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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XIV ユートピア
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4 暗中模索

 それほど長くはない会話を交わしてからマリーはヒムラーの執務室を出て行った。

 ハインリヒ・ヒムラーが思うよりも、もっと多くの者がマリーのことを「不思議な少女」であると認識しているが、実のところ、ヒムラーもマリーに対して同じような印象を抱いていた。

 生まれ変わり、などというものが本当に存在しているのだろうか。

 そしてもしも「生まれ変わり」と呼ばれる現象が存在しているとして、実際は「どんな形」で、そして「どんな経緯(いきさつ)」からその現象は実現しているのだろう。そして、それ以上にその存在はひとりだけなのか。もしくは世界中のありとあらゆる人間が誰かの生まれ変わりであるのか。

 もしかしたら、自分もそうなのかもしれない。

 そんなとりとめもないことを考えながら、ハインリヒ・ヒムラーは思考を元の位置に戻した。

 確証はない。

 けれども、マリー――彼女は「彼」の生まれ変わりなのではないかと、ヒムラーは思った。だから、彼女はラインハルト・ハイドリヒの棺から現れた。

 ヒムラーの不甲斐なさを叱咤するために?

 あるいはドイツの窮状を救うために……?

 そんな考えを巡らせながら、ヒムラーはまるで自分が出口のない迷宮をさまよっているような感覚にとらわれる。

 できるならば、自分の都合の良い方向に想像してしまいたい。できる限り希望的観測の下で動いていたい。

 自分にとって優しく、心地よい世界で生きていたい。

 けれども、ヒムラーは眉をひそめた。疑問が大きく残る。

 彼女は本当に彼なのか。彼であるのならば、彼女の目的は何なのか。

 それが問題だ。

 明白な確証がないとは言え、マリアがラインハルトであるならば、彼女、あるいは彼が目指すところとはいったいどこなのだろう。もしかしたら、ヒムラーの目指す理想の世界と近いところにあるのだろうか。

「……みんなやってることじゃないですか」

 みんな……――。

 みんなとは誰だ?

 心当たりのある人物はすぐに思い至った。ヒムラーの嫌いな、自己顕示欲ばかりが強い目立ちたがり屋。

 子供らしい稚拙な台詞を思い出してヒムラーは何度目かの溜め息をついた。

 フェリックス・ケルステンのマッサージを受けても胃の痛みはさっぱりよくならないのは、ストレスが大きすぎるためかもしれない。しかし、ストレスがいくら大きくてもヒムラーはマリーを守らなければならないと思っていた。

 自分が守らなければならない存在だと思っていたから、ハインリヒ・ヒムラーは全力で彼女を庇護してきたのだ。自分の精神と、肉体を痛めつけても尚。

 それが大人の責任だった。

 みんながやっているからと言ってそれが正しいわけではない。それをヒムラーは自覚していた。もっとも気の弱さのせいで主張はできないが。

「子供は気楽なものだ」

 むっつりとした様子で吐き捨てるように呟いてから、彼はかぶりを振る。

 気楽なように見えているのは、ヒムラーの大人としての偏見なのかも知れない。自分が子供時代の時も「そう」だったように。

 子供には子供なりの世界が見えていて、そして彼らは彼らなりに真剣に未来を見つめているものなのだから。

 再度、吐息をついてからヒムラーは執務机の片隅にある外線電話の受話器を取りあげると、プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセにある国家保安本部――そこに所属する親衛隊中将、ヴェルナー・ベストを呼び出した。

「ベスト中将は、今日マリーがわたしのところに来たのは知っていたのかね?」

 そう問いかけるとベストは通話口の向こうから「知っておりましたが護衛に元武装親衛隊のナウヨックスをつけておりましたので特別問題は生じないかと思い、好きにさせておりました」という応えが返ってきた。

 それからベストはしばらく考え込んでから「もしやなにか失礼な行動を取りましたでしょうか?」とヒムラーに問いかける。

 もっとも、マリーが目上の人間に対して失礼なことは今にはじまったことではない。

 国家保安本部にあって一、二を争う常識人のヴェルナー・ベストに対して、相手には見えていないことを承知の上でハインリヒ・ヒムラーはかぶりを振った。

「いや、特に非礼はない。突然であったからベスト中将も把握しているだろうと思い、確認のために電話したのだ」

 ヒムラーのそうした言葉にヴェルナー・ベストは電話の向こうで苦笑した。

 要約すると、ヴェルナー・ベストを含む一部の高級指導者たちはマリーの本日の予定を把握した上で、別段問題なしとして要約したということだった。

 「マリー」が「ヒムラー」を陥れることなどないということがわかっていたからなのかもしれない。

「……いや、特に邪魔ではない。国家保安本部のほうで余計な気は回さんでいいから彼女の好きにさせたまえ。……あ、あぁ。しかし少々不注意な嫌いもあるからな。その点だけは充分に注意をしてやってほしい」

