2 歌声
人民法廷長官拘束の一報は、政府首脳部を駆け巡った。
その報告に当然怒り狂ったのはアドルフ・ヒトラーで、彼の怒りの矢面に立ったのは空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング、国家保安本部長官エルンスト・カルテンブルンナー、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラー、国防軍総司令部総長ヴィルヘルム・カイテルである。
ヒトラーにとって邪魔になるだろう者を排除するための組織の長官を警察権力によって拘束したわけだから、国家元首たるヒトラーの怒りは至極もっともだ。
そして、そうした警察組織による一方的な決定が自分の頭の上を通り越して、実行されたことに対して怒り狂ったのは官房長のマルティン・ボルマンである。
一方、国家保安本部とヒムラーの権力の失墜を狙う外務大臣のヨアヒム・フォン・リッベントロップは文字通り血相を変えた。
つまるところ、この人民法廷長官拘束の報はヒムラー、ゲーリングというふたりの政府首脳部の権力者が、ヒトラーに対して真っ向から意見を申しつける形になったのである。
もっとも、ヒトラーの怒りの矢面に立つということはヘルマン・ゲーリングにとっても危険極まりない行動であるのだが、今のゲーリングにとってヒトラーの怒りなどよりも、もっと深刻な脅威が存在していたと言ったほうがいいのかもしれない。
簡単に言えば、命の危機、だ。
怠惰と享楽と、その先の絶望とどん底のただ中にあったゲーリングの意識の縁に現れたひとりの少女。
その金髪の少女はマリーと呼ばれていた。
彼女は人並みの同年齢の少年少女たちとは一線を画していたこと。
まるで磨き込まれたアワビの貝殻か、それとももしくはガラスのように、触れあえば美しい音をたて、心地よく反響し共鳴する。
しかし真の意味で、彼女の魂の根幹にあたるところに触れてしまえば、決して無傷ではいられない。
ひどく危険な存在。
ヘルマン・ゲーリングは一目で彼女のそんな資質を看破した。
正と負は、同量の質量を持つもの同士の衝突ならば、残るものはゼロになる。
限りないプラス。
限りないマイナス。
彼女の存在はひどく曖昧で、衝突を起こす相手に応じてその姿を変える。相手がマイナスであれば彼女はプラスに。そして相手がプラスであれば限りないマイナスに。
時には同じ性質同士で衝突し圧倒的に凌駕して、相手を叩きつぶす。
そして彼女は相手の強さによって、変幻自在に姿を変えた。
マリーは「叩きつぶす者」あるいは「圧倒する者」。
たかだか半世紀程度を生きたゲーリングなどではまともに相対することすら難しい。
純粋で、まっすぐな魂。
――自分などには、太刀打ちすることなどできるものか。
初めて彼女と相対したあの日、マリーの存在はあっけなくそれまでのヘルマン・ゲーリングとして積み上げ、築いてきた者を打ち壊した。
「カルテンブルンナー! わたしはフライスラーの拘束についてなにも報告を聞いていないぞ!」
ヒステリックな形相でわめき散らすヒトラーに、カルテンブルンナーは内心で動揺しつつもちらりと急激に痩せた国家元帥を見やってから口を開きかける。
それを制したのはヒムラーだった。
小心者で、いつもヒトラーの影に怯えている男。
カルテンブルンナーの事など、体の良い傀儡になると計算していたのかもしれない。そして、都合が悪くなれば、全てをカルテンブルンナーに押しつけて逃げ出すのではないかとも。
なにを言い出すのかと身構えたカルテンブルンナーを意に介することもなく、ヒムラーは相変わらず気の弱そうな声でぼそぼそと言葉を吐きだした。
「それにつきましては、わたしからご報告があります。閣下」
「なんだね!」
ぎろりと睨み付けるようなヒトラーに、ヒムラーは一瞬怯んだような眼差しを浮かべるが、それでもなんとかその場に踏みとどまって、迷いを見せつつも切り出した。
そんな彼らをボルマンが見守っている。
それはそう。
ゲーリングも、ヒムラーも権力を失ってしまえば良い。
そうボルマンは思っていた。
