13 いびつな形
一九四二年のはじめに行われたヴァンゼーでの会議において、ハインリヒ・ミュラーとローラント・フライスラーは互いに顔を合わせていた。
ひとりはゲシュタポの長官として。
そして、いまひとりは司法次官として。
その様子など、当時、パリの民政本部長官という地位にいたベストが知るわけはない。会議用の机についている数人の親衛隊の法律家たちも、当然だが知るよしもない。
ちなみに現在行われている「会議」は非公式に行われており、そのため書記官もいなければ速記タイピストも同席していない。
後になって、その会議の正当性と重要性、そして必然性を証明しろと言われればどだい無理な話であって、法律家が集まっているからといって、その検討結果が法的公的強制力が発生するわけでもない。議長を務めているヴェルナー・ベストは自虐的にそんなことを考えた。
もっとも会議と称して会議室で行われているものの、実質的にはそれほど堅苦しいそれではなく、法律家たちのせいぜい世間話と言えばわかりやすいかもしれない。
「申し訳ありませんが、わたしは仕事を抱えておりますのでそういった趣旨の集まりでしたら、遠慮させていただいてよろしいでしょうか?」
国家保安本部のエリート中のエリート官僚は、ヴェルナー・ベストに対してにこやかにそう言った国外諜報局長のヴァルター・シェレンベルクを、どこまでも腹の内が読めない男だとも思う。
自分の役に立ちそうな相手であれば、シェレンベルクはどんな相手とも手を組むのかもしれない。彼は若いゆえに、それこそ柔軟に、そして冷徹に悪魔にすら魂を売るだろう。
分厚いファイルを抱えて部屋に入ってきたのは、刑事警察局のコンラート・モルゲンで、ベストの求めに「仕事をしなければ良ければ」と同意した。
気難しい顔をしている特別保安諜報部のふたりの法学博士もそれぞれに自分の仕事を持ち込んでいる。
「全くもっていやになるほど強制収容所からは物証が上がってきますな、モルゲン博士」
肩をすくめたヘルベルト・メールホルン親衛隊上級大佐は、相変わらず刑事警察と共に強制収容所に関わる汚職を含めた犯罪を暴くために奮闘している。情報分析と管理の専門家と呼ばれるが、それでもドイツ国内外に設置される各収容所から提出される書類の数々は彼を悩ませるには充分だった。
そんなメールホルンは、リヒャルト・コルヘル博士の捜査への参加は大変ありがたいものだと思う。
「全くです、メールホルン博士」
言ってからむっつりとした面持ちのヴェルナー・ベストを見やって、コンラート・モルゲンは首を傾げる。
今さらなにをもって公正であるとか、正義であるとかそうしたことを口にするつもりなどさらさらないが、モルゲンの見るところではかつてラインハルト・ハイドリヒの副官とまで呼ばれた男はなにかしらの気がかりを抱えているらしかった。
「……ベスト博士はどのようにお考えか?」
モルゲンが問いかけると、椅子に腰掛けて厳しい眼差しをテーブルに突き刺していたベストは顔をあげる。
「国家保安本部は、我が国の聖域だ。その組織の内部事情に、よその組織の人間がくちばしを突っ込んでくるのはどうにも腹に据えかねる」
ぶすりと言ったベストは腕を組み直してからテーブルに着く一同を見渡した。
同席しているのは、特別保安諜報部から次席補佐官ハインツ・ヨストと同部署に配属されたヘルベルト・メールホルン。そして刑事警察局からコンラート・モルゲンである。
いずれの法学博士たちも同様に若い。
「聖域、かどうかはさておくとして……」
ハインツ・ヨストは持ち込んだ書類に視線を走らせながら口を開く。
「ベスト中将が問題視しているのはリッベントロップのことか、それとも自分のことを特権階級かなにかかとでも思って”舞い上がって”いるフライスラーか?」
適切なヨストの言葉にベストは片方の眉毛をつり上げた。
――舞い上がっているフライスラー。
ヨストの言葉は的を射ている。
おそらく低俗なあの男は自分のことを特別な使命を託された救国の騎士だとでも思っているに違いない。
――他者の生殺与奪の全権を握っている。
そう思っている。
「どちらもだ」
「ふむ」
言葉を返してから小さく頷いたヨストは書類に視線を戻してから眉をひそめた。
