15 暴風
特別保安諜報部に関する報告は逐一、シェレンベルクの元に入ってくる。彼女の存在をシェレンベルク自身はそれほど重要なものだとは考えていないが、それでも彼女が国家保安本部に所属するようになってからの組織内の空気の変化は確実に感じ取っている。
彼女には才能がある。
それは、荒みきった男たちの世界を変えていくそよ風のような才能だ。
同年代の少女であれば、誰でも持てるというものでもない。
そんなマリーの才能に気がついて、認めていながら国外諜報局長のヴァルター・シェレンベルクは冷徹に命令した。
万が一にも、彼女が拉致され、拷問にでも晒されたときに、訓練された兵士でもないからは半日と持ちこたえられはしないだろう。
だから、こう告げるのがせめてものマリーへの優しさだと、シェレンベルクは思う。
「万が一、”彼女”が敵の手に渡るようなことになるのならば、構わん」
「……――構わん、と言うのは?」
執務机に座るシェレンベルクを前にして、マイジンガーは目の前の青年の物言いに対してひどく不快そうに眉間にしわを刻む。
「万が一の事態が起こるようであれば、殺して構わん、と言っているのだ」
シェレンベルクにそう言われてヨーゼフ・マイジンガーはフンと鼻を鳴らした。一方で、マイジンガーの背後に控えてふたりの上官たちのやりとりを黙って聞いているナウヨックスはそっと片目をすがめた。
――マリーを殺害しなければならないような万が一の事態、とやらが起こった場合、それは同時に警護にあたる自分たちの身にも危険が及ぶということである。
「つまり、その後は”我々”にも自決しろ、とでも?」
うなるようなマイジンガーの声が響いてナウヨックスは顔を上げた。
「足手まといだ、と言っているのだ」
「なるほど」
マイジンガーもシェレンベルクも一歩もひきはしない。
どちらも互いに組織を守るために発言しているのだ、と思いたい。それでも、とナウヨックスは思う。
年端もいかない少女を手に掛けるのは心が痛んだ……。
シェレンベルクの応えを受けてマイジンガーは背中の後ろで腕を組んだままで、むっつりと黙り込むとややしてから短く告げた。
「承知いたしました」
――マリーを殺せ。
シェレンベルクにそう言われてみても、マイジンガーはいまひとつ面白くない。
もちろん、彼は「殺せ」と言われている「相手」が「少女」であるから、命令に二の足を踏んでいるわけではない。
シェレンベルクの言い分もわかっているつもりだが、自分のことを信頼して警戒心もなく内緒話をしてくるマリーの存在を、マイジンガーは気に入っていた。
かつて彼が殺したポーランド人たちのように殺したくはない。
公私混同と言われようがなんだろうが、いやなものはいやなのだ。ただそれだけだった。
人殺しの自分が、たったひとりの少女を殺したくない、などと思うのは感傷的になりすぎているのだろうか……?
「……マイジンガー大佐」
ナウヨックスを連れて、背中を向けたヨーゼフ・マイジンガーをシェレンベルクが呼んだ。
「は?」
不作法にマイジンガーが首だけで振り返る。
「感傷にひたるな」
「ご忠告痛みいります」
丁寧な言葉を返してヨーゼフ・マイジンガーはそのままアルフレート・ナウヨックスに顎をしゃくるとシェレンベルクの執務室を出た。
「ナウヨックス」
不躾にマイジンガーが低く青年を呼ぶ。
もっとも不躾だとは思ってもナウヨックスに拒否権はない。
「……おまえはあの子を殺したいか?」
長い廊下を歩きながらマイジンガーは腕利きの秘密工作員に問いただす。しかしナウヨックスの方は禿げ頭の男の真意を測りかねて小首を傾げてから迷うように床に視線を落とした。
「俺は大概、悪党だからな。ワルシャワの殺人鬼だのなんだのと言われたのも今では懐かしいが、……どうしてだろうな」
言いながら紙巻きタバコをポケットから取り出してマイジンガーはライターで火をつけた。
――ワルシャワの殺人鬼。
それはマイジンガーにつけられた悪名だ。
「シェレンベルクはあんなことを言っていたが、俺は……」
そうして言いよどんだ。
「俺はマリーを殺さずにすめばいいとすら思っているんだ……」
苦く笑いながら自嘲するマイジンガーに、ナウヨックスは答えられないまま眉をひそめると親衛隊大佐の言葉の先を待っていたのかもしれない。
「マリーを殺したくないと思うんだ。笑えるだろう……」
多くのポーランド人を殺し、ドイツ人を殺した自分がただひとりの少女を殺すことをためらうのだということ。
「……いえ」
上官の言葉を否定するわけにもいかず、ナウヨックスはマイジンガーに頭を振りながら短く相づちを打った。
「俺は、俺自身のことがおかしくてたまらんのだ」
日本から帰国を許され、ベルリンで出逢ったのはひとりの少女だった。
長い金色の髪の、青い瞳の、小柄な少女。
強面のマイジンガーに天使のような笑顔を向けた彼女の存在。出逢ったばかりの頃は、彼女のことを上司だと思うと面白くはなかったが、どんな嫌みを言ってみても馬鹿のようににこにこと笑っている彼女の瞳に心を奪われた。
――マイジンガー大佐……!