「フライスラー判事の裁判は、我が国の根幹を支える知識階層に対する大きな打撃を与える結果になると思われます。今のところは、まだ我が大ドイツは国力を維持できております。しかし、未来に渡って千年王国という理想を成し遂げるのであれば、国家元首として度量の大きさを示し、思想の如何に捕らわれず若者たちを育てていくことが必要なのではありますまいか」
緊張して震えているヒムラーの声に、ゲーリングが咳払いをした。
彼は世界で最も恐ろしいものを目の当たりにした。それは、彼が力を込めて押しつぶせば、簡単に命の火が消えてしまいそうな非力な少女だったが、それでもその「存在」を、彼はなによりも恐ろしいものだと思った。
例えるならば、それは長い年月を生きた老練な僧侶のような。
しかし真逆の存在。
慈愛の使途ではなく、最も残酷な。
「閣下、時代は変わるのです」
静かにゲーリングが低い声を吐き出すと、ヒトラーは機嫌を損ねたような瞳のままで彼を見る。
――薬物に溺れ、享楽に溺れた役立たず。
先のイギリス戦でも、そしてソビエト連邦相手の戦いも無残なものだった。
彼の指導力などすでにあてにしていない。
「わたしは、閣下への約束を反故にし、そして部下たちを死地に追いやり、それらの事実については弁解の余地もありません。ですが、だからこそどうかかつて共に戦った同士として、わたしに”最後の”名誉回復の機会をお与えください」
全てを吐き出すように、頭の回転が速く、ヒトラーに対して誠実な男はそう告げた。
――我が友。
――我が戦友、アドルフ・ヒトラー。
ヘルマン・ゲーリングが心の底から訴える。
「閣下、わたしはヒムラーや、国家保安本部長官と協議を行った結果、かつてのゲシュタポ長官としてローラント・フライスラーの拘束は妥当な処置であると結論づけました。友として、どうかわたしの判断を信じてくださるわけにはいきますまいか」
真摯なゲーリングの声に、ヒトラーの熱気が下がる。
「……ゲーリング」
「はっ」
「わたしに虚言は”二度と”通用しないぞ」
「承知しております」
不機嫌な空気を未だにまとったままで、ヒトラーはそれから執務室の窓際に立ち尽くしたままで長い時間考え込んでいた。
顎に片手をあてて、左手を神経質に揺らしながら。
どれほど長い時間だったのか、彼はやがて目を上げてからじろりと様子を窺っている男たちに視線を走らせた。
「後ほど、貴官らの”処分”は追って通達する」
ヒトラーの声が響いた。
*
国家保安本部で行われた会議にはカルテンブルンナーも出席する予定だったのだが、急遽、総統官邸から呼び出しを受けて議事の進行は人事局長のブルーノ・シュトレッケンバッハが行うこととなった。
「第四局――ゲシュタポによって人民法廷長官のローラント・フライスラー判事が拘束された」
フライスラーの拘束に出動したのはほかでもない、ハインリヒ・ミュラー親衛隊中将本人と、敵性分子排除部長フリードリヒ・パンツィンガー親衛隊中佐、宗派部長アルベルト・ハルトル親衛隊中佐である。
「おおかたフライスラー判事を拘束した件で国家保安本部の長官が呼び出されたのだろう」
会議室に集まった高官たちに、シュトレッケンバッハはかいつまんで説明すると国内諜報局長のオットー・オーレンドルフが顎を片手で撫でながら、慎重な眼差しを放つ。
「確かに。フライスラー判事は白とは言えないが、党高官のお気に入りだ。特に、総統閣下にとっては都合の良いことこの上ない道化だが、問題は閣下がフライスラー判事の拘束を許可するかではないか」
白とは言えない。
オーレンドルフの言葉に、当事者のハインリヒ・ミュラーが会議用のテーブルに視線を彷徨わせてから発言した。
「総統の意志に背く形で警察権力を発動することになったのは弁解するところもないが、これについては国家元帥閣下が全面的に協力してくださるということで話しはついている」
どちらにしたところでヒムラーの権力などあてにするわけもないのだが。
「……なるほど」
「ところで、命令が親衛隊長官閣下から直接下されたということは、特別保安諜報部のアクションがあったと考えてもよろしいのですか?」
黙ってやりとりを聞いていた国外諜報局長のヴァルター・シェレンベルクが問いかけると、ミュラーは数秒返答に困った顔をしてから息を吐き出した。
