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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XV 方舟
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2 暁の闇の中

 総統官邸で毎日行われる作戦会議――御前会議を終えたカール・ヴォルフは、官邸警護にあたる親衛隊下士官の敬礼を受けて、軽く片手を上げて敬礼を返してから背後に鳴った副官の踵を打ち合わせる音を聞きながら眩しい日差しの中へ出る。

 毎朝行われている、とは言えアドルフ・ヒトラーの朝は遅い。

 日に日に「朝」が遅くなっているような気もするが、それを咎める権利はヴォルフにはない。

 溜め息をひとつついてから、カール・ヴォルフはたった今行われたばかりの気が滅入るような会議の内容を思い出してから憮然とする。

 正気だろうか。

 いや、同席していた一部の高官たちの発言は正気だろう。

 本当に、「絶滅」させることなど可能だと思っているのだろうか……。

 世間とは奇麗事だけで回っているわけではない。それはカール・ヴォルフも知っていたし、ナチス親衛隊という組織そのものが成り上がりのならず者集団だ。

 首を回してから長い吐息を履き出したヴォルフは腕時計を見やると、総統官邸前に停止した自分の車の後部座席に乗り込んだ。

 自分などが気に病んだところで、ヒトラーの気が変わるわけでもない。気を揉むだけ無駄だと思い直して、運転手に親衛隊全国指導者個人幕僚本部へ戻るように命じた。そして、今度は親衛隊全国指導者であるハインリヒ・ヒムラーに、御前会議の内容を簡潔に報告しなければならない。

 気が重くなるようなことばかりで、単純に軍事組織として拡張しか考えなくて良い武装親衛隊のハンス・ユットナーが羨ましくも思う。

「それにしても……」

 彼は口の中でぽつりとつぶやいた。

 その声は誰にも届くことはない。

 ――それにしても、ハインリヒ・ヒムラーの私設警察、か。

 彼の独自権限で動かすことのできる私設警察部隊。その部隊そのものはごく小さな組織でしかないが、内情はかつて国家保安本部の屋台骨を支えた知識人や実働部隊でその中心を構成されている。

 そして問題になるハインリヒ・ヒムラーの私設警察部隊――特別保安諜報部は、形式的には親衛隊全国指導者個人幕僚本部にも所属していることになっていた。おそらくそれは国家保安本部のみに所属させることになって、再びその権力が肥大してヒムラー自身を脅かす材料になることを避けるためという名目もあるのかもしれない。

 そのために国家保安本部及び親衛隊全国指導者個人幕僚本部の所属ということになった。

 仮に特別保安諜報部をヴォルフの権限でも行使できるものならば、彼の権力は大いに強化されることになる。しかし現状では、「彼ら」という権力は国家保安本部(RSHA)のカルテンブルンナーにも、そして親衛隊全国指導者個人幕僚本部のヴォルフにも独自に動かすだけの権限はない。

