3 変遷する現実
「ヒトラーの周囲が騒々しい様子だな」
カナリスの言葉に、首席補佐官のハンス・オスターは小さく頷いてからティルピッツ・ウーファーの国防軍情報部の上官の執務室の窓の外を眺めた。
「風向きは確かに変わりつつありますが、提督」
作為的に言葉を切ってからオスターは言葉を探す。
「彼女の存在、かね?」
「……はい」
彼女の存在。
去る六月四日――ナチス親衛隊大将ラインハルト・ハイドリヒの葬儀の際に、彼の棺の中に閉じ込められていた少女。
「ヒムラーはすっかり心酔している様子ですが、我々は彼女の保護を優先して良かったのでしょうか」
「彼女の保護、か」
カナリスは相づちを打つようにオスターの言葉を繰り返しながら、古ぼけたデスクについて老体を椅子に沈めている。
「そうだな、確かに彼女の存在は毒にも薬にも姿を変える。だが、彼女は彼らを押さえつけるには確かに有効だったとは思えんかね?」
「……”彼ら”ですか」
カナリスの言う「彼ら」という言葉にオスターは考え込むと、国防軍情報部長官は低く笑ってから両肘を机に突いた。
「ただの少女。その存在を我々は守った。ただそれだけのことだ」
同じ趣旨の言葉を繰り返すように言いながら、カナリスは窓の外を眺めているじっとオスターを見つめてからそっと眉をひそめる。
老練なカナリスは、ただ彼女に出逢った瞬間に「マリー」が「ハイドリヒ」だと思った。けれども、彼女の存在はそれまでの冷徹で狡猾で権力欲にまみれ、好色な男の魂とは異なり、もっと純粋なもの。
人の感情、あるいは精神的なところから「浅い欲望」というものを取り除けば、彼女のような「もの」が残るのではないかと思えるような。
「我々のような老人にはなしえぬことを成すべき力を彼女は持っている」
「はい」
堕落と享楽に支配されたソドムとゴモラを灼き尽くすヤハウェの裁きのような力強さではなく、まるで枯れた山に吹き抜けていく、みずみずしい春の風のように彼女の存在は新鮮だ。
「人の力で、神の裁きを下そうとすることがそもそも思い上がりなのかもしれん」
「しかし、必要なことではないのですか」
カナリスの言葉にオスターが抗議の声を上げる。
「世界の流れというものは、数人の人の力などで変えることができるものだと思うかね?」
「……――おっしゃいたいことは理解できますが、それでも時に必要を迫られることもあるのではないかと」
「ふむ」
カナリスもオスターの言っていることはわかっているし、オスターもカナリスの言っていることはわかっている。
どちらの言い分ももっともなのだ。
それでも、と、カナリスは歴史の教訓を鑑みる。
十七世紀にチャールズ一世を討ち取ったオリバー・クロムウェルのように。歴史は「繰り返され」る。
ふとイギリス内乱を思い出したカナリスはかすかに苦笑してから、自分の机の上の新聞に手を伸ばして長身のオスターを見上げると口を開いた。
「彼女の存在によって確かに風向きを変えつつある。噂で聞いているが、カイテルとゲーリングが随分、中立的な立場を取るようになったらしいじゃないか。もっとも、カイテルが評価されておるのは東部で”パウルスが”勝利を収めたのも大きいのだろうが。これで、ソ連での戦争があのまま泥沼の状態を続けていれば、ヒトラーの連中に対する評価も違ったものになっただろうがな」
そこまで一息に言ってから、一拍おくとカナリスはそうして続ける。
「なにより、方々からの陳情もあって参謀本部のハルダー元帥がそのままの地位に据え置かれたのも大きい」
パウルスの勝利は、ハルダーの進退にとっても重要なものだった。
ヒトラーのお気に入り――ヒトラーのイエスマン。
そう言われていたカイテルでさえ、最近ではパウルスの勝利によって多少の発言権を強化したらしい。そのカイテルの説得が功を奏してなんとかハルダーは更迭されずに至っている。
どちらにしろ折り合いが良くないヒトラーとハルダーは一触即発だが、政府首脳部がヒトラーのイエスマンばかりでは話にならない。
辛口の反論を述べる者がいなくてはいけないのだ。
ドイツは一応民主主義であるということになっている。
「もっとも、頭の回転の速いマンシュタイン元帥も、フランス戦での功績の大きなグデーリアン上級大将もヒトラーとは折り合いが悪いとあってはまだまだ先行きには難儀しそうではあります」
「ところで、オスター大佐」
「はい」
「あのご老人……、シャハト博士はお元気か?」
「えぇ、ギゼヴィウスが言うには、お元気そうだとか」
「それはなによりだ」
ヤルマル・シャハト――ヒトラーの政権下で高い役職に就いたものの、最終的にはヒトラーとの関係が悪化し、政府中枢からは遠ざけられて今に至っている。しかしシャハトが政府中枢に食い込む存在ではなくとも、多くの経歴を持つ知識人としての人望は厚く多くの”若者たち”の求心力を得ていることは間違いない。
シャハトはカナリスやオスターらにとって重要な位置づけに存在していた。
彼は未来のドイツにとって大切な存在だ。
