10 人道
「国防軍情報部には”ラテン地方”に詳しい諜報部員が多く所属していると聞いております」
取り引きを持ちかけるような口調でナチス親衛隊のエリート将校はそう言った。
人当たりの良い温厚な青年の抜け目のなさを思い出してカナリスは苦笑した。いくら自らが腕利きの諜報部員であっても、現在多くの仕事を抱える諜報局長の身の上では自由に行動できるわけでもない。
「取引かね?」
「簡単に申し上げればそうなります」
あっさりと手の内を晒すヴァルター・シェレンベルクは口元に穏やかな笑みをたたえると、そうして続けた。
「カナリス提督と、今は亡きハイドリヒ親衛隊大将の間で交わされた”協定”は、本官も承知しております」
「ふむ」
国防軍情報部は軍事関係の諜報活動を。そして親衛隊情報部は政治関係の諜報活動を行うこと。
それがカナリスとハイドリヒの間で合意した協定だったが、実のところ、その境界がひどく曖昧であることは多くの諜報部員を含めた情報将校たちが自覚しているところである。
そしてもうひとつ。
「それ」は国家元首アドルフ・ヒトラーの発した命令にも起因する。
「全ての諜報部員は、親衛隊情報部、国防軍情報部の枠を越えて協力すべし」
シェレンベルクの遠回しな物言いに、カナリスは片目を細めると言葉を切り出した。
「君がそう言うからにはなにか裏がありそうだな」
「いえ、大した事ではありません。ただ、こちらとしましては国防軍情報部に所属する腕利きの諜報部員を拝借させていただきたいと思ったのですが、こちらから何もなしとあっては提督が気分を害されるかと思ったしだいです」
「親衛隊情報部からはなにを提供してくれるというのだね?」
こうした場合、生前のハイドリヒと比較するとシェレンベルクは若く柔軟な思考を持つと言うこともあって話しやすい相手だとカナリスは思う。すくなくとも、一時のハイドリヒとは違って、彼は決してカナリスをないがしろにしたりはしない。
「軍事的、あるいは政治的な駆け引きに使えるだろうと思われる人脈を」
短く、けれども明確なシェレンベルクの意図を現す提案に、カナリスは一瞬耳を疑った。元来、国家保安本部に所属する親衛隊将校の中でも思考スタイルが柔軟な青年であるとは思っていたが、彼は必要であると考えれば協定の存在など容易に飛び越えることができる。
ナチス親衛隊――そしてヴァルター・シェレンベルク自身が持つ人脈の提供という交換条件は、ヴィルヘルム・カナリスにとっても国防軍情報部にとってもひどく魅力的に思えた。
シェレンベルクという青年は、年齢に似合わない多岐にわたる人脈を持っているのだ。
それは軍部から政界、財界や医療業界、社交界にまで及ぶ彼の知識人、あるいは文化人としての人脈である。
そういえば、とカナリスは思い出した。
彼の父親はピアノ職人だった。そう思えばシェレンベルクがある程度の文化的教育を受けていてもおかしくはない。
――チェロは昔、少しだけやっておりましたが馬から落ちた時に両方の手首を骨折しまして、それ以来やっていません。
いつだったか、朝の日課になっている乗馬での散歩の時にシェレンベルクは笑いながらカナリスにそう言った。
落馬の事故は二三歳の時のものだという。
要するにチェロをやめてからかれこれ十年近くが経過したことになる。
ラインハルト・ハイドリヒもバイオリンの名手だった……。
「……正気かね?」
「もちろん正気です」
「しかしヒトラーとヒムラーが許可しないのではないか?」
「できる限り小さな被害にとどめつつ、勝利を得るためにはどのみち手段など選んでいられません」
素っ気なくシェレンベルクは言った。
国内の派閥争いなど彼にとっては些事にしか過ぎないのかも知れない。
「……提督もご存じのはずです。”東部”での勝利など本来は手の届かぬ場所にあり、あれは薄氷の上で成立したことにほかならない。今だとて、フルシチョフの気分ひとつでいつ状況がひっくり返るかわかりません」
彼らは今でも「英仏連合」側の立場を崩していない。
いわゆるコウモリ外交が展開されているということをシェレンベルクも見抜いていたし、カナリスもそうであろうと推察している。
知っているはずだ、というシェレンベルクの言葉。
それはそう。
スターリンのソビエト連邦を相手にドイツが戦争を始めた時点で、ヴィルヘルム・カナリスもシェレンベルクと同じようにその先行きの暗さを予見していた。
しかしカナリスの提言は、彼が海軍出身であるからというだけの理由で退けられた。なんとも馬鹿馬鹿しい話しだ。
一撃必殺は現在のドイツ軍が最も得意とするところでもあったが、相手が広大なソビエト連邦となると訳が違う、
長大な戦線を維持するだけの体力が、今のドイツ軍にあるはずがない……!
