10 Nacht und Nebel
マリーと呼ばれるのだという少女。
パン屋の女店員ともう一度世間話でもしたいと思ってジャネットが、「マリー」も訪れるパン屋を訪ねるとその女店員は跡形もなく消えていて、店の人間に彼女の所在を聞いてみても、行方はようとして知れなかった。
夜のように。
霧のように。
跡形もなく行方をくらまし、さらに店の人間はそれ以来「客」の身元について一切口を開くことをしなくなった。
不愉快な危険を感じ取ってジャネットは一瞬で「潮時」を見極めた。おそらく、どちらにしたところでこれ以上深入りするのは危険なことだ。なにげなく、いつものようにパンを購入したジャネットは、紙袋を片手にぶら下げたままかすかに眉をひそめると朝の街角で協力者のひとりと合流した。
人通りは多いが逆に見通しの良い歩道で、たまたま出逢った友人同士が世間話をしているだけのようにも見えなくもない。逆に言えば怪しい相手がいればジャネットらからもよくわかるということで、さりげなく辺りに目を配りながら彼は相手の男に軽く肩を叩かれて、鬱陶しそうにその手を振り払った。
そんなジャネットの様子に明るい笑い声を上げた三十代の大柄な男は自分のアパートメントへと彼を招く。ぞんざいな調子で代用コーヒーをカップに注いだ男はどっかりと安物の椅子に腰掛けてから窓の外に視線をやった。
「まずいな、オットー」
「まぁ、文句を言うな。ベルリンはなんでもかんでも品薄だからな」
「ふん」
戦時下にあっては全ての品物が不足しているのが常である。まずいコーヒーに口をつけながらパンをかじる。
「……名前はマリーだとか」
ジャネットがぼそりとつぶやくと、外務省に勤めるその青年――オットー・フュルマンは広い肩をすくめると自分の手のひらでひらりと顔を仰いだ。
「正直なところ、わたしもよく知らんのだが、どうやら国家保安本部と親衛隊全国指導者個人幕僚本部の慌てふためき振りを見る限り、かなり特殊な立ち位置にいるらしい」
外務省に勤めるフュルマンは、元々オーストリアの人間で、各国に知己という名の伝手を持っている。ドイツに併合されたオーストリアの人間として、彼は必ずしもオーストリア・ナチス党を含めたナチス政権の政策に賛成していたわけではない。
彼もひとりの人間で、自分の身がかわいかったというのもある。そのため、ナチス党のやり口に目をつむってきた。しかし、アドルフ・ヒトラー率いるナチス党の異民族らに対する迫害は日に日に残虐になるばかりで、オーストリア人でありドイツ人でもあるフュルマンもとうとう我慢の限界に達した。
今では一日何往復もする勢いで、背筋が寒くなるような強制収容所、あるいは強制労働収容所に送り込まれている。
そしてオットー・フュルマンの独自の情報網――と言うほどのものでもない――によって、白日の下に晒されたおぞましい疑惑。
アドルフ・ヒトラー――ナチスを打倒しなければならない。
意を決した彼は、いつからかスイスの英仏連合の諜報機関、アメリカ合衆国戦略情報局のアレン・ダレスなどを通じて反ドイツ派の協力者として働くようになっていた。
そんなフュルマンが危険を冒してまで、先日手に入れることができたのは国家保安本部の少女将校の腕章だった。
ナチス党の牛耳るドイツ政府の暴力機関。それこそが、ドイツ全土と占領地域を監視する警察機関でもある国家保安本部だ。彼が目にした少女はそんなドイツの暴力機関である国家保安本部のアキレス腱になるとも思われたのだが、残念なことに彼女の腕章を持ち出すのは失敗に終わった。
結果的にゲシュタポの締め付けが厳しさを増し、外務省に潜むスパイたちは大幅に行動を制限されることとなった。
「国家保安本部と言えば、あのハイドリヒが死んでからオーストリア・ナチ党員のカルテンブルンナーが長官職についたらしいそうだが……」
ジャネットの指摘に、オーストリア出身のオットー・フュルマンは心底面白くないとでも言いたげにフンと鼻を鳴らした。
「カルテンブルンナーなど大概俗物だ。あのラインハルト・ハイドリヒの化け物振りを考えればたかが知れている」
