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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XV 方舟
196/410

14 引き寄せる力

「ねぇ、ベスト博士」

 マリーの声が響いて国外諜報局特別保安諜報部長首席補佐官のヴェルナー・ベストは小首を傾げながら首を回す。

「なにかね?」

 通常の上司と部下、という立場とはマリーとその部下たちの立場は逆転している。部署長のマリーが親衛隊少佐で、彼女を支えるのは実働部隊の人間たち以外の全員がマリーよりもずっと年長者であったし、階級も上ならば学歴もずっと上だ。

 特別保安諜報部という部署は、ひどく微妙なバランスの上に成り立っていると言ってもいいだろう。

「えーと……」

 自分から呼び掛けておきながら、ベストに言葉を返されると返答に詰まったような様子で首を傾げてから執務机から立ち上がる。

 手書きの書類を片手にしながら、マリーがベストに歩み寄っていくのはすでに執務室の日常風景と化していた。

 彼女がなにを考えているのかわからない。

 それがハインツ・ヨストの印象だ。

「君がいろいろな案件に興味を持つのは大変結構なことだが、どうも君の行動はなんでもかんでも投げっぱなしでいかんな」

「えー……?」

 投げっぱなし。

 そう評価したベストは、自分の机の引き出しの中から一冊のファイルを取り出すと、立ち上がって自分の隣に歩み寄ってくる少女の目の前に開いて突きつける。

「どこからどう見ても投げっぱなしだろう」

「はぁ」

 開かれたファイルの中に綴られた名前の羅列。

 それらの名前は、マリーの指示によって特別保安諜報部で行われた人物に対する捜査の一覧だ。

 ちなみに、名前の上に横線が引かれている人物だけが調査を終えているのだが、どちらかと言えば横線の引かれた名前の方が少ない。もちろん彼女の名前で特別保安諜報部が組織されたのはごく最近のことだから、彼らが捜査終了をした案件が少なくて当たり前のことなのだが、それにしたところでマリーの指示によって調査対象になった人物は、ナチス党(NSDAP)高官、政府首脳部の政治家、そうしたまごう事なき大物たちばかりだ。

 彼らがきな臭いのは今に始まったことではない。

 そんなこと国家保安本部に名前を連ねた知識人たるベストたちが当然のように知るところだが、国家権力と権威を保つために自分たちにとって都合の悪い事実には目をつむっている。

 それが国家保安本部の権力だ。

 鼻先に突きつけられたファイルを片手で受け取りながら、マリーはファイルの上からヴェルナー・ベストを見つめて考え込んだ。

「別に投げっぱなしのつもりはないんですけど」

 そう言いながらマリーは手書きの書類を差しだしながら、居心地の悪そうな顔をした。

 ベストがマリーの行動について投げっぱなしだとか、やりっぱなしだとか苦情を申しつけるのは、特別保安諜報部の受け持つ捜査の数が多すぎる事による。

 ただでさえ、少数精鋭と言っても過言ではない特別保安諜報部はその部局員たちが多くの捜査を掛け持っていた。時にはベストやヨストですらも許容オーバーしそうになるが、なんとか頭の中を整理して今に至る。

「あのですね」

 ともすれば瞬く間に機嫌が悪化していきそうな表情のベストに対して、しかしマリーは居心地は悪そうな顔をするが気後れする気配はない。

「ベスト博士はヤーコフ・ジュガシヴィリのこと、どう思います?」

「スターリンの息子か」

「はい」

 ベストに突きつけられたファイルと共に手書きの書類を彼に手渡しながら、マリーは小首を傾ぐと右手の人差し指をふっくらとした唇に押しつけてから中腰になると、執務机に頬杖をつく。

