9 緩慢な膠着
――ゲシュタポはなにをやっているのだ……!
ヨアヒム・フォン・リッベントロップはその現実に対してイライラと自分の執務室を歩き回って思考に沈む。
ここのところ、国家保安本部と言えば強制収容所に関係する横領事件についてかなり大がかりな捜査を続けている。それはすでにリッベントロップの耳にも入っていた。けれども秘密警察であるゲシュタポがなにをしているのかわからない。
ゲシュタポが外務省をかぎ回っていることは知っているが、それ以上の情報が入ってこない。
それがリッベントロップの苛立ちの原因だ。
――ゲシュタポの無法者たちの動きがない。
ゲシュタポの動きがないということは大変結構なことなのだが、それはそれで不気味だとでも言えばいいのだろうか。
いずれにしても、そんなゲシュタポの動きが不快でならなくて、リッベントロップは正体不明の不気味な感覚にイライラと、組んだ腕の指先を踊らせる。
腹立たしいことこのうえない国家保安本部が外務省の失態をかぎ回っている。もしかしたら、それはイコールでリッベントロップの失態となるのかもしれない。彼らは犯罪を捏造するエキスパートである。
苛立ちの原因の見極めができなくて、ややしてから乱暴に椅子に腰を下ろした外務大臣は鼻の上にしわを寄せてから小さく舌打ちを鳴らすのだった。
「国家保安本部の奴らは何を考えている……」
リッベントロップの外務省情報局――INFⅢは国外の情報収集にのみ特化している。それゆえだ。リッベントロップはドイツ国内における強力な情報収集能力はないと言っても過言ではない。
問題はその現実にリッベントロップ自身が気がついていないということなのだが、愚かな男はその現実すらも理解はしていない。
「……まったくもって腹立たしい」
吐き捨てるように独白した彼は、苛立ちのまま自分のデスクの端に思い切り拳をたたきつけた。
*
「やぁ、シェレンベルクか。俺だよ」
外務省内の外線電話の受話器を握る三十代前半の青年は、柔らかな、それでいて親しげに。けれどもわずかに声を潜めてから笑った。
「”うちの”おやっさんのことを調べているんだろうから、そっちの”情報網”がおまえの言う通りならもう一度”記録”を洗い直してみるといい。もっとも、そんなことはおまえに言うまでもないだろうがな」
苦笑しながら冗談めかした青年の言葉は、聞く者がいれば余りにも漠然としすぎていると感じたかも知れない。しかし、室内には彼しかおらず、その言葉を聞く者はいない。
「……まぁ、心配はするな。俺も充分注意はするさ。おやっさんも大概粘着質だからな。それに……」
そこまで受話器に向かってそう言って、男は視線を部屋の扉へと向けてから片目をすがめる。
「”また”連絡する」
静かに黒い受話器を置いて、青年はかつかつと靴音を立てて扉に近寄ると無言で開く。そうして長い廊下の左右を見渡してから黙り込んだまま厳しく目を細めて細く息をついた。
自分が外務省に所属している以上、危険と隣り合わせにいるということも理解している。だからこそ彼は「もしかしたら」と思った。
シェレンベルクの友人であるという過去からすでに引き返すことのできないところまで片足を突っ込んでしまったのではないかと胸の奥に堆積するような不安を感じた。
頭の片隅に蘇るのは、数年前に行われた国家保安本部――当時の組織名ではないが――主導によって行われたとも噂される突撃隊指導部への粛正だった。その粛正が今の親衛隊と突撃隊の不仲の原因でもあるのだが。
どこに監視者がいて、どこに暗殺者がいるのかわからない状況は、たかが外務省の官僚でしかない青年にとっては危機感を募らせるには充分すぎた。
敵の影を感じるというのに、自分にはどうしようもない。青年は眉間を寄せたままでネクタイを直して扉を閉じる。
ゲシュタポが外務省の捜査をしているらしいという不気味な事実。
もちろん青年は反逆や、スパイの手招きには関わっていないが、それでも国家保安本部国外諜報局長のヴァルター・シェレンベルクとは友人関係にあり、シェレンベルクの立場に荷担しているということは、根本的に敵の渦中にいるということになる。それはつまるところ常に青年は敵の手の内にいるということだ。
そもそも最初に失態を犯したのは外務大臣のリッベントロップで、彼が国家保安本部に弱みを握られていたことに端を発する。
いざというときにシェレンベルクが権力を駆使して彼を擁護してくれるのかとも思うが、おそらくそれはせいぜい期待するだけ無駄だろう。
それが本音だった。
要するに自分の身は自分で守れということだ。
ひとつ溜め息をついてから、意識を落ち着けようとするかのようにスーツの内ポケットに片手を突っ込んでライターを取り出した。神経質な動作でタバコに火をつけてから窓の外を見つめる。
