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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
III 悪の華
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1 夜のつぎはぎ

 ラルス・シュタインマイヤーは非常に機嫌が悪かった。

 彼は「マリア・ハイドリヒ」という捏造された身分を与えられた少女の本名が「マリー・ロセター」であるということを知る数少ない人物であるが、不機嫌な理由はそんなことではない。

 国外諜報局長ヴァルター・シェレンベルクとの個人的な信頼関係から、マリーに関する報告の一切はミュラーを通すことなくシェレンベルクに提出していた。しかし、そんなシュタインマイヤーが報告していないことがひとつだけある。

 そもそも報告するには内容が憶測の内を出ず、確実性に欠けるという理由も関係した。

 ゲシュタポとしての任務を考えるならば、彼女が反ナチス的な組織に関わっているのだとすれば逮捕、監禁して拷問にかけるべきとも思うが、少なくともシュタインマイヤーの琴線に引っかかっているのはそういったものではなかった。

 まるで立ちこめる濃霧の奥に姿を隠してでもいるような。

 そんな正体不明の不気味な感覚を彼が最後に感じたのはいつだったろう。

 国家保安本部(RSHA)の第四局A部――国家秘密警察(ゲシュタポ)局敵性分子排除部の刑事である彼は苛立たしげに眉をひそめたままでタバコを灰皿に押しつけた。そうして新たなタバコに火をつける。

「あれは、なんだ……?」

 タバコをくわえたままでぽつりとシュタインマイヤーは呟いて頭上のなにもない空間を睨み付けた。

 元々、彼は若手でありながら数々の異常な状況にあった殺人の捜査に携わっており、その実績を買われてゲシュタポに引き抜かれた。

「……あれは」

 あれはなんだろう。

 表面上は。

 人と同じ姿をしているモンスター。

 彼はそう言ったものに、ゲシュタポに入る前から相対してきた。

 一種、常軌を逸した異常とも思える殺人事件の専門家とも言えるシュタインマイヤーが取り調べをしてきたのは、そういった類のものだった。

 化け物と呼んでもおかしくはない連中を相手に彼は警察官として殺人現場を目にしてきた。数多くの「更正不能」の化け物。

 そんな化け物たちの多くはナチス党が政権を握ってからほとんどが強制収容所で銃殺された。

「化け物」

 ぽつりと呟いた彼の声は誰に届くこともなく消えていく。

 それほど多くない異常とも言える殺人鬼たちは「化け物じみた人間」なのではなく、まさしく「化け物そのもの」なのだ。

 最初に出逢った時はただの少女だと思った。

 しかし、それから時折彼女に出逢うようになって、鍛え抜かれた彼の鋭敏な嗅覚が異常なものを知覚するようになった。

 おそらくそれは、諜報部員であるシェレンベルクなどにはわからないし、管理職としてゲシュタポのトップに立つミュラーにも理解できないだろう。異常な状況の殺人現場で場数を踏んできたシュタインマイヤーだからこそかぎ取った感覚だ。

 ――やってみるか。

 灰皿にタバコを押しつけながら、シュタインマイヤーは首を傾げた。

 疑わしいというわけではない。

 マリア・ハイドリヒの経歴が真っ白なのは当たり前だ。捏造された経歴なのだから。しかし、それを差し引いても、マリー・ロセターの経歴が全く出てこないのはおかしい。

 シュタインマイヤーは、ヴィルヘルム・カナリス海軍大将が彼女の後見人となってからも独自に捜査を続けてきた。ゲシュタポの業務もあったからなかなか進まないが、捜査の進展しない理由はそればかりではない。



  *

「あぁ、構いませんよ?」

 縦縞(たてじま)の囚人服を身につけた男は歯を見せて笑うとそう言って、シュタインマイヤーの差しだしたタバコを一本受け取った。

 彼はブーヘンヴァルト強制収容所の特別労務隊員を務める囚人のひとりだ。それより以前はダッハウ強制収容所にいたが、ブーヘンヴァルト強制収容所が建設されてから移送されてきた。