「シャハト博士は、亡くしてはならん人だ」
そう、たとえばナチス党の謀略などによって殺害されてはならない人物。ドイツの未来のために、彼は死なせてはならない。
「そういえば、カナリス提督」
「なんだね?」
「ご存じですか? マリーは前陸軍参謀総長のベック上級大将と随分親しくしているらしいです」
「あぁ、噂には聞いている。しかし、ベック閣下はすでに退役された身で私人だからな、ナチの高官共を含めて我々がとやかく言うところもないだろう」
しかし、ルートヴィヒ・ベックがいかに私人であったとしても、ドイツ国防軍陸軍参謀総長を務め上げた反ヒトラー派の急先鋒として知られている。
そんなベックにナチス高官たちが目をつけていないわけはないのだが、問題はマリーがナチス党に所属する人間であり、さらに警察権力の側にいる存在だと言うことが事態をややこしくしている。
「案外、内情は我々が思うよりややこしいのかもしれんな」
マリーがなにを考えているのかわからない。
なにかを計算しているのか、それとも本当に計算などせずに、ただ思いつきで行動しているだけなのか。
「……子供は後先を考えていないから、どうにも行動原理がよくわからん」
いや、そうではない。
大概の場合、子供の行動原理など過去にさかのぼればいくらでも理由が突き止められる。
たとえば親の愛情が不足しているだとか、虐待を受けただとか、なんらかの強すぎる刺激を受けただとか、精神的なショックを受けただとか。
子供の行動原理など往々にしてそんなものだ。
しかし、彼女の行動を見ている限り、そうしたものが見えてこない。
感情のままに脈絡がないとすら思わせる。
苦言を呈すれば素直に謝罪もするし、怒られれば肩を落とす。しかし決して攻撃的になることはなく、また顔を真っ赤にして怒るわけでもない。
なにかが欠落している。
しかしその「なにか」がわからない。
不気味な違和感を感じもするが、それでも彼女がドイツにとって不利益を与えているわけでもなく、逆にドイツにとっての「不安要素」を排除するための動きの中にいるようにも見えたから、オスターは彼女に対して動きようもない。
「オスター大佐、どちらにしても君は君の信じる道を進めば良いだけのことだ」
我々は思いを同じくしていたとしても、結局のところ個人でしかありえない。
だから、各々が自ら信じた道を進むだけのことなのだ、と。
「承知しました、カナリス提督」
それでは、わたしはマリーと話しをしたいのでプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセに行って参ります。
オスターはそう続けて踵を返した。
そんなオスターを見送ってからカナリスは首を傾げる。
確かにマリーという存在は毒にも薬にも姿を変える。
不思議なもので、自分を含めて多くの反ヒトラー派の将校たちが、幾分とげとげしさを和らげつつあるのだ。
ヒトラー派の人間たちに対してなにも講じることができないというもどかしさにも似た危機感。それらによって強い焦りが生じて、それがヒトラーに同意できない者たちに明白な苛立ちと刺々しさを表出させている。
ヒトラーは狂っているのではないか。
そんな危機感にも似た男たちの思いを、彼女という存在が和らげていく。
権力欲にまみれた狼の巣に迷い込んだ子ウサギ。
ただただまっすぐな好奇心に満ちた眼差しだけを向けて彼女は、感じたままの疑問と、素直に思った言葉を口にする。
相手がヒトラー派の人間であれ、反ヒトラー派の人間であれ。彼女にとってはどうとでも良いこと。
大人たちの先入観も身構えもなにもかもを軽々と飛び越えて、マリーはそうして笑うのだ。
「ドイツの未来の鍵は、彼女が握っているのかもしれん」
ラインハルト・ハイドリヒの魂を受け継ぐ娘。
どうして彼女がハイドリヒの葬儀の日に、黄昏に染まるドイツに舞い降りたのかはわからない。それでも、彼女が現れたのはドイツのためだ。
世間の裏も表も知らない子供の眼差しそのままに。
かつてのハイドリヒの邪悪さをすっかり失って、だけれども魂だけはそのままにカナリスの前に姿を見せた。
――わたしはあなたを待っていた。
マリーの声を思い出す。
「わたしも君の帰りを待ち焦がれていたのだ……」
彼のそんな言葉は掠れて消えていく。
強烈にヒトラーに対して反感をいだきもし、そしてラインハルト・ハイドリヒのやり方に嫌悪もしたが、それでもドイツという国内をまとめ上げるためにはハイドリヒの存在が必要不可欠であったこと。
それをカナリスは知っていた。
ハイドリヒという男のカリスマはドイツにとってなくしてはならなかったもの。だから、カナリスは彼の帰りを待ち望んでいた。
*
「マイジンガー大佐、か」
それからしばらくしてプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセを訪れたハンス・オスターに、ヨーゼフ・マイジンガーはマリーの横に座ったままの姿勢でぴくりと眉をつり上げた。
