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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XV 方舟
191/410

9 安息香

 十月の終わりにシェレンベルクと共にスウェーデンのストックホルムを訪問する予定になっているマリーだったが、実のところ大した旅行用の道具も持っていなければ、大した私物も持っていない。そんな彼女のために、旅行程度に必要な品物の買い出しに国家保安本部長官のエルンスト・カルテンブルンナーとその妻がつきあうことになった。ちなみに、なぜか突撃隊幕僚長のヴィクトール・ルッツェとその妻子もついてきたらしい。

「それはお遊戯会かなにかになるのですか? ベスト中将」

 シェレンベルクなどは報告を耳にして執務室で小首を傾げたほどだ。

 いかんせん国家保安本部長官の夫妻と、突撃隊幕僚長の一家とあってはその護衛もかなり壮大なものになったらしいという噂だ。

「いや、わたしもここまで大変な事態になるとは思っていなくてな」

 なんでもヴィクトール・ルッツェのほうは、自分にマリーと年齢がそれほど変わらない娘がいるから世間の流行などを知る参考になるだろうと連れてきたらしい。

「確かルッツェ大将の娘さんは十七歳でしたか」

「まぁ、結果的に店の近辺を封鎖する事態に発展したらしいから、マリーの警護という意味では問題なかったのだろうが」

 他国の諜報部員の標的となる可能性が高い。

 それは刑事警察、及び国家秘密警察の地道な捜査によって得られた情報だった。今のところ、彼らはまだ姿を日差しの下にさらしてはいないが、それも時間の問題だろう。

「国家保安本部長官と突撃隊幕僚長のご一家がということでしたら、警護の規模が大きくなっても表向きの問題には発展しないだろうが、なにせ”あのふたり”のことだからな」

 確かにベストはマリーの「長官に買い物につきあってもらえばいい」とは言ったが、ここまで問題が大きくなるとは思ってもいなかった。

「質の良い旅行用のトランクを選んでもらったと本人は喜んでいたから良いのではありませんか?」

 マリーの薄給では旅行用に全てのものを買い足すことなどできないだろうから、おそらくせいぜいカバンと下着を買い足したくらいなのだろう。

 戦争の影響であちこちインフレーションが起こっているのはシェレンベルクも知っている。なにからなにまで値上がりしていて、食品の一部は配給もはじまっていた。そんな情勢下で、いくら親衛隊将校であるとは言え、マリーが全てのものを自由に手に入れられるわけではない。

 彼女が普段は親衛隊将校夫人やその娘たちの古服を身につける理由が多いのはそのためだ。シェレンベルクを含めた一部の人間しか知らないことだが、彼女は建前上では「施設から強制的に放り出されたため私物を全く持っていない」ということになっている。

 要するに彼女が旅行をする道具など全く持っていないことなのだが、そうした設定のためタンスの奥に眠っていた少々古ぼけた服ばかりが彼女の私服だった。

 最近ではルートヴィヒ・ベックの夫人にいろいろと作ってもらっているらしく、時折ベック家を訪れているらしい。ついでを言えば、マリーとベックは親衛隊と国防軍という枠組みを超えた知己で、身寄りのない少女に対してベックが同情的といった様子が強かった。

「それで、どうするつもりだ?」

「ベスト中将とマリーの写真が流出してしまったことはすでにどうしようもありません。彼らも全くの素人というわけでもありませんし、写真からあれやこれやと憶測するでしょう。ですから、今度のストックホルムの訪問が彼らに仕掛ける機会になると思われます」

 ――仕掛ける。

 シェレンベルクは無造作にそう告げると、執務机の引き出しから一枚の書類を取り出した。

「一応、これがストックホルムでの予定となります。後ほどお渡しに行こうかと思っていたのですが、こんな場で失礼いたします」

 丁寧なシェレンベルクの物言いは、しかし、だからこそどこか計算され尽くしているようにも感じられた。

 ヴァルター・シェレンベルクという男は上下関係を完全に心得ている。

 時に慇懃に振る舞い、時に社交的に、そして時には親衛隊の権力を笠に着て高圧的に。まさしく変幻自在だ。

「なるほど」

 書類はストックホルム旅行の日程表だった。

 フォルケ・ベルナドッテ、小野寺(おのでら)(まこと)、リーゼ・マイトナー。

 錚々(そうそう)たる名前が記されている。

「このマイトナーという女はユダヤ人ではなかったか?」

「だからなんだというのですか? それを言ってしまえば、空軍(ルフトヴァッフェ)のミルヒ元帥も同じことです」

 さらりととんでもないことを言ってから、シェレンベルクは肩をすくめてみせた。

「戦後のためには、ユダヤ人との接触も持たなければなりません。それだけのことです」

 ただそれだけのこと。

 かつてのラインハルト・ハイドリヒにユダヤ人に対する偏見などかけらもなかったように、シェレンベルクにもユダヤ人に対する偏見はない。人種的差異など彼にとって大した問題ではなかった。

