表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XIV ユートピア
178/410

11 かみ合わぬ思惑

 ――夜のように、霧のように、”消えて”しまえ。

 一九四一年に発令された夜と霧の法令。それはあたかも国家秘密警察の強大な権力を象徴しているようではないか。

 異民族やロマニーの移送とはまた異なる。もっと醜悪な法令。

 国家保安本部という組織にマリーが所属している以上、彼らの足を引っ張ろうとする者は、必ず弱者である少女に対して攻撃してくることは明白だ。

 自分が相手の立場でも同じことを考えるだろう。

 だから。

 ハインリヒ・ミュラーは命じた。

 夜と霧を適用せよ……!

 マリーの存在を勘ぐるような輩は、男も女も。老若の別もなく。

 夜と霧の法令によって消し去ってしまえばいい。ゲシュタポ・ミュラーの決定は彼女を守るためだと言ってしまえば、納得のいかぬものを感じるかも知れないが、それは実のところやむを得ない措置とも言える。

 一般庶民にゲシュタポ――広義的な意味で――内部の組織構造に対して疑問を投げかけられることは非常に都合が悪いことだ。

 無知蒙昧(むちもうまい)な一般庶民たちは、こうして国家権力を目の当たりにしなければ、愚かな好奇心で身を滅ぼしてしまうだろうから。

 マリーが国家保安本部に所属しているのは、国家保安本部首脳陣の意向ではない。長官であるエルンスト・カルテンブルンナーなどは幾度となく親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーに対して彼女の辞職を求めていたが、聞き入れられることもなく今に至っている。要するにマリーを国家保安本部に配置したのはヒムラーであるということだ。

 それ故に、彼女が国家保安本部に所属している以上は、その警備態勢に頭を悩ませる羽目になる。

 組織を守るために強権を発動する。

 よくある話しだ。

「マリーはどう思うかね?」

 ファイルの山に埋まるようにして分厚い報告書を読んでいる金髪の頭を上から見下ろして、ハインリヒ・ミュラーが問いかけると、タイプライターで打たれた書類から顔を上げてマリーは首を傾げた。

 ミュラーはマリーが自分を見上げて首を傾げる姿が好きだった。もちろん、彼女がミュラーを見上げる形になるのは身長差からごく当たり前のことで、よほどのことがない限りマリーがミュラーを見下ろしたり正面から向かい合ったりするような事態はない。

 少し上目遣いで顎を上げて青い瞳で笑う少女。

「何がです?」

 ミュラーの元にはゲシュタポでまとめられた数多くの報告書が連日のように提出される。マリーと出会う前――六月以前のミュラーはただひたすら寡黙に自分のもとに上がってくる報告書を黙々と処理していただけだった。

 ゲシュタポを束ねる指揮官として。

 誰が聞いても大して面白くない生活と言えば面白くない生活だろう。毎日のように書類の決裁をして、毎日のように会議に頭をつきあわせる。そんな人生を面白いと思う人間の方がまれではないか。

 自嘲する様子でかすかにほほえんだミュラーは手を伸ばしてそっと頭を撫でる。

 この日、ミュラーに執務室をマリーは報告書を見たいと訪れた。もちろんミュラーとしては断る理由もないから二つ返事で了承する。

 なによりもマリーと顔を合わせるのは、ハインリヒ・ミュラーにとってささやかな楽しみのひとつだった。別に相手に恋愛関係を求めているわけではない。ただ大して面白みに欠ける生活の中にわずかな潤いくらい求める権利があってもいいだろう。

