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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XV 方舟
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6 敵の存在

 この夏、年の初めに行われたヴァンゼー湖畔での会議の出席者のひとりでもある判事――ローラント・フライスラーは人民法廷長官に任命された。

 生粋の国家社会主義者を自称するフライスラーの裁判官としての姿は、”本来の”裁判官としての姿からはほど遠く見えるだろう。もっとも、もとより国家の敵、あるいは人民の敵、あるいは民族の敵を裁くためだけに設置されているのが人民法廷であるのだが、それにしたところで、と会議室の一室でハインリヒ・ミュラーとアルトゥール・ネーベを前にして、かつての国家保安本部人事局長であり、現在の特別保安諜報部首席補佐官でもあるヴェルナー・ベストは厳しい眼差しのまま、ベスト自身と同じように法律の徒である同僚のヘルベルト・メールホルンから手渡された書類を睨み付けていた。

 そこには開かれたファイルがあり、挟み込まれているのはいくつもの数字が打たれた表だった。制作したのは先日、刑事警察の捜査で活躍したリヒャルト・コルヘルだ。なにぶんコルヘルの作った報告書なのだから、おそらく限りなく正確であろうというのがメールホルンの言葉だった。

 限りなく真実に近いだろうと思われる推論。

 捏造された報告の下から垣間見えるものを、コルヘルは正確に見極める。

 そんな才能が天才的な統計学者にはあった。

 ローラント・フライスラーは人民法廷の長官ではあるが、人民法廷にフライスラー以外の裁判官がいないわけではない。そしてコルヘルの報告書を前にして、ハイドリヒの元で鍛え上げられたはずの百戦錬磨の法律家はギョッとして肩を揺らした。

 確かに戦時下にあって国家統制のために必要な判断は下されなければならない。それも人民法廷の役目のひとつとも言える。そしてベスト自身も、その必要性を否定しないわけではない。

 本来の目的がそもそも、国家社会主義の敵を抹殺することにあり、それはナチス党の敵を抹殺する事とも言える。しかし、人民法廷には当然、いくつかの刑罰が存在しているはずだというのに、フライスラーが長官に就任してからの人民法廷は更に異様な様相を呈していた。

 それはベストをもってして、「異常」だと思わせるもの。

 フライスラーが裁判長を務めた時の判決の内容が明らかに異常すぎて、多くの修羅場を経験してきたさすがのベストも二人の警察局長官を前にして重く沈黙したきりだった。

「”奴”の担当した裁判だけ突出して死刑が多い」

 アルトゥール・ネーベのつぶやきに、ミュラーはひとつ頷くとこつりと人差し指の先で会議用の長テーブルを軽くたたいた。

「フライスラーが人民法廷に移ってまだ二ヶ月でこれだ。どうせろくな審議などしておらんのだろうさ」

 容易に想像できる裁判の様子を想像して、侮蔑をこめて吐き捨てたヴェルナー・ベストはややしてから片目を細めると、機嫌の悪さのままフンと鼻を鳴らす。

 乱暴になりがちなベストの言葉が、彼の苛立ちを如実に伝えていた。

「どうやら、品性と知性というものは両立しないものらしい」

 知性を持つ者がそれに相応しい品格を身につけるわけではないようだ。

 遠回しな表現で吐き捨てたベストにしては珍しくひどく機嫌が悪そうだ。最近、特別保安諜報部の執務室にいるときの彼はマリーに対して苦言を申しつけているときでさえ、もっと暖かみを感じるし、穏やかだ。

 そんな彼があからさまに苛立っている。

「知性と品格の両立、か」

 ふむ、と相づちを打ちながら小首を傾げたハインリヒ・ミュラーは「自分はたかだか田舎警察だからわからんが」と前置きをしながら口を開く。

 ちなみに生前のハイドリヒのインテリ嫌いも相当なものだったが、実のところゲシュタポを指揮するミュラーも元来相当なインテリ嫌いだ。

「なかなか難題なのかもしれんな」

 人間の性格とは、その人物の生活してきた環境に大きく左右される。衝撃的な体験をしてしまえば、成人してから性格がまるで変わってしまうと言うこともあり得るのだ。

 そうした表現をするならば、知性も品性もどちらも「独立」して存在していると言ったほうが良いのかもしれない。

 ただ、たまたま知的活動を行う人間の方がより良い社会的地位を得て、その活動範囲が広いためにそうした社交的素養を求められることが多いというだけのことなのかもしれない。

 ミュラーのような警察官僚にはとんと縁のない話しだ。

 フライスラーの人民法廷。

「しかし、”必要な手段”にしたところで多すぎる」

 これではドイツ第三帝国という国を支える全ての知識人たちが、人民法廷の権力を恐れて萎縮してしまうようなことになりかねない。

 事実上、アドルフ・ヒトラーによる独裁政権のようなものであるが、それが一億人近い人間が存在している国家としてのあり方として好ましいわけもない。当然のことながら、現在権力を握る高官たちですら、いつか彼の権力が自分に及ぶのではないかと声をひそめる事態になるだろう