「これはこれは、なにかご用事ですかな? オスター大佐」
国家保安本部の中庭のベンチに腰掛けているマリーは、ふたりの大佐のやや険悪なやりとりにぽかんとして目を見開くとオスターの姿を認めて頬を緩めるとにっこりと笑顔を見せる。
彼女が怒っているところを見たことがない。
オスターはそう思った。
いつもそうだ。
「オスター大佐、こんにちは」
「ハロー、マリー」
マイジンガーの肩に寄りかかるようにして中央記録所のファイルに目を通していたマリーは、極秘ファイルとおぼしきそれを膝の上に置いてから姿勢を正す。敬礼を返したり、立ち上がって礼を取ったりしないのはいつものことだ。
何度言われても直らないマリーの行動にはすっかり諦観の様子で、いまさらオスターも彼女の行動に目くじらをたてることもない。
「座ってもかまわんかね?」
「はい、どうぞ」
打てば鳴る。
心地よく響くマリーの元気な声に、オスターは彼女が手のひらでたたいたベンチに腰掛けてマリーを挟んで反対側に座っているマイジンガーにあからさまに鬱陶しそうな瞳を向ける。
しかし、一方でそんな眼差しを向けられたヨーゼフ・マイジンガーも気後れする様子も見せず、視線を返した。
「捜査の書類かね?」
「そうです、マイジンガー大佐にお願いしていたファイルなんですけど、その話をしていたところなんです」
マリーの返事はいつも迷いがない。
「君はいつも忙しそうだな」
「そうでもないですけど」
計算しているのかいないのか。
考えているのかいないのか。
はたしてどちらなのだろう。
「いつも怒られるんですよね」
言葉の足りないマリーにマイジンガーが後を継ぐ。
「それは君がいつもこうして中央記録所のファイルを屋外に持ち出すからだろう。シュトレッケンバッハ中将にしてみれば、極秘ファイルがこうもしょっちゅう持ち出されてはたまったものではないのはわかっているだろうに」
「わかってますけど……、お天気が良いと外に出たくなりません?」
「あのな」
少佐と大佐。
そうした上下関係があるというのにマリーはそんなことには頓着しない様子で、マイジンガーと言葉を交わしている。
「それで、オスター大佐は今日はどうしたんですか?」
あっけにとられた様子でマリーとマイジンガーのやりとりを聞いていたオスターにマリーが水を向けた。
「ローラント・フライスラーの件で、君がなにか知っているかと思って聞きにきたんだがね」
「フライスラー判事ですか?」
「そう」
マリーに即座に言葉を返されて、オスターが当惑しているとマイジンガーは少女の耳になにやらささやきかける。
「別に隠すことでもないですし」
マリーはマイジンガーにそう言うと、ベンチから立ち上がった。
「部屋にファイルがあるのでそれを持って行ってください、オスター大佐」
別に隠すものはなにもない、とでも言いたげなマリーにマイジンガーとオスターが後に続いた。少女の横を歩く禿げ頭の印象的なゲシュタポの捜査官は、オスターの存在が時折気になるのか鋭い眼差しを何度か投げかけてくる。
彼にしてみれば国防軍情報部所属のハンス・オスターは気にかかる存在なのだろう。
逆の立場でも同じように考える。そう皮肉げに思ってからオスターはゆったりとした足取りでマリーの後ろに続いた。
華奢で小さな少女。
ベック家で休暇をとってから少しは肉付きがよくなったように見えもするが、正直なところを言えば標準的な体格にはまだまだ遠い。
「痩せすぎだな」
「……そうですか?」
オスターの指摘に、前を歩くマリーが首を回して傾げてみせる。
「ゲープハルト中将も食べろ食べろってうるさくて……」
大きな溜め息をついた彼女にマイジンガーが豪快な笑い声を上げた。
平均的な少女たちと比べると二回りは華奢なマリーは、隣に大柄なマイジンガーがいるとかなりこじんまりとした印象を受ける。
「それはまぁ、言いたくもなるだろうな」
「……そんなこと言われても」
無意識かマイジンガーの制服の袖を掴んでいるマリーに、片やの親衛隊員の男は少女の狭い歩幅に合わせてやってゆっくりと歩きながら、やや不機嫌そうなオスターの顔を見返した。
「まったく、どいつもこいつもこの子が体格が貧弱だとかなんだとか。はっきり言ってそんなことどうでも良いではないか」
ぶっきらぼうなマイジンガーの言葉に「どうでも良くないだろう」と内心でオスターは突っ込みながら、言葉にはせずに鼻から息を抜いた。
体重の問題ではないのだ。
痩せすぎていると言うことは、体力的に問題があると言うことで、つまるところそれは伝染病などが発生した時の抵抗力にも関係してくるということになる。
「まぁ、あんまり気にしてませんから」
マリーの苦笑にマイジンガーは少しだけ困惑気味に少女を見下ろしてから言葉を探していた。
「それなら良いが……」
そんなくだらない話しをしているうちにマリーの特別保安諜報部の執務室へとたどり着いた。
――こちらへどうぞ。
マリーはそう言った。




