12 裁定
エジプトを中心にして蔓延している伝染病は一朝一夕で何とかなるようなものではない。
インドにおけるイギリス特殊部隊の掃討作戦によって、「テロリスト」のは処刑された。この作戦行動と時をほぼ同じくして、北アフリカ方面に展開していた部隊の一部は、イギリス、及びアメリカ軍に――結果として――大きな損害を与えることになった天然痘の保菌者の女も逮捕、訊問の後に容赦なく処刑された。
この事実はイギリスの首相チャーチルに苦々しいものを残す結果となる。イギリスの政府関係者は一斉に沈黙させられた。
それは大々的に報道されて良いものではない。
報道されるような結果になれば、世論は彼らの「非人道的な」行いを一斉に批難することになるだろう。
どこの国も政府などそれほど公平なものでもなければ、常に公明正大なわけでもない。事実など時としてそんなものだが、国民を彼ら自身が思う方向へと導きたいのであれば、それなりの大義名分が必要だ。
そして、イギリスやアメリカが掲げる大義名分――ナチス・ドイツの異民族の迫害政策を否定するためには、自ら潔白でなければならないのである。
けれども、テロリストに身をやつしたとは言え、病身の身の上の女性が軍隊によって殺されたともなれば、否が応でも世論は騒々しくなるだろう。それがチャーチルにはわかっているから苦々しい顔を隠すことなどできはしない。そしてその裏には、イギリス政府とアメリカ政府が隠蔽した非人道的な事実がある。
かつてソビエト連邦のスターリンがナチス・ドイツを非難する時に彼らの異民族迫害政策を声高に咎めた時と同じ轍を踏むことになる。
――イギリスとアメリカは。そしてフランスは、公明正大でなければならない。そして潔白でなければならない。
それ故に、彼らは事実を明るみに晒すことなど許されないのだ。
ナチス親衛隊の情報部によってそれら一連の事件の経緯の情報を入手したドイツの国民啓蒙・宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスはまさに水を得た魚のように大々的な宣伝活動を開始した。
――弱者をいたぶり、彼らの命の危険を顧みない連合軍はまさに悪魔の手先である。
そう彼は焚きつける。
時に戦争とは、より多くの世論を味方につけた側が勝つことがままあった。
”正義”とははたして文字通りの意味を持っているわけでもない。
中東アジア、北アフリカ地域に恐ろしい伝染病が蔓延している。
その噂は人の口から口へと伝えられ、独英米のみならず多くの国々の人を恐怖にたたき落とす。
この伝染病の凶悪性を最初に取りあげた報道機関は、やはりと言うべきなのか良くも悪くも自由の国と自称するアメリカ合衆国だった。
騒ぎ出したアメリカ国内の報道機関に、アメリカ国内の諜報活動を引き受けるアメリカ連邦捜査局のジョン・エドガー・フーヴァーとしては、徹底的な情報統制下に置いておきたかったが、結局のところ一億三千万人もの人間の――建前上は――自由な人権の元にコントロールすることは困難を極めた。
人の口に戸は立てられないというように、噂など遅かれ早かれ広がるものだ。
特に遠く離れた別の大陸で起きている事件や戦争ともなれば、噂には尾ひれがついて、大概の場合「悪い情報」として広がっていく。
そんな情報の拡散はある程度フーヴァーの予測し、把握しているところとも言える。
人の未知の情報に対する不安と恐怖はそれ故に、制御することなどできはしない。
「”失態”ですな、ミスター・フーヴァー」
電話口でアメリカの戦略情報局の欧州支部局長は静かに、淡々とそう言った。
おそらく第三二代大統領を務めたフランクリン・ローズヴェルトが大日本帝国を焚きつけてやっとの思いでアメリカ世論を参戦に誘導し、開戦するに至らせたというのにその努力が全て無駄になるのだ。
戦争をやる以上、”必ず”勝たなければならない。
勝つか、負けるか。
そこには妥協点はなく、ただ冷徹な現実があるだけだ。
機嫌の悪そうな電話の向こう側の男の声を聞きながら、スイス連邦の首都、ベルン市にあるオフィスでアレン・ダレスは相手には見えないことを承知で肩をすくめた。
今のこの会話もそうだ。
ダレスはナチスの情報網を甘く見てはいない。
おそらくこの会話もドイツの盗聴機関の監視下にあると見て良いだろう。