「あの男……、人民法廷長官閣下、は自分が絶大な権力を握っているとでも思っているのだろう」
冷静に、鼻を鳴らしてそう言ったヨストに、メールホルンが再び肩をすくめる。そうしてどこか不機嫌そうな目つきになってから手にしていた鉛筆で机の端をとんとんと軽くたたいてから数瞬思考の淵に沈み込む。
「都合がいいんだろう」
「なにが都合が良い」のかは、特に言及もせずにメールホルンがそう言うと、モルゲンが視線をすべらせるようにして慎重に口を開いた。
「そうでなければ例の会議に呼ばれたりはせんだろう? メールホルン博士」
相づちを打つ彼に、メールホルンはなにかを思い出したのかかすかに片目を細めてから大きく息を吐き出して会議用のテーブルに頬杖を突いた。結局なにかが頭をかすめた様子だが、口にすることはせずに不機嫌そうな顔をしただけにとどまった。
「どちらにしたところで、”連中”は現場の苦労なんぞ知りはせんからな」
なにを指して「連中」という批難めいた言葉を使ったのか、ベストにもヨストにも判断しがたいことだった。
メールホルンは左遷されて、短期間ながらクルムホーフ強制収容所の経営などに携わっている。そうなると、彼が告げる「連中」とはフライスラーやリッベントロップのみならず、国家保安本部のゲシュタポ高官たちのことを指しているようにも思えるからだ。
彼は、ヨストと同じように「死」とごく近い場所に生きていた。
「連中、と言えば、結局のところ政府首脳部の政策が右往左往していることが問題なのではないかね? あれではゲシュタポの宗派部の捜査官共も報われんだろう」
やはり冷静に指摘するのは、強制収容所の横領問題に対峙したコンラート・モルゲンだ。
「ゲッベルスの奴は殺せと簡単に言っているが、殺せと言われてもな、いろいろと問題も出てくることをわかっていて言っているのか、それとも本当にわからないで連呼しているだけなら、あの宣伝大臣はよほどの間抜けということになるぞ」
「……間抜けではなかろうが」
まがりなりにも博士号を持つヨーゼフ・ゲッベルスがなにひとつ問題がないと思って異民族を殺せと連呼しているとは考えがたい。おそらく、親衛隊全国指導者であるハインリヒ・ヒムラーですらも自覚しているくらいのことだから、自分の命令が現場にどれだけの混乱をもたらしているかは知っているはずだ。
ひとつ溜め息をついてからベストは言った。
「間抜けではなかろうが、政府首脳部は”それは現場で解決すべき”とでも思っているのだろう」
「人間より小さな生き物ですら大量に死んだ時はその始末に悩ませられるというのに、人間だぞ? 奴ら、本当になんとでもなると思っているのか?」
珍しくヨストのぶっきらぼうな言葉に、ベストは眉をひそめた。
マリーに対して非常に大きな恩義を感じている元弁護士の法学博士は、決して部署長であるマリーの前でそうした男としての、あるいは大人としての嫌な面を見せることはしない。
特別保安諜報部に配属された時に、そんなヨストの少女に対する反応を、ヴェルナー・ベストはすぐに見て取った。
ヨストにとって、マリーとは、自分の力ではどうすることもできない状況から救い出してくれた恩人だ。しかも、武装親衛隊として役立たずと称され、武装親衛隊下士官にまで降格されていたのだ。
国家保安本部復帰後は、親衛隊少将及び警察少将として地位も戻されたことを考えるとそれがどれほど前例にない事態であるのか察しがつくだろう。
そういうわけで、ハインツ・ヨストは自分の権限の及ぶ限りマリーに対して、驚くほど好意的だ。
「思っているから今の事態があるのだろう」
ベストはヨストの精神状態を分析しながら応じれば、メールホルンは腕組みをして小さくうなり声を上げた。
「クルムホーフでも始末には頭を悩ませていたからな」
「……アウシュビッツでヘェスを訊問した時にも似たようなことを言ってはいたが、大概、人体をありとあらゆる方法で再活用することほど難儀なことはないぞ」
ベストらは医者ではない。
だから、それが現実問題としてどれだけ無謀な事態であるのかはわからないが、ヘルベルト・メールホルンは実際にクルムホーフで異民族やロマニー、ソ連兵捕虜などの処刑に関与しているし、コンラート・モルゲンは数多くの強制収容所及び強制労働収容所に捜査でおもむき多くの現場での問題を目にしてきた。