危険はすぐそこにあった……。
一方、外務省の友人からの電話を受けたヴァルター・シェレンベルクは自分の執務机の内線電話の受話器を取ると、マリーの特別保安諜報部を呼び出した。
すでに夕方はすぎて、夜のとばりが窓の外を支配している。
マリーはとっくに帰宅しただろうが、仕事の「後始末」に追われているだろう補佐官のどちらかはまだ執務室に詰めているはずだ。
ヴェルナー・ベストにしろハインツ・ヨストにしろ、ヴァルター・シェレンベルクなどからしれみれば頭の固いにも程があるが、どちらもかつては国家保安本部にあって一部署を任された辣腕の法律家である。それゆえに、シェレンベルクは彼らの才能を認めてもいるし、礼を欠かすことなく接している。
なによりもそんな彼らであるからこそ、マリーを預けるには不安も少なかった。もっともマリーの部署に彼らを配置したのはシェレンベルクではなくハインリヒ・ヒムラーなのだが。確かに、シェレンベルクには国外諜報局長として独自の権限をヒムラーから与えられてはいるが、それは、ドイツ政府に大きな影響力を持っているわけではないのだ。
「これからそちらに向かってもよろしいでしょうか? ベスト中将」
受話器に向かって柔らかく問いかけると、電話の向こうから特別保安諜報部の首席補佐官を務めるヴェルナー・ベスト親衛隊中将は特にシェレンベルクを拒絶する様子もなく「構わない」と告げた。
シェレンベルクがハイドリヒの「実働部隊」を務めた「片腕」ならば、ベストはハイドリヒの「副官」だ。最終的にはラインハルト・ハイドリヒと理想とするところを異にしたが、それでも国家保安本部の屋台骨を支え、今の組織の基礎を築いた。
それはヴァルター・シェレンベルクも確かに認めるところだった。
そんなヴェルナー・ベストは、シェレンベルクにとってみても少々読み切れないところも持っている。
正直を言えば、ベストと話しをしていると腹の探り合いになっているようで疲れるところもあるのだが、それはそれでやむを得ないのだとシェレンベルクは割り切った。
ラインハルト・ハイドリヒに反旗を翻したベストと、法律という武器を片手に刃を交えたのは誰でもなくシェレンベルクなのだから。
おそらくベストはシェレンベルクのことを快く思っていないだろうということはわかりきっていた。もっとも、ヴェルナー・ベストが快く思っていない人物は国家保安本部には少なくない。
彼が法律の信奉者である故に、今の国家保安本部の無法者振りは鼻についてならないはずだ。ヴェルナー・ベストの心中など推し量るべくもない。
それでもベストがそんな国家保安本部の高官たちに対して苦言を申しつけないのは、なによりも彼が「大人」であるからだ。
「ありがとうございます、すぐに伺わせていただきます」
小さな音をたてて受話器を置いたヴァルター・シェレンベルクは、形ばかりネクタイを片手で直すと制帽を片手にしてデスクから立った。
足早に国家保安本部の特別保安諜報部に向かったシェレンベルクは、ノックもそこそこにそれほど広くはないマリーの執務室へ入った。そこには特別保安諜報部のふたりの補佐官が顔をそろえていて、それがシェレンベルクには頼もしくも感じられる。
「マリーは帰ったのですか? ベスト中将」
「あぁ、一応彼女も”年頃の”娘だからな。余り夜更かしをさせるのも発育によろしくないというのが、ゲープハルト中将の意見でね」
マリーに長い残業をさせることに対して強硬な反対意見を唱えているのは、国家保安本部の捜査官や高官たちではない。形の上では親衛隊全国指導者個人幕僚本部から出向してきていると言うことになっている親衛隊医師のカール・ゲープハルト中将で、最近、昇進したばかりだった。
「なるほど」
「ナウヨックスを護衛につけてアパートメントに帰したが。必要なら呼び出すかね?」
ヴェルナー・ベストのそんな言葉にヴァルター・シェレンベルクは小首を傾げるとかすかにほほえんでからゆっくりとかぶりを振った。
「いえ、マリーに意見など求めたところで無駄ですので結構です。ベスト中将」
「ふん……」
マリーがいるだけ無駄だというシェレンベルクの台詞にベストは無言のまま鼻を鳴らしてから、手招きをしてソファを指し示す。
相手に対して面白くないと思っていても、彼は形式的な礼儀を忘れることはない。シェレンベルクとベストのそんなやりとりを見つめていたハインツ・ヨストは少々面白そうな表情を浮かべたままで代用コーヒーをいれたカップに唇をつけた。
「それで、何の用件だ?」
「いえ、外務省に敵のスパイが潜り込んでいるらしいというゲシュタポの情報に関してなのですが」
