7 探索の深謀
――正直言うとよく知らないんですよ。
パン屋の店員はそう言った。それほど美人というわけでもない若い女性店員はジャネットに対して明るく笑ってから小首を傾げた。
金髪の少女がよくナチス親衛隊の将校と一緒にいるところを見かけていても、彼女が何者であるのかはよく知らないのだと彼女は言った。
腕章のことを問いかけると、予想通り子供の遊びだろうという言葉が返ってきて彼は買ったばかりのパンをかじりながらじっと考え込む。詳細を尋ねようとしたのだが、結局、店員の女性は言及を避けるように曖昧に笑ってから辺りを見回すと口をつぐんでしまった。
制服に菱形のSD章を身につけた将校と共にいる少女のことを安易に話題することは、一般のドイツ人にとっても危険なことなのだろう。
――ゲシュタポはどこにでもいる。
それがまことしやかにドイツ国内と占領地区で囁かれる噂だ。そしてその噂はずっと以前から広く拡散していた。
「こういう話しはあんまりしたくないんですよ、彼女が何者なのかとか、彼女と国家保安本部の関係がどんなものなのかとか。そんなことを追及する必要なんてないんです」
女はそう言うと困った様子で視線を手元にさまよわせてから小銭を数えるとはにかんだように笑った。
彼女と国家保安本部の関係。そう言ってからハッとしたように店員は辺りを見回すとなにかに怯えた様子で挙動不審になった。
つまるところ、「少女」はなんらかの国家保安本部の関係者であるということなのだろうか。
ジャネットはヴィシー政権の警察組織に関係する協力者たちから、国家保安本部に関係する情報を得ている。彼が調べているヴェルナー・ベストも紛れもない国家保安本部の局長を務めている男で、ジャネットの持つ写真でベストはホロのないトラックの荷台に「女性」を押し込めているわけでもなく黒塗りのベンツの後部座席に女性をエスコートするように導いていた。
強制収容所送りにする予定の人間を、ナチス親衛隊の人間がそんなに丁寧に扱うとは思えないし、なによりも彼女の相手をしていたのが一介の兵士や下士官ではなく、高級指導者である点は着目するに値する。
金髪の青いスカーフの少女。彼女はおそらく国家保安本部の関係者だ。
パン屋の店内で少女にわざとぶつかったときに、骨格の細さをジャネットは直接感じ取った。恐ろしく華奢で、貧弱な骨格の少女は花の香りをまとわりつかせてふわりと笑う。
「ありがとう」
耳の奥に彼女の声が蘇った。
「ただね、マリーと呼ばれているのは聞いたことがありますけどね」
特に悪気もない様子で、口をすべらせたパン屋の店員は「マリー」という名前を口にした。
「マリーというのか」
独白したジャネットは、夜のとばりがおりる頃になってねぐらとして借りたアパートメントへと引き返した。
*
ギュンター・フォン・ディンクラーゲ男爵を前にして、ヴァルター・シェレンベルクはにこやかな笑顔をたたえていた。
国防軍情報部に所属する諜報部員であるギュンター・フォン・ディンクラーゲは、なかなか見目の良い男でシェレンベルクは自分とよく似た臭いを感じて観察するように目を細めると一冊のファイルを差しだすと、その中を見るように促した。
「そちらに挟まれている写真をご覧いただけますか?」
「写真?」
低く響く心地よい声で問い返したギュンター・フォン・ディンクラーゲはやはり感じの良い青年を見つめ返してから丁寧な動作でファイルを開いた。
「カラー写真とは珍しいな」
金髪の少女が突撃隊の幕僚長と、参謀長と共に映っている写真だった。どうやらナチス親衛隊の広報部のカメラマンが撮ったものらしい。なかなか見栄えの良いその写真を凝視してディンクラーゲは睫毛を揺らすとかすかに片目を細めた。
ポーランドとの戦争がはじまるまえから諜報部員として活動してきたディンクラーゲは目の前に座っているナチス親衛隊の将校がやはり自分と同質の人間であると言うことを感じ取っている。
「なかなか良い写真だな」