 書類棚の前に置かれているハインツ・ヨストの机の位置からは、遠目にマリーの手書きの字が見えた。

 見覚えのあるどこか攻撃的でありながら、神経質さを感じさせる筆記体。

 マリーの口からザクセンハウゼン強制収容所に収容されているヤーコフ・ジュガシヴィリの名前が出て、ベストは長い腕を伸ばして窓際に置かれた粗末な椅子を引き寄せた。

 なんだかんだと口うるさいが、ベストはマリーの面倒をよく見ている。

 そんなふたりの姿がヨストにはほほえましく見えた。

「フルシチョフが実権を握った今、スターリンの息子など大した切り札にもならんな」

 一刀両断するベストは「しかし」と続けながら、マリーから手渡されたファイルと書類に視線を戻しながら顎に片手を当てると睫毛を揺らす。

「フルシチョフに、ソ連の二億人を御するだけの力があるかどうかも当面の問題だな」

「どう思います?」

「君はどう思っているんだね?」

 ふわふわとした浮遊感とは裏腹に、時にマリーはひどく鋭い物言いをする。それをベストとヨストは彼女との短いつきあいながら知っていた。

「どうって言われても……」

「君が会いたいと言っていたから、わざわざグリュックス中将を訪ねたのではないのかね? あの後、アイケ大将から猛烈な抗議の電話があって大変だったのだぞ」

「そうなんですか」

 まるで他人事(ひとごと)と言った感のマリーは少しだけ考えてから形の良い唇を開いた。

「宣伝大臣のゲッベルス博士は、彼がソ連との取り引きに役立つと思ってたみたいですけど、今は状況が変わりましたから、彼の扱い方も変わってくるかとは思います」

 ――扱い方。

 マリーの言葉に、ふたりの補佐官は両目を細めた。

 彼女は見たままに子供だ。

 子供の考え方で、子供の視線で目の前の事象を捕らえている。

「でも、彼って面白いですね」

 マリーはクスクスと笑うと、大きな青い瞳に好奇心を閃かせて口角をつり上げた。その笑顔はひどく無邪気なものだというのに、どこか不穏なものを感じざるを得ない。

「面白い、というのは?」

「そうです」

「どういうことだね?」

 ヴェルナー・ベストがマリーに問いかけると、少女は痩せた細い腕を伸ばしてベストの制服を身につけた腕に触れるとそっと身を乗り出してから、手渡したばかりの手書きの書類の中の一文を指さした。

「ゲープハルト中将に聞いたんですけど、彼って、本当に子供ですよね」

 わたしより子供。

 クスクスと笑いながらマリーは自分よりもはるかに年上の男をそう評価した。

 年齢は三五歳。

 それだけならば、スターリンの息子――ヤーコフ・ジュガシヴィリは国内諜報局長のオットー・オーレンドルフや国外諜報局のヴァルター・ハマーなどと同年齢ということになる。

 親衛隊知識人のひとりとも呼べるエリート、オットー・オーレンドルフと比較するのはいかがなものかとベストとヨストは思うが、一方のマリーはというとそんな大人たちの考えなど意に介する様子もなくニコニコと笑っていた。

「……――君は間違いなく子供だろう」

「別にそんなことを言ってるんじゃありません」

 少し尻上がりの彼女の口調に、ベストが無言で言葉の先を促すとマリーはフィールドグレーの制服を身につけた男に寄りかかる。まるでお気に入りの人間にじゃれている猫のようにも見えた。

「だって、彼ってお父さん(ファティ)の気をひきたいだけじゃないですか」

「しかし本人は自分の意志で戦い、父親は関係ないと言っているんだろう?」

「”そんなこと”、ベスト博士は本当に信じているんですか?」

 ヤーコフ・ジュガシヴィリは、父親の地位と自分は関係ないと供述している。もちろん額面通り受け取っているわけでもないが、マリーは子供ながらにヤーコフ・ジュガシヴィリのそんな自己矛盾を看破した。

