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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XV 方舟
197/410

15 破壊の末端

 一九四二年六月。

 ドイツ第三帝国、その首都ベルリン市内で恐怖政治の代名詞とも呼ばれたラインハルト・ハイドリヒの葬儀が行われた。

 彼が殺されたのは、ベーメン・メーレン保護領――プラハ。

 イギリスに亡命したチェコスロバキア亡命政府によって、暗殺者が落下傘降下によって送り込まれ、ハイドリヒは暗殺され、そのための報復活動もドイツの手によって行われた。

 ラインハルト・ハイドリヒの死はドイツに大きな動揺をもたらした。

 いや、ドイツだけではない。

 ドイツだけではなく、全ヨーロッパが動揺した。

 彼の後を継いでベーメン・メーレン保護領副総督に任命されたのは、クルト・ダリューゲ親衛隊上級大将。そして、国家保安本部の長官にはエルンスト・カルテンブルンナー大将が指名された。

 ラインハルト・ハイドリヒの死は、ベーメン・メーレン保護領の市民たちを動揺させ、さらに多くの者を死に追いやり、ふたつの村が消えた。

 この村のひとつを地図から抹消したことについて、ヨーゼフ・ゲッベルスは大々的な宣伝を行ったが彼の意図が読めない。

 イギリスにしろ、フランスにしろ、イタリアにしろ。

 結局のところヨーロッパ大陸に西部にある国々にとって、東欧諸国に深く根を下ろしたユダヤ人問題など他人事(ひとごと)以外のなにものでもないのだろう。

 かつて、ヨーロッパの隅々にまで生活していたユダヤ人たちは、各国の迫害によって東へ東へと追いやられた。そして、東へと追いやられた人々は、今度はソビエト連邦が成立する前の十九世紀のロシア帝国で「破壊(ポグロム)」によって、命を脅かされることになる。

 彼らはそうして西にも行けず、東にも行けずにヨーロッパ大陸のほぼ中央。東欧諸国に根を下ろし生きていく事しかできなかった。

 一部の裕福な者は、西へ移動し、西へ移動することもままならない貧しい者は東へ残った。一般にはそう言われ、西のユダヤ人は裕福で、東のユダヤ人は貧民だとされる。そして西のユダヤ人は東のユダヤ人を蔑みの目で見たこと。

 こうしたユダヤ人コミュニュティの中で、多くの亀裂と歪みが生じた。

 ヨーロッパ西部の人間にとって、ユダヤ人問題はそれほど大きな問題ではなかろうが、ユダヤ人人口の多い東欧、中欧諸国にとって国内の不満をそらすための恰好の攻撃対象にすることができた。

 ナチス政権は、その思想をより過激なものに置き換えただけのものに過ぎない。

 強力な保守政党。

 ただそれだけのことだ。

 まるで巨大なうねりに取り込まれるように、批難と侮蔑と攻撃は、ドイツを中心とする東欧諸国に恐ろしい勢いで伝搬していく。

 ――自分たちが言葉にすることをはばかられていたことを彼らは勇気をもって口にしたのだ!

 それがドイツにとって都合の良いプロパガンダであったかどうかはともかくとして、閉塞感に包まれた北の大地を舐め尽くすには充分の勢いを持った炎であったこと。

「我々、ルーマニアはドイツを支持する」

 強い瞳を隠すこともなく、イオン・アントネスクは腕を組みながらミハイ・アントネスクにそう告げた。

「……西の連中は、気楽で良いものです」

 チェコスロバキア――ベーメン・メーレン保護領のラインハルト・ハイドリヒ暗殺に関係する多くの事件は同盟国であるルーマニア王国にとっても決して他人事と言える話しではない。

 こと、ドイツのアドルフ・ヒトラーは気分が変わりやすい。

 快進撃を続けているうちはまだいいが、と、ルーマニア王国首相は腕組みをしたままで考える。

「ミハイ、おまえはドイツの国内問題をどう思う?」

「……彼らが、泥を被ってくれることは我々にとってはありがたいことです」

 なにが、とは言わずにミハイ・アントネスクはイオン・アントネスクにそう言葉を返しながら肩をすくめた。

「ゲシュタポの、アイヒマン機関。あの存在は我々にとって貴重です」

「あの道化か」

 ドイツ全土にあってユダヤ人問題の専門家とも呼ばれる、ドイツ政府の官僚。国家保安本部に所属するゲシュタポ・ミュラーの部下で、占領地域全土のユダヤ人問題を統括するという道化師。