穏やかに告げるとシェレンベルクは「プロですからね」と言いながら明朗に笑う。そうしてホテルの窓外に視線を放ってから、姿勢を正すと年上の国防軍情報部の諜報部員に改めて口を開いた。
「男爵閣下には、フランスやスイスに独自の情報網があると国防軍情報部のオスター大佐から伺っております」
「それはヴァーク中佐から聞いたものではなく……?」
「いえ、わたしはオスター大佐から聞いた次第です」
皮肉げなディンクラーゲの言葉に、やはり飄々としたままで応じるシェレンベルクは唇の片端で静かにほほえんでから目の前のコーヒーカップを傾ける。
ギュンター・フォン・ディンクラーゲを迎えるために用意したのは本物のコーヒーだ。
「なるほど」
相づちをひとつ打ってから、ディンクラーゲは目を伏せたままでファイルを見つめている男爵は書類の一通りに目を通してから顔を上げると、若い国家保安本部国外諜報局長を見やる。
「ですが、シェレンベルク上級大佐は”知っている”はずだが、わたしの持っていた情報網はほぼ壊滅していると言ってもいいだろう」
「そうでしょうか?」
即答したヴァルター・シェレンベルクは、国防軍情報部の諜報部員の手元に視線を走らせてから冷ややかに笑うと、膝の上に置いた手に力を込めると狡猾な表情をたたえてみせた。
「確かに閣下が諜報部員として活動していらっしゃった時は、まだフランスもスイスもドイツの影響下にはなく閣下の動向もそれなりに厳しいものでしたが、今は状況が異なります」
「確かにな、フランスはほぼドイツの占領下にあると言ってもいいだろうし、スイスを中心に展開されていた敵の盗聴網はほぼ一掃されたと言っても良いだろう。しかし、だからといって危険が一掃されたわけではなかろう」
「危険?」
ディンクラーゲの言葉にシェレンベルクは冷ややかな声色で応じると、右手の人差し指を口元に当ててから首を傾げる。
「危険とおっしゃいますが、”我々”諜報部員は常に危険と隣り合わせにあることは閣下もご存じのことかと思います」
予想通りの言葉をシェレンベルクに告げられて、ディンクラーゲはどこか機嫌の悪そうな表情のままでフンと息を吐き出した。
「つまり、君も諜報部員であるということか」
「……それは閣下のご想像にお任せします」
国家保安本部の情報将校であり、国外諜報局を任されている男は顎をしゃくってギュンター・フォン・ディンクラーゲの手の中にあるファイルを指し示した。
「いずれにしろ、男爵閣下は我々が危険のごく近い場所にいることはご承知のことであると思います。今さら、敵の手から逃れることなどできはしませんし、我々よりももっと上の立場の者が、今後も我々を利用とするだろうことは閣下も予想されていらっしゃるでしょう」
回りくどいヴァルター・シェレンベルクの台詞に、ディンクラーゲは目の前の青年を探るような視線を放つとなにか言いたげに頬を震わせる。そんなふたりの間に流れる空気と、ギュンター・フォン・ディンクラーゲの手の中のファイルに挟み込まれた写真に写る三人の男女の表情がひどく場違いに感じられたのかもしれない。
もっとも男女とは言っても、ふたりの男が五十代で、女性のほうが少女ではなにやら父親とのスナップ写真でもあるかのようだ。
「それで、シェレンベルク上級大佐。君はわたしのなにに期待しているのだね?」
「もちろん、閣下の持っていらっしゃるネットワークです」
「ふむ……」
シェレンベルクは、ギュンター・フォン・ディンクラーゲの持つネットワークに興味があると告げた。しかしディンクラーゲの情報網はドイツがポーランドに攻め込む前にすでにフランス政府に関知され、スイス防諜部に蹂躙された。
その当時と比較すれば状況は変化しているとシェレンベルクは言うが、だからと言ってそれ以来、ベルリンで生活しているディンクラーゲの築いた情報網がまともに機能しているかもあやしいものだ。
もしかしたら、情報網のほとんどは連合国によって掴まれているかも知れない。
そうするとシェレンベルクがディンクラーゲに期待するような活動を行うためには、まず一から情報網を再構築しなければならないのだ。そうなると、それらの情報網を構築するだけでどれだけの時間を要するか気が遠くなるというものだ。
