4 秘密警察の衝突
ソビエト連邦で起こった軍事クーデターという予測もしていなかった「事件」のために、たまたまドイツ国防軍はソビエト連邦の国内事情も相まって勝利することができた。
――最近は、国家保安本部の周りで不穏な事態が続いていたから、少しは連中もおとなしくなると思っていたというのに……!
そもそも、国家保安本部は嫌悪の対象になっても当然ではあるのだ。
ゲシュタポ、という秘密警察の存在によって、多くの人間たちから恐れられる。そしてまたその存在が国家保安本部の捜査員、情報将校や諜報部員のみならず、ドイツ軍、あるいは武装親衛隊たちの制服を身につける者たちをも危険に晒すこと。
東部戦線が一応の終結を見せたことによって、国防軍と国家保安本部、そして武装親衛隊の配置も大きく変わってきている。
特に、天然痘の流行のためにほぼ膠着状態が続いている北アフリカ方面には、大規模な空軍の移動が行われていた。
一方で、ソビエト連邦内には、国家保安本部の部隊が残留してスターリンら戦争犯罪人たちの捜索を続けている。
同時に、国家保安本部長官――エルンスト・カルテンブルンナーが下した命令は、かつてスターリン体制にあった当時の内務人民委員部の政治将校の全ての引き渡しを要求した。これに伴い、大半のスターリン体制維持の率先的な協力者たちの引き渡しは行ったものの、新たな国家元首として君臨するニキータ・フルシチョフは、自陣営の樹立のために働いた一部の政治将校たちの引き渡しを拒み、このために両者の間で協議が行われている。
このカルテンブルンナーの名代としてモスクワ入りしているのがフンベルト・アッハマー・ピフラーダーの指揮下にあったエーリヒ・エーアリンガーと、ラトビアで保安警察及びSD司令官を務めていたルドルフ・ランゲだった。
両名共に法律の素養を持つ知識人で、国家保安本部内では行動部隊A隊の指揮下で辣腕を振るった。余談ではあるが、ランゲもエーアリンガーも国外諜報局長を務めるヴァルター・シェレンベルクとは同年にあたる。
国家保安本部の高官たちの「消耗」を押さえる必要がある。
それをカルテンブルンナーは感じていた。
「失礼する」
特別保安諜報部の執務室を訪れたブルーノ・シュトレッケンバッハは、昼食の時間だというのに机についたままで山になっている書類に視線を走らせているかつての人事局長でもあるヴェルナー・ベストに視線をやった。
窓際にある大きなオーク細工のデスクの主はおらず、書類棚の前にある机の主であるヨストもいない。
時刻は昼の十二時半を回っており昼食のために執務室からいなくても当たり前のことだ。
かつての国家保安本部長官、ラインハルト・ハイドリヒは親衛隊の知識人たちに言葉での忠誠以上に行動での忠誠の顕示を求めた。そのため、多くの国家保安本部の高官たちが戦場における治安維持活動を行うこととなった。
ブルーノ・シュトレッケンバッハや、オットー・オーレンドルフ。アルトゥール・ネーベも同様にアインザッツグルッペンの指揮官として出動している。そして、ヴェルナー・ベストの現在の同僚でもあるハインツ・ヨストは過酷な任務によって精神的な均衡を失って、任務からの更迭を受けて今に至っている。
それだけではない。
ラインハルト・ハイドリヒの不興を買ったのはヨストだけではないのだが、それでも、国家保安本部の屋台骨を支える多くの知識人たちが犠牲になるという事態は余り好ましいものとは言えないだろう。
フンベルト・アッハマー・ピフラーダーの前任者、ヴァルター・シュターレッカーが命を落としたように。
それはドイツにとって損失以外の何物でもない。
「どう思う?」
「……どう、というのは?」
国家保安本部では「真価の発揮」を要求される。
シュトレッケンバッハも一九三九年のポーランド戦において、アインザッツグルッペンを指揮し真価の発揮を行った。当時の人事局長であるヴェルナー・ベストは、そうした意味では真価の発揮をしていないが、シュトレッケンバッハは別段それを咎めるつもりはない。
”そんなこと”はどうでも良いことなのだ……。
タイプライターで打たれた書類を伏せて、その上に文鎮をおくとヴェルナー・ベストは立ち上がりながら部屋の中央にしつらえられているソファをシュトレッケンバッハに薦める。
