2 葬送
要するに。
「大尉にはなにがしかの思惑がある、と受け取ってかまわないのか?」
プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセのバルコニーで不自然には感じさせない程度に声を潜めて、シェレンベルクは問いかけると、肩越しにちらと視線をやった。
「はい」
「シュタインマイヤー」
シェレンベルクが言った。
三十代前半にして国外諜報局の責任者にまで上り詰めた切れ者の青年は、鋭く、けれども思慮深い光をその瞳に閃かせてから、わざとらしく言葉を切ると数秒の間をあけた。
「君は俺になにか隠しているだろう」
やや砕けた印象すら感じるシェレンベルクの言葉に、ラルス・シュタインマイヤーは表情を変えもしなければ、体を微動だにすらしない。これといって顔色ひとつ変えずに目玉だけを動かした。
「大佐……」
しばらくしてからそう言った優秀な警察官にシェレンベルクは向き直ると、腕を組んでじっと年上の青年を見つめた。
「別段俺は君が隠し事をしていることに対して腹を立てているわけでもなければ、咎め立てしているわけでもない。俺は君の判断を信頼しているし、欲深の老害どものように愚かなわけでもないだろう」
用心深く、現実の情報からシェレンベルクは冷静にその中にあるひとかけらの真実と、有用な情報をすくい上げるのだ。
「大佐に隠し事はできませんね」
しばらくしてから苦笑したシュタインマイヤーは一瞬後に真剣な表情に切り替わった。
「……シェレンベルク大佐。半日ほど例の少女をお貸しいただけませんか?」
「なにを企んでいる?」
「今は言えません。正直なところ、わたしにも確証があるわけではありません。ですが、もしもわたしの憶測が正しいものでしたら、”彼女”は……」
シュタインマイヤーは片目を細めてから言葉を途切れさせた。
「彼女、は?」
シェレンベルクが復唱する。
「彼女は危険なものか?」
「扱い次第によっては、あるいは」
シュタインマイヤーの答えに顎に手を当てたまま考え込んだシェレンベルクはわずかの時間の後に瞳をあげた。
「ミュラー中将も馬鹿じゃない。俺の権限の届く限りは口もきいてやれるが、わかっているだろうが、慎重にうまくやれ」
ゲシュタポは決してシェレンベルクの管轄ではない。
「心配には及びません。犯罪者やテロリスト共の捜査をしているわけではありませんし、彼女についてはもっぱら自分の時間を使っておりますので」
「その割には、ブーヘンヴァルトに行っていたようだが?」
「さすがに諜報関連を扱われているとお耳が早い」
再三苦笑したシュタインマイヤーに、シェレンベルクは小さく肩をすくめただけだ。
ラルス・シュタインマイヤーがブーヘンヴァルト強制収容所を訪れた表向きの理由は、かつて彼が逮捕した連続殺人犯の状況確認だ。もっともそんなことは、強制収容所の看守と所長にでも報告書を上げさせればいいだけのことだ。
なにもゲシュタポのシュタインマイヤー自ら出向く必要などない。
出向かなければならない理由がない限り、だ。
なにより、ブーヘンヴァルト強制収容所は、ベルリンからはそれなりに遠い。
「理由がなくて、わざわざ強制収容所に行く必要性があるとは思えないが」
シュタインマイヤーが今まで関わった殺人事件を考慮したとしても。
「それです」
長身の男はわずかに身を乗り出すと声をひそめてシェレンベルクに言った。
「シェレンベルク大佐の先例があるとは言え、いくらなんでもブーヘンヴァルト強制収容所に女の子を連れていくとなると、本官がひとりで行くよりもずっと制約が増えます。まともに考えても規定から違反しています。そこで大佐のお力添えをいただけないでしょうか?」
「難問だな」
先日、シェレンベルクがマリーを連れていったことを指してシュタインマイヤーは「先例」と言っているのだが、それは彼女の反応が見てみたかったからあえて強い刺激を与えてみたのだが、マリーが倒れ、ハイドリヒの亡骸が見つかってからは、子供好きの親衛隊全国指導者であるハインリヒ・ヒムラーに「一般人の少女をあんなところにつれていくとはけしからん」と、一八〇度態度を変えてお説教されたのだった。
大概、自分も乗り気だったのに……!