それらに対して心の痛みを感じないのかと言われれば、モルゲンはこう言うだろう。
「いちいち良心の呵責を感じていられるか」
自分たちは法学博士であるが、国家の歯車にほかならない。
フライスラーのやり方については、国家保安本部や経済管理本部で行う強制収容所でのそれらと大差なく感じることもあるが、今、彼らが問題にしているのは捕虜や異民族の扱いについてではない。
戦後のドイツの国民感情が問題なのだ。
フライスラーの権限をこのまま野放しにしておくことなどできはしない。良い形で、ドイツの戦後を迎えることができたその後に、国民に対して行われただろう暴挙は必ず政権に跳ね返ってくるだろう。
それを考えると、いくらドイツ政府の敵であると認定された者たちであったとしても、正統な裁判を受け、正統な判決を下されなければならない。少なくともフライスラーの裁判にはそれがない。
人民法廷長官が「死刑だ」と言えばそれだけの話しなのだ。
「都合が良いんだろうということには否定はせんが、このままでは自分の首を自らの手で締めるような事態になりかねん」
戦争とはいつか終わる。
その時に、その時代に残された人間は、どうやっても真実にたどり着こうとするだろう。ドイツ人七五〇〇万人を統制し、コントロールすると言うことは並大抵のことではない。それは他でもなく、国家保安本部に所属するベストらが知っていた。
「カルテンブルンナー大将もそれについては視野に入れているようだが……」
国家保安本部長官のカルテンブルンナーはれっきとした反ユダヤ主義者で、国家社会主義者だがそれでも法律家の端くれとして、戦争の先にあるだろうものを見つめている。このままでは破滅の道を突き進むだけだと言うことも一応わかっているようだ。
だからこそ、彼は時折マリーを横に呼んで愚痴っているのだ。
全てがベストやヨストに筒抜けと言うわけでもないが、用心深さの足りないマリーはよくカルテンブルンナーとどんな話しを交わしたのか、危機感もなく補佐官たちに披露する。そして、エルンスト・カルテンブルンナー自身もマリーが、補佐官のふたりに会話の内容を話すことも計算している節が見られた。
「どうするか、か……」
こんな会議室で決定権を持たないベストらが話しをしたところでどうにもならないのだが、ゲシュタポ・ミュラーがローラント・フライスラーの首根っこを押さえるために動いているのであれば、その協力を惜しむ理由はない。
どちらにしたところで、ベストらにとってもフライスラーの暴挙は頭痛の種なのだから。
「いずれにしろ、マリーの空気の読めないところは、国家保安本部にとって武器になる」
間が抜けているところもあるが、彼女が子供らしい率直な物言いをするのは彼らにとって非常にありがたいところでもあった。
大人が言いにくいことも、子供であるが故にぽんぽんと遠慮なく口にする。
それは才能だ。
「もっとも、マリーがなにを考えているかはともかく、ミュラー中将にとってみれば愛娘のやっていることにいちゃもんをつけてくるフライスラーが気に入らんだけだろう」
「……公私混同にも程があるだろう、それは」
「だが、正統な理由であるというのも本当だ。ベスト中将」
ハインツ・ヨストが顔の前で人差し指を立ててそう告げれば、一方の首席補佐官であるヴェルナー・ベストはやれやれと手のひらで顔を仰いでからもう一度大きな溜め息をついた。
問題は複雑で難解だ。
それらを結局どうしたいのかは、ベスト自身にもわからない。
「厄介な問題だ……」
「全く」
ベストの言葉に、書類を睨んだままコンラート・モルゲンが同意した。
全く厄介な問題が世間にはひしめいている。考えるに、アドルフ・ヒトラーもここまで戦局が多方面に及ぶとは思っていなかったのではあるまいか。
もっと小規模に、そしてもっと穏便に物事がおさまるとでも考えていたのだろう。しかし、それ以上にナチス政権首脳部のぶち上げた解決方法は戦局の拡大と共に及ばなくなり、流動的な変化を余儀なくされた。
そして、後先考えずに政策をころころと変えれば結果は分かりきっているのだ。




