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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XVI 大海嘯
201/410

4 ビスクドール

 国家秘密警察(ゲシュタポ)による人民法廷長官ローラント・フライスラー判事の拘束の情報は、ポーランド総督のハンス・フランクのもとにも舞い込んだ。

「”あの”腰抜けミュラーが随分と大胆な決断を思い立ったものだな」

 侮蔑するように、しかしどこか感心したように独白したハンス・フランクは、ゲシュタポ・ミュラーの権力のその大きさについて考え直すと改めて眉をひそめる。

 ナチス親衛隊の、ゲシュタポと諜報部門から成り立つ親衛隊情報部。

 ベーメン・メーレン保護領、プラハでチェコスロバキア亡命政府の手によって暗殺されたラインハルト・ハイドリヒ親衛隊大将――金髪の野獣はまさしく畏怖の対象であり、その影響力は計り知れないものであったこと。それ故に、彼の亡き後、親衛隊情報部における混乱は筆舌に尽くしがたいものがあった。

 ただでさえナチス親衛隊とは――ヒムラーの意図にかかわらず――ならず者の集まりであるという認識がまかり通っていたし、ポーランドの占領地区を統治するハンス・フランク自身も同様に彼らを無法者の集まりだと考えていた。

 無論のこと、その組織の中には数多くの法律家が所属している。

 もっとも……――。

 ハンス・フランクは唇の端をかすかにつり上げてからそっと笑う。

 法律など法律家たちの手によって作為的に歪められるのはそれこそ日常茶飯事で、昨日今日の話しではない。

 国家保安本部に所属する良識面した知識人たちのことを頭に思い描いて、フランクは鼻から息を抜くと侮蔑をたたえる。

 ヴェルナー・ベストも、ハインツ・ヨストも、ヘルベルト・メールホルンも、そしてヴァルター・シェレンベルクなども同じだ。彼らは被害者面をしてラインハルト・ハイドリヒを批難するが、金髪の野獣の犯罪の片棒を担いだのもまた彼ら自身だ。