吐き捨てるようなフュルマンの言葉にジャネットはわずかな時間黙り込んでから視線をさまよわせた。
欲求不満のエルンスト・カルテンブルンナー。
オーストリア・ナチス党の党員のひとりでありアドルフ・ヒトラーと同郷である故に、国家保安本部長官の地位を得た。外面的にはカルテンブルンナーに対する評価はそうした低いレベルのものだった。
「エルンスト・カルテンブルンナー親衛隊大将閣下が俗物だとして、それにしたところであの男の指揮下にある奴らが無能ばかりというわけではない」
苦々しいフュルマンの台詞にジャネットは顔色ひとつ変えることもなく、コーヒーカップから瞳を上げる。
国家保安本部はカルテンブルンナーによって作り上げられたものではない。
ラインハルト・ハイドリヒが彼の部下を力尽くでねじ伏せて作り上げたものだった。それらの情報は占領下のフランスにも流れ込んでいたから、ジャネットもある程度は把握している。
ヴェルナー・ベストなどは国家保安本部に所属した後、パリの民生本部長官として勤務もしていたのだ。ジャネットもオットー・フュルマンも知らないわけはない。
総務局、国内諜報局はスパイたちにとってそれほど驚異的ではないし、国家秘密警察局のミュラーは力尽くの捜査しかできない絵に描いたような田舎警察だ。問題は優秀な刑事を多く抱える刑事警察局と、やはり優秀な諜報部員と情報将校を抱えている国外諜報局の存在だ。そして、彼らが危険視するのは表向きは実権を失っているようにも感じられる世界観研究局という不気味な機関。
考えれば考えるほど、彼らの存在は不気味なことこの上なく、オットー・フュルマンはタバコを口元に当てたままで沈黙する。
国家保安本部。
ナチス親衛隊員の情報将校として、なぜ幼く思えるような少女の存在が容認されているのか。
――子供の遊び。
パン屋の女店員はそう言った。
「……子供の遊び?」
脳内に蘇る彼女の言葉を思い返して、ジャネットは復唱する。
SD章と、親衛隊全国指導者個人幕僚本部のカフタイトルを縫い付けたベルベットの腕章が子供の遊びなどであるわけがないではないか……!
つまり、彼女はその腕章は決して遊びで身につけて良いわけではない。それはパン屋の店員が消えてしまった現実が物語っているのではなかろうか。
――……”夜のように、霧のように。誰の目にも映らないように”、彼女は消えてしまった。それこそがゲシュタポの恐ろしさで、その鉄槌は同じ国民にすら容赦なく下される。
ゲシュタポの捜査員共は、とジャネットは内心で悪態をついて眉間を寄せた。
同じ国の人間に対してさえ不当な扱いをすると言うことに対して何ら疑問を感じないのだろうか……。
けれども「もしかしたら」とジャネットは思い返す。彼には不当に見える逮捕も、もしくはジャネット自身が彼女に招き寄せたものなのかもしれない。
そしてそれはある種の悔恨の念からだったのだろう。
自分がマリーとやらの少女のことを尋ねたために、彼女は消えてしまったのではあるまいか。そこまで思案してから彼は金色の頭を軽く左右に振って考えを否定する。
決して雑念に捕らわれてはならない。祖国フランスのためにも。そして、ジャネット自身の命のためにもすでに引き返す事などできないところに踏み込んでしまったのだろうことを痛感した。
そして、彼の安息はドイツを滅ぼすまで”存在”しない……。
国のためなどという言葉はくだらない大義名分だと嗤う者もいるだろう。
それでもジャネットは心の奥にかつてと変わらぬフランスという国の憧憬を抱いてならないのだ。
「大義を成すためには、痛みが伴うものだ……」
タバコを吸っているオットー・フュルマンに、ジャネットは告げるが果たしてその言葉は目の前の男に対して告げたものなのか、それとも自分に対して告げたものなのか、発言の本人にとってみても大きな疑問だった。
ジャネットの言葉にフュルマンは無言で頷いた。
――……痛みとは。