 もちろん、そんな二流の官僚などとイオン・アントネスクもミハイ・アントネスクも顔を合わせたことはない。

「西の連中はなにもわかっていない」

 東欧諸国の反ユダヤ主義が過激さが熱を帯びる理由も彼らは理解しようとしない。

 ただ口先だけで人道だの、人権だのと騒いでいる。彼らにとって、騒ぐ話題さえあれば良いのではないかとも外務大臣を務めるミハイ・アントネスクは思った。

「ミハイ、面倒事を頼むことになるが、ドイツに飛んで連中の動きを見定めてきてくれれば助かるのだが」

「……構いませんが、建前は?」

「ユダヤ人問題に関する協議とでも言っておけば、奴らは乗ってくるだろう」

 冷たいイオン・アントネスクの言葉に、ミハイ・アントネスクは肩をすくめた。

「どうも最近のドイツの政策が安定しないのが気にかかる」

 鋭い眼差しのままで感が込んだイオンに、ミハイは首を傾げたまま窓の外を見た。

 たしかにこの多忙な時期に、首相である兄のイオン・アントネスクが動くわけにもいかない。そして外交的な仕事は外務大臣の仕事だ。

 別にミハイ・アントネスクの仕事にしゃしゃり出るつもりがあるかどうかはともかくとして、ドイツ国内の状況が気にかかるというのはイオンの本音なのだろう。

「承知しました」

「国王が頼りないからな」

 若く精力的であることは悪いことではない。

 しかし、若い故に彼は国内の老練な政治家たちにひとりで太刀打ちなどできないだろう。だから彼らは国を正しい方向へと導くために奮闘する。

 それきり沈黙してしまったイオン・アントネスクに、ミハイは立ち上がると軽く会釈してから首相の執務室を出て行った。

 イオン・アントネスクとミハイ・アントネスク。彼らが擁立する国王はまだ若い。若い国王を自分の意のままに操ろうとする政治家や官僚も多いが、今のルーマニアは地理的にもドイツを無視することなどできはしない。

 もちろん商売の相手としても、である。

 ドイツは彼ら内陸のルーマニアに富を運んでくる。

「イギリスも、アメリカも、奇麗事ばかり並べている」

 苦々しげにつぶやいた彼はぎりりと眉間を寄せてから小さく舌打ちした。

 イギリスやアメリカは、自分たちが海を隔てて他人事でいられることを良いことに、偽善者面のままで自分たちの価値観を押しつけてくるのだ。

 そもそも、アメリカ合衆国などは、自国内の人種差別問題もあると言うではないか。だというのにドイツを含めた中欧、東欧の抱える民族問題に口を出してくるなど、勘違いも甚だしい。

 小国は小国なりに生き抜く道を探さなければいけないのである。

 コウモリ外交では小国は生きていけない。

 そうしなければルーマニアはユーゴスラビアの二の舞になるだろう。

 ――彼らに蹂躙させてはならない。

「アントネスクは、ルーマニアの大地を守るために戦っているのです」

 ひとり取り残された執務室で、イオン・アントネスクは呟いた。



  *

「おやつにおいしいケーキが食べたいんです」

 何を言い出すかと思ったら、プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセのカール・ゲープハルトの執務室を訪れたマリーがそう言った。

「……――」

 おやつ、という言葉に数秒思考に沈んだゲープハルトだが、結局マリーに押し切られる形になって、高級レストランを訪れたのは日差しがオレンジ色になってからだった。

「別に目的はおやつだけじゃないんだろう」

 目の前のケーキと紅茶に目が釘付けになっているマリーを見やりながら、ゲープハルト本人はコーヒーのカップに唇をつけながら問いかける。

「モレル医師のこと、どう思います?」

「……どう、と言われてもな」

 自分もケーキにフォークを差し込みながら応じると、マリーはにっこりと笑ってから唇の端に生クリームをつけたままでゆっくりと言葉を選んだ。

 こういう時の彼女はどこか不思議な光を瞳にたたえている。

「ゲッベルス大臣もすごい人なのに、最近は振り回されてばっかり」

「……あぁ」

 マリーの率直な言葉に曖昧な相づちを打ちながら、カール・ゲープハルトはケーキをつついている少女を眺めながら言葉を探した。

 彼女が国家保安本部の人間であってもへたな発言をすれば、身柄を拘束されかねない発言だ。

「君は、ゲッベルス大臣のことは嫌いじゃないのかね?」

「別に……」

 どうでも良さそうな表情でつぶやいたマリーは唇についた生クリームに気がついていないのか、ケーキを見つめたまま視線を上げた。

「ゲッベルス大臣は必要な人ですから」

 そう言ってからマリーは一つ目のケーキを平らげてから、二つ目のケーキに手を伸ばした。

「遠慮しないで好きに食べなさい」

ありがとう(ダンケ)!」

「……これは、非公式な話しとしてもらいたいのだが、そうだな、……モレルか」

 マリーに口に生クリームがついていることを指摘してから、ゲープハルトは続けた。

「モレルを含めて、総統閣下の私生活が健康的なものだとはとても思えんが」

 さすがにその問題について言及して良いものかとゲープハルトが言葉に迷っていると、マリーはフォークに差したケーキをほおばりながらにっこりと笑う。かわいらしい笑顔の下で、彼女はとんでもないことを言う。マリーにそんなところがあることを、カール・ゲープハルトは短いつきあいで知るようになった。

