5 犠牲と盟友
どこか冷ややかなものを感じさせるドイツ人将校の言葉を思い出してから、大島浩はひとりになった肩をすくめた。
ドイツ第三帝国、ナチス親衛隊の国家保安本部。その情報将校であるヴァルター・シェレンベルク上級大佐が彼の目の前から消えて十分近くたってから、やっとひとつ吐息をつくとテーブルの隅に追いやられていたタバコを手に取った。
マッチをこすり火をつけた大島は立ち上がると窓辺に歩み寄る。
北国のドイツの秋の到来は早い。秋はすぐに駆け抜けて冬に至る。そして、ドイツの冬は暗く長いのだ……。
確かにシェレンベルクの言葉は的を射ていた。
日本警察の失態であると罵られれば、大島はそれに甘んじるしかない。事実、日本の動向がドイツにとって不利な方向へ働いた現実があるのだから。それがどんな理由があるにせよ、だ。
ついでを言うならば、おそらく情報将校だというヴァルター・シェレンベルクにしてみれば、日本大使館が日本と満州という国の名前を使ってポーランド人を含めた、ユダヤ人などの異民族を保護しているのは公然の秘密だろう。
そうすると今さら彼を前に取り繕ったところで無意味なことだろうし、弁明したところではじまらない。
大島浩が日本のために働いているように、シェレンベルクはドイツのために働いているのだろう。
タバコを吸いながら思考の深みにはまった彼は、足早に応接室を出てから自分の執務室へ向かって歩いて行く。
スウェーデンに滞在する小野寺信にはシェレンベルクの危険性を伝えなければならない。
――しかし、どうやって?
ドイツ国内には巨大な諜報網が広がっている。
大使館員の情報によると、電話の通話記録のひとつも盗聴されているらしい。
ヴァルター・シェレンベルク。彼は好青年だ。そしてエリートらしく頭の回転が速く事態の認識も早い。その辺の情報将校らと比べても一線を画した青年は、数ヶ月前まで生きていたラインハルト・ハイドリヒの片腕とも呼ばれていた。
好青年であり、エリートであるが故に危険な存在だ。
大島浩はそう感じた。
*
十月も始まったばかりの午後。
国家保安本部長官、エルンスト・カルテンブルンナー親衛隊大将はマリーと共に昼食を楽しんでいたが、そんな彼のもとに副官の一人が踵を鳴らして耳打ちするようにしながら、報告書を持ってきた。
「閣下、失礼いたします」
「どうした」
マリーと食事を共にする機会は、実のところカルテンブルンナーにはなかなかない。それというのもカルテンブルンナーの仕事がそれなりに多忙であることと、マリーの周囲のガードが固いことが理由だ。
ちなみにガードを固めているのは首席補佐官のヴェルナー・ベストで、生真面目な元裁判官の高級指導者はマリーが仕事をそっちのけで他のことに目移りしないように予防線を張っているとでも言えばいいのか。
「国外諜報局長のシェレンベルク上級大佐から報告です」
「ご苦労」
青年に差しだされたファイルを受け取りながら、カルテンブルンナーは久しぶりのマリーとの食事を邪魔された現実が面白くなくて神経質に眉をつり上げた。
しかし仕事は時と場所を選ばない。
現実とは得てしてそんなものだ。
大きな溜め息をついてから、長い腕を伸ばすとコーヒーカップを手にとってわずかに冷めたそれを口に含む。
「マリー、シェレンベルクから報告だそうだ」
なんだと思うかね?