 まるで子供に対する父親の気遣いのような言葉を放ってから、ハインリヒ・ヒムラーは受話器を置いた。

 彼女は子供ながらの視点で世界を俯瞰している。

 子供ながらの視線で、ものごとを観察している。大人たちのように自分の利益に捕らわれることもなく、また大人たちの都合に振り回されることもない。

 子供らしくまっすぐに理不尽を追及するのはまっすぐな瞳。

 そして彼女のそんな瞳に多くの大人たちが、彼ら自身の立ち位置を気づかされた。

 「自分」の忘れかけていた大いなる理想を。

 そのために戦う力を維持することを。

 それらを忘れかけていたこと。

「……わたしの目指している世界」

 ヒムラーは椅子に深く腰掛けると中空を見据えたままでぽつりとつぶやいた。



  *

「ご苦労様です。大変助かります、大島中将」

 ヴァルター・シェレンベルクは穏やかにほほえむと、日本大使館の一室を訪れてそう告げた。

 日本人気質というものだろうか。

 派手さは控えめな応接室は、シンプルだが機能的で、けれども上質だ。それらを見て取ってシェレンベルクは手渡された暗い色のファイルを受け取ると指先でめくって内容を確かめる。

「……シェレンベルク上級大佐。わたしは、ドイツの勝利を願ってやまないし、なによりもこの地を第二の祖国だとも思っている。しかし、わたしの一存が大日本帝国という国を動かすことができるわけではない」

 しかめ面のままそう告げた初老の将校に、若いドイツ人将校は人当たりの良い微笑を口元にたたえる。

「えぇ、もちろん閣下のお立場は、本官も存じ上げております」

 人当たりの良い好青年。

 そうした印象を受けるシェレンベルクの眼差しに、大島は数秒考え込んでから目を上げた。

 彼とてヴァルター・シェレンベルクが国家保安本部の一員であることは知っている。そして国家保安本部の一員である以上、その国家保安本部がなにをしているのかも。それらをわかっていて、大島は尚、親ドイツ派を自称する。

「しかし、中将閣下のお気持ちに偽りがないことは確かに存じ上げておりますが、ゾルゲの件については”そちら”の”特別高等警察”とやら、は少々目が節穴ではありますまいか?」

 マイジンガーの妨害を阻止できなかったことについてもそうだ。

 やんわりとしたシェレンベルクの物言いに、片方の眉をつり上げた五十代後半の紳士は、言葉を探すように視線を泳がせると鼻から息を抜いた。

「それを指摘されると返す言葉もないが、満州国を含めて、”我が大日本帝国”は、貴国の政策について完全に同意したわけではない。なによりも、先の五相会議(ごしょうかいぎ)での決定は、わたしが下したものではない」

「あぁ、誤解なさらないでください。わたし自身も我が国の推進する計画について、”正しく効率的”であるとは思っておりませんので」

 どうとでもとれる言葉を返したシェレンベルクに、大島浩は自分よりもずっと年若い青年がなにを考えているのかを理解できずに黙り込んだ。

「こちらのファイルは大いに活用させていただきます」

「……かまわんが」

 むっつりと言葉を返す。

 ドイツ第三帝国グロス・ドイチェス・ライヒ。その警察機構である国家保安本部に所属する聡明な青年は、大島の差しだしたファイルを小脇に抱えたまま制帽を直した。

 フィールドグレーの制服を身につけたエリート官僚。

 その眼差しは遙か彼方を見つめているのかも知れない。

「閣下の身に危険が及ぶような事態は全力で阻止いたしますのでご心配には及びません」

「別にそんなことが恐ろしいのではない」

 まるで自分の保身を心配しているようにでも見えたのだろうか。

 そんな不快感を感じて大島浩はヴァルター・シェレンベルクの瞳を見返した。

「そうでしたね……」

 全てを言葉にすることはせずに、シェレンベルクは静かに笑むと首を傾げてみせる。彼にも幾人かの日本人の友人がいたから、日本人たち(彼ら)の思考形態の一部はある程度把握している。しかし、シェレンベルクは民俗学者ではなかったから、一般的な日本人がどのような考え方をするものなのかは知るすべはなかった。

