3 優越感と劣等感
プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセを予告もなく訪れた親衛隊全国指導者個人幕僚本部長官の姿に、驚いた顔を見せたのは国家保安本部長官のエルンスト・カルテンブルンナーだ。
ちなみにマリーは最近、赤い警察犬を連れてどうやらゲシュタポのアドルフ・アイヒマン親衛隊中佐とよく顔を合わせているらしい。そんなマリーを嫌々ながら相手をしていたアイヒマンもどうやらすっかり毒気を抜かれたようだ。
「アイヒマン中佐」
コツコツと扉をノックしながら執務室に入室してきた男を見やってアイヒマンは、各地の彼の下部組織から提出された報告書を処理しながら上げようとしていた受話器をおろす。
「……パンツィンガー中佐」
神経質に眉尻をつり上げたアイヒマンは、相手の名前を呼んでから自分の机の脇を見下ろすと何事か一言二言口にする。その眼差しはどこか柔らかく穏やかで、パンツィンガーは眼鏡の奥からすっと目を細めるとブーツの踵を鳴らした。
「最近は随分とマリーにご執心のようだな」
ご執心、と嫌みを言われてアイヒマンは憮然として唇をへの字に曲げる。
確かに自分は女性関係がそれなりに派手だということは自覚しているが、パンツィンガーの嫌みそのままにマリーと肉体関係があるわけでもない。皮肉めいた言葉を告げられるのが面白くなくて、アイヒマンは椅子から立ち上がると形式的な敬礼を返す。
「別に彼女とはみだらな関係はないが……」
あからさまに不愉快そうな彼の横にぴょこりと少女の頭が上がった。
「あっ、パンツィンガー中佐」
マリーの朗らかな明るい声に、ゲシュタポの敵性分子排除部の部長を務めるフリードリヒ・パンツィンガーは肩を落とした。
彼女が片手にしているのはなんだろうか。
ちらりと見えた数字の羅列を見る限り、アイヒマンが管理している”移送列車”の時刻表かなにかだろう。
「最近、アイヒマン中佐のところに入り浸っているようだから、なにかおもしろいことでもあったのかと思ってな」
彼女を前にすると嫌みが通じなくなってしまうから、パンツィンガーはいつもそれに頭を悩ませる結果になる。彼が見たところでは、どうやら気難しく、自己顕示欲と劣等感が強く、派手好きなアイヒマンは思った以上にマリーに心を開いている様子だ。一方のマリーはどうなのだろうと思い、観察してみてもどうにも自分の倍ほどの年齢の「おじさん」たちを相手にしているというのに、気負うわけでもなく伸び伸びと振る舞っている。
「今日はカルテンブルンナー博士のところに用事があったんですけど、ほら、ヴォルフ大将が来てるでしょ? 博士の執務室に行く途中でアイヒマン中佐に会って、やめなさいって言われたから……」
丁寧な言葉使いなのか、それとも無礼なのか今ひとつわかりかねる口調でマリーは、パンツィンガーにそう告げた。おそらくこれが正常な上下関係であれば、鉄拳制裁を下されるのは確実なのであろうが、残念なことにマリーを取り巻く環境はとても正常な上下関係のそれとは言い難い。
いかんせん、彼女の上官である国家保安本部長官のみならず、親衛隊長官すらもその態度を容認しているのだから、たかが一部長でしかないフリードリヒ・パンツィンガーなどが彼女の態度に否やを告げられるわけもない。
カルテンブルンナー博士――。
天下の秘密警察の実質的な長官にあたるエルンスト・カルテンブルンナー親衛隊大将をそう呼ぶのは、ドイツ全土と言えどマリーしかいないのではないかと思われる。
どこか間延びした発音で「カルテンブルンナー博士」と呼ぶ彼女の口調に、パンツィンガーは興味深そうに眼差しを注いでから、「あぁ」と思い出した。
夕方も近くなってから鬼のような形相で親衛隊全国指導者個人幕僚本部長官のカール・ヴォルフがプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセを訪れた。もちろん、親衛隊本部長官のひとりともなれば、相手をする人間は限られてくるわけで、ヴォルフはそのままカルテンブルンナーの執務室へと直行した。
親衛隊全国指導者個人幕僚本部と国家保安本部は、元々それほど強いつながりを持っていた組織ではない。
国家保安本部が国内外の警察組織を牛耳る巨大な機関であることとは対照的に、親衛隊全国指導者個人幕僚本部はハインリヒ・ヒムラーの頭脳とも呼ばれる組織だ。ハイドリヒが死んだ直後、どうにもヴォルフとヒムラーの関係が若干あやしいところもあったが、この数ヶ月でそういった状況もだいぶ改善されてきた様子だ。
