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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XV 方舟
187/410

5 灯籠

 当初、マリーが親衛隊将校として採用されたときは、当然のことだが、親衛隊員たちからの評判は余り良いものではなかった。

「とうとう我らが”ハイニー”が狂ったに違いない」

 当の国家保安本部内ではそう囁かれもした。

 しかし、彼女と交流するにつれ国家保安本部内のそうした悪口雑言の類は払拭されつつあった。

 彼女は居丈高な親衛隊婦人補助員らとは違う。

 ドイツ全土で唯一の親衛隊女性将校でありながら、兵士や下士官、下級指導者らに対して見下すような態度をとるわけでもなければ、その地位を振りかざして威張り散らすわけでもない。

 普通にしていれば親衛隊将校らしさなどかけらもないマリーに向けられる眼差しはやがて、穏やかなものへと変わっていった。

 とはいえ、未だに彼女の存在が公にされているわけではないため、あくまでも国家保安本部の一部のみでの認識に過ぎないわけだが。

「……この写真なんてよく撮れていると思いませんか? 少佐殿シュトゥルムバンヒューラー

 最近ではライカのカメラを手にした親衛隊の広報担当の若いカメラマンが、特別保安諜報部の執務室に入り浸っていて、それが堅物のヴェルナー・ベストのこめかみに青筋を立てている原因になっている。

 マリーの執務机の上には何枚ものカラー写真と白黒の写真が並べられていて、それを指さしながら青年カメラマンは機嫌良さそうにマリーになにかを説明していた。

 彼女が仕事に復帰して以来、プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセに押し込められて、退屈してしまっているマリーは長い睫毛を揺らしながら大きな青い瞳をキラキラと輝かせてカメラマンの青年の言葉を聞いている。

 驚いて振り返るマリー。

 国家保安本部の高官たちと立ち話をしているときのマリー。

 大柄な赤いシェパードに追い回されているマリー。

 生き生きと、そして躍動的な写真の数々は素晴らしい。

 ……しかし、とベストはむっつりとしたままで眉尻をつり上げた。

「……マリー」

 ベストの低い声が響いた。

「はい」

 机を囲んで写真の話しで盛り上がっているふたりの姿に、仕事中でなければほほえましいものも感じるのかも知れないが、残念なことに今は仕事中で、場所は天下の国家保安本部だ。

 表向きは一応、ヒムラーの私設警察部隊という名目があり、部署長のマリーはそれほど忙しい身の上ではないということになっているが、それでもベストやヨスト、そしてメールホルンらの仕事を統括するという彼女なりの仕事があるわけだ。

「今の君が護衛付きでなければオフィスから好き勝手に出歩くことができないことは丁度良い」

 ベストの重々しげな言葉に、書類に視線を走らせていたヨストがちらりと目を上げると、一方でデスクの上に散らばった写真を、そそくさと片付けているカメラマンの青年が視界に入る。

 ――もちろんわたしの仕事は、多くの写真を撮影して今後の情報のひとつとして活用することですが、被写体としては面白くないじゃないですか。

 ヨストが以前、個人的に「どうしてマリーの写真など撮影するのか」と尋ねたところ、そうした言葉が返ってきた。要するに、カメラマンの青年としてはマリーの方が被写体としては「おもしろい」らしい。

 確かに、ナチス親衛隊の高官たちを写真におさめることは重要な仕事だろうが、カメラを仕事の道具にしている以上、かわいらしい女の子の姿も撮影したいと思うだろう。

「なるほど、それならば親衛隊婦人補助員のお嬢さん(フロイライン)方を撮れば良いのではないかね?」

 素直にそう問いかけたヨストに、青年は視線を頭上に上げてから数秒考え込んだ。

「……”制服の”女性陣を、ですか?」

「別に、彼女らとて私服の時はあるだろう」

「ですが、わたしとしては面白くありませんね。カメラにポーズを取るだけなら誰だってできます。しかし、わたしはポーズをとって作り笑いを浮かべたポートレートを撮りたいわけではありませんので」