軍隊の体力とは、即ち――国力そのもの。
国民総数であり、経済力であり、そして出生率であり秩序だった組織力だ。ありとあらゆるものが軍隊の体力として表現される。
そのドイツ軍の体力が、対ソビエト戦には持ちこたえられないだろうとシェレンベルクにもカナリスにもわかりきっていたことだ。
けれども、彼らはヒトラーの戦争を制止することができなかった。
「現在、アメリカは天然痘の発生で及び腰になっており、イギリスも部隊内がその罹患のために足踏み状態に陥っています。もっとも、これらの状況は彼らの自業自得でしかないのですが」
確かに復讐するための拳銃を準備したのはシェレンベルクだ。
その可能性を示唆もした。
しかし動いたのは「彼女」自身。
復讐という武器の引き金を引いたのは彼女自身なのだから。
植民地の人間の、人間としての尊厳を、人権を踏みにじり、彼らの底力を見誤った。最終的に彼らはイギリスの武力によって制圧されたか、それはいずれ自分たちの身にも巨大な反発となって返っていく。
情報部の力はそうしたときにこそ試されるものだ。
「しかし疫病は目に見えない分恐ろしいぞ」
カナリスの指摘にシェレンベルクはふとわずかに冷徹な笑みを閃かせるが、それは瞬く間に沈むように姿を消した。
「種痘、をご存じですね?」
「一般常識だな」
「熱帯地方では何度か小規模な天然痘の流行は発生しています。ですが、それでも彼らはそこで生きていくしかできない。そして、病気を恐れ、悪魔の仕業と忌み嫌っても、彼らはその恐ろしい悪魔に立ち向かっていくことしかできません」
そう一息に言ってからシェレンベルクは改めてカナリスの瞳を見つめ返した。
「インド人の”知り合い”を紹介することができます」
天然痘、種痘、インド、知り合い。
そうしたキーワードが暗号のようにシェレンベルクの唇から解き放たれる。カナリスの方はそんな若い友人の言葉に聞き入ったまま答えを探す。
彼が何を言おうとしているのか。
「しかし、インドの弁護士……。あの老人は暴力に訴えることには反対しているのではないかね?」
インドの弁護士というカナリスの言葉に、シェレンベルクは睫毛を上げた。
「彼は”そう”であっても、彼の弟子の”全て”が”そう”であるとは限りません。昨年、インドから来た使節のことを覚えておいでですか?」
一説にはリッベントロップやヒトラーからは一蹴されたらしいということだが、シェレンベルクは冷静に分析して「使える」と踏んだ。
人の知性が人種や民族で劣るわけではない。
それが彼の信条だった。
そして自分の目的のためであれば、誰であれ利用するつもりだったこと。
「リッベントロップとのあの会見か……」
確認するように独白したカナリスは、顎に手を当てて考え込むと低くうなる。
「リッベントロップとしてはインド人の過激派がベルリンを闊歩しているのが面白くなかったんだろうな」
「そう、それです」
シェレンベルクは心地よく聞こえる笑い声をたてると、穏やかな眼差しのままソファに深く背中を預けてから小首を傾げる。
「彼は、ドイツ国内に異民族が横柄な顔をして歩き回っていることを好んでいない。全くもってくだらない優越主義です」
きっと自分が神にでもなったつもりでいるのだ。
自分が他者の生殺与奪を握っているとめでたい頭で信じ込んでいる。
「世界には我々などよりも遙かに異民族のほうが多いですし、なによりも我々とてそんな民族にひとつにしか過ぎません」
ナチス党の唱える人種的優位性を一刀両断してから、静かな笑みをたたえた彼は続けるようにして言った。
「リッベントロップはインド攻撃まで最低でも二年は待つようにと言ったらしいですね」
ユダヤ人を含めた、異民族――こと有色人種のことを嫌うのはヨーロッパ大陸を構成する白人たちのくだらない優越感でしかない。
「事実、インド人の弁護士……――ヘル・ガーンディーは立派な人間です」
「君が手放しで褒めるとは珍しいな」
「そうでしょうか……?」
イギリス領インド帝国の独立運動家――モハンダス・カムラチャント・ガーンディー。ヴァルター・シェレンベルクは自分よりもずっと年上のイギリスの弁護士としての資格を持つ老人のことを立派な人間だと認識している。
シェレンベルクが生まれる前から人種差別と戦う愛国者。
そんな有色人種の弁護士を立派だと思わない人間がどこにいるのか。いや、もしかしたらイギリス人は迷惑だと思っているのかも知れない。
少なくとも、シェレンベルクなどから見れば禁欲的で清貧で、どこまでも誠実な眼差しを持つインドの独立運動家をチャーチルなどよりはずっと立派な人間だと考えていた。