「しかし、君は長官閣下のことを”カルテンブルンナー博士”と呼ぶが、長官はいやな顔をしないのかね?」
エルンスト・カルテンブルンナーは三九歳で、フリードリヒ・パンツィンガーと同年齢だ。同年齢の相手が親衛隊大将で、自分は親衛隊中佐という落差には不満も感じないわけではないが、どうせカルテンブルンナーなどお飾りに過ぎないとパンツィンガーは陰険に結論づけて、不平不満を鳴らしそうになる自分の気持ちを納得させる。
そうでなければ納得などできるわけがないではないか。
確かな実績がある大物スパイであるとは言え、国外諜報局長のヴァルター・シェレンベルク上級大佐は三二歳で、世界観研究局長のフランツ・ジックス大佐は三三歳。自分よりも年少だというのに、インテリであるというだけで若くして局長まで上り詰めた。
「どうしてカルテンブルンナー博士がわたしに嫌な顔なんてするんですか?」
考えた事もなかったことを聞かれたとでも言うように、マリーがぽかんとして口を開くと執務机に座り直したアイヒマンは、パンツィンガーにソファを薦めて頬杖をつく。
「マリー。君もその辺の椅子に座りなさい。いつも思うのだが、君はどうしてわたしの部屋では床に座るんだ」
「だって、いつもアイヒマン中佐は仕事ばっかりしていてわたしの相手してくれないじゃないですか」
「だから、わたしは仕事が溜まっているのだと何度言えばわかるんだ。だいたい話し相手をしてもらいたいなら、もっと暇な人間のところに行けばいいだろう」
まるで打てば響く掛け合いのようなやりとりを聞きながら、パンツィンガーは「はて、どうしてカール・ヴォルフはわざわざプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセまで来たのだろう」などと考える。
マリーの声を聞くことは、パンツィンガーは嫌いではなかった。
彼女の声音を聞いていると、不思議と考えがよくまとまる。
キラキラと音をたてるオルゴールかなにかのようだ。
「別に話を聞いてもらいたいわけじゃないわ」
「だから、話し相手がほしいんだろう」
聞くだけなら誰だってできる。
マリーは一方的に話すだけではないのだ。
要するに、そのためにアイヒマンの仕事の能率は半減してしまうことになるのだが、そんなことは来訪者のマリーにとってはどうでも良いことらしい。
「……意地が悪いわ」
唇を尖らせているマリーとアイヒマンを見つめてからパンツィンガーは肩をすくめた。
「わたしが意地悪なわけではないだろう。君が空気を読めていないだけだ」
まるで漫才だ。
「……確かにアイヒマン中佐が意地悪なわけではないな」
思わず吹き出したパンツィンガーを睨み付けたアイヒマンは、マリーの手の中にあった移送列車の時刻表を取りあげてからむっつりとした瞳のままで手元のファイルに挟み込むと素っ気ない動作で閉じてしまった。
「普通の奴ならわざわざアイヒマン中佐にかまってもらおうとなんてしないだろう」
「人間失格ですまんな」
憮然としたアイヒマンの表情が面白い。
「そもそも、話し相手になってもらいたいならシェレンベルク上級大佐のところでもいいだろう。あの男なら頭の回転も速いからな、マリーの話にもつきあってくれるだろう」
残念ながら俺はシェレンベルク上級大佐ほど優秀じゃない。
仏頂面のアイヒマンの物言いにパンツィンガーは片目を細めた。
先月の末から、マリーの上官であるヴァルター・シェレンベルクは随分と忙しそうにベルリン中を駆け回っている。活動的なその姿は、生真面目で精力的にも見えなくもないが、シェレンベルク本人は国外諜報局長で、そんな彼が多忙にしているということはおそらく”そういう”ことなのだろう。
「だって、シェレンベルク、ひどいのよ。いっつも執務室にいないんだもの」
「今は戦争中だからな、上級大佐も忙しいんだろう」
君は暇そうでなによりだ。
最後に嫌みを付け加えてもマリーは顔色ひとつ変えずに大きな青い瞳をまたたいてから、アイヒマンのデスクに寄りかかるとパンツィンガーを見つめて右手の人差し指を唇に押し当てた。
「アイヒマン中佐は結局、わたしのことなんて誰も相手にしてくれないって言うんでしょう」
もはや「ミュラー局長に言いつけてやるんだから」などとろくでもないことを言いそうなマリーの勢いに、アイヒマンは大きな溜め息をついている。
「別にそんなこと言ってないだろう」
彼らの上官であるハインリヒ・ミュラーに「言いつけられ」て困るのはアイヒマンとパンツィンガーだから、親衛隊少佐とは言えふたりの親衛隊中佐に対して切り札を握っているのはマリーのほうなのだ。
