6 ファーストコンタクト
ナチス親衛隊の高級指導者であり、国家保安本部に所属する情報将校のひとり。ずば抜けて頭が切れ、かつてラインハルト・ハイドリヒの法律顧問、そしてその副官とも呼ばれた少しばかり頭の固い法律家――ヴェルナー・ベスト親衛隊中将の外見的特徴は、写真を幾度となく観察して完璧に記憶した。
道ですれ違っただけであっても見誤ることはないだろう。
万全を期して、現在の占領下のフランスの政権を掌握するヴィシー政権の警察として身分を偽り、ナチス親衛隊の協力者を名乗っている。フィリップ・ペタンという老いぼれは全く持って腹立たしいことこの上ないが、自由フランスに所属し、マキの一員として反ドイツの活動を続けるジャネットにとって、ヴィシー政権は重要な協力者でもあった。
ジャネットはフィリップ・ペタンが忌々しいナチスの犬になる以前、フランス第三共和政で腕利きの諜報部員として暗躍しており、民間人に毛の生えたような他のマキのメンバーたちとは一線を画す存在だった。
多くの協力者を確保していながら、完璧な一匹狼。
それがジャネットだ。
問題は、と彼は考える。
二ヶ月半ほど前に反ドイツ派によるヨーロッパに広がる盗聴網が、ほぼ壊滅に追い込まれたことである。おかげでジャネットは情報収集活動にかなりの支障が出ることを余儀なくさせられた。
諜報活動とは敵対する者同士の高度な騙しあいの場であり、一歩間違いを犯せば自分の身に降りかかるのは危険以外の何物でもない。
それを彼は十分に承知している。
そんなジャネットはたった一枚の写真と、数少ない情報からありとあらゆる可能性を模索した。
ヴェルナー・ベストが身を挺してまで隠蔽しようとした小柄な女性の存在。それが辣腕の諜報部員であるジャネットには、なぜか喉の奥に引っかかった魚の小骨のように思わせる。そしてそれが彼に不快感を与えていたこと。
「ベスト”中将”は、なにかを隠そうとしていた?」
自問する。
頭の切れる法律家が世間の目から背けようとしていた女性の存在。
決して公にしてはならない女性とはどういった存在なのだろう。
高貴な出自か。もしくは政府要人の夫人か娘などの血縁か。それらの可能性を考える。しかし、高貴な姫君のように写真の中で扱われている女性は、彼が観察するところナチス政府による下劣なプロパガンダの対象とされている様子も見られない。
政府要人の夫人でもなく、なおかつ彼らが隠蔽したがっているのであれば、それははたしてどんな理由からなのか。
いくつかの仮説を立ててはそれを自ら否定するという作業をジャネットは何度も繰り返した。全ての事象にはありえないという固定観念を抱いて考えることをしてはならない。こと、諜報の世界で固定観念にとらわれることがどれだけ危険なことなのか。それを誰よりもジャネットが知っている。
より複雑に。そしてより高度な世界で諜報部員たちは敵よりも優位に立とうとして腹を探り合う。
いくつもの仮説をたててから、ジャネットはひとつのひどく不愉快な推論にたどり着いて眉間を寄せると小さく舌打ちをする。
ヴィシー政権に連なる、信頼できる情報提供者の弁によればドイツ国内で警察組織が大幅に再編されつつあるらしい。それはすでにジャネットの耳にも入っていることだったから、今さら驚くことではない。
政府高官の夫人というものは、大概の場合、社交の場にあって時には男たちとは異なる舞台で外交を繰り広げているものだ。
しかし写真の中の若い女性がそうした社交の場に現れたという情報がないところを見ると、可能性は絞られてくる。
ひとつは「彼女」がナチス政府のプロパガンダを含むなんらかの政策に利用されている場合。しかしあの派手な宣伝を最も得意とするヨーゼフ・ゲッベルスがプロパガンダの対象としていないということで、この仮説は否定された。
今ひとつの可能性。それがジャネットには不快だった。
その可能性こそ、ナチス体制に対する積極的な同調者であるということだ。ヴェルナー・ベストが衆目から遠ざけようとしていることから、彼女が並の女性としての腕力しか持たずひどく非力だろうということが推察される。
そんなおそらく外見的にはごく普通の小柄な女性。
彼女がナチスの暴力の賛同者であるということなのだろうか?
