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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XVI 大海嘯
198/410

1 振り下ろされる鉄槌

 ベルリン市内にあるレストランでの「会合」の内容についての報告書にちらりと視線を走らせてから、ヴェルナー・ベストは特に申請されていない経費について小首を傾げた。

 大概、ナチス親衛隊高級指導者を含めたレストランなどでの会合での食事代は経費でまかなわれる。しかし、その経費について同席したカール・ゲープハルト親衛隊中将は、報告書を書いただけで、特に申請していない。

 よりによってゲープハルトが経費申請を忘れたのではないだろう。

「閣下は経費の申請は意図的にされておりません」

 ベストの問い合わせの内線電話での質問に、ゲープハルトの副官はそう応じた。

「ふむ……」

 そんないきさつから、ベストが真相を究明――というほど深刻な問題でもないが――のために直接問いかけると、一方のゲープハルトはと言うと「たかがケーキとお茶代くらいなら自分で出せる」と返された。

「いつもあれくらい豪快に食事をしてくれればこちらもし……、余分な気遣いをしなくていいのだがな」

 なにか言いかけてゴホンと咳払いをして言葉を改めたゲープハルトによれば、マリーは午後四時にケーキを四個食べたらしい。おかげで、当日の夕食と翌日の朝食はさっぱり食べられなかったということだった。

 もっとも、このゲープハルトの発言にはベストもさすがに「ケーキを四個も食べれば、食事などできないだろう」と思った次第だった。

 そんなマリーの行動はともかく、とヴェルナー・ベストは溜め息をついて報告書を机の鍵のついた引き出しにほうりこむと、両腕を胸の前で組んだ。

 自分は相当危ない橋を渡っているのだということは自覚している。

 ラインハルト・ハイドリヒの傍らでそうした危機感は鍛え上げられた。

 常に冷静に、そして自分の身の回りのことについて気をつけていなければ破滅するのだということをまざまざと思い知らされたと言うのに。今の自分は、自分の意志で危険な橋を渡ろうとしていること。

 考えてみれば、マリーの率いる特別保安諜報部はハインリヒ・ヒムラーの「庇護」のもとに、かなり危ない駆け引きをしている。彼女が国家保安本部の中央記録所から引っ張り出してきたファイルは、言ってみればそうしたものだ。

 彼女の存在は、敵も味方もその首を飛ばすだけの力を持っている。

 けれども彼女自身に確かな権力があるのかと言えば決してそうではない。

 マリー――マリア・ハイドリヒという異質な少女の存在を支えているのは、ヴェルナー・ベスト本人であり、ハインツ・ヨストであり、ヴァルター・シェレンベルクである。そして、カルテンブルンナー、ヒムラー。その他多くの高官たちの存在によって支えられていること。

 ただの子供だと思っていた。

 けれども、彼女は子供であるからこそ、大人たちが作り上げた垣根を容易に跳び越えていくだけの力を持っている。傍目には、小さな華奢な子供で、大の大人が力をいれれば簡単にひねり殺せそうな少女だというのに。

 彼女の青い瞳を見ていると、なにも言う言葉が出てこない。

 マリーがはじめた捜査のきな臭さは、他の誰でもなくベストが一番良く知っている。

 マルティン・ボルマン、ローラント・フライスラー、テオドール・モレル、ヘルマン・ゲーリング、ヨアヒム・フォン・リッベントロップ。

 錚々(そうそう)たる面々だ。

 そして同時に彼らには後ろ暗いものも存在している。

 彼女はどうしてそんなことを知っているのだろう。

 カルテンブルンナーやシェレンベルクに質問という形で投げかけてみても、明確な答えは返ってこず、ただ「ヒムラーの命令」であるという返答だけだ。

 どれもこれもやりっ放しといった感を受ける彼らに対する捜査だが、最近になってふっかけられる形になった国家保安本部への攻撃が、元裁判官でもあり法学博士でもあるヴェルナー・ベストの神経に障った。

 ――国家保安本部では不穏分子を子飼いにしている!

 人民法廷長官が突き上げたのは、国家保安本部国外諜報局に務めるふたりの秘書の身元についてである。そしてその秘書たちこそ、特別保安諜報部のヴェルナー・ベストらの下で働くショル兄妹でもあった。

 国家保安本部ならず、ナチス親衛隊――あるいはハインリヒ・ヒムラーの権威失墜を狙ったゲッベルスとリッベントロップによってその事実は悪意を持った噂へと歪められて拡散された。

「なにを今さらそんなことを言っているのだ」

 そうヴェルナー・ベストが一蹴した。

 国家保安本部ではたとえ敵性分子や、異民族であれ、ドイツに対して有益な情報を持つ者や、働きをする者に対して寛容な態度をとることを一種の慣習としている。そうでなければ諜報活動など行えないし、秘密警察の活動も同じだ。