子供――主にアーリア人と認められた――に優しいと言えば聞こえはいいが、単に情にほだされやすいだけだ。ハインリヒ・ヒムラーは常に弱腰に見え、意志決定力に欠ける。
辛辣なことを考えてシェレンベルクは目を細めた。
「……わかった、なんとかしよう」
どのみち強制収容所にマリーを連れていったとして、その情報を隠蔽することなど不可能だ。ラルス・シュタインマイヤーの目的がシェレンベルクにはわからなかったが、少なくともブーヘンヴァルト強制収容所の内情を彼女に見せるためにいくわけではないだろう。
そうすると目的は限られてくる。
要するに、シュタインマイヤーが彼女と引き合わせたい囚人でもいると考えればスマートだ。
収容所の看守や所長からいずれ情報など漏れるだろうことを考えれば、もっともらしい説明付けをしたほうが、後々のトラブルも小さくてすむ。
「一時間でなんとかしてやる。確認は必要ない」
なんとかできる自信はあった。
要するにあのヒムラーを適当に納得させればいいだけのことだ。
シェレンベルクはそう言うと踵を返した。
警察官のシュタインマイヤーの考え方など、シェレンベルクにはとうてい理解できないが、彼を信頼しているのもまた事実だ。
背中にナチス式の敬礼を受けて、そうしてシェレンベルクは自嘲的に笑った。自分にはナチス的な思想と縁がないというのに、こうして階級が下の者たちからは、ナチスの――ローマ式の――礼を受けるのだから。
シェレンベルク個人にしてもそうだが、ゲシュタポに所属するシュタインマイヤーも同じでナチス党に対して忠誠心を抱いているわけではない。それを公にして口にするのは問題があることだから決して言葉にすることはないが、彼らを含めた一部の人間はたまたまナチス党に”就職”したという感覚しか持っていなかった。
大義名分もあるいは大切なことなのかもしれないが、現代社会で生きるためにはなによりも”金銭”が必要だ。
それだけのことだった。
ヴァルター・シェレンベルクが自分のオフィスでシュタインマイヤーと話しをしなかったのは理由がある。もちろん、バルコニーとはいえ国家保安本部内であるから聞かれる可能性は大いにあるが、邪推する程度の話ししかしていない。それでも、少なくともシェレンベルク自身のオフィスで話しをするよりもずっと安全だった。
彼の執務室は、さながら小さな要塞のようでもある。
デスクの上にある電話がいくつもあるのは当たり前のこととして、壁、デスクの下、ランプのひとつひとつ。いたるところにマイクが隠されており、言動ひとつ、物音ひとつといった全てを録音されている。警備システムはそれだけではないが、シェレンベルクはそれらによってシュタインマイヤーとの会話が録音されることを警戒した。
自分だけならば録音に対して考慮しつつ話しをすすめることもできるが、シュタインマイヤーがうっかり口を滑らせる可能性も考えられる。
だから彼はバルコニーを選んだのだ。
誰かに聞かれる危険性も顧慮にいれて。
それでも、ただ聞かれるだけのほうが、録音されることよりは安全だった。
人の記憶というものは得てして曖昧なものだ。よほど記憶力に優れた天才でもない限り、会話の一字一句、さらにその声に秘められたイントネーションによる意図までは読み取ることなどできないだろう。
外見上は表情をほとんど変えることをしないシェレンベルクは、執務室へと戻るとマホガニー製の執務机にある多くの電話のなかのひとつから受話器を上げた。
「……国家保安本部六局のシェレンベルクだ。長官閣下につないでくれ」
しばらくの呼び出し音の後に通じた取り次ぎの女性にシェレンベルクが短く告げた。
ハイドリヒと比較すれば若年で操りやすいとでも思っているらしいヒムラーは、幸か不幸かシェレンベルクに対して信頼を置いているようだった。もっとも、ヒムラーからしてみれば秘密主義の諜報員たちを余り快くは思っていないようだったが、それはそれで上官の評価に対してシェレンベルクはなんとも思っていない。
どちらにしたところで、シェレンベルクなどにしてみればヒムラーはカナリスやハイドリヒ、そしてカルテンブルンナー以上の俗物だ。
