3 当惑する支配者
彼女の身につける空気感に圧倒された。
――……いや、圧倒されたわけでは、ない。マリア・ハイドリヒ。そうハンス・ユットナーに紹介された少女の雰囲気に呑まれたと言ったほうが正しいのかも知れない。
無邪気な、大きな青い瞳は、いつぞやは「彼」の持ち物であった。しかし、現在はひとりの小さな少女の持ち物。そんな彼女の瞳を目の当たりにして、テオドール・アイケはその目玉を抉ろうとしたわけではない。ただ。触れてみたいと思っただけだ。そうして無意識に伸ばしたアイケの指に、一方の触れられた少女は男の無骨な指先に顔色ひとつ変えることもなく、彼の手のひらに頬をすり寄せた。
その行動にはテオドール・アイケに対する恐怖はひとかけらも垣間見せることがなかったではないか。
「……なぜ」
ぽつりとアイケは独白する。
まるで彼に対して危機感など全く感じていない。そんな少女の眼差しは、数多くの修羅場をくぐり抜けたアイケすらも飲み込んだ。
傍目にはあくまでも人畜無害なようにも見えたからタチが悪い。
アイケは不機嫌なままで小さくした打ちの音を立てると、眉間のしわを深くした。胸の底にわき上がるような。そんな不快感に彼はフンと鼻を鳴らしてから公用のベンツの車内で軽く自分の膝を手のひらで打った。
不愉快なこと極まりない。
けれども……。
テオドール・アイケは通りすぎていく車窓の外を流れる風景を見つめて思考に沈む。
――けれども、アイケにはどうして自分がこんなにも不愉快なものを感じるのかが理解できない。
「どうかなさいましたか? 閣下」
副官の青年に隣から声を掛けられて、アイケは首を回すとゆるく左右にかぶりを振って見せた。
自分が粗暴なサガであることアイケは自覚しているが、見境なく他人に当たり散らすような人間では決してない。それがアイケの自己評価だ。
相手が天敵の国家保安本部ならばもちろんそればかりではない。
なによりも、ドイツ人紳士として「性質」のわからない少女相手にいきなり横柄な態度を振りまくというのはいくら国家保安本部所属と言っても暴論にも程がある。そして、そんな相手にキラキラと輝く無邪気な瞳で見つめられては、さすがのアイケもどんな顔をすればよいのかわからずに困惑するしかなかった。
どれほどラインハルト・ハイドリヒを蛇蝎の如く嫌悪していたテオドール・アイケとは言え、目の前でにこにこと笑っている少女に怒鳴り散らすほど常識知らずなわけではない。ラインハルト・ハイドリヒが死んだ今、彼女が国家保安本部の所属だというだけで毛嫌いする道理などどこにもないのだ。
そしてそんなアイケの困惑と迷いが、彼自身を奇妙な行動に駆り立てたと言ってもいいのかもしれないが。
マリーの青い瞳に取り憑かれた。
アイケの行動は、ユットナーには少女の目玉をくりぬこうとでもしているように見えたのかも知れない。もちろん、そんな意図はかけらもなかった。
瞳に触れれば少女に苦痛を与えることをわかっていたから、テオドール・アイケはそろりと壊れ物でも扱うように、彼女の白目に触れてみた。その瞳は、今はラインハルト・ハイドリヒの持ち物ではなく、マリーの持ち物であるということを確かめるために。
そんなアイケの突然の行動に、マリーは驚く様子もなく彼を見つめ返したこと。
目玉に触れられて恐ろしくはなかったのだろうか?