まるで子供の喧嘩のようなやりとりを聞きながら、フリードリヒ・パンツィンガーはというと、やれやれと息を吐き出しながら「アイヒマン中佐もアイヒマン中佐だ。なにもマリーのレベルにまで下がって言い争いをしなくても良いだろうに」と思った。
アドルフ・アイヒマンが、いまひとつ昇進を臨めないのはその学歴ばかりでもないだろう。こうした稚拙なところがひとつの原因ではなかろうか。
稚拙さというものは、一面だけに出るものではない。
もっとも、マリーのほうもアイヒマンと同程度に幼いものだから、国家保安本部長官を「カルテンブルンナー博士」と呼ぶにもかかわらず、わざわざ親しくなった親衛隊将校の昇進のために口を利いてやろうといったところもなく、いまひとつ計算高さを感じられない。
それを指してパンツィンガーは、マリーとアイヒマンが同レベルと思うわけだが、どうやら心の底からマリーに「ミュラーに告げ口される」と思い込んでいるらしいアイヒマンは、彼女に強く出ることができないでいるようだった。ちなみにアイヒマンが昇進して邪魔になるのはパンツィンガー自身だったから、わざわざ彼が観察したことを教えてやる義理もない。
「ところでマリー」
パンツィンガーが少女を手招くと、警戒心のかけらもないマリーはスキップでもするような足取りで彼の座っているソファに歩み寄ってきた。
ちなみに彼女が恐ろしく運動神経が鈍いことは周知の事実だったから、思わずそれについて敵性分子排除部長が注意をしようとすると、当たり前のように彼の前で少女が転倒した。
なにに蹴躓いたのかはわからないが、ふわりと少女の体が咄嗟に差し伸べたパンツィンガーの腕の中に降ってくる。どこまでも危うい少女は驚いて目を見開いているが、それはおそらく彼女の癖なのだろう。
「危ないだろう」
苦言を呈するパンツィンガーにマリーが笑った。
「ありがとう」
ゲシュタポで外務省に関係する捜査を行っているのは他でもなく敵性分子排除部だからこそ、彼女が現在どんな事件に巻き込まれているのかを一番に把握しているのもパンツィンガーだった。
「プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセに押し込められて退屈極まりないだろうが、あんまりアイヒマン中佐を困らせるものじゃない」
いつまでもマリーとアイヒマンの漫才を見ているわけにもいかないから、そろそろユダヤ人問題の専門家に助け船を出してやろうと口を開くと、なぜかアイヒマンがどこかつまらなそうにデスクから立ち上がると、パンツィンガーの座っているソファの正面に移動してきた。
「別に、わたしは困っているとは言っていない」
「……――」
支離滅裂なアイヒマンの台詞に、パンツィンガーは今度こそ大きな声で笑い出すのだった。しばらくの間、笑い転げていたフリードリヒ・パンツィンガーは、無言で抗議の視線を向けるアイヒマンをそれほど深刻に受け止める様子もない。
腹を抱えて笑っていたパンツィンガーは、ようやくしてから笑いをおさめて生理的な涙を指先で拭うとわけがわからずに困惑している少女を見直した。
「ところで、マリー。君はヴォルフ大将閣下の来訪の理由を知らんのかね?」
「知りません」
「ふむ」
本来、ひどく希薄な関係でしかなかった国家保安本部と親衛隊全国指導者個人幕僚本部をつなぎ合わせたのはマリーだ。
マリーの指揮する特別保安諜報部は、形式的には両組織の下に組み込まれているが、現実的にはその限りではない。
ナチス親衛隊のみならず、その枠を越えて活動することができる「ハインリヒ・ヒムラーの私設警察部隊」だ。
そもそもは関係性すらあやしかった両組織のトップはマリーという介入を得て頻繁に顔を合わせるようになった。お互いに毛嫌いしていたとしても、顔を合わせていれば否が応でも言葉を交わさないわけにはいかないし、それぞれが別の思惑のもとに動いていれば、マリーに危険が生じるのは明白だ。
「なるほど……」
「パンツィンガー中佐はアイヒマン中佐にご用事なんですか?」
「いや、君と話しをしたかったから特別保安諜報部に行ったらベスト中将にアイヒマン中佐の執務室だと言われてね」
「……はぁ」
手の内を明かしたパンツィンガーはそれからしばらく他愛もない言葉をマリーと交わしてソファから立ち上がると丸い眼鏡の向こうから軽くウィンクした。
「わたしから言うのもなんだが、アイヒマン中佐を余りいじめんでやってくれよ」
「……はい?」
パンツィンガーとマリーの声に、そうしてアイヒマンの怒鳴りつけるような声が重なった。
「余分なことを言わなくていい……!」
彼もだいぶ人間らしくなった。
パンツィンガーはそう思った。