俗物には俗物らしい生き方があるのだろう。
そんなことをシェレンベルクが考え出した頃、やっと電話は目的の相手につなげられた。
「お忙しいところ申し訳ありません」
時刻は午後二時。
昼食を終えて、午後の執務に入る頃だろうか。
「閣下に相談させていただきたいのですが、お時間をいただいてよろしいでしょうか?」
受話器の向こうでヒムラーが「まどろっこしい言い方をしないでいい、シェレンベルク大佐」と告げたのを聞いて、シェレンベルクは苦笑した。
これだから安易に人を信じるのは愚かしいのだ。
「実は、ハイドリヒ嬢をブーヘンヴァルト強制収容所に連れて行きたいのですが、よろしいでしょうか?」
ブーヘンヴァルト強制収容所。
その言葉に、電話の向こうでヒムラーが渋面を浮かべたのを感じ取った。言葉ではなにも言わないが、ううむ、とうなった彼にシェレンベルクは相手の表情を察する。
元々ヒムラーは残虐な行為に耐性がないのだ。
彼は軍人でもなければ、処刑人でもないから当然のことだった。
そこは第二カテゴリーに属する強制収容所だ。ダッハウが第一カテゴリーであり、リンツのマウトハウゼンが第三カテゴリーに分類される。そして、このマウトハウゼン強制収容所は、ヒムラーの要請を受けてオーストリアのエルンスト・カルテンブルンナーが設置した収容所である。
略式処刑のための「処刑室」があるかないかだけの差で、どの収容所も大差がない、というのがシェレンベルクの見解だった。
「はい。ザクセンハウゼンでの彼女の反応が少し気になりましたので、もう一度、ハイドリヒ嬢に刺激を与えてみたいと思いまして」
電話の向こうで渋るヒムラーに、シェレンベルクは声色を変えることもせずに続けた。
「大丈夫です、処刑や強制収容所の要所を明かすようなことはいたしません。もしも万が一、彼女が収容所でのことを他に漏らすようなことがありましたら、やむを得ませんが、強硬な処置を執らせていただくようなことになるかとは思いますが」
今のところ、彼女の記憶と意識が混乱していることも見受けられるため、先日、ザクセンハウゼンで見たものを他の誰かにばらすようなことをしていない。今後もそうであるとは限らないが、万が一ドイツに危険をもたらすようなことがあれば、殺せばいいだけのことだ。
「お任せください」
そう告げてシェレンベルクは受話器を置いた。
これでラルス・シュタインマイヤーのための手配はついた。一時間で片をつけると彼には言ったが実際、十五分で事は足りた。
椅子に腰を下ろし、背もたれに背中を預けたシェレンベルクはそうしてから息を吐き出すと窓の外を見つめる。窓にはワイヤーメッシュで覆われており、夜になるとそこは電気を通されているのだ。
ラインハルト・ハイドリヒ――、無類の道化だった。
彼がいたからこそ、ヒムラーの飽くなき野望は形にされたのである。そして、就職難の中、シェレンベルクはそれなりの職にありつけることになった。
そうしてソビエト連邦との戦争がはじまり、ハイドリヒがベーメン・メーレン保護領で暗殺され、多くの出来事が巻き起こる六月九日。
シェレンベルクの元に現れた青い瞳の少女。
その辺のドイツ女性たちのようなたくましさはなく、力をこめればすぐに死んでしまいそうな儚さすら持っている彼女はマリー・ロセターと名乗った。疑い深いシェレンベルクが、おかしなことに彼女を保護しようと思ったのだ。
どうしてそんなことを思ったのか。
気の迷いだったのかも知れない。
もちろん、人間だから時には判断を誤ることもあるかもしれない。
「……彼女は何なのだろうな」
執務室に設置されたマイクに拾われないように、口の中でつぶやいたシェレンベルクは片目を細めてから自分の顎を右手で軽く撫でた。
ラルス・シュタインマイヤーは自分よりも階級的に上に当たるシェレンベルクやミュラーの前では平静を装っているが、正直なところ苛立ちを自覚していた。
おそらく、シェレンベルクあたりはシュタインマイヤーが苛ついていることに感づいているだろう。