 もっとも、彼女が悪気があるわけでもなさそうなのだ。

「……強靱な肉体は、強靱な精神に付随する」

 独白するように言ったマリーに、ゲープハルトがギョッとして硬直した。

「マリー……」

 ゲープハルトの声が掠れる。

 彼女の言うことはもっともだった。それをゲープハルト自身が知っていたはずだ。

 強い精神力を持つ者は、病気をも乗り越える力を持っている。精神力と体力になんらかの関係性があるのか、心を病んでいる者は肉体的にも病気に負ける場合も多いように感じられる。

 だからといって精神的に強い者が必ずしも病気に打ち勝てるというわけでもないのだが。

「わたしは……」

「モレル医師は、総統閣下に対して、重大な反逆罪を犯している可能性があります」

 ずばりとマリーは本題に切り込んだ。

 その瞬間、ゲープハルトは呆然と口を開いたまま腰を浮かしかける。思わずテーブルについた手が盛大な音をたててコーヒーカップを床にたたき落とす。

「マリー! それ以上は言ってはいかん」

 叫ぶような彼の声と、コーヒーカップがソーサーごと落ちた音に、ウェイターが駆けつけて慌てて床に落ちたカップを片付けた。

 カチャカチャとわずかな音をたてて手早くカップの欠片をウェイターが片づけている間、気まずい沈黙がマリーとゲープハルトの間に流れていく。そうしてカップを片付けたウェイターが会釈をしてからいなくなったのを見送って、ゲープハルトは詰めていた息を吐き出してから咳払いをした。

「モレルを批判すれば、総統閣下の鶴の一声で大勢の人間の首が飛ぶ……」

「ふーん」

 危機感すら滲ませるゲープハルトの言葉にさえマリーは関心なさそうだ。

「じゃ、モレル医師が自らボロを出せばいいんですね?」

 なんでもないことのようにマリーは告げる。

 テオドール・モレルはアドルフ・ヒトラーのお気に入りだ。ちょっとやそっとではその信頼は崩れないだろう。

「ブラント博士はどう思ってるんでしょうね」

 ゲープハルトのケーキの上からイチゴを奪いながらマリーはそう言うと、大口を開けて食いつきながらやはりエリート医師のひとりでもある医学博士の名前を挙げた。

 モレルに関する不審な噂は、同じ医師でもあるゲープハルトにも入ってきている。

「ゲープハルト中将だって、薄々おかしいと思ってるんじゃないんですか?」

「……しかし」

 誰だって自分の身はかわいい。

 それはゲープハルトだって同じだ。けれども、マリーはそんな男に頓着する様子もなくケーキにご満悦のままでフォークを握ったままゲープハルトを見つめる。

「健康な肉体は健康な精神によって支えられる。その言葉の意味を、ゲープハルト中将は知っているはずです。仮にモレル医師がドイツの礎たる国家元首、ヒトラー総統の健康を害しているのであれば、わたしたちにとって彼は敵と言うことになります」

 敵ならば――。

 マリーは謳うように続けた。

「敵ならば、警察権力をもって徹底的に排除するべきです」

 黙り込んでうつむいたままで考え込んでいるゲープハルトは明らかに自ら健康を害していると思われるテオドール・モレルの肥満体を思い出してから、長い溜め息をつくと腹をくくったように顔を上げた。

「わかった、国家保安本部に所属する親衛隊将校のひとりとして、わたしも覚悟を決めよう」

 ゲープハルトの身につけるフィールドグレーの制服の袖に縫い付けられた菱形のSD章。それが今のカール・ゲープハルトの身分を現している。

 なによりもヒトラーに対して懐疑的な姿勢をとるということがどれだけ危険なことであるのかを、ゲープハルトがわからないわけではない。それでも、彼女のまっすぐな青い瞳を見ていると、賭けてみようという気にもさせられる。

 もっともヒトラーの側近たるテオドール・モレルに疑念を抱くと言うことは、その主人であるヒトラー自身の判断能力に疑問を抱くと言うことで、それをヒムラーが知ったら猛反発をしてくるだろうということは想像に難くない。

 そしてゲープハルト自身の判断は、自分自身にも危険を招くことになるだろうということも。

 けれども恐れてなにもしないのでは、前に進むことなどできはしないのだ。

「ところでどうだね? ケーキはもう終わりかね?」

「……おかわりしてもいいですか?」

 自分の決意が取り返しのつかない事態を引き起こすだろうという緊迫感を感じながら、控えめにほほえんでいるマリーに頷くと片手を軽く上げてウェイターを呼んだ。

「しかし、普段の食事もそれくらい豪快に食べた方がいいと思うのだがね」

 この調子では夕食は無理だろうなと、ゲープハルトは内心苦笑した。

「まぁ、君くらいの女の子はケーキの方が好きなものだからな」

 食べたいだけ食べれば良い。

 マリーが嬉しそうにケーキを食べているのを見ながらゲープハルトはひそかに決意を固めた。

 ――国家保安本部の一員として……。

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