問いかけるとマリーはじっと天井を見上げてから考え込んだ。
「さぁ?」
歯に衣を着せることのない少女はあっけらかんとカルテンブルンナーに応じてから、彼の手元にあるファイルにじっと視線を注ぐ。
なんだと思うかと聞かれても、カルテンブルンナーはたった今、部下から報告を受けたばかりであったし、マリーは形の上では国外諜報局に所属しているとは言え、シェレンベルクの関係する業務とはほとんど無関係のままでいることは他でもないカルテンブルンナー自身が知っていた。
だから、そんなマリーに「この報告書がなんだかわかるか」と聞いたところで、彼女の回答はわかりきっている。
――わからない。それが彼女の応えだろう。
「……もしかしてインド絡みですか?」
「ふむ」
しばらく考え込んでから、フルーツの山盛りになったタルトをつつきながらマリーが問いかける。
元々、食が細い影響からか、食後のデザートもほとんど進んでいないがそれでも、カルテンブルンナーの手前なんとか食べようとは努力しているらしいが、ボリュームのありすぎる食事を前に少女は辟易している様子だった。
こんなに食が細いからいつまでたっても胸が育たないのだ。
そんなことをカルテンブルンナーはちらりと考える。
胸が育つか育たないかというのはさておいて、体型が貧弱だと言うことは彼女の体力にも不安が残ると言うことで、平均的な少女らの体型と比較して痩せすぎているというのは、カルテンブルンナーにとって大きな不安となっている。
「なぜインド絡みだと?」
問い返したカルテンブルンナーに、フォークをテーブルに置いたマリーは椅子に手を突いて自分の姿勢を正すとわずかに小首を傾げるようにしながら声を放った。
「だって、シェレンベルクからの報告書でそれがカルテンブルンナー博士に来たと言うことは、博士とシェレンベルクの知っている情報だっていうことでしょう? シェレンベルクが絡んでいる諜報関連のお仕事は山ほどあるけれど、最近、国防軍の偉い人たちがものすごく切羽詰まって顔色変えている話との関係を考えるとインド絡みのお話かなって」
曖昧に言葉をぼかした彼女に、カルテンブルンナーは室内を見渡してから薄く笑った。
プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセのカルテンブルンナーの執務室は豪勢なほど広い。それはおそらく生前のラインハルト・ハイドリヒの趣味だろうと思わせる。
その執務室にマリーを呼んで食事を楽しんでいた彼は、ささやかな楽しみを仕事に妨害される形となって仕方なさそうに吐息をついた。
「仕事は待ってくれないですものね、カルテンブルンナー博士」
「そうだな」
マリーの言葉に厳しげにつり上げられていた目尻を下げて、カルテンブルンナーはコーヒーカップを傾けながら自分の目の前にあるタルトをフォークで刺した。
「インドは現在、イギリスの占領下だということはマリーもわかっているだろう」
「穏健派と過激派でごちゃごちゃしているのは知っていますけど、彼らの上層部を利用できればこちらとしてもいろいろ楽でいいんでしょうけれど」
首を傾げて人差し指の先を細い顎に当てているマリーは、斜め上を見上げるようにしてカルテンブルンナーの言葉の後に、自分の言葉をつなげてみせた。
「なかなか良い分析だが、インドが楯突こうとすればイギリスが黙っていないだろう」
「それで、そのインドの情報がどうかしたんですか?」
彼女は半ば予想しているのかもしれない。
カルテンブルンナーは眉をひそめたままで、ファイルに挟み込まれた手書きの書類を読み上げる。
「……イギリスの特殊部隊、まぁ、そのごく一部だが、それがインドに投入されたらしい。テロリスト掃討目的で、目標は恙なく達成されたとのことだ。九月二十八日で作戦は終了している」
感情をこめるわけでもないカルテンブルンナーの言葉を黙って聞いているマリーは、特に感傷的になるわけでもなく、また彼の語る内容に関心がある様子もなさそうなままで目の前の攻略目標をじっと凝視している。
彼女はなにを考えているのだろう。
「イギリスの特殊部隊が動いてアメリカ人を掃討したっていうことは、それ、アメリカも一枚噛んでいるっていうことですよね?」
「そうなるな」
そうでなければ英米間の外交問題になりかねない。
イギリス領で生活しているアメリカ人が、アメリカ合衆国の首都に対してテロリズムを起こし、その掃討作戦をイギリス特殊部隊が行った。
同盟国だからこそ可能な作戦だったとも言えるだろう。
なによりもイギリス領でアメリカ軍が動くのは少なからぬ問題も起こる。
