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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
III 悪の華
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3 神の凶器

 頭痛がやまない。

 ブーヘンヴァルト(カー・エル・)強制収容所(ブーヘンヴァルト)で死体臭い男に会ってからというもの頭痛が消えない。放っておけばそのうちおさまるかと思っていたが、予想に反して頭痛はひどくなるばかりだ。

 人の気配のないバルコニーに出たマリーは、頭の上のミニハットを支える顎下のリボンを指先でほどいてから深く溜め息をついた。

 夜の空気が心地よくて、テラスに手をついたままで目を伏せる。

 そのときだった。

 ホールからバルコニーに続くガラス扉が無造作に開かれた音に彼女は目を上げる。

 突撃隊幕僚長ヴィクトール・ルッツェと話しをしていたのだが、頭痛がひどくなってきてマリーは会話を切り上げて夜のベランダに逃げてきたのだった。

 その頭痛はまるで、かみ合わない歯車がぎしぎしと悲鳴を上げているようだった。

 なにかが彼女の中でかみ合わない。

 ラルス・シュタインマイヤーに連れられて、ブーヘンヴァルト強制収容所で会った男の瞳の奥にあったものは、彼女の中にあるなにかを引きずり出した。

 しかしそれだけでは足りない。

 頭痛に眉をひそめたままで、開かれた扉の先を見つめたマリーは逆光の中を機嫌良さそうに大股で歩いてくる親衛隊の男を見つめていた。

 外交官だろうか。

 年齢は二十代後半だろう。

 自分が外交官であり、ナチス親衛隊の隊員であるということから気が大きくなっているのか、マリーになれなれしく声をかけてきた。

 宴もたけなわでほどよく酔いが回っているらしい。

お嬢さん(フロイライン)、こんなところでひとりでなにをしているのかな?」

「……あまり体の調子が良くなくて」

 かけられた言葉にぽつりと言いかけた彼女の顔に手をかけた親衛隊員の男は、値踏みするような瞳でマリーの青い瞳を覗き込んだ。

 仮に親衛隊員が少女に手を出して妊娠させたとしても、よほどの有力者の娘でもなければ咎められることなどほとんどない。

 目の前の男はそれを知っているのだろう。

 そもそも親衛隊に属する男たちはそろって体つきも良い。

 細い四肢の少女など簡単に押さえ込むことなどできる。

 じっと凝視され、もう片方の腕を腰に回された瞬間だった。

 「マリー」の感覚が、その気持ちの悪さに粟立つように全身総毛だった。まるで、全身の毛穴が開いたような感覚だ。一瞬後、少女の細い腕が男の腰に伸びる。

 彼の装備したピストルをするりと抜き去った彼女は、流れるような動作で安全装置を外して撃鉄をおろす。

 今までかみ合わなかった歯車が、かっちりとはまった。

 まるで出来損ないだったパズルが、その瞬間に完成したかのように。

 ――ためらいもなく引き金を引いた。

 本来であれば「彼女」は銃の扱い方など知らないはずだった。

 眉間の間を正確に撃ち抜いて、脳漿と血液が飛び散っているというのに少女は顔色ひとつ変えずに、銃をおろした。さすがに片手で扱うというわけにはいかない。

 訓練を受けてもいないのだ。

 腕に響いた衝撃にわずかに眉をひそめただけで、ややしてから銃声を聞いて集まってきた高官たちに視線を巡らせた。

「シェレンベルクを呼んで」

 短く言い捨てる。しかし、決してその声が不機嫌そうなのかと言われれば、そうではない。いつもの通り柔らかな少女らしい声に、やはりパーティーに招待されていたハインリヒ・ヒムラーはその場に展開された状況に絶句する。

 公衆の面前で親衛隊員を殺すなど、そんなことがあっていいわけがない。

 わなわなと震えるヒムラーに、マリーはにっこりとほほえんだ。

「長官閣下、シェレンベルクと話しをさせてください」

 マリア・ハイドリヒ。

 彼女の微笑みは、ヒムラーには底知れないなにかを感じさせる。

 なにがどう、というわけではない。そしてそれを感じ取ったのはヒムラーだけではなかった。

 彼女は、平凡な精神構造を持つ人間とはなにかが違う。

 まるで大好きな菓子の話しでもするような、にこやかな笑顔で彼女は目の前に呆然と立ち尽くしているヒムラーにピストルを手渡した。

 それからしばらくして慌てた様子の屋敷の主人と、そしてシェレンベルクが到着するとそこはすでに人払いがされていた。一部の高官と、マリー。そしてその場には眉間を一発で撃ち抜かれた死骸だけが転がっている。

