4 断頭台
プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセ。
国家保安本部の地下にある独房は陰鬱で、その壁にはまるで爪でかきむしったような痕や、血のこびりついた痕がある。
粗末なベッドに腰を下ろすマリア・ハイドリヒ――マリーは、目を伏せたままで者音海耳を澄ましているかのようだった。
靴音が響く音。
ひそめた声で話す音。
それらが空気の振動となって彼女の耳に響いてくる。
独房の扉が開いて、彼女の前に姿を現したゲシュタポの捜査官の姿にマリーはそっとほほえんだ。
「出ろ」
「……はい」
男たちの声が固い。
廊下の壁に寄りかかったままでそれらの様子を見つめているシェレンベルクは、おそらく、と男たちの内心を推察した。
彼らは戸惑っているのだ。
花の家の主人であるマリーが人殺しをしなければならなかったという事態に。
まともに考えれば、彼女がやったことは正当防衛だ。
若干過剰防衛気味ではあるものの、それでも自分の身の上を守ろうとしたのであって、これが一般のドイツ人、もしくは占領区の外国人やユダヤ人であったならば、マリーの行為は情状酌量の余地もあるとして暗黙の内に処理をされただろう。
しかし、こともあろうかマリーが殺したのは、親衛隊隊員であってしかも前途洋々たる若手の外交官、ヨアヒム・フォン・リッベントロップの部下であり、なによりも殺害場所がリッベントロップの屋敷だったことが最悪の結果をもたらす羽目になった。
目撃者がいなければどうとでもしてやれたのに。
それが一様にゲシュタポの捜査官たちの思いだった。公私混同にも程があると思われそうだが、ゲシュタポの捜査官などそんなものだ。自分たちが目をかけた者には得てして甘い。
だが、今回ばかりはそうもいかない。
殺害場所がリッベントロップの屋敷で、殺人の被害者が親衛隊員――たとえ荒くれ者であったとしても――の外交官ともなれば、いやでも話しは大きくなると言うものだ。
なにやら今回の一件に関係して、リッベントロップの指揮する外務省の情報機関であるINFⅢが動いているらしいという話しもシェレンベルクの耳にも届いてはいたが、実際問題として彼はこのINFⅢの存在をに対してはそれほど注意を払ってはいなかった。
要するに外交官たちを情報官として組織しようというだけのことで、彼らは訓練を受けた情報将校などではなくただの素人の集まりだ。
いくつかの情報部がドイツ第三帝国内にはひしめきあっているが、そのうちのいくつかは熟練した諜報員たちによってすでにかぎつけられている。
今のところシェレンベルクが、注意を傾けているのは国家保安本部以外では主に二つの組織だった。
ひとつは言わずとしれた国防軍情報部。
そしてもうひとつは、現在東部戦線に展開される参謀本部東方外国軍課だ。
肩に掛けたストールを片手で直してマリーはゲシュタポに連れられて歩いているが、その横顔はおおよそ悪辣な手段の訊問を受ける前の人間のものとは思えない。
この訊問がはじめられる前の一時間ほどでざっとラルス・シュタインマイヤーの持ち込んだヨーゼフ・アーベントロートの精神分析記録に目を通したが、それが何の役に立つものなのか、未だにシェレンベルクにはわからなかった。
薄暗い訊問室の椅子に座らされたマリーは、ゲシュタポの捜査官が目の前に座るのを見つめてから小首を傾げた。
「……大したものだな」
努めて冷静に言葉を選んでいるらしいゲシュタポの捜査官に、マリーは目尻をさげた。
「ありがとう」
なにに対してどう「ありがとう」なのか。
シェレンベルクは部屋の片隅の壁に背中を預けながら腕を組んで少女と捜査官のやりとりを注意深く観察していた。
「一発で脳天をぶち抜くとは」
マリーの目の前にいる捜査官は三十代前半で、シェレンベルクと大して年齢は変わらない。ちなみにシェレンベルクの知るところでは、彼も花の家に出入りしていた人間のひとりだ。
意識していなければ、彼女に優しい言葉をかけそうになってしまうに違いない。