「おそらく天然痘の件でアメリカ軍が及び腰になっていただけだろうが」
ただでさえ、エジプトに入った国際赤十字主導による医師団の報告が明るみに出るにつれて、問題は予想以上に拡大していたことが発覚した。加えて、アメリカ合衆国の首都に及んだ天然痘の絡んだテロリズムは、剛胆であるはずのアメリカ人たちすらも及び腰になった。
これ以上の犠牲者を出したくない。
それが本音だったのだろう。そうした事情から、イギリス領であるということを口実に、アメリカはイギリスの特殊部隊を動かすよう要請した。事実上、アメリカからの支援によってなんとか持ちこたえているイギリスはアメリカの要請を断り切れなかったというのが実際のところだろう。
エルンスト・カルテンブルンナーはそう分析した。
「それで、インド政府はどうしたんですか?」
特殊部隊が動いたということは、犠牲になったのはアメリカ人医師たちだけではないのではないか。
マリーが目の前のケーキを見つめたままでそう告げる。
「……随分犠牲が出たらしい。主に村人のほうに、な」
「――……そうですか」
そうですか。
イギリスの特殊部隊は設立されてまだ間もない。そのため彼らの実力は未知数だが、イギリス軍が相手にしたのは訓練された兵士ではなく、民間の医療関係者と村民だ。それが意味するところは明快で、作戦そのものが大した苦労もなく行われたことが推察される。
「”気の毒ですね”」
「……そうだな」
感慨もなく告げたマリーに、カルテンブルンナーもやはりまた感慨なく応じる。
作戦はすでに順調に完了して、現実だけがカルテンブルンナーの目の前に晒された。もはや今さら感傷的になったところで、死んだ人間は帰ってこない。
国家権力のもとに犠牲になった民間人。
ただそれだけの現実だ。
そしてそんなイギリスの力尽くの作戦は、おそらくインド政府の中枢により近い過激派たちの怒りに火をつけることになるだろう。そしておそらくそれは対英作戦を行う上で大きな意味を持つことになるに違いない。
夏の初めに行われたナチス親衛隊による作戦は、結果的にアメリカ合衆国だけではなくイギリス政府をも巻き込む結果となった。それをカルテンブルンナーは認識して、改めて感心したようにシェレンベルクの報告書に視線を走らせる。
国外諜報局長――ヴァルター・シェレンベルクはここまで状況の変化を予測していたのだろうか?
いや、そんなことはない。
ここまでは彼も予測していなかっただろう。
シェレンベルクは確かに優秀な情報将校だが、決して予知能力者ではない。
「無意味に人の命が失われることは、残念なものだ」
カルテンブルンナーの立場を知る者であれば、彼のそんな言葉を白々しく感じたかもしれない。マリーもそんな彼の正体を知っていて、それでも尚、彼女は彼の言葉を追及しなかった。
なにかを感じていて言及していないのか、それとも、なにも考えていないか。
「マリー」
「はい? 博士?」
「……わたしはひどい人間なのだろうか」
ファイルを読んでいたカルテンブルンナーはぽつりとつぶやいた。けれども、彼のそんな言葉は感傷的になっているわけでもなさそうだ。
彼はあくまでも自分の職務を自覚している。
カルテンブルンナー自身の一存が、多くの人々の生命を奪っていることを知っていて、提出された冷徹な報告を受け取っているのだ。
「もしもカルテンブルンナー博士がひどい人だったとしても、わたしにとってはひどい人じゃありませんし、それってそんなに大事なことなんですか?」
この年代の子供にとって外国で起きている悲惨な事件のことなど、あまり関心がないことなのかもしれない。しかし、マリーは国家保安本部に所属して、多くの情報と接している。だから、世界でなにが起こっているのかを、同じ年頃の少年少女よりも知っているはずだというのに、彼女はどこかあっけらかんとした表情のままずれた発言をする。
ヒトラー・ユーゲントの子供たちのように、大人たちに感化された子供では”ない”。
「わたしにとって、カルテンブルンナー博士は、カルテンブルンナー博士ですよ」
それだけだと言って、マリーはテーブルに置いたフォークを手に持ち直すと、タルトに差し込んだ。
裏表を感じさせることのない笑顔で彼女は告げる。
「……そうだな」
彼がどんな決定を下したとしても、エルンスト・カルテンブルンナーとマリーの間に横たわる関係が途切れるわけではないのだ。
なぜなら、マリーは他の女性たちのように国家保安本部がなにをしているかを知らないわけではない。わかっていて尚、彼女は彼らに笑顔を向けてくる。
それが真実だった。
誰よりも信頼することのできる盟友である――。