「判決の後に即日処刑、か」

 ネーベはまるで独り言でも言うようにうなりながら、その書類を見つめている。うつむき気味のためなのか、わずかに影が差している彼の顔は、やや血色が良くないようにも見えた。

 一方のヴェルナー・ベストは入室してきたときと同じ苛立たしげな表情のまま、なにか言いたげに口を開きかけるのだが、結局口を閉ざしてしまっている。

「もっとも、国家保安本部(我々)がやっていることも、大してほめられたものではないが。問題は……」

 自分の顎を撫でてから、ゲシュタポ・ミュラーと呼ばれるその男は、これから狩りに挑む肉食獣のような獰猛さをたたえて目をそっとすがめた。

「問題は大した権力も持たない一般人にしかすぎんくせに、我が党の党員であると言うだけで、自分が権力者にでもなったつもりの連中がいることだな」

 鋭いミュラーの指摘にネーベはファイルから視線を引きはがして顔を上げる。

 ――自分たちはナチス党の迎合者であり、賛同者であり、協力者であるからこそ、安全な場所にいると勘違いしている愚か者。

 時にそうした輩ほど、厄介な裏切り者はいない。

「しかし、どうするのだ? フライスラーが”連中”にとって都合の良い道化であることはともかくとして、親衛隊員でもない以上、親衛隊法制局の権力の及ぶところではないし、いかんせん”我らがハイニー”のことだからな。総統閣下直々に圧力がかかると考えれば、尻込みするだけで彼の発言力など期待するだけ無駄だろう」

 親衛隊全国指導者――ハインリヒ・ヒムラーを容赦なくこきおろしてミュラーがそう告げると、同じテーブルについているアルトゥール・ネーベはコーヒーカップをつまみ上げながら「うーむ」とうなる。

 一番手っ取り早い方法は、ドイツ中枢の権力と、国家保安本部の権力を早急に切り離し後者を独立させることなのだが、ラインハルト・ハイドリヒが生存していたときでさえ、それは困難を極めていたのだ。実質的な問題として、ヒトラーを中心とした政府中央と、彼らが所属するヒムラーのナチス親衛隊とはまた異なる「政治的集団」を作るとなれば、ヒトラーが黙って見過ごすわけはないしその計画を極秘に進めることなど困難なことであるのは簡単に想像できる。

「大根役者など役立たずの道化だが、奴が持っている権力は厄介なこと極まりないな」

 大根役者――。

 人民法廷長官などと言えば聞こえは良いが、要するにヒトラーにとって都合の悪い人間を始末するための機関だ。特にフライスラーがその席に着いてからの死刑判決は類を見ない勢いで伸び続けている。

 こんなことではいけない。

 それがヴェルナー・ベストの頭の中で響く警鐘だった。

 フライスラーの権力が問題だ。

 そう告げたネーベはなにか思うところでもあるらしく、どこか慎重な態度を崩さずにいるのを、ベストは見て取った。

「せいぜい、大根役者だからこそ役に立つ、とでも思われているのだろう」

 熱狂的な国家社会主義者。

 ローラント・フライスラーの存在が諸刃の剣だということを、彼を扱う人間たちは理解しているのだろうか?

 ヒトラーの腰巾着。

 それがベストのフライスラーに対する評価だった。

 いつか戦争が終わり、国際司法の場で他国と対峙するだろうその時に、公正さを欠いた法律家などの存在は国家の名誉を非常に傷つける事態となるだろう。

 容易に予想できる事態がベストは頭痛を感じて、鼻から息を抜くと盛大な溜め息をついた。

 もっとも、フライスラー本人がベストらのやりとりを耳にすれば、それこそ怒り狂った甲高い声で叫ぶように糾弾するに違いない。

 その様が目に浮かぶ。

 何度目かの吐息をついたヴェルナー・ベストは表情を余り変えることもなく、ネーベとミュラーに視線を走らせた。

 ベストは今でこそ局長級の役職から辞し、降格されたような形で部長補佐官という地位におさまっているもののそれを簡単に受け入れられたわけではない。

 親衛隊長官からの命令であったから、拒絶できるわけもなくてやむなく「彼女」の補佐官として着任した。

 どうして自分がこんな小娘の相手をしなければならないのかという苛立ち、焦燥。そうした感情を抱えながら、かつて自分を追放した国家保安本部に再度着任した。

 今、目の前にいるミュラーとネーベと肩を並べ、共に国家保安本部での任務に当たっていたこと。

 それが今は部長補佐官だ。

 つまり、彼らとは同格ではないという結論に達したベストは、左遷に続く左遷に苛立つままマリーの補佐を続けていたが、それでも親衛隊中将という地位から降格されたわけではない。