アメリカ合衆国で、ジョン・エドガー・フーヴァーが当たり前のように”そう”しているように。
アドルフ・ヒトラーのナチス・ドイツの諜報機関もそうしているだろう。
「わかっているだろうが、ミスター」
眉をひそめたままでダレスは言った。
「この”問題”はイギリスの”国内問題”だ。必要以上に首を突っ込めば痛い目を見るのは我々だ」
ダレスがそんなことを言わなくてもフーヴァーにはわかっているだろう。相手の男が愚鈍であるとも、また浅はかであるとも思ってはいないが、それでも失態は失態だ。イギリスの国内問題に余り首を突っ込んではろくなことにならない。
イギリスとアメリカの間につながりがあることは、誰の目から見ても明らかでそれを否定したところで真に受ける馬鹿はいないだろう。
つまるところ、問題のテロリスト掃討計画の概要と、アメリカで発生したテロリズムが明るみになれば少し頭の働く者であればアメリカとイギリス、両者の協力によって軍事行動が行われたということは自明の理だ。
そうなれば、それほど遠くはない未来に「作戦」の裏にある事件も白日の下に晒されることになる。
大罪が世界に報道され、事実上連合国側から外れた形となったソビエト連邦は現在国内問題とドイツなどを含めた枢軸連合国側との外交の舵取りに迫られている。英仏連合国側の状況も日に日に雲行きは悪化するばかりでこのままでは共倒れの危険も考えられた。
そんな状況にアレン・ダレスは大きな溜め息をつく。
現状ではイギリスに逃れた各国の亡命政府はドイツとの交戦を宣言しているが、今のままでは今後どのように状況がひっくり返るかわからない。
「そもそも問題の発端を念頭に入れるべきだ。ミスター・フーヴァー、ウォレスの人種問題に対する考え方は君も気にいらんだろうが、時代とは変わっていくものだ。我々も、我々自身の考え方に捕らわれ続けて柔軟な考え方を欠けば、やがて身を滅ぼすことになるやもしれんのですからな」
静かに響くダレスの声を、そのオフィス内で聞く者はいない。
アメリカ合衆国という、彼の祖国は多種多様な人種がひしめいており、さらに多種多様な思想と宗教であふれている。
そして名目的には、「自由の国」を謳っているがはたして事実はどちらにより近いのか。
人間というものは愚かなものだから、満たされた平和な生活が長く続けば続くほど、自分とは関係ないと思われる「他者」の痛みには鈍感になっていく。
自分の傍にいる人間が。
もしくは自分自身がその痛みを感じなければ、他者の痛みなどに共感できはしない。
アメリカの多くの国民たちもそうだろう。
アレン・ダレスの胸の奥にチリと焦げ付くような感情が芽生えた。
戦争とは、互いの国民的な利益のために発生するものだ。
――では、ドイツを敵に回して、アメリカ合衆国が得られる利益とはなんなのか。アレン・ダレスはそんな当たり前のことを考えながら電話の向こうのフーヴァーの声を聞いていた。
レンドリース法の判断のもとに同盟国に対して武器、兵器、食料などありとあらゆる物資の提供をしているが、それではたして本当にアメリカ合衆国は利益を得られるのだろうか。そして、それははたして将来的にアメリカ合衆国のためになるのだろうか。
とりとめもなくダレスは考えた。
他人の土地で、他人が戦争をしていることを高みの見物しているだけだ。
そう言われれば反論の余地もない。ダレスは自分自身のことをそう分析した。けれども今ここでヨーロッパ大陸で行われている戦争から手を引けば、さらに多くの悲劇が生み出されるかもしれない。
もちろん、それらの決定を下すのはアメリカの議会であり、国民であり。そして大統領だ。政策としての結論が出れば、その手先でしかないアレン・ダレスが否やを唱えることなどできはしない。
「自由の国、か……」
ぽつりと自嘲するように独白した彼に、電話の向こうでフーヴァーが怪訝な声を上げるがそれに対して「いや」といいながら軽く左右にかぶりを振ると、ダレスはとりとめもない言葉のやりとりを交わしてから受話器を置いた。
長い吐息をつきながら、彼は自分の革張りの椅子に深く体を預けて考え込んだ。
時折わからなくなるのだ。
自分がやっていることの、何が正義で、何が悪なのか。