言いながらニコニコと口元に手を当てて彼を呼ぶ。大柄なマイジンガーに背伸びでもするようにつま先立ちになって、まるで父親にそうするような内緒話を。
鬱陶しいと思ったのは最初だけだ。
まるで魔法にでもかけられたように彼女の存在に捕らわれたこと。
「わたしのことが怖くないのか?」
ゲシュタポの同僚からも疎んじられた彼に、無邪気な眼差しを向けた彼女はきょとんとして大きな青い瞳を更に大きく見開いて丸くする。ややしてからマリーは笑った。
「マイジンガー大佐はわたしになにか怖いことをするつもりなんですか?」
無邪気に問いかけてくる彼女に対して逆に毒気を抜かれてしまう。
「……いや」
「なら怖がる必要なんてないんじゃないですか?」
――怖くないわ。
マリーはそうして笑った。
「俺は全力でマリーを守ってやりたいと、そう思ってしまったんだ」
心を捕らえられてしまった。
ぽつりとマイジンガーはつぶやいた。
そしてその思いはまるで父性愛のようでもあるし、どこか恋愛感情にさえ似ているのかもしれない。
四十代の厳つい男が、十代の少女に恋をすることなど気持ちの悪いことこのうえないと、マイジンガーは一蹴して自分の感じるその気持ちはあくまでも父性愛だと割り切った。
「……大佐殿、もちろん本官もそのように思っております」
荒みきった男たちの心に染みこむ雨水のように潤いを与えていく。
それこそがマリーの才能だった。
彼女の無邪気さは出世レースの中で疲弊し切った男たちにとって安らぎだったこと。
「……わたしは、親衛隊下級指導者ですから、ミュラー局長やネーベ中将閣下のように彼女に接することは許されません」
ナウヨックスにとってマリーは、少尉と少佐の関係なのだ。
――マリー。
そう呼んでみたい。しかし、親衛隊少尉のナウヨックスが少女のことを「マリー」という愛称で呼ぶことなど許されない。
ナウヨックスもいつからかそう思いはじめてしまっていた。
階級は絶対であるし、なによりもマリーの瞳に見つめられると、どうしてか姿勢を正さずにはいられなくなる。
マリーがナウヨックスをどう思っていたとしても。ナウヨックスにとって、マリーの青い瞳は、彼を捕らえるだけの力を持っていた……。
どちらにしてもシェレンベルクは足手まといになるようであれば、マリーを殺せと言うが、マイジンガーにしろナウヨックスにしろ、すでにある程度の”覚悟”は決まっていた。
万が一、本当にシェレンベルクが言うように、彼女を殺害しなければならない時があるとすれば、それは最後の最後。本当に追い詰められた時になるだろう。
苛立たしげに煙を吐き出して、紙巻きタバコの先に点る小さな火を見つめているマイジンガーを横目に、ナウヨックスは自分の目の前の中空を睨み付けた。
*
マイジンガーとナウヨックスをマリーの護衛としてつけることにする、というシェレンベルクの決定に補佐官を務めるヴェルナー・ベストとハインツ・ヨストが顔を見合わせた。
「まぁ、”あの”ふたりなら適任だろうが……」
ヨストの言葉にベストが不審げな眼差しを、次席補佐官に向けている。
正気でそんなことを言っているのか? とでも言いたげなヴェルナー・ベストの瞳にヨストは肩をすくめてみせた、
「国家保安本部の元人事局長なら、彼らの変化はお見通しではないのか?」
「……元国外諜報局長でもそう感じるか?」
「どうだろうな」
執務室には相変わらずというのか、いつもの如くマリーはいない。どうせ、局長連中の執務室をほっつき歩いているのだろう。