「再定住計画について……」

 静かに告げたミュラーにパチパチと金色の長い睫毛をまたたかせた彼女は、再びわざとらしく小首を傾げてから細い指先を自分の頬に当てると考え込んだ。

「別に”どうだって”いいことですけど」

 そこまで言ってから一度言葉を切った。

「ミュラー局長は”なにが”怖いんですか?」

 問いかける少女の言葉は余りにも率直すぎて、ゲシュタポ・ミュラーと恐れられる中年の男は一瞬言葉に詰まる。

「……マリー」

 彼女の名前を呼んで、ミュラーは視線をさまよわせる。

「はい?」

 大きな青い瞳が彼を見つめていた。

 いつもそうだ。

 マリーは決して発言に躊躇しない。

 そして大人たちが犯罪であるとも認識する事柄に対してさえ、ただまっすぐな程、率直だ。

 それは時にぎょっとするほど……。

「マリー、わたしは……」

 言葉に迷った。

 口ごもって自分の頭を掻いたハインリヒ・ミュラーは、ややしてから大きな溜め息をつくと少女の隣に置いてある椅子の背を引いてそこに座り込んだ。

 執務机に置かれている椅子とは違い、だいぶ座り心地は良くないが、それと同じものにマリーが座っているのだと思うと、それはそれで心が和んだ。

「アイヒマン中佐、このままじゃかわいそうですよ」

 何気ないマリーの台詞にミュラーは黙り込む。

 「かわいそう」とは「どういうこと」だろう。

「……――まぁ、別に”どうでもいい”ですけど」

 どうでもいい。

 それは本音なのだろうか。

「どうでもいい、か」

 どこか投げやりな、けれどもどこか子供らしい感覚だ。

「はい、わたしにはどうでもいいです」

 だって他人(ひと)のことだもの。

 無邪気に笑う彼女に、ミュラーは口をつぐむと少女の手の中からファイルの束を取りあげた。

 昼食の時間に首席補佐官のヴェルナー・ベストが迎えに来ると言っていた。補佐官のふたり――ベストとヨストは、彼らなりに仕事に追われているのだろう。

「君が見たいと言うから、報告書を集めさせたが、こんなにあっては一日では見きれないだろう?」

 ぱらぱらとめくって目を通している彼女は、本当にそれらを読んでいるのだろうか。

「ちゃんと読んでますよー……」

 尻上がりの口調で抗議して取りあげられたファイルに手を伸ばすマリーは唇を尖らせた。そんな少女がかわいらしくてミュラーは口元をゆるませると微かに歯を見せて笑う。

「では、どうして君はボルマンとモレルのことを調べているんだね?」

「……そんなこと?」

 官房長マルティン・ボルマン。

 そしてヒトラー付きの医師、テオドール・モレル。

 彼らのことをマリーが調べているのはある程度前から知っている。そして彼女に請われたからこそ、彼らに関する多くの捜査資料を提供した。それだけだ。マリーが国家保安本部に所属していなければそれらの極秘資料を公開するなどということはあり得ないが、それではなぜ疑いを抱いているのだろうか。

「君は、自分のことを襲った男について興味はないのかね?」

 逆に問い返すとマリーは唇に人差し指を押しつけてから眉をひそめる。

 まるで「そんな些細なことはたった今まで忘れていました」とでも言いたげな彼女の表情にミュラーも思わず眉間を寄せる。

「ミュラー局長……」

 困惑した彼女に、ミュラーはやれやれと目尻を下げながら突き出された手の中にファイルを戻してやった。どうにも彼女の青い瞳に見つめられると、それ以上の追及ができなくなってしまう。

「今日の局長は意地悪ばっかり……」

 ハインリヒ・ミュラーは椅子にふんぞり返ったまま両腕を組むと自分よりも低い場所にある少女の透明な愛らしさをふくれっ面の横顔を見下ろした。

「わたしはゲシュタポの指揮官だからな」

「そんなこと言ってるから、甘く見られるんですよ」

 誰に、とは言わない。

 他意もなく告げるマリーの顔色をかけらも変えはしない。

「……――わたしは、君があんまり素直に伸び伸びと発言することのほうが心配だがね」

 大量の捜査書類を流し見る彼女は、ぱらぱらと指先でページをめくっていた。忙しなく左右に動いている目玉が鋭く見えて、ミュラーは既視感に似たものを感じたような気がしてそっと片目をすがめた。

 どこで「その瞳」を見たのだろう。

 記憶のどこかに引っかかる。

 ミュラーがゲシュタポの長官を務めている以上、彼女が多少は国家権力を脅かすようなことをしようと逮捕するつもりもなければ、強制収容所に移送するつもりもない。おそらく刑事警察局のアルトゥール・ネーベも同じだろう。

