8 愚者の踊り
国家保安本部、刑事警察局犯罪捜査部の部長を務めるパウル・ヴェルナー親衛隊大佐は、提出された報告書を前にして右の拳を口元に当てたままでじっと考え込んでしまった。
現在、刑事警察局は全力で先日再編されたばかりの強制収容所に関係する横領事件を追いかけている。そのため、人的余裕がないというのが正直なところで、それは彼の指揮する犯罪捜査部だけではなく出動部も同じだった。
国家保安本部長官のカルテンブルンナーが危惧するように、どうにも保安警察だけでは人員が不足している。それが彼ら管理職らの多くが認識しているところだった。これでは、ゲシュタポにしろクリポにしろ捜査員たちが過労死してしまうのではないか。そんな危機感もあるが事件は国家保安本部の都合に配慮してくれるわけでもなければ、より大きな混乱を求めて、ドイツ第三帝国の権力の転覆を狙うために事件は絶え間なく引き起こされる。
それらを取り締まらなければならない。
時には私情に流されそうになることもあるが、それはやむを得ないことだ。パウル・ヴェルナーもごく普通の人間であり、たまたま刑事警察局犯罪捜査部の部長を務めているだけと言うことだ。
やれやれと溜め息をついてからパウル・ヴェルナーは立ち上がると報告書を手にしたままで、足早に別のフロアにあるゲシュタポの執務室へ向かった。
途中の廊下で数人に「ハイル・ヒトラー」というお決まりの敬礼を受けたが、それも最近では余り気にならなくなった。
余り気にならなくなったのは局長であるアルトゥール・ネーベ親衛隊中将の態度もあるだろう。彼が婉曲的な態度がいまひとつ面白くなかったが、それらのネーベの態度によって刑事警察局はそれなりの地位を維持していたわけだから、ネーベには感謝をしなければならないのかもしれない。
そんなアルトゥール・ネーベが、ソビエト連邦との戦争において行動部隊の指揮官のひとりとして東部に赴き帰国してからというもの、どこか神経質な様子で苛立ちを隠せずにいたが、それも彼の前に現れたひとりの少女の存在によってかなり改善されたように感じられた。
過去に死んだと思われていたラインハルト・ハイドリヒの遠縁の娘。身元不明者として施設によって保護されていたが、国家保安本部による徹底的な捜査によってその身元はハイドリヒの血縁者だと確認された。
もっとも十六歳になった初夏、諸事情で彼女を保護していた施設は資金難で倒産して彼女は社会に放り出されて今に至る。
なんとも都合の良い経歴だとも思うが、ゲシュタポと国内諜報局が共同で洗い出した報告だったから今さらそれについて否やを唱えるつもりなどヴェルナーにはない。報告の内容に対して信頼を置いているかは別として、それでも彼女――マリーの存在が、少なくとも国家保安本部のみならず、ドイツの異民族たちの存在のように不利益になるわけでもない。
自分に言い聞かせるように考えを巡らせるパウル・ヴェルナーは、ゲシュタポの敵性分子排除部の部長であるフリードリヒ・パンツィンガーの部屋にたどり着いた。形ばかりの面会の希望をパンツィンガーの秘書に一応伝えて、ヴェルナーは秘書の女が止める間もなく敵性分子排除部長の執務室の扉を押した。
「……ハイル・ヒトラー!」
パンツィンガーは、ヴェルナーの顔を見るなりさっと姿勢を正して椅子から立ち上がると、ナチス式の敬礼をしてそう言った。
「ハイル・ヒトラー」
そうパウル・ヴェルナーも応じる。
「これはどうかしましたかな? ヴェルナー大佐」
「いや、ゲシュタポのほうも外務省の捜査で手を焼いていることは知っているのだが、少し相談したいことがあってな」
ヴェルナーとパンツィンガーは年齢も階級も、そして立場もほとんど変わらない。それ故にある意味で話しやすい相手だとも言えるが、どちらにしたところで互いにゲシュタポとクリポの最も重要な部署を任されているふたりだからこそ、同様に互いの苦労もよく理解していた。
「……――それは?」
フリードリヒ・パンツィンガーはパウル・ヴェルナーのそんな台詞を聞きながら、少しばかり考え込んでから曖昧な言葉を返して指を揃えて執務室のソファを指し示すと秘書に手短にコーヒーを申しつける。
ヴェルナーがなにを言い出そうとしているのか、パンツィンガーは注意深く考えながら眉をひそめた。