「しかし、彼の理想が本当に素晴らしいものであるかはともかく……、いや、とても素晴らしいものだが、彼の掲げる理想はとてつもなく高潔だ。だからこそ、実現がひどく難しいことも彼自身が知っているはずだろう」
インドをインド人の手に取り戻すために、彼は戦い続けている。
そのガーンディーの弟子のひとり。昨年の一月にベルリンを訪れたインド人独立運動家――スバス・チャンドラ・ボース。
「あの男なら使えるか……」
カナリスはインドから来訪した使節団を思い出してから天井を見上げた。
「えぇ、彼なら天然痘に抵抗を持つ人間をある程度選抜することも可能です」
「インド人を信頼できると思うか?」
「……チャーチルとスターリンよりは、信頼できるのではありませんか?」
薄笑いを浮かべたシェレンベルクにカナリスは眉をひそめた。
二枚舌のチャーチルとスターリン。
そして裏切りこそが彼らの常套手段だ。
――嘘つき。
「それに、彼らの忠誠は常にインドにあります。そして彼らの敵がイギリス人だと言うことも重要です」
そうしてシェレンベルクは言葉を切った。
「総統閣下の思惑はどうあれ、役にたつものは全て使うべきです」
本来、諜報部員の信用などあてにならないものなのだ。
「事態を我々の手の内で転がそうとするのであれば、全てを”利用”すべきとわたしは考えております」
どこまでも冷静で冷徹な諜報部員たちが持っているのは唯一――国家に対する忠誠だけ。
彼らは誰のことも信用などしてはいないし、誰にも信用されはしない。カナリスとシェレンベルクの関係も実際にはあやしいものだ。
生涯をかけて多種多様な仮面を身につけ続け、決してその素顔を晒すことはしない。
仮に諜報部員が素顔を垣間見せたときは、真に自らの破滅が迫っているときでもあると言えるだろう。
「逆に”利用”されたらどうするつもりだ?」
カナリスの問いにシェレンベルクは肩をすくめた。
「戦争とは騙しあいです。”我々”も何度となく騙されてきたではありませんか。提督、それに……」
「それに?」
冷ややかに青年が唇に笑みを刻む。
「それに、”騙されたほう”が馬鹿なのです。そして、そうした事態を予測できなかったのだとしたら、彼らは利用の価値もないどころか、協力者としての価値もありません」
シェレンベルクの言葉は同時に自分自身にも跳ね返ってくる言葉なのだが、おそらく、彼はそれすらも自覚して言っているに違いない。
自分の危機管理もできないような連中は、せいぜい使い捨ても同然だ。
シェレンベルクはそう言った。
「古来から幾度となく天然痘は流行しています。人類はそのたびに、それらの脅威を乗り越えてきました。ドイツの力をもってすれば今回も乗り越えることは可能です」
しかし、シェレンベルクはそう言いながらひとつの危惧も感じていた。
当初、シェレンベルクが計算していた北アフリカ地方での混乱が国際赤十字が乗り出したことで早くも沈静化しつつある。
おそらく年内が特殊部隊を指揮する最初で最後の機会になるだろう。
さてどうしてボースを焚きつけたものかと頭の片隅でちらりと考えた。
「それにしても、北アフリカでの天然痘の流行は阻止できなかったのかね?」
「さて……」
アメリカの中枢にテロリストを送り込むことについてはカナリスも合意した。しかし、ドイツの部隊も展開する北アフリカで天然痘が発生したことは寝耳に水だった。それが親衛隊情報部主導のもとで行われた事件であるのならば許されることではない。
カナリスの言葉には曖昧に応じて、シェレンベルクはわずかに小首をかしげただけだ。
「彼女」の憎しみはイギリスとアメリカに対して同時に向けられていた。
大量殺戮を犯すチャンスを彼女は狙い、そうして憎悪は成熟し、果てに一家もろとも処刑された。
――国家反逆罪。
しかし、憎悪を育てたのはいったい誰なのだろう。
静寂の中を穏やかに響くヴァルター・シェレンベルクの声はなにかを揶揄しているようでもいて、カナリスは両膝に腕をついたままでそっと目を細めた。
粛正の引き金を引いたのはドイツではない。
イギリス自身であり、アメリカ自身。
もっとも逆もまた同じ事を言えるのだろうが、だからこそ彼らが展開する情報戦は大きな意味を持っていた。
必要な情報の取捨選択。
「”人道的”な観点からも、”彼ら”は道を踏み誤ったのです」
こうしてシェレンベルクは国防軍情報部からギュンター・フォン・ディンクラーゲ男爵の存在を得ることに成功し、国防軍情報部も北アフリカ戦線に対する切り札を得たのだった。