 国家保安本部という組織は、密告社会に対して深く根ざして活動している。

「くだらん、とは思うが、それを利用しようとする者はいるだろう」

 返ってきたハインツ・ヨストの言葉に、ベストは不愉快そうな顔のままでフンと鼻を鳴らした。

 諜報活動に携わったことのない者はえてしてそうだ。

 なんでもかんでも正しいと思われる方向性だけに動かせばよいとくだらない妄想を抱いている。

 現実とは常に表裏一体で、光と影、裏と表とを決して切り離すことなどできはしない。

「連中にとって都合の良い風聞であったことは間違いないだろうな」

 そんなヨストの言葉にベストが無言で相づちをうった。

 正直なところ、ベストにもヨストにもマリーがなにを考えているのかわからない。

 ゲシュタポからすでに目をつけられていたショル家。彼らを国家保安本部に招き入れることがどれほどの危険を伴うことであるのか、ベストはわかっていたはずだった。そして当然のように、「敵」は彼らを利用してきた。

 全て予測できたことである。

 では、マリーがどこまで計算していたのかとなると、それはさっぱりわからない。

 計算しているのかと思えば計算しているような様子もなく、その逆もまた然りで行動が読み切れないとでも言えばいいのだろうか。

「ところで、問題はフライスラーだが、奴の暴走をどう処理するつもりだ? ベスト中将」

 問いかけられてベストは、視線を執務机の上に置いたままの万年筆に据えたままで薄い唇をかすかに動かした。

 問題はそこなのだ。

 ローラント・フライスラー。

 人民法廷長官。その権力は強大なもので、国家保安本部の一部署の補佐官であるベスト程度にはどうこうできるものではない。

 そもそも人民法廷という法廷の場が異質だと言ってもいいだろう。

 人民法廷の権力を叩きつぶすために必要なこと。

 それをヴェルナー・ベストは執務机についたままで考え込んで、両腕を組み直す。

 ローラント・フライスラーの権力とはすなわち、アドルフ・ヒトラーによって裏付けられた権力である。

 ドイツ第三帝国。その国家元首として、ヒトラーという男のカリスマは必要不可欠だ。しかし、ヒトラーがフライスラーに与えた権力の強硬な施行は、いずれヒトラーにとって決定的な汚点となりうることは目に見えている。

 マリーの行動は予測できなくても、ベストにはヒトラーの権力とフライスラーの権力の関係性と構造の果てにあるものは容易に推察できた。

 人の口に戸を立てることなどできはしない。

 異民族の排斥などであればいくらでも大義名分をつけることは可能だ。しかし、同国民であればそうはいかない。

 綻びかけた縫い目が一気に裂けていくように、事の子細が露見すればアドルフ・ヒトラーというカリスマは、民衆の求心力を一気に冷めさせてしまうだろう。

 そんな危機感がある。

 今はまだ。

 ヒトラーの代行者の出現はない。

 それゆえにヒトラーは必要な存在だとヴェルナー・ベストは考える。

 まだフライスラーの犠牲者は少ない。そして彼を止めるのは今しかないことも、ベストは理解していた。

 問題は山ほどあった。

 仮にフライスラーを排除することに成功したとして、その後釜の問題。

 そして人民法廷の権力。

 それらをどうこうする力などベストにはないし、カルテンブルンナーにもない。ヒムラーでも無理だろう。

 うんざりと考え込んでいると、扉が開いて「おはようございます」と礼儀正しい少女の声に現実へと引き戻された。

「あぁ、おはよう。マリー」

「朝から難しそうな顔してますね、ベスト博士」

「生まれつきだから気にすることはないが……」

 言いながら立ち上がると、少女の手から犬のリードを取りあげて首輪から外してやると、おとなしく赤毛のシェパードはおとなしく扉の傍にしかれている敷物に伏せをした。

「おとといはケーキをなかなか良いたべっぷりだったらしいな」

「はい、おいしかったです」

 にっこりと笑顔でポイントを外した返答をするマリーに、机の椅子を勧めてから息をついた。

「それで、投げっぱなしの諸問題はどう処理するつもりなのだね? あくまでも、我々は補佐官で君が問題の始末をつけねばならんわけだが」

 途端に説教臭くなるベストの言葉を受けながら、マリーはいつものように明るく朗らかな笑顔のままで小首を傾げた。

「昨日、フライスラー判事の身柄の拘束はミュラー中将にお願いしました。後押しは前秘密警察長官のゲーリング元帥がしてくださいます」

「……ゲーリング国家元帥が動いたのか?」

「はい、そうですけど?」

 それがなにか?