「……ヒムラー、か」

 口の中だけで告げたカール・ヴォルフは片目を細めてから窓の外に流れていく街並みを見つめた。

 それからほどなくして執務室に戻ったヴォルフが手早く短い報告書を仕上げると、時計を見直してから立ち上がる。

 さっさとヒムラーに報告してしまわなければまたクノブラオホ辺りから横槍が入りそうだ。

「長官閣下、国家保安本部国外諜報局長のヴァルター・シェレンベルク親衛隊上級大佐がお見えです」

 内線電話で唐突に告げられてヴォルフは告げられた名前を理解しかねて小首を傾ぐ。

 たった今の今まで、シェレンベルク指揮下にある特別保安諜報部のことを考えていたからなおさらのこと、このタイミングの良いシェレンベルクの来訪が気味が悪い。

「……閣下?」

「通せ」

 アポイトメントはない。

 そもそも国家保安本部長官のエルンスト・カルテンブルンナーからもなんの連絡も受けていない。

 つまるところそういうことだ。

「突然の訪問をお詫び申し上げます」

 生真面目な言葉で国外諜報局長――国内でも屈指の大物スパイはそう告げた。

「……シェレンベルク上級大佐、わたしは忙しいのだがね」

「お手間はとらせません、ヴォルフ大将閣下」

 静かに笑う青年の得体の知れなさに、カール・ヴォルフは目を伏せた。

 まるで、この青年には誤魔化しなどの一切は通用しないのではないか……。そんなことを感じさせる。

「閣下がお忙しいことは本官も存じ上げております、つきましてはお願いがあってこちらにお邪魔いたしました」

 国家保安本部の初代長官ラインハルト・ハイドリヒの頭脳であり片腕。

 そう呼ばれた切れ者の青年。

「……何事か?」

 腰を浮かしたままでシェレンベルクを出迎えたカール・ヴォルフは、椅子に座り直すとデスクの上で両手の指を組み合わせる。

「いえ、本官の指揮下にあります特別保安諜報部のことでお話が」

 もったいぶったシェレンベルクの物言いに、カール・ヴォルフは眉尻をつり上げた。総統官邸で行われた会議の結果を早急にヒムラーに報告しなければならないから、本当に時間の猶予などないのだが、どうやら目の前の青年はヴォルフの予定が押していることなどある程度はお見通しのようだ。

「……――」

 さっさと話せ、と言いたげな眼差しを向けるヴォルフに、シェレンベルクは薄く笑うと一冊のファイルを差しだした。

 正直なところ、カール・ヴォルフはヴァルター・シェレンベルクの行動などほとんど把握していないが、ドイツ第三帝国にあってこの大物スパイの行動の全てを把握している人間など本人以外にいないだろうと思われる。

「こちらを読んでいただければおわかりになるかと思います」

「……シェレンベルク上級大佐、わたしは忙しいと言ったはずだ。回りくどい物言いは好かんな」

 わざとらしいヴォルフの言葉に、シェレンベルクは自分が彼に差しだしたファイルに視線を滑らせると口を開いた。

「申し訳ありません。親衛隊長官閣下にはすでに話しを通しておりますが、カルテンブルンナー大将閣下とヴォルフ大将閣下にも了承を得るようにとの命令でしたので」

 にこりと笑った好青年に、ヴォルフはファイルをめくると素早く視線を走らせる。

 要するに彼は国家保安本部の任務でストックホルムを訪ねるということらしいが、その際にマリーを同行させたいということだった。そのための同意を得るためにシェレンベルクは親衛隊全国指導者個人幕僚本部を訪れたらしい。

「……ストックホルム、か」

 ベルリンよりもずっと北に位置するスカンジナビア半島――スウェーデンの首都である。

 スカンジナビア半島の上半分にノルウェー、下にスウェーデンが位置し、ノルウェーとスウェーデンを塞ぐように、フィンランドがある。

 そして、フィンランドはスウェーデンにとって重要な同盟国であり、フィンランドはドイツと同盟を組んでいる。つい先頃、ソビエト連邦との戦いで共に戦った記憶は新しい。

「フランスよりは安全らしいが、ストックホルムもレジスタンス共の巣窟らしいじゃないか。マリーを連れて行っても危険はないのかね?」

 問いかけられてシェレンベルクはわずかばかりの間を挟んで微笑を浮かべる。

「予期せぬ危険を排除できるという確約はいたしかねますが、そのような事態に陥らないよう細心の注意は払うつもりです。閣下」

 確約はしない。

 シェレンベルクのはっきりとした言葉に、カール・ヴォルフは不愉快そうに眉をひそめた。そもそもどうしてスウェーデンのストックホルムなどにマリーを連れて行かなければならないのか、ヴォルフには理解できない。