「現在、我が国家保安本部は、多くの部下たちを占領地区へ派遣している。そもそも、前長官のハイドリヒは真価の発揮などと言っていたが、それ事態が我が国の国力を消耗させていることに他ならないのではないか……」
軍隊と同様に。
社会構造そのものが、一部の知識階層がその他大勢を率いることで成り立っている。
「占領地区は広がる一方だ。これ以上、拡大されては国家保安本部の業務が成り立たないところまでいくだろう」
シュトレッケンバッハの真剣な物言いに、ベストは顎に手のひらを当てながら考え込むとじっと天井を見上げた。
ブルーノ・シュトレッケンバッハの言う「問題」とは今にはじまったものではないことを、ヴェルナー・ベストは認識していた。
ハイドリヒの極度の知識人嫌い。それを身をもって知っていたのは、他でもなくベスト自身なのだ。そして、そのためにヘルベルト・メールホルンや、ハインツ・ヨストは国家保安本部を更迭された。
「上層部の人間の全てが、凝り固まった頭でっかちでも困るが、”スターリンでもあるまいし”、な」
シュトレッケンバッハの言葉を受けて、応じたベストは長い溜め息をついてから腕を組んだ。
よく考えなくても、ベスト自身がヨストやメールホルンと同じなのだ。ベストも彼ら同様にラインハルト・ハイドリヒの不興を買うことになった。
彼は、「友人」など欲してはいなかった。ただ自分にとって都合の良い「部下」と「その知識」とがほしかったに過ぎない。
悪辣で、頭の回転の速い、誰よりも冷酷で暴力的な男。
「それにしても、”そういう”意味ではオーレンドルフとシェレンベルクは対照的だな」
ふたりの諜報局長の名前を挙げて、ベストはかすかに笑った。
どちらも非常に優秀な男だ。
ヴァルター・シェレンベルクは、アインザッツグルッペンの指揮官を拝命する以前に、すでに真価の発揮を行っており、その過酷な任務を免れているが、オットー・オーレンドルフのほうはと言うと、国家とハイドリヒへの忠誠心を疑われることとなって東部戦線の行動部隊の指揮官を拝命した。
もっとも、これは形式的には「オットー・オーレンドルフの志願」という形で処理されているが、ハイドリヒの執拗な命令があったことは明白だ。
自分の掲げる理想と、使命感の強いオーレンドルフが頭が固いというわけではないのだが、そんな彼の頑なな態度のために一部の高官たちからは嫌悪の対象とされている。逆にいつでも穏やかな笑みをたたえて、自分の思想に捕らわれる事もなく命令に対して自身に可能なやり方に搦め手を交えて対応してくるシェレンベルクなの手腕は見事なものと言えるのかも知れない。
もちろん、そんな風見鶏的なシェレンベルクの存在を嫌う者も多くいる。
ヴァルター・シェレンベルクは国家保安本部の象徴的な存在だ、と。
――ギャング的な、とも。また、ならず者的な、とも。
目的のためであれば手段を選ばない。
シェレンベルクとは対照的とも思えるオーレンドルフは、東部戦線の任務から帰ってきて以来、まるで不用意に触れてしまえば簡単に爆発してしまう爆弾のようなものを連想させていた。
けれども、そんな彼を少しずつ変えていったのは、シェレンベルクの指揮下におかれていたマリーの存在だったこと。
「もっとも、オーレンドルフも随分マリーに対して警戒していた様子だったが」
シェレンベルクが、オーレンドルフに懐柔しようとして年端もいかない少女を使っているのではないかと勘ぐることもあったようだ。しかし、多くの国家保安本部の高官らの予想を反して、ヴァルター・シェレンベルクは自身の業務の忙しさもあってか、マリーをほぼ野放しにしており、特になんらかの命令を出している様子もない。
もちろん、ヴァルター・シェレンベルクがマリーになにかしらの命令を出しているのであれば、それは他の人間に知られぬように、ごくスマートなやり方で出されているものであったろうとベストもシュトレッケンバッハも確信している。
しかし、マリーと最も近しい場所にいるヴェルナー・ベストには、マリーがシェレンベルクの命令を受けているとはとても考えがたいものを感じていた。
少なくとも、マリーはマリーの意志で動いている。
「まぁ、あのふたりは火と油だからな。オーレンドルフが警戒してもやむをえんだろう。ベスト中将」
「……それもそうだが」
火と油、と言うのは正しい表現ではないかもしれない。
特に彼らふたりがいがみあっているわけでもないのだから。