ベストの体に阻まれて、白黒写真に写る女性の顔は確認できないが背格好からかなり若い女性だろうとジャネットは考えた。
――ナチス体制の積極的な同調者?
しかも政府高官の血縁などではなく、ということならば自ずと正体は限られる。
つまるところ、ヴェルナー・ベストと共に写っているこの年若い女性は、ナチス体制にあって「暴力の執行者」である可能性だった。
写真の中の、背格好の華奢な女性がナチス政策の賛同者であるという恐ろしい可能性。
背筋を震わせたジャネットは、危うく手の中にある写真を握りつぶしかけてから慌てて我に返った。
ベルリンに着いてからしばらくたつ。
すでにヴェルナー・ベストの監視に入っていたジャネットは、自分を覗うような男の気配にも気がついている。
ちらちらと視界に入る男がいること。平服で活動しているが、その男はおそらくゲシュタポかなにかだろう。ジャネットはそう思った。もしかしたらゲシュタポではないのかも知れないが、マキの一員である彼にとって男の所属の差異などどうでも良いことだった。
ドイツ製のまずいタバコを吸いながら、ナチス寄りらしい新聞に目を落としながらゆっくりと歩道を歩いていた。
首都らしく清潔な印象を感じるベルリンの街並みが、ジャネットにはしかし腹立たしくて、内心で彼は苛立ち紛れに神経を尖らせる。
フランスの多くの市民たちが苦しんでいるというのに、ベルリンの街はこんなにも平和なのだと言うことが彼を苛立たせてならない。
「……お帰りですか?」
青年の柔らかい声が聞こえてジャネットはふと顔を上げた。
ナチス親衛隊の制服を身につけた青年に守られた豪華な建物の中から痩せ型の少女が出てくるのが見える。
赤い大きなシェパードを連れていて、その隣には大柄の青年がいる。
お帰りですか、と声を掛けたのは警備を務める親衛隊員だろう。少女の隣にいる長身の親衛隊将校はぴくりと眉をつり上げてから、もう一度少女を見下ろした。
長身の親衛隊将校は少尉で、赤い犬を連れた少女は黒いベルベットの腕章をしていた。そこにはリッツェンのない菱形のSD章がつけられている。そしてその腕章に縫い付けられたカフタイトル――本来は制服の左の袖につけられるもの――にジャネットは思わず目を疑った。
――RFSS。
つまりそれは、彼女が親衛隊全国指導者個人幕僚本部に所属していることを示している。マキのメンバーであるジャネットにはすぐにわかった。
長い金髪は両サイドを編み込んで、耳の後ろで二つ縛りにしている。品の良い水色のスカーフを胸元でリボン結びにしていて、清楚な印象を与えるフレアースカートがひらりと揺れた。
「そういえば少佐殿」
親衛隊少尉がそう告げた。
少佐殿――。
「はい?」
「ベスト中将からの伝言ですが、今度の週末に一緒に買い物をしたいから時間を空けておくようにと、シュトレッケンバッハ中将からの伝言だそうです」
「買い物?」
珍しい名前が出たらしい。
シュトレッケンバッハと聞いてジャネットはちらりと新聞に視線を落としたままで考え込んだ。
そういえば、そんな親衛隊将校が国家保安本部にいたようないなかったような。
「シュトレッケンバッハ局長が?」
「そのようです」
親衛隊中将と局長という言葉は、シュトレッケンバッハがそれなりの地位にある男だと推察されるが、正直、ドイツの将軍など多すぎていちいち覚えきれるものではない。
「もうすぐ冬が来ますから」
青年の言葉は少女に身寄りがないことを感じさせるが、ナチス親衛隊の高級将校自ら部下の買い物につきあうという行為自体が、奇怪なもののようにジャネットの目には映った。
それにしても、どういうことなのだろう……。