「そうだな、正確には親衛隊長官閣下が特別保安諜報部に命令が下され、そこから我々……、ゲシュタポへの依頼があったということになる」
「つまりそれは親衛隊長官閣下から見てもフライスラー判事が常軌を逸していると判断されたというわけですな?」
シェレンベルクの追及にミュラーは肩をすくめてからタバコに火をつけると小首を傾げた。
シェレンベルクの管轄下にある特別保安諜報部は、親衛隊長官ハインリヒ・ヒムラーの私設警察部隊である。
そうした噂がまかり通っているし、多くの親衛隊高官たちもそう認識している。
なによりもゲシュタポ・ミュラーに対してマリーから、フライスラーの拘束の依頼を受けたことは事実だから今さら隠すようなこともない。マリーもヒムラーからの命令がなければそんなことをミュラーに依頼するわけがなかった。
「要するにそういうことなのだろう」
「わかりました」
あっさりと追及の手を緩めたシェレンベルクは、目の前のコーヒーカップに指先で触れながら「まぁ、そういうことにしておきましょう」と曖昧な受け答えをするにとどまった。
穏やかな笑みの下でなにを考えているのかわからない青年。
「しかし、そうなるとあの総統閣下のことだからかなりお冠なのではなかろうか?」
ネーベの危惧するような問いかけに、ミュラーはちらと同僚の警察官僚を眺めてから煙を吐き出して鼻を鳴らす。
「だろうな。しかし、どちらにしたところで”賽は投げられた”。今さらじたばたしたところではじまらん」
最悪の場合、国家保安本部の官僚の全員の首が飛ぶ事態にもならないとも限らない。
「親衛隊長官閣下がどこまで我々を擁護してくださるか、それが最大の問題になるのだろうな」
すでに、事件は彼らの手を離れている。
彼ら――国家保安本部の高官たちが手にしたカードは非常に危険な諸刃の剣。
自分たちの身すら危険に晒しかねないもの。
「一応、総統閣下の決定に関することもある。フライスラー判事の身柄は現在丁重に扱っている」
今のところは。
国家保安本部の幹部たちにとって何の実りもない会議が終わって、シェレンベルクが無言のままで廊下を歩いていると前方からヨストと一緒に歩いてくるマリーが見えて足を止めた。
「……あ、シェレンベルクー!」
ハローと、気安い声を掛けられてシェレンベルクはかすかに眉をひそめた。
ぱたぱたと走ってくる彼女の腕が、青年の片腕に巻き付いた。
「どうしたの? 怒ってるの?」
「どうしてわたしが怒ってると思うんだ?」
内心を見透かされたような気がして憮然としたシェレンベルクは、優しい所作で少女の腰をごく自然に抱いてやってから彼が問いかけるとマリーは青い瞳を上げてから「だって」と唇を尖らせた。
「……とても怖い顔してるわ」
「マリー」
シェレンベルクが珍しく疲れた様子で大きな溜め息をついた。
「君はもう少しわたしに相談するべきだ」
「そうね、そうするわ。ごめんなさい」
ふたつ返事で自分の隣を歩く青年ににこりと笑った少女はそうしてから、ヨストの視線に気がついた様子でもう片方の腕を伸ばした。
「それでね、シェレンベルク……」
言葉を紡ぐ。
シェレンベルクの苦言にも臆する様子もないマリーはハインツ・ヨストから手渡されたファイルを無造作に開く。
――それでね、シェレンベルク……。
心地よく打ち合わされるガラスのように、彼女の声がヴァルター・シェレンベルクの耳に静かに響いた。
激務に疲れ切った彼の心を癒すような優しく穏やかな声音はシェレンベルクの神経に、まるで薬物のように作用する。
魔法のような彼女の声は、シェレンベルクをしてさえ「耳を傾けていたい」と思ってしまう。
まるでセイレーンの歌声のようだ。
もっとも、セイレーンと言うには少々色気が足りない。
「疲れたら休めばいいのよ」
マリーから手渡されたファイルを片手に、執務室へと戻ったシェレンベルクは深くソファに腰掛けたまま、子守歌のようにも響いた少女の声の余韻の元に目を閉じる。
すぐに眠りへといざなわれて、青年はラインハルト・ハイドリヒに出逢って以来、初めて心の底から穏やかな眠りへと墜落した。