「しかし刑事警察のほうでも強制収容所の”問題”で頭を抱えているのでは?」
問いかけるような言葉を返したパンツィンガーに、「それなのだが」と言いながらパウル・ヴェルナーは沈黙に沈み込む。
「正直、ゲシュタポでは外務省の問題をどこまで捜査しているのだ?」
「なにか気にかかることでも?」
平静を装った声で言葉を返すパンツィンガーに、パウル・ヴェルナーは薦められたソファの肘掛けに肘をついて考え込んだ。
「中佐は、わたしのところにアイルランド人がいることを知っているだろう?」
「……キーン・マクナリー。”暗号名”はミッキー……」
もっとも、随分と”俗”だが。
ちなみにドイツのスパイはイギリスのような洒落っ気のある暗号名はつけず、もっぱら番号で識別されることがほとんどだ。国家保安本部でキーン・マクナリーが「ミッキー」と呼ばれているのは一種の愛称であり、そして一種の蔑称だ。
「”その”ミッキーのことだが、彼からの報告でな」
取り繕うように言葉を選びながら目の前の中空に視線を泳がせているパウル・ヴェルナーに、フリードリヒ・パンツィンガーはことさら先を急がせるようなことはしなかった。
じっとヴェルナーの言葉を待っている。
「どうもフランス情報部がかぎ回っているらしい」
「なるほど、つまりフランスのスパイが外務省に紛れ込んでいるとでも言いたいのだな?」
正確にヴェルナーの本意をくみ取ったパンツィンガーは、秘書がコーヒーを運んできたのを認めて数秒沈黙した。パンツィンガーの声なき威圧を受けてすぐに秘書が退室したのを見届けて、ゲシュタポの部長はソファに座り直してから鼻から息を抜く。
ゲシュタポの捜査網にはいくつかの情報が引っかかってきているが、それは今のところ核心が持てる情報ではない。
「イギリスにいるシャルル・ド・ゴールの自由フランスと、ペタンのヴィシー・フランス。少なくともペタンは表面上はこちらに協力的な態度をとっているが、奴らが本心から我々に協力的だなどという寝言をわたしは信じていない」
はっきりと言い放ったパンツィンガーにヴェルナーは目玉だけを動かしてから、自分の手の中にある報告書を一瞥する。
「本当に奴らが我々に協力的であるならば、こちらの”政治的”な要求に応じるはずだ。それを奴らは我々が甘い顔をしているのを良いことに、のらりくらりと要請に応じるつもりもない」
むっつりと眉をひそめたゲシュタポの部長が言うのはおそらく、宗派部の業務が滞っていることを指しているのだろう。
もちろんゲシュタポには刑事警察の捜査官が転属していることもあり、パウル・ヴェルナーも決して無関心でいられない。
「政治的な要求か……」
応じるようにパンツィンガーの言葉を繰り返したヴェルナーは、ゲシュタポに所属するユダヤ人問題の専門家――そう称されるアドルフ・アイヒマンの不愉快な顔を思い出してから深い吐息をついた。
あの出世欲の塊のような男――しかも低俗で利己的で、低学歴の――、アドルフ・アイヒマンが自分の部下などではなくて全く良かったとパウル・ヴェルナーは思う。あんな男を自分の部下にしていたら、最終的な責任問題は結果的に自分に降りかかってくることになるのだ。
そういった意味ではアイヒマンの上官であるアルベルト・ハルトル少佐には同情を禁じ得ない。もっとも、アイヒマンがいなければいないで別の誰かがユダヤ人課の長になるわけで、アイヒマン個人が悪辣なわけではないのだが、それにしたところで彼の貪欲なまでの冷徹な出世欲には正直なところ嫌悪しか感じない。
「アイヒマン中佐も随分苦労しているらしいじゃないか」
パウル・ヴェルナーはそんな考えを胸中にしまいこんで、なるべく嫌悪感を押し殺したままでそう告げれば一方でフリードリヒ・パンツィンガーは小さく肩をすくめただけだった。
「それで、アイヒマンの件はともかく、フランス情報部が動いているというのは?」
「先日の六局の部長が暴漢に襲われた事件があっただろう? その件でどうやらスイスで活動している連合国の諜報部員が”彼女”の調査をしているらしい」
ヴェルナーが告げればパンツィンガーはぴくりと眉尻を引き上げて数秒の沈黙を挟む。
「問題はどこまで”彼女の上官殿”が把握しているかではないのか?」
