7 軋轢の有無
――”敵”は滅ぼせ。
その言葉に対してベストはちらりと一同を見渡してから軽く顎を撫でると改めて視線をリヒャルト・コルヘルのファイルにおろした。
諜報局長のふたりが握る情報量の多さはベストも知るところだ。おそらく、ベストが知らないことも多く把握しているに違いない。
「面白い情報は山ほどあります」
わずかに口元を歪ませながらほくそ笑むようにオットー・オーレンドルフはそう言った。
法律の専門家であり、経済の専門家でもあり、さらに国内情勢の専門家でもあるオーレンドルフは、無骨ながら国家保安本部内でも有数の切れ者だ。すでに十代の頃からナチス党に在籍し、党本部とはまた異なる観点からドイツ第三帝国の未来を憂えている。
彼にしろ、シェレンベルクにしろ現在、国家中枢を構成する知識人たちの多くが先の欧州大戦や、世界的な経済混乱時期などの不安定な情勢を素肌でもって経験していた。
先の大戦期、と言えば三十代から四十代の人間たちにとっては多感な時期にあり、さらについ十五年ほど前に起きた世界的な経済混乱期は、自身の生活を直撃した問題でもある。そうした苦難に満ちた経験をして、現在の彼らがあると言ってもいいだろう。
ナチス党に古くから所属し、古参党員バッジを胸に光らせる彼はそれでも党本部の掲げる全ての政策を諸手を挙げて受け入れているわけでもない。
そうでなければ”あの”ハインリヒ・ヒムラーが彼を嫌うなどと言うこともないだろう。もっともヒムラーの場合は彼よりもオーレンドルフのほうが古参党員であるということも気に入らない理由のひとつなのかもしれないが。
「まず、シェレンベルク上級大佐も知っていると思うが、ポーランド王の横領。奴は、清廉潔白を謳い、党への忠誠を誓って総統閣下にすり寄ってはいるものの、奴はたたけばいくらでもホコリがでる。これは、わたしが直々にコルヘル博士にお願いをさせていただいて、どれだけの規模になっているのかを調査してもらっている」
そこまで一気に言ったオーレンドルフに、シェレンベルクも人の悪そうな笑みを浮かべると、テーブルに並んでいる椅子の背を引きながらそこにゆったりと深く腰掛けてネーベに差しだされたファイルに視線を走らせる。
「ですが、ポーランド王については問題もありまして。まぁ、こちらも諜報部員を介して情報は確認しておりますが、いかんせんなかなか居丈高なかたでいらっしゃいますので、親衛隊からの介入があるとなればひどい反発を受けるかも知れません」
シェレンベルクがオーレンドルフの言葉をつなぐ。
おそらく自分の権力と、特権を維持するために最大級の反発を受けることになるだろう。そしておそらくその反発は、ナチス親衛隊の権力とヒムラー自身の権力も脅かすことになる。そうなれば自分の権力の縮小を恐れたヒムラーが国家保安本部の捜査に手加減を求めてくるだろう。
親衛隊全国指導者からの要請となれば、命令を無視するわけにはいかない。
国防軍の上層部には命令の受任の拒否をする権利があるらしいが、少なくともナチス親衛隊は軍隊ではないし、所属している彼らは軍人ではない。
「ポーランド王と突撃隊上層部が裏で繋がっているらしいという話しは聞いております」
シェレンベルクのその言葉に、ミュラーとネーベは顔を見合わせた。
――あり得ない話しではない。
ナチス親衛隊の権力拡大を恐れた突撃隊と、ナチス親衛隊の情報部を快く思っていないポーランド王。
敵の敵は味方、という理論もまかりとおる。
「ミュラー中将は突撃隊の上層部はあくまでも八年前に起こったレーム突撃隊大将らの”処刑”に関する件で、突撃隊が親衛隊に対して良い感情を持っていないことはご存じのはずです」
一九三四年の六月末に起こった長いナイフの夜と言われる突撃隊武装蜂起に対する粛正とも呼べる事件だった。
一九三四年と言えば、シェレンベルクはナチス親衛隊に入って一年ほどしてから起きた事件だ。それはゲシュタポによって捜査された事件だったから、当時は詳しい内容を知りようもなかったが、幸いハイドリヒの死と共に情報を一手に掌握することができるようになったシェレンベルクも詳細を知ることができた。
おそらくそれらの暗喩的な言葉を記す書類の記載によれば、ハイドリヒとヒムラーがその実権をレームから奪い取り、ヒトラーの突撃隊に対する信頼を地に落とすために画策されたものなのだろう。
そうして、ハイドリヒの思惑通り、突撃隊は事実上の実権を失った。
国防軍にとっても、政界にとっても、そしてナチス党にとっても、親衛隊にとってもレームの持つ権力は邪魔なものだった。