ただ、東部戦線から帰ってきたばかりの頃のオーレンドルフからは触れれば切れてしまいそうな、研ぎ澄まされた刃物をさえ思わせたのだ。
そんな彼に他意もなく近づいたマリーに、オーレンドルフがやがて心を開いていったこと。今では彼の執務室には家族の写真と一緒にマリーの写真も飾られていた。
「それで、本題の国家保安本部の高官たちの損耗を防ぎたいという話しだが……」
「うむ、それだ」
ベストが話しを元に戻すと、シュトレッケンバッハは鷹揚に頷きながらそう言った。
「ヨスト少将と、オーレンドルフ中将が”元に戻った”のは我々国家保安本部にとって大きな意味がある。もちろん、ベスト中将とメールホルン上級大佐のことも、だ」
戦争がはじまって以来、多くの国家保安本部首脳陣が、ハイドリヒの不興を買ったことによって左遷されていた。
実働部隊として辣腕を振るっていたナウヨックスもそうだ。
マイジンガーに至っては、軍法会議ものだったところをハイドリヒによって救われたわけだから少々意味合いは異なるものの、それでも多くの高官を失うことが、組織の維持を困難にするということをシュトレッケンバッハも知っている。
そういう意味ではベストやメールホルン、ヨストらが戻ってきたのは大きな意味があった。
「今後、ドイツの支配下にある地域が増えることを考えると、国家保安本部はもっと拡張されなければならんのではないかと思うが……」
「ふむ」
シュトレッケンバッハの言葉に、ベストは短い相づちを打っただけで考え込むと、しばらくしてから顔の前で人差し指を立てた。
「今までも現地の地域警察から我々に協力的な組織は有効に活用されてきたのだろう? ならば、今後もそれを活用すれば良いだろう」
ゲシュタポの捜査官はせいぜい五万人といったところだ。
情報将校にいたっては、更に少ない。
現在、ドイツの支配下にある総人口は一億人近いことを考慮するとシュトレッケンバッハの危惧も頷ける。
東部戦線において、シュタ―レッカーが死んだように。今後も多くの親衛隊知識人がなにかしらの「事故」に巻き込まれる可能性は少なくない。
あの日……――。
マリーが狙撃された時のように。
捜査の結果、狙撃はマリーを狙ったものではなく、不特定多数の親衛隊将校を狙ったものであると判明した。そして、親衛隊将校らしいマリーは、その非力さ故に狙われたこと。
泣き止んでしばらくしてからシェレンベルクに連れられて、その執務室を出てきたマリーの泣きはらした赤い目を今でもシュトレッケンバッハは忘れていない。
もっとも翌日にはけろりとしていたが。
「占領地区の治安が安定しない限り、今後も多くの幹部将校の消耗が想定されるだろう」
特に、フランスや東部では、親衛隊将校が集中的に狙われて、残虐な報復行為に晒されている。
それは目を背けたくなるほどひどいものも多い。
もしもマリーがそんな手合いに捕まったら、抵抗できないからこそひどい目に合うだろう。自分の想像にぞっとして、シュトレッケンバッハは肩を震わせた。
だから、と彼は思う。
エルンスト・カルテンブルンナーは、彼女のストックホルム行きを認可したらしいが、シュトレッケンバッハとしては反対を唱えたい。彼女を、ベルリンから出すべきではないと考えていた。
ドイツ警察の手の及ばないところに行くということはそれだけで、マリーの危険の確立が上がると言うことだ。
そのためには、もっと国家保安本部の幹部将校たちを拡張しなければならない。
「こんなことをわたしが言うのもおかしなものかもしれんが、……わたしは、彼女を危険な目に合わせたくないのだよ」
「つまり、その可能性を考えるからこそ、国家保安本部は拡張されなければならないと? シュトレッケンバッハ中将?」
「そうだ。そしてそれは幹部将校全員の身の安全のためでもある」
わかりきった結論を告げられて、ヴェルナー・ベストは肩をすくめた。
シュトレッケンバッハに言われなくても、設立当初からベストが危惧していたことだ。戦線の拡大と共に、その組織の脆弱さ故に任務遂行は困難を極めることになるだろう。しかし結果的にハイドリヒの歪んだ意志のもとに、国家保安本部という組織がいびつな形に形成され、小さな、けれどもハイドリヒの意のままに動く多忙な組織へと変貌した。
そんな組織が破綻しないわけがない。
遠からず限界が来ることなど、ベストには想定内だった。