「そんなものか?」

 将校らのポートレートを撮影することも彼の仕事だった。しかし、青年はその仕事が楽しいと思ったことはあまりない。

 躍動感溢れる、情緒的な写真を撮影したい。

 平和な時であれば、写真家にでもなりたかったのだ。

 そう言った。

「他のカメラマンがどう思っているのかは知りませんが、わたしはもっと魂に訴えることができるような写真を撮りたいと思っています」

 それこそが、自分がカメラを構えるプライドだと。

 彼が撮影したマリーの写真はどれもこれも見事なものだ。日常を切り取ったものから、明るく笑っている笑顔は眩しいほどで、一部の者たちからは青年が「光の魔術師」とまで言われていることをヨストは知っている。

 それほど彼には写真を撮影するセンスが光っていた。

 そのうちこの男はマリーの写真集でも出す勢いではなかろうか、と首を傾げながらベストとマリーのやりとりを見守っていると、親衛隊のカメラマンの男は封筒に写真を詰め込むと控えめに会釈して部屋から出て行った。

 どうやらベストの機嫌を損ねたという自覚はあったらしい。

 もっとも、とヨストは思う。

 そんなにベストの機嫌など気に掛ける必要などないだろうに。

 あくまでも特別保安諜報部はマリーの部署なのだから。

「君がオフィスをでれないのは幸いだ」

「……はい」

 ベストのきつい言葉使いとは対照的に、マリーの返事は消えてしまいそうなほど小さいが、そんなやりとりもヨストはすっかり慣れてしまった。

 どうせベストはこの世間知らずなマリーの父親にでもなったつもりなのだろう。

 世間知らずで空気を読むことが苦手な彼女を自分が教育しなければならないと思い込んでいる。本当は、彼女の存在こそがヨストとベストの精神を救っているというのに。

 少なくともベストはまだその事実に気がついていない。

 ――幸いですか……。

 またなにか口やかましいことを言い出すのだろうと、身構えているマリーは自分の目の前に置かれている細身の万年筆を右手の人差し指で転がしながら、ベストの言葉を待っていた。

「君は、君が休暇中にゲッベルス大臣とリッベントロップ大臣、そしてフライスラー判事の突きつけてきた一件についてどう対処するつもりなのだね?」

 問いかけられてマリーは再び首を傾げると、三人の人物の名前を口の中で繰り返した。

「フライスラー判事というと、ショル家についての報告書ですか?」

 すっかり忘れていました。

 そう付け加えてから、やっと思い出したとでも言うように、自分の机の据え付けられたひきだしを引いて開けるとがさごそと中の書類を探している。どうにも整理はあまり得意ではないようだ。

 そもそも、彼女は自分の考えを含めて、物事を整理して片付けようという考えがないようだ。

 その場その場の思いつきで行動しているようにも見える。

「そんなことになるだろうと思っていたからな。書類はここにある」

 オリジナルの報告書を輪転機にかけてコピーしたものだ。

 鼻先に報告書のコピーを突きつけられたマリーは、自分の左横に立っているベストを視線で見上げてから「ありがとうございます(ダンケ・シェーン)」とつぶやいた。

「それで、本当にどうするつもりなのだ。人民法廷にでしゃばられたら、立場が危ういのは我々のほうだろう」

「……そうですね」

 ベストの続けた言葉に、報告書に改めて視線を滑らせている彼女は、かすかに両目を細めてから自分の横に顔を向けると、ベストの制服を軽く引く。

「でも、この報告書には虚偽があります」

「そうだ」

 禅問答のようなふたりのやりとりを聞きながらヨストは書類の束を立てて机に打ち付けながら端を揃えると姿勢を正す。

「”まだ”彼らはなにもやっていません。無実のドイツ国民、それも知識人の卵たちを犠牲にすると言うことが、正しいやり方だとは思えませんけど……」

「だが奴らには攻撃するにはうってつけの材料だろう」

 ベストが応じると、マリーは口元に片手をあててうなるように小さな声を上げているがそんな横顔もどこかかわいらしくてヨストは苦笑した。

 もっとも彼女と彼の間で交わされる言葉の血なまぐささは、苦笑どころの話しではない。

「それに、君はショル家のふたりを国家保安本部に引き込む時点ですでに計算していたのではないのかね?」

 問い詰めるようなベストの言葉にマリーは、彼の制服の裾をつかんだままなぜか頬をふくらませていた。

「……買いかぶりです」

「そうかね?」

「そうです」

 ショル家のふたり。

 そもそもショル家自体が、反体制派の思想に取り憑かれているとして国家秘密警察(ゲシュタポ)にマークされていたのだ。特に、その子供たちは、子供たちであるゆえに自分たちが正義だと思うものに対して素直な行動をとったにすぎない。