 自分という存在を実の父親から否定されている子供。

 自分の存在を認めてもらいたいという「子供」の魂からの慟哭。

 愛してほしいという魂の叫びをマリーは子供だからこそ感じ取ったのかもしれない。

「”彼”がねじれて歪んでいるのは、”わかりきって”いるじゃないですか」

 マリーの告げる「彼」とは誰のことだろう。

 ヴェルナー・ベストは不意にそんなことを思った。ヤーコフ・ジュガシヴィリのことなのか、それともその父親のことなのか。

 彼女の発言はいつも意味深長だ。

「……彼?」

「そう、彼」

 クスクスと笑っている。

 明るい笑い声は心地よく響いているはずなのに、ぞっとするものを感じさせるほどに冷たく響く。

 ――彼がねじれて歪んでいる。そしてそれはわかりきったことだというマリーの言葉。それはヴェルナー・ベストにも心当たりはあった。マリーがヤーコフ・ジュガシヴィリに対して発言している以上、ドイツ国内の人間を差しているわけではないことは明白だが、はたして誰のことだろう。

 今から五年前、ラインハルト・ハイドリヒはソビエト連邦の粛正に関与して、そして今は失脚したヨシフ・スターリンはその策略にかかった。

 マリーは決して多くを語らない。

「興味があるなら、中央記録所のファイルを隅から隅まで見るといいですよ」

 絡み合った現実の奥に、真実が存在していること。

「それにしても、余り自由に動いていると、そのうちあちこちから苦情が入るのではないかね?」

「大丈夫ですよ」

「……ふむ」

 マリーはベストに曖昧でどうとでもとれる説明をしてから、体重を感じさせない足取りで立ち上がると、執務室の扉に向かってすたすたと歩きだす。

「どこへ?」

「シェレンベルクのところに、お願いがあって」

 マリーの気軽な口ぶりに、ヴェルナー・ベストは常に一手も二手も先を読んで行動しているシェレンベルクが、少女の頼みを聞く余地などあるのだろうかと考えた。

 彼は彼なりに多忙だ。

 おそらく国家保安本部でも、一、二を争う忙しい男だろう。

 そう言い残して執務室を出て行ったマリーを見送って、ベストはヨストに向かって肩をすくめた。

「ヨスト少将はどう思うかね?」

「まぁ、マリーの言っている”彼”というのは十中八九、スターリンのことだろうな」

 ヨストの冷静な分析に、ベストが頷いた。

 スターリンの異常なまでの猜疑心。

 それが当時のソ連の軍隊を壊滅させる原因となったこと。今ではいくつかの戦争を経験して再び盛り返しつつあったが、結局、ドイツ軍の侵攻と、国内の軍事クーデターによる内部崩壊は彼らに支えきることなどできなかった。

 もっとも、軍事クーデターを起こした将校たちも、ドイツ軍にしてみれば程度の低い軍人でしかない。

 彼らはたまたま酷寒の冬将軍を味方につけることに成功し、地の利をうまく使えただけだ。総人口はドイツの倍近いことからも、兵士の数には事欠かない。しかし優秀な指揮官がいなければ、彼らは所詮烏合の衆でしかないのだ。

「いずれにしろ、長官閣下オーバーグルッペンヒューラーが、モスクワの連中の尻尾をつかまえるために調査チームを組織するつもりらしいが、敵の懐に入り込むことになるわけだからな、万全を期するに越したことはないが、そうするとまず我々に決して敵対しない協力者が必要になる」

