11 雪のウサギ
「随分と思い切った提案をしたものだな」
感心したような言葉を受けてヴァルター・シェレンベルクは報告書を提出しながら、国家保安本部長官エルンスト・カルテンブルンナー親衛隊大将に向かって首をすくめてみせた。
「こちらが後日、ストックホルムでの予定となっています」
「……十日間か」
独白しながら書類をめくるカルテンブルンナーの瞳にどこか気ぜわしげなものを認めるが、あえて気がつかない振りをしてシェレンベルクは頷いた。
カルテンブルンナーの危惧などシェレンベルクにはとっくにお見通した。彼はまがりなりにも国家保安本部長官という地位にありながら、謀の類に対して警戒心が薄すぎる。
本人としては充分警戒しているつもりなのだろうが、シェレンベルクの見るところ、カルテンブルンナーはおおよそ謀略に適した性格ではない。
冷静沈着な諜報部員の青年の眼差しの前で、カルテンブルンナーは顎に手を当てたまま、ようやくしてから口を開いた。
それにしても、こうまで考えていることが顔に出るのは政治家のひとりとしてどうなのだろう。カルテンブルンナーが聞けば「余計な世話だ」とでも言いそうな考えを巡らせてから、シェレンベルクは彼の言葉を「部下として」待っている。
「それにしても、シェレンベルク上級大佐。君らがストックホルムに行っている間に事態が動いたらどうするつもりだ?」
「なに、問題はありません。今は東部の状況も一応落ち着いております。カナリス提督率いる西方外国軍課のリス中佐と、その支援に東方外国軍課のゲーレン少将が回って、大規模な情報戦を繰り広げていると聞いておりますので。万が一、アフリカ方面で事態が動いたとしても、親衛隊情報部が動かなければならないような事態には陥らないかと思います」
「なるほど」
カナリスの元、リスとゲーレンがフランスを含めた西部の情報収集にあたっているらしい。リスはともかく、ゲーレンは紛れもなく優秀だ。
緻密な考え方をする正真正銘の情報将校。
「それに万が一の場合に備えて、六局も人員を配置しています」
公的な国家保安本部の人員だけではない。
ヴァルター・シェレンベルクという男が個人的に作り上げた情報網もドイツを含めた占領地、そして連合国にまで張り巡らされている。
「カナリスに、”自分”の情報網を食い散らかされるという心配はしていないのかね?」
「……そんな”へま”はしません」
カルテンブルンナーの問いかけに、さらりと言い放ったシェレンベルクは「ところで」と言いながら首を傾げた。
「モスクワにランゲ少佐とエーアリンガー中佐を派遣していると耳にしましたが、彼らの無事は保障されているのですか?」
「当然だろう」
「……ふむ」
ルドルフ・ランゲ、エーリヒ・エーアリンガー。ふたりはどちらも国家保安本部の中枢を支える親衛隊知識人である。共に東部の戦場では行動部隊の指揮官を務めていた。
「なんだね?」
「いえ、モスクワはパルチザンの巣窟ですから、少しばかり気にかかっただけです」
お構いなく。
なんとも後味の悪い台詞を吐き出したシェレンベルクの真意に、しかしカルテンブルンナーはどこまで気がついているのだろう。おそらくこれが今は亡きラインハルト・ハイドリヒであったならば、自分の手足である「部下」たちの安全を確保するための恐怖を、もっと早くに準備しただろう。
後手に回ってからでは遅すぎる。
もっとも、ランゲもエーアリンガーも法学の博士号を持っている切れ者だが、頭が切れることと謀略に長けていることは全く別の話だった。
「ランゲとエーアリンガーがパルチザンの標的にされるとでも言いたいのか?」
ぶっきらぼうなカルテンブルンナーの言葉に、シェレンベルクは黙り込んだ。所詮、カルテンブルンナーなどお飾りの国家保安本部長官だから恐るるに足りないが、国家保安本部を構成する知識人たちが命を失うことがどれほど手痛いことか彼は知っている。
簡単に言えば、シェレンベルクの余分な仕事が増えるわけで、それは彼にとってみれば雑務に過ぎない。
だからこそ、シェレンベルクが自分の仕事に集中するためには、他部署に配属されている知識人たちの存在が大きなものとなる。
国家、あるいは組織とは、優秀なひとりの辣腕によって成り立つものではない。