「……これはどういうことですかな?」

 自分の屋敷の中で人殺しが行われたヨアヒム・フォン・リッベントロップの声は硬い。当たり前のことだ。誰だって不機嫌になるだろう。

 そこはベルリンで、安全な場所のはずだ。

 戦場などではない。

「シェレンベルク、中央記録所に人をやってください。彼の記録があるはずです」

 静かに告げた彼女の言葉に、シェレンベルクは表情を隠すように片目を細めてから、リッベントロップとヒムラーを見やる。

「……この娘を拘束しろ」

 唇を震わせながら、掠れた声を発したヒムラーにヴァルター・シェレンベルクは、そんな親衛隊全国指導者を横目にしながら給仕に妻への伝言を頼んでから上官の言葉に従った。

 今のマリーは殺人犯だった。


 独房のベッドに腰を下ろしている少女に、困惑を隠せないのはゲシュタポの捜査官たちだ。

 多くの者が彼女の自宅――花の家ハウス・デア・ブルーメンに出入りしていた。その主人であるマリア・ハイドリヒが今、国家保安本部地下の独房に放り込まれている。

 罪状は殺人。

 外交官でもある親衛隊隊員を殺害した。

 しかも一発の弾丸で。

 訓練も受けていなければ、銃の扱い方すら知らなかった彼女が、”本当”に?

 それが彼らの一様の疑問だ。

「彼女が本当に殺人を?」

 虫も殺せないのではないかと思える優しい笑顔の娘が、人間の頭に発砲するなど信じられるわけがない。

 一方その頃、シェレンベルクは国家保安本部の中央記録書に親衛隊情報部の人間を回していた。もちろん半信半疑ではあったが、そこにはかつて生前のラインハルト・ハイドリヒが多くの人間たちの弱みを握るべく情報の集積に尽力した場所だ。

 報告を待ちながら、彼は自分のオフィスで椅子に腰を下ろしたままじっとなにもない空間を見つめている。ヒムラーは早くマリア・ハイドリヒの訊問をしろとせっついているが、なにかいやなものを感じて訊問に踏み切れない。

 ミュラーを制止しているのもシェレンベルクだった。

「失礼します」

 そんな彼のもとを訪れたのはラルス・シュタインマイヤーだ。

「どうした?」

「……”彼女”が逮捕されたというのは本当ですか?」

「本当だ」

 シュタインマイヤーの問いに応じたシェレンベルクは、それから考え込むようにしてから、目の前の年上のゲシュタポの捜査官を流し見る。

「どうした?」

 彼は殺人課の刑事であり、ゲシュタポだ。強靱な精神力で自分の感情に流されず、ナチス党(NSDAP)に流されることもなければ、反ユダヤ主義と言った馬鹿馬鹿しい民族主義にも流されない。

 彼は正真正銘の警察官だ。

 その忠誠心は任務にしか向けられていない。

「大佐、わたしは”彼女”がかつての連続少女殺人事件を犯したヨーゼフ・アーベントロートと同じ”もの”ではないのかと思って捜査をしておりました」

 長くもなければ短くもない沈黙を挟んでから、低くうなるように告げたシュタインマイヤーの言葉の意味が、シェレンベルクには今ひとつわからない。

「どういう意味だ?」

「……ヨーゼフ・アーベントロートという男は、特別な人間でした」

 特別な人間?