 ヨストの台詞にベストは低くうなり声を上げた。

 今の特別保安諜報部には、ソビエト連邦内の人脈はないと言っていいだろう。

「しかし、人脈を作るにしても一朝一夕でできるわけではない」

 話し合ってみたところで一向に答えの出てこない押し問答に、ベストとヨストはやがて、やれやれと肩を落とした。

 名目上はヒムラーの私設警察部隊などと仰々しく呼ばれることもあるが、実際としてはそれほど自由に動けるわけでもない。

 特別保安諜報部で自由に動いているのは、マリーだけなのだ。

 なにも考えていないのかと思えば、考えていて、そして仕事をやりっぱなしだと詰問をされても全くこたえている様子がない。

「暢気なものだな」

 結果的に仏頂面になってしまったベストは、マリーに手渡された書類を眺めながら大きな溜め息をついた。

 彼女はいったいなにを考えているのだろう。

 そして、ハインリヒ・ヒムラーはなにを考えてマリーを好きに行動させているのだろう。

 目に余るとも思える特権を彼女は享受している。

「しかし中央記録所のファイルを調べてみろと言われてもな、あれだけ膨大な数だと、なかなか全てに目を通すのは無理だろう」

 全てのファイルに目を通すことなど無理なはずだ。

 国内外に問わず、多くの情報を統括している国家保安本部の記録所。

「おそらく、メールホルン上級大佐でも知らんだろう」

 国家の敵、民族の敵、国家保安本部の敵。

 全ての敵性分子に対するファイルを管理する国家保安本部の中央記録所。そのファイル群をどうやらマリーはほぼ完璧に把握しているのではないかと思われる節がある。

 適切な情報を適切に引き出して、笑顔のままに追い詰めた。



  *

「シェレンベルク」

 ぱたぱたと足音をたてて、ヴァルター・シェレンベルクの執務室へ入ったマリーは、ハンサムなプレイボーイの名前を呼んだ。

「どうした?」

 ディンクラーゲやスコルツェニーの報告書の解読に追われていたシェレンベルクは聞き慣れてしまった少女の声に顔を上げる。

「ヤーンケ少佐のこと、覚えてます?」

「あぁ、トハチェフスキー絡みで随分世話になった男だな」

 ヤーンケという名前に瞬時に反応したシェレンベルクは、椅子に座り直して部屋に入ってきたマリーを見やる。

「ちょっとやってもらいたいことがあって、紹介してもらいたいんですけど」

「……――ふむ」

 数秒、思考を巡らせてからシェレンベルクは万年筆にキャップをしながら、マリーに椅子をすすめた。

 ヤーンケはソ連の専門家だ。

 彼を使うということはそういうことなのだが、彼女がヤーコフ・ジュガシヴィリに接触したことも気にかかる。

「どうするつもりだ?」

「今はソ連国内も多少は落ち着いています。シェレンベルクは、特殊部隊を潜入させるつもりなら、ヤーンケを送り込む段取りもできないかしら」

「目的を聞いている」

 素っ気ないシェレンベルクの言葉にマリーは唇を尖らせた。

「スターリンの影響力がどのくらい広がっているのかを知りたいんです」

「なるほど、確かにソ連の国内世論を手っ取り早く把握するためには、スターリンがなにをしていたのかを知る事も重要だな」

 おそらくモスクワに派遣されているランゲとエーアリンガーは、優秀な法学博士ではあるが、諜報部員ではない彼らはそこまで観察することはできないだろう。そうなると、そうした情報の分析に適した人間が潜入することが真実を知るための近道になるだろう。

「それに加えて、ゲーレン少将が東部で収集した情報を併せて分析にかけることができれば、ソ連の国内問題は自ずと見えてくるはずだ。君はそう言いたいんだな?」

「……そこまで難しいこと考えてたわけじゃないですけど。スターリンの息子のヤーコフ・ジュガシヴィリと話してたら、ソ連の人たちのことを知るのがわたしたちにとっても重要なことかなって思っただけです」

 そこからソビエト連邦に懐柔するための糸口が見つかる。

 マリーはそう言っているのだ。

「よかろう、ヤーンケを貸そう」

「ありがとう、シェレンベルク」

 エーリッヒ・ヤーンケ少佐。

 彼は国家保安本部に属する腕利きの諜報部員のひとりだ。

 ハイドリヒからの不興を買うことはあったものの、その手腕に衰えはない。

「マリー、余り危険なことには首を突っ込むな。君は非力な女の子だということを自覚すべきだ」

 シェレンベルクの小言に、マリーは「はーい」と返事をしてから彼の横に歩み寄ると、その腕を掴んで女たちを魅惑する青年の顔を覗き込む。

「”あなたも”ね。そのままじゃ長生きできないんだから」

 透明な水底を思わせる青い瞳が彼を覗き込む。

 全てを見透かすように。

「たまには、お医者様にかかったほうがいいわ」

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