 ややこしい状況だが、実のところベストのポジションを真剣にうらやましがっているのは当のハインリヒ・ミュラーと国家保安本部長官のエルンスト・カルテンブルンナーだったりする。

 もっともベスト自身はそんな自分の地位を羨ましいものだとは思ってはいない。

 裁判というものは検察側と弁護側の騙しあいの場であるのだが、この人民法廷という場に至っては弁護士などあってないようなものだ。

 ただただ一方的な裁くためだけの一方的な裁判が展開される。

 そんなことを考えているベストとて、今は冷静沈着で親衛隊知識人の筆頭として扱われているが、若く血気盛んだった頃は”やんちゃ”もした。

 けれど、そうした情熱的な青少年時代を経て、人とは正しく「大人」へと成長していくものなのだろう。それがフライスラーのようにいつまでも自己というものを確立されることもなく、他者の道具であり続けるなど、知性の人でありながらなんと未成熟なことだろう。

「問題は、誰が大根役者を利用しようとしているか、だが……」

 静かに響いたベストの声にネーベは弾かれたように顔を上げた。

「もちろん第一のグループは殿上人の御方々だろう」

 続けられたベストの言葉にミュラーが首を傾げた。

 フライスラーは殿上人にとって都合の良い腰巾着。

「第二のグループは?」

「御方々の尻馬に乗りたい小物連中だな」

 第一と第二のグループは容易に想像できた。

 ちなみに第二のグループには、ベストら自身も入っていることになる。

「仮に、第一グループの足元を崩すことができれば、残りは自然消滅するということか」

 フライスラーの権力は現状では多方面から支えられている。それを崩すための方法が今のところ見えてこない。

 そもそもフライスラーがすり寄る「ナチス党」の権力者たちの弱点を突き崩すということは決して得策とは言えなかった。今の自分たちの権力を維持しつつフライスラーのような体制維持の邪魔になるような人間は排除する方法を考えなければならなかった。

「ひとつ気にかかるのはどうして連中が、我々の組織内にいるたかが秘書程度に目をつけたかということだ」

 ヒムラーでもいくらでも言い訳などできたはずだ。

 彼らはすでに矯正された、とでも言っておけば実態など知らない組織外の人間は勝手に納得するものだ。実際、当人たちが矯正されていようが、いなかろうが、現在会議室に座る三人の親衛隊高級指導者たちには関係がないことだ。

 少なくとも、マリーはハンス・ショルとソフィア・マグダレーナ・ショルの両名の手綱を握っているように見えた。

「どうせ、ショル家が反体制側の人間だとでも言いたいだけだろう」

 ベストがにべもなく告げると、ミュラーは腕を組み直す。

「くだらんな。実にくだらん。……連中の目は節穴か」

 ここをどこだと思っているのだ。

 低く吐きだしたハインリヒ・ミュラーの言葉にベストは苦々しげに舌打ちを鳴らした。

「ここは国家秘密警察(ゲシュタポ)の中枢で、刑事警察(クリポ)の中枢だ。加えて、多くの諜報部員と情報将校が出入りしているということをわからんのか」

「おそらく内通者がいるのだと思われます」

 静かに扉が開く音と同時に若い青年の声が響いた。

「内通者?」

「はい、フライスラー判事につながるなんらかの内通者の存在です」

 会議室に連れだって入ってきたのはふたりの諜報局長で、片やは国内諜報局長のオットー・オーレンドルフ親衛隊中将、片やは国外諜報局長のヴァルター・シェレンベルク親衛隊上級大佐だ。

「”連中”の足元がぐらついているのは今に始まったことではないことを、ベスト中将もご存じのことでは?」

 オットー・オーレンドルフのぞんざいな物言いに、ヴェルナー・ベストは目玉を動かしてから薄い唇を引き結んだ。

「それもそうだが……」

 そこで問題となるのは、それを追及するための組織が脆弱すぎることだった。

 今の国家保安本部の権力では足りない。かといって、これまで築き上げてきたその悪名は払拭できないところまで高まってしまっていて、国防軍側との連携も不可能だ。なによりも問題となるのは、ナチス親衛隊と他の組織との不仲である。

 ドイツ国内の組織の一部では反ナチス親衛隊(SS)的な風潮さえ出始めたと聞いている。それをなんとかしなければならないが、現状としてはどうすることもできはしない。

「国家保安本部の敵は”ドイツの敵”だということを忘れていませんか?」

「……”敵”は滅ぼせ、ということか」

 オーレンドルフの言葉を聞きながらネーベがぽつりとつぶやいた。

 ――叩きつぶせ。

 それがどんな権力の持ち主であれ、「ドイツの敵」になるのであれば叩きつぶさなければならない。

 ラインハルト・ハイドリヒの生前の言葉を「曲解」するとそういうことだった。

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