その苛立ちは、正体不明のなにかに目の前を阻まれ、捜査が行き詰まったときの感覚とよく似ている。「常識的」という範疇から大きく外れたために頭の理解が追いつかない。そんな感覚だ。
公用のベンツの後部座席、自分の横に腰を下ろしている少女は肩に長い金色の髪をおろして、じっと窓の外を見つめていた。
ひどく落ち着いている彼女の様子を見ていると衝動的に問いかけたくなった。
彼女は、以前何の抵抗も感じずに国家保安本部にあるシェレンベルクのオフィスをひとりで訪れたのだという。一般的な人間であれば、悪名高いプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセに位置するそこを訪ねたいと思うわけがない。
そこは、獣の巣窟だ。
彼女が情報将校や諜報部員、さらに警察官たちと個人として交流があるとはいえ、その落ち着きの程はシュタインマイヤーなどからしてみれば考えられない。
「フロイライン」
呼びかける。
「はい?」
首を回して隣に座る長身のゲシュタポの捜査官を見つめ返したマリーは、青い瞳をまたたかせる。
この一ヶ月余りで彼女の性格はだいぶ変化しているように感じられる。
かつてシュタインマイヤーが逮捕したヨーゼフ・アーベントロートは「先天的な異常者」だった。しかし、目の前の少女はどうだろう。
後天的に、こんなにも早く性格の変化が現れる者などいるのだろうか?
多重人格。
そんな言葉がシュタインマイヤーの脳裏をかすめた。いや、と彼は軽くかぶりを振る。
自分は精神科医ではない。素人が安易に他者の精神分析を行うことは危険なことだというのが、かつて師事したルーカス・フォルツ博士の教えだった。だから彼は決して人の精神分析などしたことはなかったし、その分野はもっぱらフォルツの領域として任せきりだった。
「専門家ですらも見誤ることが多いのがこの分野だ。素人は決して人の精神分析などに手を出そうと思ってはならん」
フォルツの言葉を思い出した。
「……君は、怖くはないのか?」
「なにがですか?」
なにが怖いのか。
「普通の一般人なら、国家保安本部の人間なぞ恐ろしくて近寄らんもんだ」
シュタインマイヤーの言葉にマリーはわずかに眉間を寄せた。彼が告げる言葉を理解しようとして考え込んでいる彼女はふっくらとした唇に右手の人差し指を押しつけて、金色の睫毛をまたたかせてから、見上げるようにして男を見上げた。
「今、わたしに対して怖いことをしようとしてもいないのに、どうして怖いなんて思わなければいけないんです?」
性格も言葉使いもだいぶ変わった。
異常な変容。
彼女はなにを感じているのだろう。
「……今日も”また”強制収容所ですか?」
見上げた青い瞳が異様な冷たさを孕んだような気がする。
「――……」
言葉を飲み込んだシュタインマイヤーは、ややしてから引きはがすように視線をマリーからそらしてフロントガラスの向こうにやった。
彼女の瞳に、飲み込まれそうになった。深い青い瞳の奥底に、墜落するような感覚から自身を取り戻す。
「君に会わせたい男がいる」
「そう」
他愛のない会話を時折交わし、時には少女は疲れて眠ってしまったりと、そんな車中での時間を過ごしてから、やがてシュタインマイヤーの一行はブーヘンヴァルト強制収容所に到着した。
ヘルマン・ピスター親衛隊上級大佐立ち会いの下、特別労務隊員ヨーゼフ・アーベントロートに面会することが許されたシュタインマイヤーは、神経質そうな六十歳近い男を見やる。
ブーヘンヴァルト強制収容所の所長はピスターで二人目で、前任のカール・オットー・コッホ親衛隊大佐はルブリン強制収容所所長として転任していた。
看守に腕を取られるようにして連行されてきたアーベントロートは、いつもとあまり代わり映えのしない表情で、なんでもないことのように笑うと「どうも」とピスターに一礼した。
一見風変わりにすら見えるアーベントロートが、ピスターは苦手だった。もっとも一見風変わりなだけではない。アーベントロートの心の内を理解できる者など果たしているのだろうか?