「それで、シュトレッケンバッハ中将はどうしたいのだ?」
問いかける。
本人の意志がどこにあるのかはともかく、ベストもシュトレッケンバッハも同じようにハイドリヒ人材の一員のひとりだ。
「今のところ、わたしの一存でどうなる問題でもないが、"新しい"長官殿も、なにやらいろいろ思索を巡らせているらしい。早急な結論など期待できるわけもないが、あるいは……」
シュトレッケンバッハはそう言って片目を細めた。
占領した各国の警察組織との連携は重要な問題だ。
それ以前に、アインザッツグルッペンの出動によって国家保安本部の組織力は急速に崩壊しつつある。それを食い止めることこそがシュトレッケンバッハらの仕事だった。
強大な権力を持つ、脆弱な組織。
外側からはその強靱さばかりが目につくのであろうが、実態はそんなものではない。
「なるほど、ではこちらも念のため草案を作っておくとしよう」
ベストの返答に、シュトレッケンバッハも頷いた。
特別保安諜報部には、国家保安本部の黎明期を支えた錚々たる知識人たちが名前を連ねている。
「仕事も詰まっているだろうに申し訳ない」
「いや、我々にも常々、このままでは内部崩壊することはわかりきっていたことだから心配は無用だ」
組織人として、所属する組織を維持しようとするのはごく当然のことだ。
よくわからないがただでさえ忙しい部署、というのが国家保安本部内での特別保安諜報部に対する認識だ。
部署長のマリーはともかくとして、ベストはいつも気難しい顔をしているし、ヨストは執務室から出てこない。メールホルンに至っては、両手に花、ではないが両手に刑事警察とゲシュタポ、諜報局などからの仕事を山ほど抱えて連日プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセ内を行ったり来たりしているのだからそう認識されてもおかしくはないだろう。
執務室から出て行ったシュトレッケンバッハを見送って、ヴェルナー・ベストは考えを巡らせた。
カルテンブルンナーはお飾りだのと言われているが、決して無能なわけではない。彼にも国家保安本部の問題はすでに見えているはずだ。
「これは近く動きがありそうだな」
ぽつりとつぶやいてベストはそうしてソファから立ち上がった。
*
この頃、第四航空艦隊に所属する第五二戦闘航空団も司令官の命令を受けて地上部隊と共に移動を開始していた。
「とりあえず、アカの連中を押さえ込むことができたのはなによりだ」
やれやれとつぶやいたのは第五二戦闘航空団司令官、ヘルベルト・イーレフェルト空軍少佐である。
コーカサスの油田地帯を無傷で占領できたことは、陸軍にとっても空軍にとっても大きな利益だ。
なによりも、他でもない。ソビエト連邦という国そのものを押さえ込めたという意味では背後からの一撃に対して戦力を割かなくて良いわけだからそれだけでもドイツ国防軍にとって大きな意味がある。
なんでも、第五二戦闘航空団のパイロットたちは、新たな任務を前にアフリカ方面で暴れ回っているらしい第二七戦闘航空団について噂をしあっているらしい。
これはこれで良い刺激になるのかもしれないが、すでに北アフリカ方面に向けて出発している急降下爆撃航空団や爆撃航空団の存在を考えると、もしや自分たちはおまけなのではなかろうかとも気を揉むイーレフェルトだった。
状況を考えても、北アフリカ戦線では爆撃隊を必要としていることは明らかだ。
もちろん、戦闘航空団が不要というわけでは決してないだろう。イギリス方面から飛来する爆撃機の対応もしなければならない。
空の要塞――B-17。
アメリカ空軍の爆撃機も驚異的だ。
なんでも噂ではこのB-17をもとにして、新たな爆撃機が開発されているらしいという話しも聞く。
北アフリカ戦線にもしもそんなものが投入されればどうなるか。
正直ぞっとしない。
重爆撃機の急降下性能をあきらめたゲーリングは、どうやら今度はB-17を越える性能を持つ四発重爆撃機の開発に発破をかけているらしいが、気まぐれなゲーリングのことだ。どうなることか知れたものではない。
どのみち、重爆撃機には今の戦闘航空団の戦力では対応しきれない事態になるだろう。重い気分のままイーレフェルトは部隊の移動の進捗を報せる書類を眺めながらそうして溜め息をついた。
「空の要塞、か……」