 法律とは悪人を縛り付け、贖罪させるためのものではなく、権力者たちが善良な一般市民を意のままにするための道具である。

 悪人に裁きを下すのはあくまでも「ついで」に過ぎない。

「ラインハルト・ハイドリヒも所詮人間の子でしかなかったということだ」

 侮蔑は、果たして誰に向けられたものなのか。

 フランクはぽつりとつぶやいてから、じっと片目をすがめた。

 冷徹で、冷酷な――。

 死刑執行人。

 第三帝国の首切り役人。

 冷たいふたつ名をいくつも抱える金髪碧眼の男。

 けれども、とハンス・フランクは考えを巡らせた。ベルリンから遠く離れたポーランドのクラクフにあって彼の鋭い観察眼は、また別のものをも捕らえている。

 離れた場所にいるからこそ見えるものもあるのだということを。

 圧倒的な恐怖で塗り固められたもの。それらは恐怖の存在を失って、一度は各々(おのおの)が欲望のままに暴走しかけていた。

 しかし、そんな国家保安本部の権力の崩壊が動きを止めた。

 ぴたりと。

 正しい場所に正しく戻されていく。

 なにか別の力が作用しているのではあるまいか? フランクはそんな思いを抱いた。

 あるべきものを、あるべき場所へ。パズルのようにはめ込んでいく見えない力。

「ベルリンで何が起きているのやら」

 とりあえずそんなことにクラクフに住むフランクが気をもんでみたところで、彼の力が及ぶべくもない。全くの管轄外だった。

 だから、彼が遠目に眺めてみたところでなにか事態が変わるわけではない。

 しかし、ナチス親衛隊という――あらゆる意味で――微妙な組織の中で、まるでさざ波のように波紋を描くものが”いる”。

 例えるならば、清水(しみず)を自由に泳ぎ回る金魚のようだ。

 ひらひらと。

 見ていても決して不快にならない、そんな眺望。

 どちらにしたところで、ナチス親衛隊の動きに対してハンス・フランクなどにはせいぜい注意深く見守る程度の方法しかとることはできなかった。

 彼らの暴力という権力は、フランクにとってみても必要不可欠だった。それが忌々しいことだと彼は思う。

 やれやれと息をついたハンス・フランクは机の上に放り出された電報を見やってから肩をすくめた。

 ヒムラーの批判も、ヒトラーの批難も。ヒトラーの操り人形のカイテルにも、フランクはすっかり参っていた。

 ――もうどうでもいい。

 そんなことさえ思わせられて、ハンス・フランクは座り心地の良い椅子に腰を下ろして、ドイツ本国から届いたばかりの書類に指を伸ばす。

 労働可能な労働者をフリッツ・ザウケルへ。

 ユダヤ人はアイヒマン機関を通じてナチス親衛隊の虐殺者のもとへ。ただ淡々と送り届ければ良い。自分にはそうすることしか許されないし、所詮、ポーランド王などと呼ばれていてもその程度の存在に過ぎない。

 いくら侮蔑の言葉を吐きだしてみても、結果的にはベストやメールホルンらのほうが、自分などよりもずっと立ち回りはうまかったのだろうか。そんなやるせなさに、苦笑いしてから彼は毎日のように届けられる書類の山に没頭した。

 その中に反親衛隊派の同士でもある、ベルリンに住む突撃隊幕僚長のヴィクトール・ルッツェ突撃隊大将からの手紙を見つけて、ハンス・フランクは小首を傾げた。

 特になんでもないいつものヴィクトール・ルッツェの手紙だが、なぜだか琴線にひっかかるようなものを感じたとでも言えばいいのだろうか。

 手紙の束の中からルッツェの手紙をかき分けて、ペーパーナイフを手に取ると手早い動作で封を切った。

 中には最近起こったベルリンで起こった出来事のざっくばらんな説明と、彼の前に現れた国家保安本部に所属することになった少女のことが綴られている。同封されていたのは数枚の写真で、少女と一緒になって「おやつ」のアイスクリームを食べている突撃隊幹部がふたり。

 もちろんそれは疑うべくもない。

 手紙の主のヴィクトール・ルッツェと、参謀長のマックス・ユットナーだ。無理矢理一緒に写真に写されただろう突撃隊参謀長はあからさまに憮然としている。自分の分のアイスクリームを食べ終わってしまったらしい色素の薄い長い髪の少女は両脇で三つ編みにしていて、そこから見える鎖骨の細さが病的な印象を与えていた。

 骨折でもしているのか、写真の少女は片腕を吊っている。

 そんな少女に、ルッツェが笑顔を向けながら自分のアイスクリームを差しだしていて、そんな他愛もない写真は見ている者を自然と笑顔にさせてしまう程度には無邪気で自然だ。

 いったいその写真はどういった状況で撮られたものなのだろう。

 そんなことを思いながら、机の上に写真を広げたままで手紙を読み進めていく。

 ナチス親衛隊に配属された唯一の女性将校であること。そして彼女がヒムラーの私設警察部隊の隊長であること。ほかには、彼女の指揮下にはかつての国家保安本部の屋台骨を支えた数人の知識人と秘密工作員やゲシュタポの捜査官が配属されたことなど。

「ふむ」

 手紙を読みながらハンス・フランクは小首を傾げると誰にでもなく相づちを打つ。

「……わたしは、親衛隊に対しては大変おもしろくないものを様々思う事もあるが、それでも彼女の存在は、もしくはドイツの未来を大きく変えることになるのかもしれない、と願っている」

 女は政治の世界には出てくるべきではない。

 それが社会の時流だ。

 けれどもそんな考え方さえ男たちに変えさせるほどの少女の存在。

「なぜ、ヒムラーが彼女に親衛隊将校の地位を与えたのかはわたしにも理解はできぬ。だが、ヘル・フランク。今度ベルリンを訪れるときは、ぜひわたしは彼女をあなたに紹介できればいいと思う」

 穏やかな慈愛に満ちたヴィクトール・ルッツェの文章に、ハンス・フランクはなぜだか微笑がこぼれた。

 少なくとも、ルッツェが突撃隊と親衛隊という垣根を越えて、写真に写っている少女のことを大切に思っているらしいことは、フランクにも充分伝わってきた。組織という枠組みを超えるのは、兄弟などの血縁や、上官と部下などの敬愛だけではない。こうした思いも時には垣根を越える原動力になるのだ。