パンツィンガーはそう答えた。
彼らよりもずっと年若いエリート――ヴァルター・シェレンベルク親衛隊上級大佐。
「おそらくある程度の概要は把握しているだろう。しかし、国内の捜査に関して諜報部は基本的に動かない」
ヴェルナーの指摘にパンツィンガーは無言で頷くと、しかし、と言いながら首を傾げる。
諜報部に逮捕権がないのはあくまで名目上であって、実際はそればかりではないことを他でもないパンツィンガーは知っている。もちろんヴェルナーも知らないわけはないはずだ。
どんな些細な情報も入手すべき価値はある。
そしてそれらの入手された情報をどうやって利用するかは、情報を手に入れた側の手腕にかかっている。
「つまり、シェレンベルク上級大佐はわかっていて事態を放置していると? ヴェルナー大佐」
「おそらく」
権限がない、などという言葉はお為ごかしだ。
狡猾な国外諜報局長は全てを計算の上で動いているに違いない。そうでなければヴァルター・シェレンベルクの態度には合点がいかない。
若いゆえに柔軟性に富んでおり、そして風見鶏のように狡猾だ。
「……――パンツィンガー中佐」
ヴェルナーはしばらく黙り込んでからゲシュタポの部長を呼んだ。
「うん?」
「中佐は、あの子のことをどう思う?」
――あの子。
国家保安本部の人間が、声を潜めてそう告げる存在はひとりしかいない。
いつも自由気ままで、どこか蝶か小鳥を思わせるようにふわふわと高官たちの間を動き回っている情報将校。
「前長官の血縁だという理由はわかる。しかし、どうして重用されているのかが理解できん」
ヴェルナーの言葉にパンツィンガーは目を上げた。
先日、フリードリヒ・パンツィンガーはゲシュタポの長官であるハインリヒ・ミュラーと少女が共にいるところを見た。
その時のミュラーとマリーの態度は決して上官と部下というものではなかった。
骨折が完治して再び身につけるようになった腕章には彼女の所属を示すカフタイトルとSD章が縫い付けられている。
国家保安本部及び親衛隊全国指導者個人幕僚本部所属。
そして彼女の指揮する部隊は、ハインリヒ・ヒムラーの直接指揮下にあると囁かれていること。つまりそれは、パンツィンガーやヴェルナーなどよりもずっと重用されているということだ。
「わからんことばかりだ」
つぶやきながらパンツィンガーは左右にかぶりを振った。
所詮、部長程度の自分たちにはわからないことばかりなのかもしれない。
国家保安本部長官のエルンスト・カルテンブルンナーばかりではなく、親衛隊全国指導者のハインリヒ・ヒムラーの考えも。
彼らがなにを考えて、どうして彼女をその地位につけているのか。そして彼女の任務とは何であるのか。
「ともかく、フランスのスパイの動きは今後もこちらでも監視する。動きが見られ次第、ゲシュタポに連絡しよう」
パウル・ヴェルナーの言葉にフリードリヒ・パンツィンガーは眼鏡の奥で鋭い光を瞳に閃かせた。
「そうしてもらえると助かる」
パンツィンガーの言葉を受けて立ち上がったヴェルナーは、ブーツの踵を鳴らしてゲシュタポの執務室を出た。
キーン・マクナリーは特殊部隊の人間として鋭い嗅覚を持っている。それらを考えれば、マクナリーが不審を感じた相手というのは確かに怪しい男なのかもしれない。まるで彼の嗅覚は秘密警察のそれのようだ。
パウル・ヴェルナーはそう思った。
もしもフランス政府がドイツに対して不穏な計画をたてているのだとすれば、それはドイツが警察組織のみならず、全軍を上げて彼らが二度と立ち上がる事ができなくなるほど徹底的に叩きつぶすための口実にすることができる。
そうなれば、ゲシュタポは思い通りに「計画」を推進することができるだろう。
冷たい考えを抱いて、パウル・ヴェルナーはそうして空になった自分の手を凝視した。
「わたしたちは、随分危険なゲームをしているのかもしれん」
プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセ――国家保安本部のオフィスの中で。
アドルフ・アイヒマンのことをどうこう言う資格などない。彼に汚れ役を押しつけているのは、自分たちなのだから。
冷ややかに考えたヴェルナーはそうしてそっと自嘲した。