多くの人間たちは誤解しているが、国家保安本部に所属するナチス親衛隊の捜査官や情報官たちは一般的なドイツ人と同じで、良心の呵責に苛まされることもあれば、苦しみや恐ろしさで心の均衡を失うこともある。強靱な精神力で、あるいはぞっとするほど恐ろしい状況に、飼い慣らされそして心を凍らせて任務を遂行しているに過ぎないのだった。
だから、彼女を訊問する男はこわばった表情のままで、マリーを訊問する。
彼女の答えによっては、あるいは拷問という荒っぽい手段に及ばなければならないかも知れない。それでも、国家保安本部に所属する以上は、捜査官たちにとってはそれが任務なのだ。
「どこで射撃を覚えた?」
「……さぁ? 知らないわ」
まるで人を食っているような彼女の言葉に、男の顔があからさまにひきつった。
「真面目に答えた方が身のためだぞ」
硬くなる彼の言葉に、マリーはストールを引き寄せるようにしながら訊問室を見渡してから、扉の覗き窓をじっと凝視する。
おそらくその先にはヒムラーがいて、その訊問の様子を見ているに違いない。
「あら、わたしは大まじめよ」
言ってから視線を目の前の尋問官に戻してから、彼女は空気も読めていないような満面の笑顔になった。その笑顔は決して後ろ暗いものでもなければ、人をたばかろうとしているそれでもない。
優しく朗らかな少女そのものの笑顔だ。
その瞳の奥に恐怖心や、怯えが存在してはいないかと、尋問官もシェレンベルクも同様に観察しているが、それらしき感情は一切見られていなかった。
場違いなほどキラキラと輝いている少女の瞳だけがそこにある。
――良い笑顔。
そう表現できるほど明るい笑顔だ。
こんな場所でさえなければ。
「真面目に答えろ……っ!」
尋問官が大きな音をたてて硬いテーブルを拳で打った。しかし、マリーは動じない。ゲシュタポ・ミュラー、そして突撃隊幕僚長ヴィクトール・ルッツェから聞いた話では、武装親衛隊から間諜の嫌疑が掛けられたときは、怯えてすらいたというのに。
今の彼女は目の前の男の言葉どころか、その挙動にも怯えてなどいなかった。
「真面目に答えているわ。……どこで銃の扱いを覚えたかって言ったわね? そうね、あえて言うなら夢の中で”彼”が扱っていたから覚えてたのよ」
夢の中の彼。
誰がそんなことを言って信じるだろう。
与太話だと一蹴されてそれでおしまいだ。
少女の受け答えを聞きながら、シェレンベルクは表情一つ変えないままただ壁に背中を預けたままで、今、目の前で展開されている状況を推察、分析していた。
「彼、とは誰だ」
「……そうね」
男に問われて少女はわざとらしく首を傾げて見せる。
「いい加減にしろ」
低くうなるように放たれた男の声。
そしてそんな彼の前で首を傾げて頭上を見つめて考え込んでいる少女。
はたして、より「動揺して」いるのはどちらなのだろうか。
「……――そんなこと”言ってもいい”の?」
傾げていた首を戻してから、マリーは自宅で話しをしているときと大して変わらない笑顔で逆に問いかけるとじっと尋問官を凝視した。
それは勝ち誇った薄ら笑いでもなければ、相手を馬鹿にする嘲笑でもない。菓子や大好きなスターの話でもしているような屈託のない笑顔。
「ひとつだけ忠告しておいてあげるけど、わたしが今ここでわたしが知っている全ての事を話せば、第三帝国の高官の首なんていくつでも飛ばせるのよ?」
それこそなんでもないことを告げるように、彼女は茶飲み話の一貫でしかないようににっこりと笑うと言い放つ。
「……あなたも含め、ね?」
そうして数秒間を開けてから壁を背にして立っているシェレンベルクに顔を向けると、相変わらず変わらない表情のままで問いかける。
「中央記録所に、彼――ハンス・ハイムゼートの記録があったでしょう? 彼は汚職と不正経理で私腹を肥やしていたのよ。そのうちなにかに使ってやろうかと思っていたのだけど”彼”には時間がなかったから、その情報はそのままだったのね」
口元に片手をあててクスクスと笑ったマリーは、まるで射貫くような瞳でシェレンベルクを見つめてから、扉に取り付けられた覗き窓をもう一度見つめる。
「あぁ、確かに記録にはあった」