 彼はただ、そこにある純粋な知性に興味を示す。

 ユダヤ人であれ、黒人であれ、アジア人であれ。

 必要なものは利用するだけだ。

 全てはドイツ――自分自身のために。

「……戦後のため、か」

 少しばかりハードな日程表を凝視するヴェルナー・ベストは顎に右手を当てたままで独白すると、じっと何事かを考え込んだ。



  *

 じり、とマリーが緊張感をたたえて後ずさる。

 そんなマリーの緊張感を察したのか、赤毛の大柄なジャーマンシェパードは、前足を軽く開いて警戒するように彼女の視線の先を見つめて重心を下げる。

 まるで彼は赤毛の騎士のようだ。

 そんな暢気(のんき)なことを勉強会の主催者――フランツ・ハルダー陸軍元帥は思った。長身に鋭い眼差しが印象的なハルダーが、暢気なことを考えていられるのはそこが陸軍参謀本部であるからで、要するにそこにいる国防軍の高級将校らに危険がないからなのだが、一見しただけならかなり奇怪な光景であることこのうえない。

 ハルダーの執務室にいるのは十代半ばのやせ細った少女と、赤毛のシェパード、執務室の主であるフランツ・ハルダーと、現在東部戦線から引き上げて今に至っているエーリッヒ・フォン・マンシュタイン、そして海軍総司令官のエーリッヒ・レーダーと国防軍最高総司令部総長ヴィルヘルム・カイテルだ。

 執務室の扉を開いて廊下側に立っているのは明るい笑顔の印象的な壮年の紳士で、こちらはハインツ・グデーリアンだ。

 息を呑んで身じろぎしたマリーは室内の国防軍の高級将校らを気後れもせずに見渡してから、ぱっと身を翻すようにして動いた。

 執務机の前に立っているハルダーの背中をぐいぐいと押して、彼の背中と机の間に隙間を作るとそこに痩せた体を滑り込ませてから、そっと隠れるようにして「疾風ハインツ」と呼ばれた男を伺った。

 完全に警戒している。

 なにせハルダーに呼び出されて訪れたら、グデーリアンと参謀本部で遭遇してマラソンをさせられたのだ。警戒しても無理はないだろう。

 強制的にハインツ・グデーリアンと対峙させられる形になったハルダーは、広い背中でマリーを男の視界から遮るような姿のままで言葉を失っている。一方でそんな三人の様子を代わる代わる眺めていたカイテルが一番最初に吹き出した。

 しばらく笑いをこらえて頬の筋肉をぴくぴくと痙攣させていたが、とうとうこらえられなくなったらしい。ソファに座ったままで口を大きく開けて笑っているヴィルヘルム・カイテルに、引きずられたのはレーダーだ。

 笑いの的にされた少女は少しだけ機嫌を悪くしたようで、控えめにハルダーの制服の裾を引っ張って背伸びをした。

 和やかな空気が流れて、ようやくマンシュタインは苦笑した。

「貴官がマラソンなんてさせるから、その子が身構えてしまったんじゃないか? ハインツ」

「しかしだな、体力がないというのは問題だろう。エーリッヒ」

 赤毛の騎士は行儀良くハルダーの隣に座っているが、すっと伸びた耳が男たちの会話を捕らえるために忙しなく動いている。

「体力がないならないで、いきなりマラソンをさせるのは無謀というものだ」

 両手の平を上にしてやれやれと古い知己の行動を評価したマンシュタインに、ハインツ・グデーリアンは室内に足を踏み入れながら大きな溜め息を漏らすとあいていた一人がけのソファに腰を下ろした。

「……一応、今日はマラソンをさせるつもりはなさそうだが。君の体力のなさは当分の課題になりそうだな。マリー」

 なにごとかマリーと小声で話し込んでいたハルダーはわずかに腰を屈めて、少女の視線に自分の顔の場所を調整するとそう言って自分の後ろに隠れてしまっていた彼女をソファへと座らせる。

 彼女の隣にはカイテルが座っており、マリーを隣にしている国防軍最高司令部総長は少しばかり満足げだった。

 全くもって異様な光景。

 しかし陸軍参謀本部に教育目的で呼び出された少女は気後れすることもなく、カイテルの隣に座っている。これが一介の国防軍の将校ならがちがちに緊張して話しどころではないかもしれないが、彼女はそんな老人たちの眼差しもどこ吹く風といった様子だった。

「そんな恨みがましい目で見なくても、今日は体操服は持ってきていないから安心したまえ」

 上目遣いのままのマリーにグデーリアンはからからと豪快な笑い声を上げてから、肘掛けに手を突くと「しかしまぁ……」と続けながら、少女を覗き込む。

「ベック上級大将のところで会った時はなんとも貧弱だと思ったが、休暇で少しは太ったか」

 腕のほうは骨折したと聞いたがもういいのかね?