マリーの目玉に触れたのは誰でもなく、テオドール・アイケだというのに、触れてからそんなことを冷静に考えた。
どうして彼女は顔色のひとつも変えることをしなかっだのだろうか。
ただひたすらに、アイケは今さら取り繕うことも、言い逃れることもできない状況のまま考え込んでいる。自分の心の平静を取り戻し、胸の内側に堆積していくような不快さの正体を見極めようとした。
しかし、人の心の動きに関して専門的な知識を積み重ねてきたわけでもないアイケに、マリーの感じたことや考えていたことなど理解できるわけもない。
加えて彼が知ろうとしているのは同性ではなく、感受性豊かな年代の異性なのだ。
どれだけ考えたところで理解することのできない相手のことなど、考えるだけ労力の無駄である。それが彼の苛立ちを駆り立てて、神経質に膝を揺らして窓の外を凝視する。最終的に「マリーを理解しよう」という行為をアイケは放り投げたのだった。
ラインハルト・ハイドリヒの面倒の置き土産のひとつ。そんなアイケの認識に落ち着いた少女の存在に彼は憮然として鼻を鳴らした。
結局全てが堂々巡りだ。
答えなどでるわけもないのかもしれない。
狡猾で、自分の利益と権力の拡大にしか興味のなかった男――ラインハルト・ハイドリヒ。
そんなハイドリヒの存在がアイケは大嫌いだった。もっとも「金髪の野獣」と恐れられたハイドリヒのことを好ましく感じていた者などほとんどいなかったのかもしれない。
テオドール・アイケと同じく武装親衛隊の第一SS装甲擲弾兵師団「アドルフ・ヒトラー親衛隊」の指揮官、ヨーゼフ・ディートリッヒも。彼と同じようにハイドリヒを毛嫌いしていたのだから。
噂ではディートリッヒはハイドリヒが死んだ時に、彼の死を悼むわけでもなく悪態をついたらしいと言うことだった。それを耳にしたとき、テオドール・アイケは「なんともディートリッヒらしい話しだ」と思った。
ラインハルト・ハイドリヒという男は、それほど嫌悪の対象とされていた。
そしてそんなハイドリヒの置き土産。彼の遠縁の娘だという、金髪碧眼のマリー。
彼女の身につける空気感はラインハルト・ハイドリヒのそれと比較すると真逆のものだった。
育ちが違えば人格とはこうも異なるものに変貌するものなのか、と考えさせられた。
ともあれ、少なくともラインハルト・ハイドリヒと、マリーは違う人間だ。
たとえ同じ髪と、同じ瞳を持っていたとしても。
――マリーです。
彼女はそう言って笑った。
「マリー、か……」
ハンス・ユットナーの弁によると、国外諜報局長のヴァルター・シェレンベルクの部下であるということだったが、そんなことはアイケにとってはどうでも良いことだ。
不思議な少女だと、アイケはそう感じた。
作戦本部長官ハンス・ユットナーとマリーのやりとりを聞いた限りでは、どうやらユットナーはマリーの親衛隊員らしからぬ態度を容認しているようにも見える。もっともアイケにしたところで規律などクソでも食らえと思っている節があるからマリーの態度は余り気になるものではない。もしくは、ユットナーがマリーのおおらかな態度を許容しているのは国家保安本部所属であるという特殊性によるところなのかもしれない。そうアイケは推察した。
ありとあらゆる意味で、国家保安本部には常識が通用しない。
テオドール・アイケはひとつ吐息をついてから瞼を閉じる。
親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの言葉を真に受けるわけではないが、確かに時代とはゆるやかに変わっていくものだ。
不意に思い出すのは、自分の若い頃に大人という老害共に感じていた苦々しさでもある。もしかしたら、今の自分も、彼が若い頃にそう思っていたように、若い連中から煙たい老害の一員に認定されているのかもしれない。
マリーを含めた、若々しさに満ちた青少年たちに彼は思いを馳せた。
先の欧州大戦を知らない若者たちはかつての自分と同じように輝く未来を夢見ている。かつての自分が夢に見た未来。そして若者たちは更に先にある未来を見据えて、子供たちは笑顔を向ける。
「俺も所詮は”老害”か」
自嘲するように口の中でつぶやいた。アイケはそうしてかすかに唇の端をつり上げるのだった。
*
強制収容所の管理は武装親衛隊から一般親衛隊へと恙なく移管された。
恙なく、と言うと若干の語弊があるのかもしれない。実際のところ一般親衛隊は強制収容所の管理の移管に伴って経済管理本部は少なからぬ混乱に晒されている。さらに一般親衛隊である国家保安本部も監査機関として強制収容所へ介入するという決定によって、経済管理本部同様の混乱の中にあった。
強制収容所という巨大な組織。
その管理にしろ監査にしろ、巨大な組織に介入するだけの人的余裕は経済管理本部にも国家保安本部にもない。どちらの組織も少ない人員で現在の業務を遂行しているのだ。すでにキャパシティなど軽く越えている。