たとえば自分の良心であり、生命であり。そしてまた無辜の人々であり、全く関係のない他者の命である。
無関係に遠い土地に暮らす誰とも知らない人間が犠牲になるかもしれない。
それでっもジャネットはすでに引き返す術はない。
ただぬかるんだ泥に足をとられたままで進むことしかできないのだ。
自分自身に言い聞かせる。
ドイツで、もしくはその外で誰かがジャネットのために「夜のように霧のように」これからも消えてしまうのだとしても、戦うことしかできはしないのだから。
深い懺悔と悔恨を、ジャネットは心に刻みつけて自分の目の前の現実を凝視する。
「……消えてしまえ、か」
ぽつりとつぶやいた。
そんなことが許されるわけがない。
中世の魔女狩りではないのだ。
ジャネットの独白にも似た言葉を黙ったままで聞いているオットー・フュルマンは、そうしてタバコを深く肺に吸い込んでから灰皿に押しつけると大きな溜め息をついた。
ジャネットの言う言葉をフュルマンも理解していた。
「道は血塗られている……」
それがジャネットら、自由フランスの。そしてヴィシー政権に属しながら秘密裏に戦い続けるマキのメンバーたちが選択した道だ。
目の前に広がる道は血塗られているのだとしても、それでも、戦い続けるしかできはしないのだから……。
*
十月の燦々と降り注ぐ日だまりの中でマリーはプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセの廊下に座り込んだまま、いつものように居眠りをしていた。
時刻は午後一時。
腕時計を見た男は溜め息をついてから自分の両膝に腕をつくと、眠る少女を覗き込む。数分考え込んでから腕を伸ばしたゲシュタポの官僚であるアドルフ・アイヒマン親衛隊中佐は少女の肩に触れるか触れないかというところで、中空で指を止めると迷ったように視線をさまよわせる。
本当は彼女の肩を揺すって起こそうかと思った。
けれども結局それをやめたのは、金髪の少女が余りにも安心しきって眠っているせいだった。
音をたてないようにしながら床に腰を下ろしたアイヒマンは、なぜだか突然、国内諜報局長のオットー・オーレンドルフと人事局長のブルーノ・シュトレッケンバッハの両親衛隊中将が羨ましくなった。
よく考えればそこはマリーと、オーレンドルフ、そしてシュトレッケンバッハの秘密の場所だ。
秘密の、と言うとどこかいかがわしい響きを感じさせるかもしれないが、日当たりが良く、風通しの良いその場所はマリーのお気に入りの場所で、そして日々の業務に疲弊したふたりの中将も訪れる場所だ。
時折、マリーが居眠りをしているところに、隣にどちらかの中将が腰を下ろしていることをアイヒマンは知っている。そして、少女が眠りから覚める前に、隣に腰を下ろしていた高級指導者は黙ってその場を去っていくのだ。
当然のことながら、マリーは自分が居眠りをしているときにオーレンドルフやシュトレッケンバッハが隣にいることなど知りはしない。
長い長い溜め息をついて、少女の隣に腰を下ろしたアイヒマンはぼんやりと窓の外に広がる秋の空を見上げたままでただ意味もなくそこにいる。
――シュトレッケンバッハ中将と、オーレンドルフ中将がわざわざ注意しないのであれば、たかが中佐の自分が注意するようなものでもない。
言い訳のように口の中でつぶやいてから、アイヒマンはふわりと香るかすかな花の香りに片目を細めた。
どこにでもいそうな空気の読めない少女の存在が、日頃の業務に荒みきったアイヒマンのすり切れた精神をじわりと癒していく。しかし、その安らぎには気づけないまま彼は彼女の隣にそうしてなにもせずにいることが心地よいと感じたこと。
小春日和の風のように。
彼女の存在が心地よくて、アイヒマンはそうして国家保安本部の外から聞こえる小鳥のさえずりに耳を傾けた。
床に足を投げ出し、片膝を立てたままアイヒマンは特に隣に眠る少女を見るわけでもない。彼女が”そこ”にいることは”識って”いる。
――もう少し、彼女の名前を親しく呼んでみたい。
彼はそう思った。