 もちろん百戦錬磨の法律家であると自称しているハインツ・ヨストやヴェルナー・ベストから見ればひどく稚拙極まりないものだが、得てして子供というのは”そういう”ものだということを彼らは知っていた。

 自分の狭い世界の中で培った、自分の正義を振りかざす。

 それがはたして正しいものなのかは知らずに。

 向こう見ずであるからこそ、子供たちは純粋でいられる。そんな強さが年を取ったベストやヨストには時に羨ましくも感じられるというのに、子供たちは大人たちの思いなどに気づけずにいる。

 自分にもそんな時代があった、とベストは自嘲した。

 けれどもそんな彼らにとって最も身近なはずの子供であるマリーは、余りにも彼らが認識する「子供たち」とは一線を画している。

「わたしには時々君がわからなくなる」

「ベスト博士」

「なんだね」

「……考えすぎですよ」

 言いながらにっこりと笑った彼女に、ヴェルナー・ベストは肩を落とすとマリーの手に自分の制服の裾を掴ませたままで机の上に置かれた書類のコピーを取りあげた。

「ハンスもゾフィーも、”まだ”なにもやっていません。それに、彼らはだからこそ”役に立つ”んです」

「……釣り針にでもするつもりかね?」

 ベストが穏やかに問いかける。

 ――釣り針。

 反体制派とつながりを持つと予想されるショル家の不穏分子をこともあろうか、国家保安本部がかくまっていることは、我がナチス党のヒトラー政権にとっては大きな損失であり、かつ政権に対する反逆行為である。

 そう記された報告書に、ベストは目を落とした。

 ショル兄妹の身柄を特別保安諜報部に置くことがどれほど危険な冒険的な行為であるかをベストは彼らの父親――ローベルト・ショルと面会したときからわかっていた。そして、彼らの身柄を国家保安本部で「人質」とすることにより、ショル家の権利を保障する。

 それが国家保安本部とショル家の間で交わされた密約だ。

 もっとも、ゲシュタポが律儀にそれらを確約してやる義理はないから、事実上ショル家にとってハンスとソフィアの存在はゲシュタポの人質のようなものだった。

「……さぁ?」

 冷ややかともとれるほど、静かに笑ったマリーはけれどもいつもの調子でぼそりと明朗に響く声で独白した。

「でも、わたしは、わたしのおもちゃに手を出そうとする人のことなんて許したりしないんだから……」

 穏やかに、明るく朗らかで。聞いているだけなら誰もが午後のおやつの話しをしているとでも勘違いしそうな声で。けれどもどこまでもその内容は冷徹に響いたような気がして、ふたりの会話を聞いていたハインツ・ヨストは視線を横に流した。

「それにベスト博士はハンスとソフィアの有用性は薄々気がついているはずです」

「……それもそうか」

 マリーの言葉に納得したベストは頷いてから、彼女の執務机の片隅の内線電話の受話器を上げた。

 ――ショル家の身柄を確保したマリーの真意。

 それにベストもヨストもややしてから、気がついていた。

 彼らの存在は「国家保安本部」に対抗、もしくはその存在を貶めようとする者たちを引っかけるための釣り針だ。あからさまに不穏分子として服を着て歩いている彼らを標的にすることによって、頭の足りない反国家保安本部陣営をつり上げる。

「ベスト博士は知っているはずです」

「もちろん」

「”わたしたち”のことを快く思っていない人間は、ドイツ全土にたくさんいるんです、彼らの牙を抜き、屈服させ、服従させることはドイツの治安維持と現体制の維持には重要な案件なんですから」

 わたしたち――それは特別保安諜報部を指しているのではない。

「ミュラー中将、わたしだ」

 静かに明晰なベストの声が執務室に響いた。

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