そんな混乱の中で、それでも強制収容所の看守たちに自分の意志によって武装親衛隊に残留する選択権を与えられた。もちろんこの場合、武装親衛隊に残留するという選択は強制収容所での怠惰な生活からの別離であり、文字通り前線部隊への異動ということになるのだが、実際はそんな希望を出す者はそれほど存在しなかった。
よく考えなくても当たり前のことだ。
元々、現在の強制収容所の看守らはアイケ率いる「髑髏部隊」が、武装親衛隊の前線部隊として選抜されたときに戦闘行為に不適格とされた者、もしくは年齢的に適さない者などが残留。もしくはその後に、アイケの「髑髏部隊」が抜けた穴を埋めるために、子供に毛が生えたような青少年や退役兵などが招集されていたこと。
つまるところ、彼らはテオドール・アイケが鍛え上げた「髑髏部隊」とは同じ名前でありながら似て非なるものだった。
そして国家保安本部はと言うと、業務の増加に伴って新たな組織改革の提案をしてきたがヒムラーの一存で一旦保留とされることになった。とはいえ、保留の理由についてはせいぜいヒムラーの処理能力が追いついていないだけであろうというのが、親衛隊高級指導者らのもっぱらの見解である。
執務室から部下たちの姿が消えて、やっとほっと溜め息をついたハインリヒ・ヒムラーは姿勢を崩して椅子に深く体を預けた。
自分などよりもずっと剛胆で、はるかに優秀な彼らを前にしていると何を言えば良いのかわからなくなってしまう。
もしかしたらまた自分はまた彼らの言いように言いくるめられてしまうのではないかという不安もあった。
「ヒムラー長官」
不躾な言葉使いと共に扉が開いてぴょこんと顔を覗かせた青い瞳。
「……マリーか、どうした?」
崩した姿勢のまま問いかけるとマリーは手近にあるソファに腰を下ろして、少女はテーブルの上に並んでいるいくつかのティーカップを見つめてから、かすかに目を細める。
「長官は、まだ怖いんですか?」
「……――」
曖昧なマリーの言葉にヒムラーは黙り込む。
「わたしは、してはならんことをしたのだ……」
黙り込んだヒムラーはややしてから苦しげにそう告げると、手のひらで口元を覆った。
「横領のことですか?」
揃えた膝の上に両方の肘をついて、そうして頬杖をついた彼女はなんでもないことのようにヒムラーに問いかける。
「し、親衛隊は潔癖でなければならんのだ……!」
叫ぶように言った彼に、マリーはヒムラーの言葉を馬鹿にするわけでもなければ、興味もなさそうな表情のままで「ふーん」と言った。
「でも、ヒムラー長官だって知ってるでしょうけど、長官より下の地位にいる人たちとか、そうじゃない人たちも、”誰だって”やってることじゃないですか。それを、どうしてヒムラー長官だけが後ろめたい思いをしなければならないんですか?」
「……君は、わたしが望むならさらなる高みを目指すことが可能だと言ったが、本当に、我が総統の目を欺くことなどできると思っているのかね?」
「……欺く? 誰を?」
ヒムラーの口から飛び出した突拍子もない言葉にマリーはぱちくりと大きな瞳をまたたかせた。
「ヒトラー総統だ!」
唾を飛ばしながら叫んだハインリヒ・ヒムラーに、マリーはどうでも良さそうな表情のままで相づちを打ちながら小首を傾げる。
「ヒムラー長官は、総統閣下に嘘をつこうと思っているんですか?」
「ち、違う……っ!」
マリーの台詞にヒムラーは動揺した。
どうもマリーを相手にしていると、自分の心の闇を覗き込まれている様な気分になってくる。もしかしたら後ろめたい気持ちがどこかにあるのかもしれない。そんなことを考えながら、ヒムラーはデスク越しに腰を浮かして閉口している。
「それなら、それがヒムラー長官の意志なんじゃないですか? 誰がなにを言ったとしても、ヒムラー長官はヒトラー総統に嘘をつくつもりなんてない。それだけでいいんじゃないんですか? それに、もしもヒムラー長官に諍いを突きつけてくる相手がいるなら、長官にはそれを裁く権力があるはずじゃないんですか?」
並んだままになっているティーカップを見つめて呟くマリーに、ヒムラーは言葉を失ってしばらくしてから力を失ったように椅子に座り込んだ。
彼の貧困な想像力では自分の犯してしまった行為はすでに取り返しのつかないもので、申し開きのしようもない。
自分で選択した結果について、どうすれば良いのかわからなくなってしまっていた。
「政敵は、叩きつぶせばいいんじゃないですか」
今までそうしてきたように。
そうしてにこりとほほえんだマリーに、ヒムラーは唇をわずかに震わせたままで視線を彷徨わせた。
「わたしは……」
そこまでようやく声に出して呟いてから、ヒムラーはデスクに肘をついたままで両手で顔を覆った。
――わたしは……。わたしはもうどうしたらいいのかわからないんだ……。ラインハルト……。