誰でもなくシェレンベルク自身も、国家の歯車のひとつであり、組織――国家保安本部の歯車のひとつなのだ。
そして自分の仕事をするために、シェレンベルクは国防軍情報部のヴィルヘルム・カナリス海軍大将に厚い信頼を寄せていた。
カナリスとシェレンベルクは年齢こそ離れているものの、志を共にしている。
「ただ、カナリス提督は感傷的過ぎだ」
それがシェレンベルクのカナリスに対する評価だった。
カナリスは、シェレンベルクの倍以上もの年月を生きたスパイ・マスターだが、そんな彼は年齢や重ねたキャリアとは裏腹にひどく純真な眼差しを持っている。
そんな人間はどうせ長生きできない。
「あり得なくはない、と申し上げているだけです」
「……ふたりの警護は徹底させるとしよう。用心に超したことはないからな」
「そのほうがよろしいかと」
言葉少なに言ったシェレンベルクに、カルテンブルンナーは彼が提出したストックホルムでの予定表を見ながら大きな手のひらで顎を撫でる。
「まぁ、カナリスに情報網を提供するのはシェレンベルク上級大佐個人の話しだからな。せいぜい奴に利用されないように気をつけることだ」
「承知いたしました」
承知しました。
そう応じてから、ヴァルター・シェレンベルクは意地悪く考える。
少なくともヴィルヘルム・カナリスは、今、自分の目の前にいるカルテンブルンナーよりもずっと信頼に足る人物だと思っていた。だから、カルテンブルンナーとシェレンベルクのカナリスに対する評価は大きく違う。
もっとも、シェレンベルクにしてみればそんなことはどうでもいいことでしかなかった。
「さて、この予定表についてだが」
「……なんでしょうか」
長身にふさわしい長い指の先でとんとんと書類の角をたたくようにしながら、エルンスト・カルテンブルンナーは小首を傾げる。
「十日もマリーと一緒、というわけだな?」
「そうなります」
なにを言っているんだ、とでも言いたげな目つきでカルテンブルンナーを見つめ返してからシェレンベルクは内心で薄く笑う。
彼の言いたいことなどよくわかっていた。
「くれぐれも手を出すなよ」
やや砕けた口調になったカルテンブルンナーに、青年将校は両目を瞬かせると首を傾げた。
「わたしがマリーをベッドに誘うとでも?」
「君の浮き名は有名だからな」
「ご冗談を」
言いながらシェレンベルクは肩をすくめた。
「年端もいかない子供に手を出すほど困っていませんし、わたしにも好みというものがあります」
素っ気なく言い放ったシェレンベルクを探るように凝視するカルテンブルンナーは、ややしてから大きな溜め息をつくと椅子に深く背中を預けると目尻を下げておだやかに笑った。
「……冗談はともかく、ドイツの外は危険で溢れている。マリーを外国へ連れて行くのは構わんが、充分に気をつけたまえ」
「はい、長官閣下」
ドイツの内側も、外側も危険で溢れている。
そんなことをシェレンベルクが知らないわけはない。エルンスト・カルテンブルンナーと小一時間ほど報告を交えた会話を終えて執務室へと戻る途中に、中庭に置かれたベンチに寝転がってファイルの中の書類に視線を落としているマリーが見えた。
行儀悪く膝を曲げて上に上げていたままぶらぶらと動かしていた。スカートの中が見えないのは彼女がはいているスカートが、布地を幾重にも重ねていることと、その中にカボチャのパンツにも似たドロワーズをはいているからだが、シュトレッケンバッハ辺りや、女性は貞淑であれと思っているらしいオーレンドルフなどが見たら血相を変えるに違いない。
「やれやれ」
子供はいつも気楽なものだ。
マリーはどうしたことか自分にとって国家保安本部――プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセは安全なのだと思い込んでいるらしい。
鈍い音を立てて中庭に向かう窓を開いてシェレンベルクは身を乗り出した。
「……マ」
彼女の名前を呼び掛けようとして、青年は声を飲み込んだ。
その横顔に差した影に、シェレンベルクが見慣れていたものが重なったような気がした。顔立ちが? それとも髪の色が? それとも瞳の色が?