前任のコッホもそうだが、ピスターも早くこの危険な男を処刑すべきだと考えていた。しかし、それはアーネンエルベから制止を受けているためままならない。そういった理由で未だにアーベントロートは特別労務隊員として収容所内での任務に当たっている。
「それで、女の子がどうとか言ってましたが結局どういう用件なんです? 刑事さん」
アーベントロートにとってはシュタインマイヤー親衛隊大尉も未だに「刑事さん」でしかない。物怖じもせずに問いかける連続殺人犯はたった今まで昼食でもとっていたような顔つきだ。
毎日のように死体を目にしているというのに、彼は顔色を変えることもなければ、それらの任務で精神を消耗させることもない。
まさに強制収容所での仕事に最も適している男とも言えた。
窓際の椅子に座っている少女に近づけない程度の距離に置かれた椅子にアーベントロートを座らせて、シュタインマイヤーはふたりの様子を観察した。
「彼女、ですか?」
長く体を洗ってもいない男からは据えた臭いがする。
死体の臭いだ。
窓の外を眺めていた少女は、「男たち」の意識が自分に向けられたことに気がついたのか、ふと視線を巡らせる。けれども、その瞳には恐怖も、嫌悪も感じていない。
白い生地に茶色のギンガムチェックのジャンバースカートは、腰には体の中心よりもやや右寄りのところで大きなリボンが結ばれておりそれがアクセントになっている。丸襟の白いブラウスとソックスに茶色の革靴。そして生成りのストールと白いレースの手袋をした少女――マリーは、アーベントロートを観察するように青い瞳で凝視する。
無言でひとりの殺人犯と、ひとりの少女が見つめ合う。
異様な光景だった。
時間にして数分。
先に動いたのはアーベントロートだった。
「……お嬢ちゃん」
男の声が掠れている。
その瞬間、マリーの体が椅子からぐらりと傾ぐ。咄嗟にシュタインマイヤーが受け止めるとマリーは細い手を男の胸について体を起こした。
やはり彼女には強すぎる刺激だったのか。そうシュタインマイヤーが思い始めた頃、少女は腕の中で静かに笑った。
「大丈夫です、ごめんなさい」
その声に揺らぎはない。
にっこりと笑顔を見せたマリーにシュタインマイヤーがぞっとする。その場に同席していたピスターには理解などできなかっただろう。
ヨーゼフ・アーベントロートと、マリーは明らかに同じものだ。欠落しているだろうものは両極だろうが、目の前の男と品の良いドレスを身につけた少女は同じもの。
一方でよろけるように椅子から立ち上がったアーベントロートはその場に倒れ込んだ。
*
「ヨーゼフ・アーベントロート、という男を知っているな?」
これまた機嫌の悪そうなハインリヒ・ミュラーの声に、ラルス・シュタインマイヤーは「はい」と答えた。
「ブーヘンヴァルト強制収容所のピスター親衛隊上級大佐から連絡だ。特別労務隊員のアーベントロートの処刑が行われた」
「……と、言いますと?」
「君がブーヘンヴァルト強制収容所を訪問した翌日、発狂したそうだ」
「……発狂?」
目を細めたシュタインマイヤーは咄嗟にミュラーの言葉が理解できない。
「あの男が?」
「そうだ」
アーベントロートの精神状態は安定しているように見えた。彼がそう簡単に発狂する程度のやわな男ではないことも知っている。
そのヨーゼフ・アーベントロートが発狂した。
それはどういうことなのか。
「おっしゃる意味がわかりません」
「まぁ、別に収容所の特別労務隊員のひとりやふたりが死んだくらいさほど問題にはならん。ただ、ピスター所長から連絡してくれと言われただけだからな」