彼女の不在を良いことにタバコに火をつけたベストは、長く煙を吐き出しながらソファに背中を預けたままで自分の吐きだした煙を見つめながら目を細める。
ナウヨックスはともかくとして、マイジンガーなど誰の手にも負えない荒くれ者だ。
マリーはそんなマイジンガーを手なずけた。それをヴェルナー・ベストは大したものだと思う。ベストのようにがちがちに法律で凝り固まった石頭ではマリーの柔軟すぎる考え方は理解などできるわけもない。
もしくは、マリーがマイジンガーの悪辣な手段を知らないからなのかもしれない。
皮肉なことを考えてからベストは溜め息をついた。
「大人の気も知らんで、”子供”は全く気楽なものだ」
――そう。
彼女は正しく子供なのだ。
時に百戦錬磨のベストらを驚かせる知識を持ってはいても、マリーは年齢相応の……。いや、もしかしたら少々幼稚にも感じられる子供そのもの。
同性の子供などではなく、異性の子供だからベストには余計にマリーの考えていることなど理解不能だった。
そのため、そうした意味ではかなり早い段階でベストは彼女を理解することを放棄した。
ハインツ・ヨストは憮然として唇をへの字に曲げているベストに苦笑する。
良くも悪くも、ヴェルナー・ベストはマリーのことを気に掛けていないことはないと言ってもいいだろう。
執務室ではマリーに対してつけつけと小言を言うことが多いベストだが、最近ではそんな彼の物言いも随分と柔らかくなった。
ヨストにはベストの内心の変化まで察することはできないが、少女と元裁判官の関係は見ていると心が温まるようにほほえましくて、元弁護士の男はハインツ・ヨストはそんな彼らを見ていることが好きだった。
優しく穏やかなベストとマリーの関係。
「……子供は世界が狭い。だから子供は大概視野が狭い。子供が気楽なのはだからこそ、やむを得まい」
いつもは小言の類を一切ベストに任せきりで、マリーとはどこか気楽な茶飲み友達といった様子のヨストではあるが、ベストがそんなヨストを特に疎ましく思っているわけでもないし、それはそれでヨストらしいともベストは思う。
補佐官のふたりがどちらも口うるさい小言しか言わなければ、基本的には仕事が余り好きではないらしいマリーは息が詰まってしまう。
だから。
ベストとマリーの関係がそうであるように、ヨストとマリーの関係もそれで良いのである。
「どちらにしたところで、マリーの身の回りには充分気をつけてやらなければな」
子供は世界が狭いから、自分の身の回りに危険が迫っていることは知らない。
「……そういえば、ベスト中将。アイルランド人のあの男……、本当にカエル野郎の尻尾を捕まえることができると思うか?」
「わからん」
タバコの火をじっと睨み付けているベストは、ヨストの言葉を受けてしかめ面のままの顔を上げた。
「だから奴らとは別に、彼女の身の回りには充分注意を払う必要があるのだ」
そうして長い沈黙を挟んだヴェルナー・ベストは、どれだけたってからかタバコを灰皿に押しつけるとぎろりと強い瞳を上げた。
「”無実の人間”は守らなければならんからな。それが国家権力の理由だ」
国とは民であり、民とは国だ。
「”暴論”だな」
くつくつと楽しげに笑ったハインツ・ヨストは、ヴェルナー・ベストにタバコを一本差しだしながら、自分も唇にくわえたそれに火を灯す。
「権力とは、暴力だからな」
こともなげに言い放ったベストに、ヨストは薄い笑みをたたえると鼻から息を抜いた。