 そう言いたげなマリーの言葉を聞きながら、ベストが眉をひそめると横からヨストが口を挟む。

「だが、そんな話しを我々は聞いていない」

「今日の会議で話す予定なんじゃないですか? カルテンブルンナー博士が」

 悪意の欠片もない表情でマリーが告げると、ベストが重々しく口を開いた。

「フライスラー判事を拘束する理由がわからん」

 アドルフ・ヒトラーの代理人。

 反逆者たちへの罰則を与える者。

 そんな人民法廷長官の拘束をヒトラーが認めるとは思えない。

「国家元帥とカイテル元帥がフライスラーの法の執行について異議を唱えてくれたので、ミュラー中将が逮捕に踏み切ったというだけのことです」

 国家元帥――ヘルマン・ゲーリング。

 その一節をやけに強調した物言いで、静かに笑みをたたえているマリーはそれ以上なにも言わずに机の端に乗っている書類に指を伸ばした。



  *

「別に、国家元帥がどう動いてもわたしは全く困りませんけど、もしもこのまま戦後を迎えたとして、進退窮まるのは国家元帥なんじゃないですか?」

 あれは一週間だったか、十日ほど前だったかと考える。

 各航空艦隊の動向について報告を受けながら執務室へ入ったゲーリングは、室内から響いた少女の無頓着な声に仰天した。

 国家保安本部の――と言うよりもマリーからの――要請を聞いていない振りをして仕事に没頭していた彼はすっかりやせこけた。

 再三再四のアドルフ・ガランドからの戦略爆撃の必要性に関するレポートと、説得は一考する価値がある。そもそも、重爆撃機の急降下性能の要求を諦めたからといって、爆撃機の可能性を捨てたわけでもない。

 爆撃機にはまだ可能性がある。

 ゲーリングはそう考えていたのだが、彼の現実への逃避は見るも無惨に、目の前に現れた少女の存在で打ち砕かれた。

 彼の豪勢な執務机にちんまりと座っている華奢な少女。

 体重は自分の半分もないだろう。

 彼女の存在に気がついて、慌てて従者のように引き連れた将校たちを追い払ってゲーリングはマリーに向き直った。

「来るなら来ると、先に連絡してくれれば菓子のひとつも準備しておいたというのに……」

 なんとか内心を取り繕ったゲーリングにマリーは「ありがとうございます」と丁寧に応じてから、彼の机についたままでニコニコと青い瞳を向けてくる。

 執務室にいるのはマリーとゲーリングだけだ。

 しかし、彼女の笑顔とは裏腹に、室内の空気は真冬のそれのように凍り付く。

「国家元帥は、わたしのお願いをきいてくれないんですか?」

「……お願いというのは」

 声が掠れた。

「わたしのおもちゃに手を出そうとしてる人がいるんです。まぁ、おもちゃのことはどうでもいいんですけど、彼の存在はそのうち、国家を揺るがすことになります。彼の決断が、未来のドイツを汚し、そして総統閣下の威信を揺るがすことになります。社会の統制には、”多少”の毒と、恐怖は必要だとは思いますけど、やり過ぎればどんなことになるのか。聡明な国家元帥ならわかるはずです」

「つまり、”あの男”は未来に及ぶ、総統の栄華への反逆者だと言いたいのかね?」

「……単刀直入に言わなきゃわからないですか?」

 マリーが大きな瞳を見開いてそう言った。

「いや、いいんだ……。その……」

 マリーの目から、自分の目をそらして大きな溜め息をついた彼に、少女が口火を切った。

「ローラント・フライスラー判事は、ドイツの敵を始末して良い気になっています。でも、本当に彼らは敵なんでしょうか? ある程度の発言の自由を、一定の層には保障していなければ、国家はただのイエスマンの塊になってしまう。それが、理想のドイツの姿ですか? 国家元帥」

 彼はただ、ヒトラーに「(ナイン)」を突きつける人間を殺戮している国家権力という皮を被った犯罪者にしかすぎない。

 彼女はそう言ってのける。

 つまり、マリーがなにを言いたいのか。

 ヘルマン・ゲーリングにはすぐに理解できた。

 もしも、ゲーリングらの高官たちがそうしたヒトラーの発言に否という態度を取ったときに、次に罰され――最悪殺されるのはフライスラーを放任した彼ら自身なのである、と。

 だから、ゲーリングは彼女の言葉に決断した。

 もちろん「恐れ」の感情もあったのかも知れない。

 まさしく得体の知れない(けだもの)のような彼女の瞳を、ゲーリングは恐れていた。

「わたしになにをしろと言うんだね」

「お力添えを……」

 掠れたゲーリングの声に、マリーはいつものように、食事の話しをするときとなんら変わりのない声色でそう告げた。

 ――お力添えを。

 そしてヘルマン・ゲーリングは、マリーの青い瞳に飲み込まれた。

 些末な人間という力を、巨大な津波の力の渦中へ。


 ――次はおまえだ……!

 誰の声ともわからぬ声が、ヘルマン・ゲーリングを稲妻のように貫いた。



  *

 ちなみにゲーリングの一連の異常とも言える体重の減少については、彼の侍医が心配して精密検査を行ったと言うことだが、結局ただ肥満だった肉が落ちただけの「健康的な減量」というところに落ち着いた。

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