 けれども。

 彼らは対外的――国家的な意味でも、あるいは個人的な意味でも――には多くの場合、建前を多用する。そしてその建前の後ろに本音があった。大概の場合、彼ら日本人たちの本音はどこか曖昧な、そしてどこか切なげな微笑の背後に隠されていることもシェレンベルクは知っている。

 どうして彼がそんなことを知りうるのかと言うと、シェレンベルクは情報将校であり、現役の諜報部員でもある。接触する対象がどのような考え方をして、そしてその思考の末に導き出される結論と、その心中にあるものを推し量ることができなければ、高度な交渉や駆け引きなどできはしない。

 民族を越えて、シェレンベルクはごく冷静に「ヒト」のバックグラウンドを探り出し、さらに必要な情報を入手し、彼が望む真実を導き出す。それが彼の仕事だった。そこに私情は存在せず、淡々とした現実という世界が広がっているだけだ。

 大日本帝国の大島浩という陸軍中将の存在も、シェレンベルクにとってはその程度の存在でしかない。

 そしてそうした理性的な分析能力があるゆえに、シェレンベルクは偏見らしいものからは縁遠くいることができ、その分析能力ゆえに彼は大島を含めた日本大使館に勤める者たちの心中を察することができた。

 ――大日本帝国のため。

 ――天皇陛下のため。

 口を開けばそう語る。しかし、彼らのそんな言葉をシェレンベルクは真に受けてはいない。もちろん、それもあるにはあるのだろうが、要点はそこではない。

 大日本帝国と天皇。

 それらはどちらも彼らの母国を象徴する言葉だ。誰だって祖国を愛しているし、家族を愛しているだろう。そして、自分の生まれた国を守り、主君を守るということは、果ては生まれ故郷の小さな町を守ると言うことに他ならない。

 彼らと戦った者たちであればあるほど、日本人たちの誇り高い眼差しを蔑むことはしないだろう。

 誰だって、自分の国を守るためとお題目のように唱えながら、自分の愛するふるさとを守るものなのだ。

「閣下」

 シェレンベルクが大島を呼んだ。

「なんだね?」

「実際のところ、特別高等警察はどこまで”彼ら”のことを把握していたのです?」

「……君が疑わしく思っていた以上のことはつかんでいなかっただろうな。仮に情報を掴んでいてそれを隠蔽するとなれば、問題は政府内部の責任問題になるだろう。ソビエト連邦の動向を見過ごすことは、行く行くは我が国の命運をも決めることだろうからな」

「確かに。そして、あなたがたが我が国の政策に同調しないことにはそれなりの道理が存在している」

「そういうことだ」

 四年前に行われた五相会議において、すでに日本政府の政策は決定されていた。

 アドルフ・ヒトラーが、現在の再定住計画を推進する予定を当時から画策していたとして、どのみちドイツ側の計画に対して日本は乗り気ではなかった。

 島国の日本にとって理解できない思想だったのかも知れない。

「箱入り娘はぽやっとしていて結構なことです」

 嫌みを言うわけでもなく静かに告げたシェレンベルクに、かすかに笑った大島浩はところでと応接室の扉に背中を向けて立っている情報将校に言葉を投げかけた。

「噂で聞いたのだが、スウェーデンに行くつもりらしいじゃないか。もしストックホルムを訪れた際には小野寺君と話しをしてみるといい。彼なら、シェレンベルク上級大佐にも耳寄りな話しをしてくれるかもしれん」

 小野寺君――。

 親しげな物言いをした日本人紳士にヴァルター・シェレンベルクは小首を傾げた。

 記憶を探る。

「ストックホルムの、と言いますと小野寺(おのでら)(まこと)大佐でしょうか?」

「そうだ。小野寺君はなかなか感じの良い男だ。きっと親身になってくれるだろう」

「……お心遣い感謝いたします」

 ぺこりと頭をさげたシェレンベルクはそうしてから、儀礼的にあいさつを交わして大使館を後にした。

 まごう事なき親独派の大島だが、現実問題として彼は日本人で、外国人だ。

 どこまで信用して良いのか知れたものではないが、それでも親切心からスウェーデン、ストックホルムの小野寺(おのでら)(まこと)陸軍大佐を紹介してくれたことはわかった。

 日本大使館は、満州国、そしてポーランドと繋がっている。その日本大使館が外務省に入り込んだスパイ網を把握していないはずがない。もしもそこまで間抜けな警察組織と情報網しか持っていないのであれば、正直なところ同盟を組むのも考え物だ。

 皮肉げなことを考えてから、シェレンベルクはそうしてベルリンに降り注ぐ初秋の日差しを見上げてからかすかに片目を細めた。

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