彼の祖国――アメリカ合衆国は自由の国だなどと呼ばれているが、実際のところそれほど諸外国となにかしら変わるところがあるわけでもない。
ただ、たまたま他の国々と比べて多くの人種に溢れ、そして多くの言語と宗教と思想に溢れているだけだ。そのために、ある一定の自由な風土を受け入れなければならなかった。
たったそれだけのこと。
同じ程度の人口を抱えるソビエト連邦は、武力によって弾圧し国内を平定した。やろうと思えばアメリカ国内でもできないことではないが、それでは新大陸の人間たちが嫌うソビエト連邦のやり方をなぞるだけになって、世界に新しい秩序をもたらすことなど不可能だ。
アメリカ国内にはドイツ同様にソビエト連邦を危険視する意見もある。これについてはイギリスやフランスも同様の姿勢をとっており結果的に、彼らの危機感は現実のものだった。
ソビエト連邦のヨシフ・スターリン。
彼がなにをやったのか。それを今、新しい国家元首となったニキータ・フルシチョフが解明しようとしている。
そんなスターリンを信頼していた第三二代大統領のローズヴェルトの外交音痴も理解できるが、それでも彼は思うのだ。
――自分はアメリカを。……そして、世界をどこに導こうとしているのか。
そして、自分はどこに向かおうとしているのか。
ドイツの懐、首都ベルリンに乗り込んだフランス情報局の諜報部員からの報告を待つだけしかないのかもしれない。
世界に生きている以上、往々にして待たなければならないこともあるのだろう。
深々と息をついてから、そうして彼は椅子に体を預けたままで腹の前で指を組むと顎を上げて目を閉じた。
*
フリードリヒ・パンツィンガー親衛隊中佐とアルベルト・ハルトル親衛隊少佐、そしてフリッツ・ラング親衛隊中佐を連れたハインリヒ・ミュラーは人民法廷長官のローラント・フライスラー判事のもとを訪れた。
道化にも似た死に神。
彼のことを露骨に嫌う法律家も多いが、それ以上に反体制分子たちからそのやり口で徹底的に嫌われていた。
まともな法律家ではない。
誠実さと公正の化身であらなければならないのだ。
「これは、お久しぶりですな。ミュラー長官」
大袈裟に両手を開いて応接室で出迎えたフライスラーはどこか芝居がかった語調でそう言った。
宣伝大臣のヨーゼフ・ゲッベルスの物言いも大概、芝居がかっているとは思うが、そんなゲッベルス以上にフライスラーの言動は芝居がかっている。
ついでに国家保安本部に所属する錚々たる法律家たちに言わせれば、法律家でありながら稚拙極まりない男である、というのがローラント・フライスラーに対する評価の一端だ。
シェレンベルクは元々、スマートではないやり方は嫌っていたし、ヴェルナー・ベストとハインツ・ヨストは頭痛がしそうな甲高い声で咆哮する彼の裁判のやり口はどうにも好きになれない。
シェレンベルクやヨストは弁護士出身であるからともかく、ベストも元はと言えば判事の出身だ。
「……ローラント・フライスラー、あの男の持っている権力をなんとかしなければ、遠からずナチス党の権力は地に落ちるだろう」
ベストの言葉に賛同したのは、やはり親衛隊判事のひとりであるコンラート・モルゲンだ。現在、彼は強制収容所に関する案件だけで手一杯だったから、それ以上の口出しをすることは控えたが、ベストの言葉には基本的なところで大いに賛同するところがあったようだ。
どちらにしても、人民法廷長官を務める男はそれほど頭の良い男ではない。
「法律家は、公正であるべきだ」
「……ベスト中将、仮に、あの男が我々を貶めようとするときはどんな手を使うと思うかね?」
ミュラーに問いかけられて、ベストはかつてからの同僚に視線を投げかけた。以前彼が人事局長を務めていた頃と比べると、ミュラーはだいぶ性格が柔軟になったようにも感じられる。
彼の変化の根源はどこにあるのだろう。
「我々の内にある”不安要素”を利用してくることはあるだろうな」
「……――なるほど」
国家保安本部内の不安要素。
そんなものにはいくらでも心当たりはあった。
ハインリヒ・ミュラーが難しい顔のままで黙り込むと、ベストはただ肩をすくめただけだ。
「つまり、”不安要素”については、早急にこちらから働きかけろ、と言うわけか」
――無法者たちを叩きつぶせ。
ベストは暗にそう告げているのだ。
法律家の身分を語る犯罪者たちを。