 ――彼女の名前は、マリア・ハイドリヒ。階級は親衛隊少佐である。

 さりげなく綴られた文字に、ハンス・フランクは再び眉をひそめた。確かに、ハイドリヒという姓はそれほど珍しいものではない。しかし、名前が名前だけに、否が応でも彼が毛嫌いしたものを思い出させるのもまたやむを得ない。

「ハイドリヒ……」

 金髪の野獣――ラインハルト・ハイドリヒ。

 写真は白黒だから、少女の瞳が何色なのか。髪の色が何色なのかはわからない。しかし陽光に照らされた写真の少女はどちらも色素はかなり薄いのではないかと思わせる。

 わからんな。

 ハンス・フランクはそうして口の中でつぶやいてから封筒に手紙と写真を戻すと溜め息をついた。

 写真の中でルッツェと共に笑っている少女。

 こんな大男に寄ってこられては、少女のほうも暑苦しいのではないだろうか。そんな意地の悪いことを考えながら、ハンス・フランクは口元をほころばせてから仲間の写真をそっと封筒に戻してひきだしにしまい込む。

 不思議な笑みだ。

 少女のまっすぐなまん丸の瞳に、ルッツェが心底穏やかな笑顔をたたえていることを、友人だからこそハンス・フランクは理解できる。彼女の存在が、ルッツェの心の癒しなのだと、そう思った。

 そうして手紙をしまってから、机に頬杖をついたままでぼんやりと中空を見つめていたフランクはややしてからスーツの内ポケットから愛用の万年筆を取り出した。

 机の端に載せられている紙入れの中から便せんを引き寄せると、渇いた音をたててペンを走らせると短い時間でルッツェへの返信を書き上げて封筒におさめるとノリでぴったりと封をした。



  *

 プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセ。

 その地下の独房で、ローラント・フライスラーはゆっくりと廊下を歩く足音に気がついて耳をそばだてた。

 いつゲシュタポによる拷問が始まるのかと神経質になっているところに、こつり、こつりと足音だけがゆっくりと響いてくる。そうして、彼の独房の前で足を止めた、足音の主はわずかな扉の軋みの音を上げる。

 おそらく廊下側から扉に寄りかかったのだろう。

 軋む音から察するに小柄な、しかも体重の軽い――子供だろうか。

「忠告してあげたのに」

 静かに声が響く。

「あなたはわたしのおもちゃに手を出すべきじゃなかったのよ」

 冷ややかなほど無邪気な声が響いて、ローラント・フライスラーは戦慄した。

「忠告してあげたのに……」

 クスクスと笑っている。そうしてがちゃりと音をたてて独房の扉を開いた少女は、沼の底か、湖の底かと思わせるような瞳を大きく見開いて満面の笑顔を、フライスラーの前で浮かべている。

 明らかに、彼女の笑顔は無邪気そのものだというのに、その奥に潜んでいる邪悪さはなんだろう。

 そう……。

 なまなかな相手ではまるで歯が立たない。

 毒には毒を。

 金髪の少女を目の前にして、フライスラーは呆然とした。

 彼女は爪を隠していた。いや、そうではない。正確には今も同じく爪を隠している。しかし今、フライスラーの目の前にあるものはそんなに生やさしいものではなかった。

「忠告してあげたでしょ? まんまと引っかかったのはあなたの頭が悪かったから」

 あなたは自分の()(わきま)えなかった。

「分相応という言葉を知らない人間は、生きていくべきじゃないのよ」

 自分の分を弁えない人間は「いらない」。

 静かな花のように笑っている少女はそっと右手を差し伸べた。

「……ひっ」

 まばたきもせずに「笑って」いる彼女に、ローラント・フライスラーが凍り付いた。反射的に少女の腕を振り払って、フライスラーは悲鳴を上げた。

 目の前にいるそれは”正しく”「人間」ではない。

 金色の髪の、青い瞳の。

 白皙の肌の……。

 そこにいるのは人間(ヒト)の形をした(けだもの)だ。

 フライスラーは、そう察した。

「あなたは身の程を知るべきだった」

 自分に与えられた役柄を満足に演じることもできない三文役者なんて、イらない……。

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