だから当時、彼らはレームらの突撃隊司令部を襲撃したのだ。
合法的なのかと尋ねられれば、それが合法的ではないことはわかりきっていることだが、時代とは得てしてそんなものだ。
シェレンベルクもオーレンドルフも、特に人道主義を気取るつもりはさらさらない。彼らはそうした横暴な権力の行使をこれまで何度も目の当たりにしてきたのだ。そして、彼ら自身もそんな横暴な権力の被害者でもある。
彼ら自身も中間管理職として、強大な権力に振り回され続けている、
「ポーランド王――ハンス・フランクも法律家だからな、一筋縄ではいくまいよ」
アルトゥール・ネーベが指摘すると、シェレンベルクとオーレンドルフは「まったくです」と頷いた。
ポーランド王。
そう揶揄されるのは、一九三九年にポーランド総督に任命されたハンス・フランクのことだ。
ポーランドの広大な占領地に君臨する尊大な帝王。
ちなみにこのフランクとゲシュタポ、国家保安本部との関係は余り好ましいものではなく現在に至って未だに解消されていない。
「もっとも、労働力配置総監とは随分と”良好な”関係を維持しているようではありますが」
ポーランド王――ハンス・フランク、労働力配置総監フリッツ・ザウケル、そして軍需大臣のアルベルト・シュペーア。この三人の間には巨大な「労働力」の流れができていることをすでに国家保安本部も掴んでいる。そして三人が同様に政治的な危うさも抱えていることをカルテンブルンナー以下の国家保安本部の面々はすでに看破している。
外国との戦争を行っている情勢で、安価な労働力を確保すると言うことは重要な課題である。そのために、ポーランドで得たユダヤ人をドイツ本国の労働力として移送して使用するというのは利にかなっている。
これによってドイツ国民が得る利益も大きい。
だからこそ、愚かな民衆はその事実に気がつけないままでいるのだ。
自分は安全な場所で、”快適な生活”を送っている人々は、なかなか現実を直視したがったりはしないものだ。
直視してしまえば、現実は自分たちが残酷な犯罪に荷担しているのだと認識させられることになってしまう。だから、彼らは自分たちの良心を守るために現実を見て見ぬ振りをする。
「……これについては、親衛隊のほうでもポール大将が指揮する強制収容所で同じ事が行われていますからね。突き崩すには少々危険が大きすぎるかと思われます」
おまえたちの強制収容所でも同じ事が行われているではないか、とでも言われればどう言い訳をしたものか。
なにせ、シュペーアの軍需省では国防軍の資金管理や、兵器開発などが行われているのだ。反して親衛隊経済管理本部でも同じように強制収容所の労働力を元手にして大財閥を運営しているのだから。
結局のところ、やっていることは同じ穴の狢。
「ポール大将に懐柔して、そちらから軍需大臣閣下と労働力配置総監閣下を動かし、すりあわせを行うという手もあるのかもしれません」
シェレンベルクがそう告げると、ベストは腕を組み直してから小首を傾げた。
「だが、シュペーアは曲者だ」
たかが建築家の分際。
そう切り捨ててしまうには正体不明の切れ者。
なにを考えているのか、それがベストにはわからない。マリーの仕事の関係でナチス党首脳部、及び政府要人の周辺を洗っている特別保安諜報部首席補佐官のヴェルナー・ベストには、穏やかな笑顔をたたえる若いヒトラーのお気に入りが得体の知れないものに映っている。
「確かに彼には、そうした謀略の素養があるかもしれません」
冷静なベストの言葉に応じたシェレンベルクは、ゆったりと深く椅子に腰掛けたまま泰然とした姿勢を崩さずにいる。彼にとってはある程度予想の範囲内なのかも知れない。
今、ヴェルナー・ベストの目の前にいる国内屈指の大物スパイであるヴァルター・シェレンベルクと、若き建築家であり軍需大臣のアルベルト・シュペーア。はたしてどちらがより謀略に長けているのだろう。
冷ややかにベストの前でほほえんでいる三十代前半の青年は、うつむきがちな横顔に唇をかすかにつり上げている。
彼のそんな表情を見る度に、彼はやはり生粋の諜報部員であるのだということを実感させられる。
「オーレンドルフ中将、どうやら軍需大臣閣下と労働力配置総監閣下の動きを探る必要性があるのかもしれませんね」
「それはわたしの仕事だな」
シェレンベルクの言葉にオーレンドルフが応じた。
「では、わたしはポーランド王の周辺を洗いましょう」
いろいろと忙しいことこの上ありませんが、と言いながらシェレンベルクは立ち上がるとベストを含めた四人の親衛隊中将に「ハイル・ヒトラー」と敬礼をしてから、短いあいさつをして会議室を出て行った。