 問いかけられたマリーはグデーリアンが今日はマラソンを始める気がないことに確証を持つとやっと警戒心を解いてから頷いた。

 赤いシェパードは彼女から警戒心が消えたことに気がつくと、床に伏せをして目を閉じた。

「はい、今はゲープハルト中将のリハビリを受けていますから大丈夫です」

「ほう」

 カール・ゲープハルトの名前にグデーリアンは呟きながら記憶を探る。おそらく彼にとってはどうでも良い情報のひとつだろうから、いちいち親衛隊の医師の名前など覚えていないと言ったところだろう。

「親衛隊長官の、ご友人のゲープハルト中将かね?」

 相づちを打ったものの、ゲープハルトとやらが誰かわからずに考え込んでいるグデーリアンに助け船を出したのはカイテルだった。

 優しい穏やかな眼差しは、どうやら数ヶ月前と比べると少し余裕が出てきたように、マンシュタインには感じられる。

「そうです、ヒムラー長官の幼なじみのゲープハルト中将です」

 こっくりと頷いた彼女に、レーダーが口を開きかけたとき執務室の主――フランツ・ハルダーが重々しく咳払いをしてから一同を見渡すと自分の執務机についてマリーを見やった。

「さて、マリー。君にはまだまだいろいろと教えなければならんことがあるが」

 わざとらしいハルダーの言葉使いにマリーはソファに浅く座り直すと背筋を伸ばした。背中を流れ落ちるキラキラと電灯を跳ね返す金髪は、どこか浮世離れしているようにも感じられて国防軍の高官中の高官たちは視線を奪われた。

 彼女は礼儀を知らないとハルダーは言うが、そうではない。

 確かに軍人、あるいは親衛隊員としての礼儀には欠けるところもあるが、これが年頃の少女だというならばこまっしゃくれたところがあるわけでもなければ、大人びた顔で正論を展開するわけでもない。ごく礼儀正しい少女の姿だ。

 時折、敬語が使えなくなっているのは特に目くじらを立てるほどのものでもない。

「そもそも、高等教育を受けたいとは思わんのかね?」

「……別に」

 口ごもる。

 まるで、祖父と話しをしている孫娘のようだ。

 もっとも、その場にいる男たちの全てが彼女にとって祖父と同じくらい年齢が離れている。逆に離れすぎていて気にならないのかも知れない。

「ふむ、それならばそれで良いが、ひとつ気になることがあるのだが、君はもう少し男性に対して警戒心を持つべきだな。特に親衛隊はならず者ばかりだからな。女と見れば子供でも見境ない者もいる」

 ハルダーほどの年齢の年寄りとなると男女の関係については保守的な者も多い。それをマンシュタインにしてもグデーリアンにしても同じところだし、なによりも軍隊に籍を置く以上、「そうした事件」が何例も起こっているのは知っている。

 結果的に若い恋人同士がそうした関係になって、上官や家族らへの報告が後回しになる話しも多い。

 自分たちが男であるからこそ、彼らは男たち――特に親衛隊員らの不道徳さも知っていた。

「なんですか? それ?」

 マリーがぽかんとしてハルダーに問いかけた。

 まさか自分がそうした対象として男たちから視線を投げかけられるとは思ってもいないといった様子に、ソファの隅に腰を下ろしている海軍のレーダーが眉をひそめる。

「つまり、男などみんなケダモノだと言っているのだ」

「……そうなんですか」

 何を言っているのかわからない、と言いたげな表情のままで考え込んでしまったマリーは、隣からカイテルの大きな手のひらに金色の頭をかき回されてきゃんと子犬が鳴くような悲鳴を上げた。

「つまり、ハルダー元帥は、君が魅力的だから周囲の男共には気をつけるようにと言っているのだよ」

「魅力的、ですか……?」

 ますますわからない。

 少女が眉間を寄せていると、カイテルは鼻から息を抜きながらそうして笑った。

「少なくとも、少し……、いやかなりヤセギスだが、随分かわいらしいご婦人だと思う若い男は多いだろうからな」

「なんだ、その幼児趣味は」

 グデーリアンがカイテルの説明をからかうと、マリーは「子供じゃないわ!」と言って唇を尖らせるとマラソンを強要させた野戦指揮官に食ってかかる。

 どうやらグデーリアンは、マリーと同レベルでからかうのが面白くてたまらないようだ。ハインツ・グデーリアンの古い知己、エーリッヒ・フォン・マンシュタインはそう分析した。

 歳の離れた、けれどもどこかほほえましい喧嘩友達。

 グデーリアンは確かに喧嘩早く、その場の感情に流される嫌いもあるが同時に絶妙なさじ加減で空気を読むこともできる。だからこそ、最前線で野戦指揮官などを務めることができるのだ。

 それはグデーリアンの才能だった。

 そしてもうひとつ、マンシュタインは気がついたことがあった。国防軍最高司令部総長に就任したカイテルは驚くほど穏やかに安らいだ表情をしていること。

 ともすればいつも思い詰めた表情で、ヒトラーの怒りを恐れていたような男だったというのに。

「カイテル元帥はグデーリアン上級大将と違って優しいもの!」

 無意識に伸ばされたマリーの腕を、そっと受け止めてやったカイテルはクスクスと笑いながら軽口をたたくグデーリアンに言葉を返している。

 彼――ヴィルヘルム・カイテルをこんなにも変化させたのはいったい誰なのだろうか、とマンシュタインはそう思った。

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