 ちなみにストックホルムと言えばそれなりに温暖だからコートは必要ないだろうが、それでも体力に心許ないマリーが行くのは賛成できなかった。

「……む」

 返す言葉を見つけられずに黙り込んだヴォルフに、シェレンベルクは言葉を続けた。どうやらカール・ヴォルフが言葉に詰まることは予想済みだったらしい。

「ご安心ください、特別保安諜報部の身辺警護も連れて行きますので」

 おそらくシェレンベルクの提案に、国家保安本部のカルテンブルンナーも良い顔をしなかったのだろう。

「つまり、君が彼女の身の安全は保障する、ということかね?」

「……はい」

 意図の読み切れないシェレンベルクの返答に、カール・ヴォルフはファイルの中に挟み込まれた書類を睨み付けたまま沈黙した。

「目的は?」

「スウェーデンのベルナドッテ伯に接触を試みようかと思います」

「なるほど」

 シェレンベルクはシェレンベルクにマリーに社会経験を積ませようとしているのか、それとも別のなにかしらの思惑があるのかどちらなのだろう。

 真っ当な大人としての考えを巡らせながら、カール・ヴォルフが考えあぐねていると、執務室の扉があいて副官の青年が姿を見せた。

「閣下、そろそろお時間です」

「……すぐに行く」

 そう言われて気がついた。

 アポイトメントもなしで訪れたヴァルター・シェレンベルクにすっかり気を取られてしまった。

「即答はできんな、検討しておくからとりあえず今日は帰りたまえ」

「承知いたしました」

 追い払われることまで計算していたのだろうか?

 時間を気にしながら立ち上がったカール・ヴォルフに、特別言いつのるような態度を取ることもなくシェレンベルクは、入室してきたときと変わらぬスマートさでヴォルフの執務室から出て行った。

 結局のところ、彼がなにを考えていたのかなど親衛隊全国指導者個人幕僚本部長官にはさっぱり理解ができない。ヴォルフはシェレンベルクのように謀略に長けているわけでもなければ、考え方が柔軟なわけでもない。

 そしてシェレンベルクのことだから、マリーをストックホルムに連れて行ったとして野放しにするようなことはしないだろう。

 なにかそれらしい狙いはあるはずなのだが、その正体がヴォルフには見極められなくて、副官に急かされるまま立ち上がって歩きだす。

 シェレンベルクが持ち込んだマリーのストックホルム行きに対する同意書はともかくとして、総統官邸で行われた会議の結果をヒムラーに報告しなければならない。マリーの一件はヒムラーへの報告がすんでからでも構わないだろう。

 どちらにしたところで、シェレンベルクはすでにヒムラーから許可は得ていると語ったのだ。そして、彼の口からカルテンブルンナーの名前が出たことを考慮すると、おそらく渋々ながら国家保安本部長官もマリーのストックホルム行きを了承したに違いない。

「どうかされましたか?」

「いや……」

 曖昧に応じて、ヴォルフは踵を打ち鳴らす部下の靴音を聞いて片手を振った。

 慎重で用意周到なヴァルター・シェレンベルクだ。彼がなにも考えていないわけがない。

「ベルナドッテ伯の資料を集めておけ」

「了解しました」

 歯切れの良い部下の言葉を聞きながら、ヴォルフはヒムラーの執務室へ向かって歩きだした。



  *

「なんですか? これは」

 ひらりと一枚の書類を差しだしたマイジンガーにベストとヨストが顔を見合わせる。

 両者の間に流れる空気はとてもではないが、円滑なものとは言い難い。なにせベストもヨストもマイジンガーのことを快く思っていないし、逆もまたそうだ。しかし感情的になって相手を認めないこととはまた話が違うから、互いにそれを顔を出すこともなく相対するという結果になっていた。

「シェレンベルクが現在組織しているらしい特殊部隊の隊長格らしい」

 ちらと書類の内容に視線を走らせてヨストが口を開いた。

「なるほど、武装親衛隊の下級指導者ですか」

「だがそれなりに腕利きらしいぞ」

「そうですか」

 短いやりとりは切れ味の鋭い刃のようだ。

 互いが互いの出方を窺っている。

 ――オットー・スコルツェニー親衛隊中尉。

 その名前を、警察将校でしかないマイジンガーが記憶しているわけもない。

「今度、ストックホルムに旅行するときに就く護衛の指揮官だそうだ」

 ヨストの爆弾発言に、マイジンガーはそうして目を丸くした。

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