それからしばらくして会議を終えたヴェルナー・ベストは、執務室で真剣な顔をしてマリーと顔をつきあわせている次席補佐官のハインツ・ヨストの姿を認めることになる。
「やぁ、会議は終わったのかね? ベスト中将」
ハインツ・ヨストの声に出迎えられて、ベストはヨストのそんな言葉にむっつりとした顔で通りすがりにマリーの金色の頭を長い指先で軽くかき回した。
「それで、どうしたのだね? ヨスト少将、マリー?」
「マリーがそろそろ国家保安本部にいるのも飽きているようだ。なんでもシェレンベルクがマリーをストックホルムに連れて行きたいと計画しているらしいが、その荷造りもしたいし、どうだろう。護衛をつけて買い物くらい許されるのではないかな?」
ヨストのやんわりとした提案にベストは不機嫌そうに鼻から息を抜く。
「仕事が面白いも面白くもないだろう」
「それはそうですけど……」
苦情を告げるベストにマリーは唇を尖らせて口ごもると、一方でハインツ・ヨストがやれやれと苦笑しながら書類棚の前にある自分の執務机から立ち上がると、ベストの机の前でふくれっ面になってしまっているマリーの横に立つとその肩に片手をおいた。
執務机についているベストの姿はいかにも堂々としていて、これではいったい誰が部屋の主かわからないような有様だが、マリーもヨストも。そしてベスト自身もあまり気にしてはいない。
あくまでもマリーと自分たちの関係は対等なのだ。
彼女に足りない部分を、ベストとヨストが補っている。もちろんマリーの足りない部分など多すぎて、それは時にふたりの補佐官を困惑させるほどの無知を晒すこともあるが、そんなところもなぜだかかわいらしいと思ってしまうこともある。
「しかし、君はどうも私物がなにもないらしいからな。必要なものがあるなら買いに行ってきなさい。それと、国防軍のハルダー上級大将が……」
言いかけてから首席補佐官は訂正した。
「あぁ、いや今は元帥か。ハルダー元帥閣下から、近く顔を出すようにということだったから行ってきなさい。くれぐれも失礼な態度をとらないように」
陸軍総司令部参謀総長――フランツ・ハルダーは東部戦線の功績によって上級大将から元帥へと昇進した。この昇進には、パウルスやカイテルらからの強い推薦がヒトラーにあったらしい。
「やったー! ベスト博士! ありがとう!」
やっと外出の許可をベストから得たマリーは、彼の机の前でぴょこんと跳び上がるとそのまま彼の横に移動してベストに抱きついた。
「なにもそんなに喜ばなくてもいいだろう……」
彼女は国家保安本部の中で自由に振る舞っていた。そんな彼女が一時の身の安全と、組織の安全のためとは言え、意志に反してプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセに押し込められていれば、それは退屈にもなるだろう。
「ハルダー元帥閣下には、わたしからも君の護衛には充分に配慮するよう伝えておく」
抱きついてきた痩せた体を無造作に引きはがしながら、ベストが告げるとマリーの方は無邪気な様子でベストに対して買い物につきあうよう誘いかけてくる。
「そんなことは暇そうな国家保安本部長官にでもつきあってもらえば良かろう」
ぞんざいな彼の言葉に、マリーは元気よく「はい!」と返事をするとそのまま執務室を飛び出していきそうな勢いのマリーを慌てて呼び止めた。
「待ちたまえ、マリー……!」
「はい?」
「長官閣下には、暇そうにしているだろうからなどとは言わんようにな」
「はーい」
パタパタと小走りに駆け出していくマリーを見送ってから、ベストはヨストを見やってからやれやれと長い溜め息をつくと右手の人差し指と親指で両目を押さえると肩をおとした。
「あの子は口が軽いのが難点だ」
「本当はベスト中将が一緒に行きたかったんじゃないのか?」
からかうようにヨストが言うと、ベストは目を上げてから軽く睨み付けると憮然としたままで椅子に背中を深く預ける。
ヨストの言う通りだった。
彼女の補佐官である、という自分の立場がなければマリーの買い物につきあってほしいという頼みをふたつ返事で了解しただろう。
それでも堅物の彼に、公私混同など許されはしない。
「貴官も相当堅物だな」
クスクスと笑うヨストに、ベストはフンと鼻を鳴らすと「ヨスト少将はそんなだから昇進できんのだぞ」と嫌み混じりの言葉を告げるのだった。
「昇進できんのはベスト中将も同じだろう」
面白そうな顔のままで指摘するハインツ・ヨストに、ヴェルナー・ベストは反論する言葉を見つけられずに頬杖をついた。