「わたしのネットワークが、君の期待するような代物ではないかもしれん」
「それも承知しています」
いけしゃあしゃあと言葉を吐き出す青年は、真摯な眼差しでじっと彼を見つめてから深刻な声色で言葉を放った。
「現在、フランスはドイツの占領下にあることは閣下もご存じのはずです。現状、フランスではマキも跋扈しておりますが、それでも戦前と比べれば随分活動しやすい状況となっているかと思います。閣下が必要とされるのでしたら、親衛隊からも護衛を選抜いたします」
「回りくどいな、はっきり言いたまえ」
「……ありがとうございます」
苛立つようなディンクラーゲに、シェレンベルクは会釈をすると年上の男に手渡したファイルに視線を注いでから本題に入った。
「閣下のお力で連合国側にどの程度、彼女に関係する情報が広がっているのかを調査していただきたいのです」
「後ろの男ではなく?」
「……彼らの正体など、連合国側にも割れているでしょう。そんなことは今さら言うに及びません」
ヴィクトール・ルッツェ突撃隊大将とマックス・ユットナー突撃隊大将。
彼らの正体などすでに露見しているはずだ。余り影響力のない小物として。
だからシェレンベルクにとって、少女の背後に写りこんでいるふたりの突撃隊大将のことなどどうでも良いことだった。なによりも、現在は親衛隊、そして国防軍と比べれば突撃隊は影響力を失っていると言ってもいい。それゆえにヴァルター・シェレンベルクにとってはまさしくどうでも良いことだった。
「なるほど、つまり彼女の情報がどこまで広がっているのかを知りたいと、そういうことだな?」
「はい。ですが、おそらく、わたしの推論ですが、大した情報は出回ってはいないと考えております。ですから、閣下にはそれを確認していただきたいというところが本音です」
目の前の国外諜報局長を務める青年は決して当て推量でものを言っているわけではない。よく考えなくても当然のことだ。
ヴァルター・シェレンベルクも、ギュンター・フォン・ディンクラーゲ同様に諜報部員なのだから。
――全ての諜報部員は、国防軍情報部、親衛隊情報部にかかわらず彼らに協力し任務を遂行せよ。
それがナチス指導部からの命令だった。
「……承知した」
そしてその命令は諜報部員であるディンクラーゲを支配する。
命令は絶対だ。
長い沈黙の後に告げるとシェレンベルクは、ほっとした様子で穏やかにほほえんでから肩の力を抜いた。
シェレンベルクのこうした表情を見ていると、とても辣腕の諜報部員には見えなかったが、得てして諜報部員とはそんなものだ。自嘲するように内心で苦笑したディンクラーゲは改めて手の中にあるファイルに視線を落とす。
「オスター大佐から、こうした任務には男爵閣下が適任だと伺っておりました」
「そうか……」
「現在、フランスはドイツの影響下にあります。必要とあらば強硬な手段も選択できる状況ですので、我々、親衛隊は閣下のお役に立てるかと……」
声色は穏やかで、まるで世間話でもしているような気軽さだというのに、その裏側に潜む薄暗さはなんだろう。
「……――」
シェレンベルクの言葉に応じずに、ディンクラーゲは厳しい眼差しのままでかつて、自分が敵国へと張り巡らせた情報網を頭に描いた。
問題はそれがどこまで生きているか、である。
おそらく現在のフランス政権は、イギリスに亡命している自由フランスとつながっていると見て良いだろう。日を追うごとに活発化していくマキの活動も考えると、ディンクラーゲの推測は外れていないはずだ。
そして、イギリスの亡命政府――自由フランスとヴィシー政権が諜報部員やダブルスパイなどを通じて、暗黙の内に繋がっているだろうと考えれば、それはごく当然のように英米の連合国ともつながりがあるということになる。
そこまで考えてから、シェレンベルクの要求するディンクラーゲの諜報活動は余りにも危険な要素が多すぎて、困難を極めるだろう任務に大きな溜め息をつかざるを得なかった。