親衛隊全国指導者個人幕僚部のカフタイトルと、リッツェンのないSD章を身につける少女。それが現すところは、彼女が国家保安本部に所属するナチス親衛隊員であると言うことだ。
なによりも、ジャネットが疑惑を向けた少女は他でもない親衛隊将校の青年に「親衛隊少佐」と呼ばれている。
それらは紛れもなく彼女が親衛隊員であるのだと言うことをジャネットに伝えていた。
「もっとも、少佐殿の給金なら、服など山ほど買えるでしょうが」
嫌みを言うでもなくそう言った青年に、少女は朗らかに笑うと隣を歩いている青年の腕にしがみつく。
傍目には歳の離れた兄と妹のようにも見えなくもない。
しかし決定的に顔立ちが異なっていて、彼と彼女の間に血縁関係はないのだということはすぐにジャネットにも理解できた。
長身の親衛隊少尉が彼女の傍を離れたら、少女に問いただしてみるのも悪くはないのかもしれない。やや危機感に欠けることを思いながら、ジャネットは「いや」と自分の考えを否定した。
華奢な背中には見覚えがある。
髪の長い女性なら、ヘアスタイルを頻繁に変えることはおかしなことではないし、逆に考えればごく普通なことだ。
長い睫毛を揺らした青い瞳の少女。
長身の青年と共に歩いている彼女に、一方の親衛隊少尉はわずかに困ったような顔のまま自分の手のやり場に戸惑いを見せていた。
青年が少尉で、少女が少佐であると考えるなら、彼の躊躇はごく自然なものと言えたのかも知れない。
――では彼女は何者なのだろう。
「シュトレッケンバッハ中将は規律に厳しい方ですから、失礼のないように……」
言いかけた青年を少女が見上げた。
「そうかしら?」
「……少佐殿」
青年が肩を落とす。
「シュトレッケンバッハ局長はそんなに怖くはないわ」
「それは少佐殿だからそう思うのでしょう」
つけつけと説教でもするような物言いの青年の腕にまとわりついている少女を、視線だけで見るでもなく見ていたジャネットは、新聞に目をやってから頭の片隅で形になっていない違和感に眉をひそめた。
そういえば、ごく最近、スイスの国境を越えようとしていた連合国の諜報部員が一網打尽にされた。
彼らが持ち出そうとしていたものはなんだったのか。
数多くの情報を頭の中で整理しながら、ジャネットは足をとめた。少女と赤いシェパードは親衛隊少尉の用意したベンツの中へと消えていった。これ以上、足で追いかけるのは無駄だろう。
もちろん、別に尾行をしていたわけでもない。彼らはたまたまジャネットの前に現れて、そしてたまたま他愛のない会話を交わしていただけだ。まるでとても上官と部下とは思えない会話の内容ではあったが。
ベルリンは、彼が生まれ育ったフランス南部よりもずっと寒い。
もうすぐドイツに冬が訪れる……。
*
パン屋でパンを買っていた少女は、男の肩にぶつかって両目をまたたいた。
「……あぁ、これは失礼。お嬢さん」
よろめいてパンの入った袋を取り落としそうになったマリーは長身の金髪の青年を見上げて小首を傾げた。
青いスカーフは縁にレースを縫い付けられている。
ハイウエストのフレアースカートが品がよくて、ジャネットはわずかに目を見張るとそうしてから微笑を返す。
今までスイスでも、フランスでも女性達を虜にしてきた眼差しで。
「ありがとう」
それだけの会話。
男はマリーに背中を向けるとそのまま小銭を数えながら店員のところへと向かっていく。
最初の接触は決して不用意に近づいてはならない。
さりげなく、誰にも気取られぬように。
彼女の正体がまだ知れなかったから。
ジャネットは店員のそれほど美人でもなんでもないドイツ人女性に魅力的な笑顔を振りまきながらそうして内心で冷たく笑った。