発狂したから処刑に及んだ。
それだけの意味なのだろう。
「はい……」
思い出すのはマリーの表情だ。
どこか影を帯びた、けれどもどこまでも優しげな、純潔の笑顔。
片手で口を覆ったシュタインマイヤーはなぜか背筋を震わせる。――もしかしたら、自分はとんでもないものを眠りから覚ましてしまったのではないかと。
「……マリア・ハイドリヒと申します」
シェレンベルク夫妻に連れられて、上質の服を着たマリーは膝を折るとまるで貴婦人のように礼をとった。
そして、ドイツに死の天使が覚醒した。
けれどもまだそれは他の誰も知りはしない。
「君がハイドリヒ親衛隊大将のご親戚の子か」
「……はい」
一番最初に反応したのは奥で女性陣に囲まれていた突撃隊の幕僚長を務めるルッツェ大将だった。人混みをかき分けるようにしながらシェレンベルクらの前に歩いてくると、小首を傾げるようにしながらじっと青い瞳を見つめる。
この日は、多忙な外交官であるヨアキム・フォン・リッベントロップの自宅で開かれた個人的なホームパーティーだったのだが、リッベントロップの主催だけあってそれほど広くはない自宅の中に人があふれている。
シェレンベルクも情報官のひとりとして招かれており、それは公式の場と言っても大差はない。
見渡してみるとそうそうたる顔ぶれだった。
外見上は表情ひとつ変えないが、シェレンベルクは自分の”後見”する少女をエスコートしながら、内心でほくそ笑んだ。
ヴァルター・シェレンベルクとその妻に連れられた娘。
「両手に花だな、シェレンベルク親衛隊大佐」
ルッツェの言葉にシェレンベルクはにこりと人好きの笑顔を浮かべると、注意深く周囲を観察しながらルッツェに応じた。
「このように若く魅力的な女性をエスコートできるというのは名誉なことです」
おまえはイタリア人かと突っ込まれそうな歯の浮くような台詞を吐き出した彼は、実のところ影では「フランス人ハーフ」とも呼ばれ、その性格が愛嬌があるばかりではないことを現していた。
フランス人のように、誤魔化しが多く信頼ができない人間だ、と。
「ご婦人と話しをさせていただいてよろしいかな?」
「どうぞ、ルッツェ大将閣下」
言いながらエスコートする手を離したシェレンベルクは、マリーが頭にかぶったミニハットを指先で直してやりながら言葉をかける。
「ルッツェ大将は紳士だから大丈夫だろうが、あまりよからぬ男に引っかからないように」
まだ十代半ばの生娘をひっかけるような男もいないだろうし、なによりシェレンベルクやカナリスが後見していると知れば誰も手など出してこないとは思うのだが万が一という場合もある。
「あぁ、撃退してやるから心配するな」
「お願いいたします。小官は外務大臣閣下に挨拶をして参りますので」
ルッツェに告げて、シェレンベルクは妻のイレーネ・グロッセの腕をとると人混みの中へと消えていった。
そこはリッベントロップの屋敷だ。
政界、軍、及び警察関係者の巣窟である。
多くの人間たちと接触させるには好都合だ。
なにより彼女の身柄に対する報告書を提出しているとはいえ、まだ多くの人間が唐突に現れた少女に対してスパイ疑惑をかけている。
あたりまえのことだ。
戦争は重要な局面にさしかかり、さらに現在、アメリカ合衆国も参戦している。
多くの人間が世界各地で暗躍する諜報部員たちに神経質になっているのだから。
肩越しに視線を向けながら、シェレンベルクはイレーネ・グロッセにすら悟られないようにそっと片目をすがめるのだった。




