものは不思議なもので、自分よりも不安定になっている者がいるとそちらを落ち着かせてやろうという気持ちになるものらしい。

「ともかく、長期の入院の心配はないし、貴官らが仕事を放り出してまでくるような事態ではない。ちょっと被疑者に振り払われて壁にぶつかっただけだろう」

 そう言ってから、顎に手を当てたゲープハルトはちらりとシャウカステンに張り付けられている、レントゲン写真をにべもなく見やると思考を巡らせた。

 ――もっとも問題はマリーの健康上の問題よりも、フライスラーの精神状態のほうかもしれない。

 カルテンブルンナーには真っ先に「異常所見なし」との報告をいれたから、かろうじて国家保安本部長官が病院へと駆けつけることはなかったが、彼女の行動半径を考えるだに、いろいろと恐ろしい。

 とりあえず信頼できそうな看護婦に「どんな高官も一切面会謝絶にすべし」と”医師”として命じておいたが、これはマリーが入院している二、三日は自分も病院に詰めていなければならないかもしれない。

 どこからどうやって聞きつけたのか、ヴェルナー・ベストのもとにはマリーの容態についての数件の問い合わせが来たらしいということだ。

「高官共が揃って暇人だな」

 ぞんざいにつぶやいたゲープハルトは、そうしてふたりの親衛隊中将の相手をしてから、また数分して今度は親衛隊全国指導者個人幕僚本部長官のカール・ヴォルフを相手する羽目になるのだが、そのうちゲープハルト自身が面倒臭くなって、彼女の見舞いに来る高官たちをことごとく追い返すことになるのだった。



  *

 全く災難でしたな。

 マリーが退院したのは二日後の午後で、彼女の警護には相変わらずアルフレート・ナウヨックスが就いている。

 ハインツ・ヨストにそう告げられて、ゲープハルトは眉間の間にあからさまなしわを刻んでばさりと音をたてて首席補佐官のヴェルナー・ベストに報告書のファイルを提出した。

 内容は主に診療記録(カルテ)と大差ない。

 しかし、医学に通じていない人間にも納得させるように書かなくてはならないということが、寝不足で機嫌が悪くなっているゲープハルトの機嫌をさらに悪化させる事態となっていた。

「マリーにはもう少し注意深く行動するようによく言い聞かせておいてくれたまえ」

 ぶちぶちと批難するようなゲープハルトの物言いにベストは「すまん」と応じてから溜め息をついた。

 ”よく言い聞かせた”ところで、彼女が自分の行動に対していまひとつ不注意なことは、すでにヴェルナー・ベストも気がついており、たびたび注意をしているのだが効果のほどがさっぱりなのは言うに及ばない。

 そもそもベストがゲープハルトに謝罪するような内容でもないのだが、ゲープハルトの機嫌の悪さには首席補佐官の法学博士ですらもたじたじとさせる。

「出勤したら説教しておくことにしよう」

 もっとも、説教したところで彼女に効き目があるとは限らない。

 そんなことよりも、ベストには気にかかることが別にあった。

「それよりも、ゲープハルト中将。フライスラー判事の精神状態がいまひとつよろしくないと言うことを聞いていますが」

「うむ、それだ」

 機嫌の悪い声のまま、ゲープハルトは応じると乱暴にソファに腰掛けてふたりの法学博士に視線を走らせた。

「精神科はわたしの専門ではないからはっきりしたことは言えんのだが、どうも極度の錯乱状態に陥っているようで聴取がろくろくすすんでいないらしい」

「それは、ゲシュタポのミュラー中将が?」

 ミュラーからの情報なのかとベストが問いかけると重々しくゲープハルトが頷いた。

「うむ」

 ――もしくは、事情聴取などできんかもしれんな。

 独白するようにぽつりとつぶやいてから、組んでいた足をほどくと重い靴音を鳴らすと勢いよく立ち上がる。

「それでは、マリーへの小言は頼みましたからな。なぜ彼女がフライスラーの独房などに行ったのかは知らんが」

 吐き捨てるような言葉を残してゲープハルトはベストらの執務室へ報告書のファイルを置くと、そのまま足早に出て行った。

 彼女が登庁するのは明日からだ。

 ヴェルナー・ベストとハインツ・ヨストは、ゲープハルトの置き土産に視線を交わすと肩をすくめた。

 言ってもわからない相手に言う小言ほど無駄なものはない。

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