「……あぁ、あのアイルランド人の情報に関してか」
アイルランド人、というヴェルナー・ベストの言葉にシェレンベルクは無言でぴくりと片方の眉を引き上げた。
「マクナリーの情報はわたしにも入っています。中将」
キーン・マクナリーは刑事警察の指揮下に入っているが、実際のところ彼の捜査の範囲は多くの部署に跨っている。
「彼の情報を聞く限り、刑事警察の捜査だけが及ぶところではない。そうすると、彼はクリポという所属を越えてゲシュタポにも関与しているだろうし、彼自身の”救出劇”を考えると、シェレンベルク上級大佐にも報告書は提出されていると考えて良いだろう」
そして「関係者」であるわたしにも、懇切丁寧にマクナリーは報告書を持ってきたからな。
大して面白くなさそうにつぶやいてコーヒーカップを手に取ったベストは、ちらりと自分の執務机に視線を走らせる。そんなベストの視線を追いかけるように、特別保安諜報部長首席補佐官の執務机に目をやったシェレンベルクの視界に入ったのはルーン文字で「SS」と記されたファイルが置かれている。
「彼も用意周到ですね。それで、彼女は報告書の件を知っているのですか?」
「いや」
シェレンベルクの言葉をベストは静かに否定するとおもむろに立ち上がって自分の机の上にあるキーン・マクナリーのファイルを手に取った。そうして指先でめくる。
生真面目な眼差しになったベストを興味深そうにシェレンベルクは見つめた。
「一応彼女の身柄はマイジンガーに命じて警護を強化しているが、今のところこの報告書の件についてはマリーには言っていない」
「なぜ?」
シェレンベルクはベストに問いかけると、ふたりの間を割って入るようにハインツ・ヨストが声を放った。
「シェレンベルク上級大佐。君も理解しているだろうが彼女にそれを言ったところで無駄だろう。そもそもあの子に危機管理能力を求めるだけ無意味というものだ」
鋭く指摘するヨストは、アインザッツグルッペンの指揮官としての任務を更迭された数ヶ月前と比較すると、だいぶ精神の安定を取り戻したように感じられる。元々シェレンベルクの前に国外諜報局長を務めていた男だ。優秀であることには変わりがないし、精神的な安定を取り戻したヨストは、あたりまえのように当時の有能さを取り戻している。
鋭いヨストの眼差しを受けてシェレンベルクは「そうですね」と告げた。
「ところでマイジンガーはマリーを貶めるような態度は?」
「今のところはないようだが……」
野蛮な男――。
それが一同のヨーゼフ・マイジンガーに対する評価である。
「ナウヨックスよりは彼女に入れ込んでいるようだが」
ベストが告げるとヨストは肩をすくめた。
禿げ頭の鋭い瞳の男がマリーと共にいるのはシェレンベルクもよく目にしていた。本来、ゲシュタポの捜査官と言うことと、対ポーランド戦におけるアインザッツグルッペンの指揮官代理をも務めた粗野な男もやはりどこか印象が変わっていたように感じられた。
「マイジンガーは野蛮だが、あの男の状況把握能力は役に立つ」
ベストがむっつりとしてそう告げると、シェレンベルクは口元に片手を当てたままで無言で頷いた。
「それで、わたしと彼女が映っている写真が流出している件について、シェレンベルク上級大佐はどうするというのだ?」
流出した写真――ヴェルナー・ベストとマリーの後ろ姿の映っているそれ。
シェレンベルクはベストから手渡された白黒の写真を受け取って眉をひそめた。その写真はすでにキーン・マクナリーからシェレンベルクの元にも届いている。
「おそらく外務省のスパイと、マクナリーが勘付いたスパイらしい男はつながっていると考えて良いでしょう。ゲシュタポのミュラー中将とも話しを詰めていますがおそらく近々一斉検挙が行われるものと思います」
「……INFⅢ、か」
諜報の世界に足を突っ込んだずぶの素人。
考え込むようにつぶやいたヴェルナー・ベストにシェレンベルクは「ところで」と言いながら首を傾げて写真を年上の裁判官に戻した。
「ベスト中将とヨスト少将は今回の一件についてどのように思われますか?」
「おそらく、敵は我が国の弱点を手の内にしようと躍起になっているのだろう。弱者を狙うのは利にかなっているし、より力の強い相手よりは楽でいい」
きっぱりと言い放ったハインツ・ヨストにシェレンベルクは冷たい笑みをたたえた。
確かにヨストの言う通りだ。おそらく彼女の存在が直接的に知れ渡っているわけではないのだろう。それに関してはディンクラーゲにも調査を依頼している。
しかし可能性のひとつとして考えるのならば、敵の諜報部員たちが追及しないわけがない。おそらく自分が同じ立場であってもそうするだろう。
シェレンベルクはそう考えた。