「続けろ」

「これです」

 一冊のファイルを第六局局長の前に提出したシュタインマイヤーはシェレンベルクが、ページをめくりながら視線を落とすのを見つめて言葉を続ける。彼は言葉を選んでいるのか、探しているのかゆっくりと発言した。

 ――彼は特別な人間だった。平凡な人間は、生まれついての悪も善もない。その心というのは家庭環境や生活環境で形成されていくものだった。アーベントロートの家庭環境は決して非常識なものではなく、当時のドイツ人のものとしては全く平凡なものだった。ごく普通にギナジウムを卒業して大学へと進学、優秀な成績で医学部を卒業した。どこから見ても性格や、人間性がねじれるようなものはなにひとつない、まっさらなものだった。だというのアーベントロートはごく幼い頃から動物虐待を繰り返していたという。

「アーベントロートの恐ろしさはそんなところにはありませんでした」

 言いながらシュタインマイヤーは目を伏せた。

 一見しただけではそうとわからない落ち着いた物腰と人なつっこい愛嬌のある笑顔。普通の殺人犯を相手に通用した観察眼が全く歯がたたなかったこと。

 まるで捜査をあざ笑うように新しい死体が出たことなど幾度もあった。そのたびにアーベントロートに疑惑の目を向けて事情聴取しても彼はいつものようになんでもない顔をしていた。

「奴に、良心の呵責などなかったんです」

「……殺人犯なら当たり前だろう」

 シェレンベルクの言葉に、シュタインマイヤーは「いいえ」とかぶりを振った。

「普通なら殺人犯でも挙動不審になることは少なくありません。自分の犯行がばれたりはしないかとか、捜査がどこまで進んでいるのか気になって仕方がないものなんです。それは大佐でもわかっていただけると思います」

 自分の行ったことに対して、他者がどんな反応をしているのかというのは誰でも気になるものだ。

「ヨーゼフ・アーベントロートを理解することなど、常人ではとうてい不可能です」

 苦しげに告げた彼は、そうして長い息を吐き出してから興味深げに自分を見つめてくるヴァルター・シェレンベルクに言葉を続けた。

「シュタインマイヤーでも理解できないか?」

「……本官が申し上げたいのは、彼女がアーベントロートと同じように良心の呵責を全く感じないタイプの人間だ、ということです。わたしは精神分析官ではありませんので確証は持てません。その筋の専門家に精神分析を依頼することもできませんので、なんとも申し上げられませんが、本官の予想が正しければ、彼女は人間として当たり前にあるものがおそらく欠落しています」

 長いシュタインマイヤーの言葉が終わって、シェレンベルクはファイルの中のアルファベットに目を細めた。

 それは膨大なヨーゼフ・アーベントロートの精神分析記録だ。

 こんなものがどうしてマリーを理解する一助になるのだろうか。

「それは、ご覧の通りアーベントロートの精神分析結果です。彼女のような人間を理解するためには必要なものであると考えます」

「そうか……」

 流し見ただけではこういったものは理解できない。

 精神科や心理学などシェレンベルクの範疇外だ。

「大佐、本官が彼女をブーヘンヴァルト強制収容所に連れて行ったのはひとつの狙いがありました。元々そういう疑惑を向けていたというのもあって、アーベントロートとマリーが同じ性質を持つのではないかと思い、彼らを観察したかったのです」

 だからヨーゼフ・アーベントロートとマリーを引き合わせた。

 あのときにふたりの間にあったのは恐ろしいまでの「無関心」だった。

「わたしはあのとき確信いたしました。彼らは同じ性質のものである、と」

 結果としてアーベントロートが発狂した理由は、シュタインマイヤーにはわからない。どうしてあの男が発狂したのか。なぜ、彼は自分の心の均衡を崩されることになったのか。

「……――ただ、これはゲシュタポの捜査官などには興味のない話しです。彼らにとって、アーベントロートが生まれながらに良心の呵責を全く感じなかったとしても、それが罪に影響するわけでもありません」

「なるほど、それでアーネンエルベが出張ってきていたのか」

 貴重な精神構造を持つ人間のサンプルとしてアーネンエルベがヨーゼフ・アーベントロートに興味を持っていた。

 そういうことだった。

「失礼します」

 シュタインマイヤーがそこまで話したとき、別の男の声が聞こえてふたりは我に返った。

「報告ご苦労、下がっていい」

 シェレンベルクはシュタインマイヤーに告げると、ナチス式の敬礼をしてゲシュタポの捜査官は執務室を出て行った。交代するように入ってきたのは六局の職員で、中央記録書に書類を取りに走らせていたのだ。

「ありました……」

「そうか」

 数秒考え込んだシェレンベルクは、ちらと視線を上げると受話器を上げた。身振りだけで男に退室を指示して彼が出て行くのを見送ってからダイヤルを回す。

「長官閣下、二時間後に”彼女”の訊問を開始します。お手すきでしたらお越しいただければと思います」

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