 明らかに彼女がドイツ第三帝国という国の国益を損なうならばともかく。

 今のマリーは味方なのだ。

 多少の自由な行動は多めに見ても良いかもしれない。

「でも、ミュラー局長はわたしを捕まえたりしないじゃないですか」

 彼女にもわかりきっているのことなのか、マリーが悪びれもせずに言えばミュラーのほうは組んでいた腕をほどいてからテーブルの上に左肘をついた。

 右隣に座っているマリーの青い瞳が自分を見つめているのが心地よい。

「そうだな」

 ぽつりとつぶやいてから、ミュラーは「だが」と続けながら体の向きを変えるとマリーと対峙する。

「だが、ダリューゲが実権を握っている秩序警察が騒ぎ出すといろいろと面倒だ」

 クルト・ダリューゲ。

 現在、ベーメン・メーレン保護領の二代目の副総督に就任した鼻持ちならない男で、彼もまたハイドリヒに成り代わって強大な権力を得ようとしていたひとりでもある。

「……ダリューゲ上級大将の秩序警察(オルポ)なら、別にそんなに警戒しなくてもいいと思いますけど」

 どこか冷たさも感じる「ダリューゲ上級大将」という言葉に、ミュラーはわずかばかりの優越感をクルト・ダリューゲに対して抱きながら、頬杖をついたままでとつとつと言葉を切り出した。

 本来の性格のせいか、どうにも人と話をするのは余り得意ではない。

 けれども自分が他者と話しをすることが不得意だということを理由にマリーとも会話を成立させようとしなければ、きっと彼女は自分と顔を合わせるのを面白くないと感じてしまうのではないか。

 そんな危惧からミュラーは年齢らしからぬ必死さで言葉を紡いだ。

「君は、あの男の卑劣さを知らんのだ」

「……そうですか? どうせ罰するなら、ダリューゲ上級大将よりもフランク中将が先だと思いますけど」

 口ごもるようにそう言った少女の発言にミュラーは思わず目を剥いた。

 カール・フランクは現在もベーメン・メーレン保護領で親衛隊及び警察高級指導者を務めている。

 ラインハルト・ハイドリヒが暗殺された後の、傍若無人な振る舞いは記憶に新しい。

「彼の身辺調査をしたら、きっと面白いものが見れると思いますよ。それに、ダリューゲ上級大将は今はまだ味方にしておくべきです」

 そう思います。

 そんな気軽さで言ってから再び書類に視線を戻したマリーの知的な横顔に、ミュラーは目を奪われた。

「ミュラー局長はそう思いませんか?」

 柔らかなとも言える眼差しを書類に突き刺したままマリーの瞳は、しかしどこか穏やかでつかみ所がない。

 マリーがなにを考えているのかわからなくなるのはこんな時だった。

 どうして彼女はこんなにも深刻な話しをしているというのに、こんなにも穏やかな眼差しを振りまくことができるのだろう。それが、ミュラーには時折わからなくなる。

 彼女自身が、テロリズムにあったときもそうだった。

 目的も不明なままに狙撃され、紙一重で命が助かったときも。

 そして、八月に腕を折られたときもそうだ。

 事件当日は混乱もしていたが翌日にはけろりとしている。

 普通の人間であれば、自分が襲われた翌日に危機感もなく生活することができるわけもない。特に多感な十代の少女であるならなおさらだ。

 怖くないのか、と尋ねてみても「別になんでもない」と彼女は言った。

 犯人が逮捕されてもいない状況で、彼女は穏やかな笑顔を浮かべているのだ。

「……カール・フランク」

「面白いですよ、彼……」

 ハインリヒ・ミュラーが、フランクの名前を口にすると少女はボルマンとモレルに関する書類を読みながら、口元に片手を当ててクスクスと笑い声をたてていた。

 こんなにもかわいらしいのに、マリーはこんなにも正体不明だ。

「彼は、ハイドリヒ大将がせっかく積み上げたドイツに対するチェコスロバキアの労働者階級の信頼と、その努力を台無しにしたんです。それが結果的にどういうことなのか、ミュラー局長ならわかるんじゃありませんか?」

 直接的な言葉を告げないマリーに、ミュラーは眉を寄せた。

 ナチス親衛隊の高級指導者でありながら、ベーメン・メーレン保護領でラインハルト・ハイドリヒが積み上げたものを破壊したカール・フランク。

 つまり……――。

「面白いもの、か」

はい(ヤー)

 ミュラーの声に、ほほえんだマリーは青い瞳を揺らめかせた。

「ゲシュタポは、ドイツの敵を掃討するために存在しているんです」

 マリーはそうしてから、静かに言った……。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