理由はわからない。
彼女の横顔が死んだ男のそれに重なったように見えたこと。
立場のうえでは、マリー――マリア・ハイドリヒ――は、ラインハルト・ハイドリヒの遠縁の娘という設定になっているが、それはシェレンベルク自身が知るとおり、カナリスとオスターのでっちあげによるところである。
だから、マリーがラインハルト・ハイドリヒと似ているわけがないし、万が一どこか似ていたとしても他人のそら似と言えるだろう。
ベンチに転がっていたマリーが視界の隅でシェレンベルクを認めたらしい。行儀悪く空中でぶらぶらと振っていた足をとめてからおろすと、上半身をよじるようにして振り返ると、国家保安本部の二階の窓から乗り出している彼に大きく手を振った。
「あ、シェレンベルクー!」
「……そんなところで足を広げているな。あまり行儀を悪くしていると怒られるぞ」
マリーの朗らかな声に我に返ったシェレンベルクが、少女に対して表情を崩しながら行儀に関して注意をすると、彼女は少しだけ頬を膨らませてから頬をかすかに染めてからベンチに座り直した。
国家保安本部に限った話しではないが、知識人の多くは女性の立ち居振る舞いに対して保守的な人間が多い。マリーがベンチでだらしのない格好をしていたとなれば、あまり良い顔はしないだろうというのは容易に想像がつく。
勝手に自分の理想の女性像を押しつけられてもマリーも迷惑するだろうが、足を開いた格好をする女性など、正直余り品が良いとは思えなかった。
「……はーい」
さすがに反論の余地がないらしい。
マリーはふくれっ面のまま膝の上にファイルを乗せると、きちんと膝を揃えて座り直す。そんな彼女を確認してからシェレンベルクは、微笑すると窓を閉じる。
十月のベルリンはすでに冬の足音が聞こえ始めている。
コツリと靴音を鳴らしながら自分の執務室へと歩いて行く彼は、無表情を取り繕うようにしてマリーの横顔を思い出した。
「マリー……、君は何者なんだ」
口の中だけでつぶやくと、小首を傾げた。
この年の六月、ラインハルト・ハイドリヒの棺の中に閉じ込められていた金髪の少女。当初、彼女の存在と引き替えにするように、ラインハルト・ハイドリヒの遺体が行方不明になった。
そしてそれからしばらくして、ハイドリヒの亡骸は、そのまま棺の中で発見されたこと。後に残ったのは「マリー」という謎だけだ。
彼女が敵国のスパイであった可能性は捨てきれず、シェレンベルクも極秘の調査を行っていたが結局それらしい情報はなかった。
ただし、身元不明だというだけならば、ロマニーにも当てはまるし、単に国の名簿に登録されていない人間なのかもしれない。
あるいは、占領地からアーリア化されるために誘拐されてきた子供。
もっともアーリア化にしたところで話の筋が通らない。本来、マリーの年齢であればアーリア化の目的で誘拐されたり親元から離されることはない。そうした意味では彼女は少しばかり薹が立っている。
ロマニーならば強制収容所送りだし、占領地で騙されて売り飛ばされたにしてはこぎれいすぎる。
棺を開いた時、花の香りがした。
結局、シェレンベルクが徹底的に調査するも、彼女がスパイであるという証拠は見つけられず今にいたっている。
「まぁ、いい」
とりあえず彼女は敵ではないらしい。
職業柄、彼は何人となく女スパイと接してきている。政治的な取り引きをして保護したこともある。
彼女は敵ではない。
仮に敵であったとしてら、相当な大物ということになるが、それにしては彼女の行動が行き当たりばったりという感もある。
「彼女の影響力は計り知れない」
ぽつりと独白した。
いけないと思うのは、時にシェレンベルク自身が引きずられそうになることだった。自己を厳しく律していなければ、他の男たちのように彼女の瞳に引きずりこまれてしまいそうになる。
自分の望まぬ変化を強いられているような、そんな奇怪な気分にさせられて、それがシェレンベルクに不快感を与えていること。
「シェレンベルクー!」
ぱたぱたと走ってくる歩幅の狭い足音と、明るい声。
いつものように自分を不躾に呼ぶ少女の声に、シェレンベルクは表情を改めるといつものようににこやかな笑顔をたたえて背後に迫る声の主を振り返った。
表情を取り繕うことには、もう慣れた。
「少し運動をしたほうがいいだろうと、陸軍のグデーリアン元帥が電話をしてきたぞ」
案の定、彼の目の前で床のタイルにつまづいた彼女の痩せた体を、両腕で抱き留めてシェレンベルクがそう告げるとマリーが露骨にいやそうな顔をする。
「……シェレンベルク」
口ごもる彼女に、青年は大きく息を吐き出すとマリーの頭を軽くかき回した。
「君のコートは白いマントだそうだな。雪原の野ウサギみたいな」
シュトレッケンバッハは自分の制服の仕立て屋にマリーを連れて行ってコートを作ったついでに、彼が自腹を切って白いマントと同じ色のロシアンハットとマフを一緒に仕立てたらしい。
――野ウサギのようだぞ。
白い雪のなかで体毛を白くさせたウサギを連想させる。なぜか得意げに告げるシュトレッケンバッハの言葉を思い出した。「かわいい」とは表現しなかったのはおそらくシュトレッケンバッハなりのプライドなのかもしれない。
「ストックホルムに行くまでに仕上がってくるといいな」
マリーはシェレンベルクにそう言われてにっこりと笑った。