シェレンベルクが告げると、扉の向こうで動揺した人間の気配が伝わってくる。まがりなりにも親衛隊全国指導者であり、国家保安本部をも掌中にしているハインリヒ・ヒムラーが腹芸が苦手だというのも大概問題があるのではあるまいか。
そんなことを思いつつシェレンベルクは鼻から息を抜くとマリーに尋ねた。
「どうして知っていた?」
「……言ったでしょう? わたしが知っていることを話せば、多くの人間の首が飛ぶ。高官も含めて。もしも我が身が大事なら、そこの下っ端さんは退室させるのが賢明ではないかしら?」
言葉に刺の欠片もなければ剣もない。
恐怖も、怯えすらない。
彼女が知っていること。そして考えていることはなんだろう。
「我々を手玉に取ろうとしても無駄だ」
冷たいシェレンベルクの言葉に、マリーは溜め息をついた。
「……仕方ないわね、信じる気になれないなら、いいわ。教えてあげる。でも、そのせいで高官の首が飛んだとしても、知らないわよ?」
一拍おいた彼女は、言い放つ。
その声音は大きくもなければ、また小さくもない。
「”彼”が知っていることなら、わたしはなんでも知っているの。あとひとつ、東部にいるゲーレンは随分国家保安本部に対して面白くなさそうに感じているみたいだけど、彼の見解は正しいわ。ヒトラー総統に仕えるあの狸……、彼に充分用心なさい。シェレンベルク。”あの男”は、ドイツ第三帝国を滅ぼすでしょう」
言葉の揺れを全く感じさせない彼女の言葉に、唐突に訊問室の扉が開いてハインリヒ・ヒムラーが荒々しい足音を響かせながら室内へと入ってきた。
「シェレンベルク……っ!」
鼻息も荒い、という言葉がぴったりだ。
「ハイムゼートが汚職と不正経理で私腹を肥やしていたというのは本当か!」
「どうやら本当のようです、長官閣下」
ヒトラー万歳と形式的な敬礼をしたシェレンベルクが、ヒムラーに応じてから薄いファイルを差しだすと、親衛隊長官はひったくるようにそのファイルを取りあげた。
中を開いて目を通す。
まるで「ぐぬぬ」といううめき声でも聞こえてきそうなヒムラーの様子にシェレンベルクはかすかに片目を細めた。
その資料はゴシップの類などではない。
正式に国家保安本部の中央記録所に保管されていたもので、ラインハルト・ハイドリヒが収集した数多い機密情報のひとつだった。
おそらくヒムラーも、中央記録所にどんな情報が眠っているのか知らないだろう。シェレンベルクですらもその全容は把握していないのである。
「これは疑いない情報かね?」
「疑いありません」
そのファイルにまとめられた情報が本当であれば、マリーがハンス・ハイムゼートを殺害したのは略式処刑に則ったという形で充分に言い訳が聞く。もちろん、マリーがハイムゼートを殺害したのは強姦の危険性が目の前に迫ったためであろうが。
その事実はヒムラーを驚愕させたが、シェレンベルクが気にかかることがひとつできた。それは先ほど、彼女が告げた言葉の内容だった。
マリーは「あの男はドイツ第三帝国を滅ぼすだろう」と告げた。彼女の言う「あの男」とは誰なのか。
「信じても信じなくてもどちらでもいいけれど、わたしはヒムラー長官閣下。あなたも含めてわたしはいつでもあなたたちの首なんて飛ばせるのよ……? わたしを辱めれば、損をするのはあなた方ではなくて?」
自分の身がかわいければ、賢く振る舞うべきだ。
暗にそう告げる彼女にヒムラーの顔が赤から一気に白くなったようにも見える。
マリーは彼のなにを握っているのか。
「……なにが望みだ」
「そうね、”別に”。望むものなんてないけれど、わたしはシェレンベルクとカナリスの確定的な後見がほしいだけ。あとはお給料」
わたしはね。
歌うように彼女が告げる。
「わたしはね、あなたたちと同じように自由気ままに動きたいだけ。その権限がほしいのよ?」
そこまで言った彼女に、ヒムラーががっくりとうなだれた。
「わかった、なんとかしよう」
彼女――マリーは、シェレンベルクの知らないヒムラーのなにかを握っている。少女の言動から、国外諜報局の局長を務める青年はそう確信した。