 名前はヨーゼフ・アーベントロート。

 すでに五十歳近い男で、シュタインマイヤーはアーベントロートのことはよく知っている。

「しかし、こんなところに一般人の女の子を連れてくるなんてショック受けても知りませんよ」

 飄々としたアーベントロートの物言いはどこか異質だった。

「ここに収容される連中ときたら、みんな死んだ魚の目ぇみたいな生気のない顔しやがって、もう少しこう、明るく元気よくできないもんですかね!」

「ここは快適か?」

 問いかけたシュタインマイヤーにアーベントロートは臆することもない。

「退屈ですけどね、毎日死体ばっかり見せられて、頭おかしくなる仲間が多すぎて」

 タバコを吸いながら肩をすくめた彼は、そうしてから首を傾げると目の前に座っているナチス親衛隊の制服を着たゲシュタポの捜査官の瞳を凝視した。

 正直なところ、シュタインマイヤーはアーベントロートに見つめられるのをあまり好んではいなかったが仕事であればやむを得ない。

 ヨーゼフ・アーベントロートは十六歳から三八歳までの間に三十名近い少女を殺害した連続殺人犯だ。そのくせ性格は社交的で人なつっこく、時には捜査官すら彼の愛嬌に騙された。

 彼は生まれながらの精神異常者で殺人をはじめる前は、動物の虐待を繰り返していたという。仕事は医師で、病院内では有名な名医だった。

「刑事さんは随分出世されたみたいですね。その制服」

 長い指でシュタインマイヤーのフィールドグレーの制服を指さしたアーベントロートは、そうしているところだけを見ると人畜無害な紳士にも見えるから不思議なものだ。しかし、目の前の男に幾度となく辛酸をなめさせられたシュタインマイヤーは決して彼に隙を見せたりしない。

「それで、どんな子なんです?」

「……さてな。年齢は十六歳だが、俺の感想を言ったところでおまえには意味などないだろう」

 アーベントロートは頭が切れる。

 だから、そんな彼の手に乗ってはいけない。

「十六歳ですか……、少し(とう)が立っていますねぇ」

 そういえばアーベントロートの”好み”は十歳前後だった。確かに、そんな彼から見れば(とう)が立っているかも知れない。

 要するに彼の好みではないのだ。

「おまえの性的嗜好は聞いていない」

「いえいえ、刑事さんはわたしのことはなんでも知ってますからね。今さら隠し事なんてするつもりもありませんし、ここで仕事しているとそれなりに飯にもありつけますからね」

 この男はいつもこうだ。

 殺人の話しをするときも、食事の話しをするときも、顔色一つ変えはしない。まるで自分にとって、それらがあたかも同列の意義しかないのだとでも言うかのように。

「それで、いつ連れてくるんです?」

 ベルリンの南方、ヴァイマル市の北西約四マイル半のところに位置しているブーヘンヴァルト強制収容所にベルリンから往復するのはやや骨が折れた。

「そうだな、明日にでも」

「わかりました、ですが、看守共がうるさいんでそっちの方の手配もお願いしますよ」

 強制収容所にはひどく不似合いの眼差しでアーベントロートはシュタインマイヤーに言ってのける。一見しただけでは自分がどこにいるのかわかっていないのではないかとも思わせるが決してそういうわけではない。

 ヨーゼフ・アーベントロートは自分が強制収容所にいることもよくわかっているし、なにをしてどうして収容されているのかもわかっている。

「わかった」

 アーベントロートとさして面白くもない短い会話を交わしてから、ブーヘンヴァルト強制収容所を出たシュタインマイヤーは眉間を寄せた。

 彼がなにをやったのか。

 それを思い出しただけでも反吐が出る。

 ヨーゼフ・アーベントロートが殺したのは三十人近い少女。彼女らは、誘拐され生きながら性器の一部を切除されて、ゆっくりと真綿で首を絞めるように殺された。

 最後は、何度も何度も、狂ったようにナイフを突き立てられて。

 常識から大きく外れた連続殺人。

 その捜査チームのひとりがシュタインマイヤーだった。

 普通の感覚の人間にはとても理解できないことだが、あろうことかアーベントロートにとってはそれこそ同じなのだ。「食事」も、「少女を殺すこと」も。そして強制収容所内での業務も。

 だからこそ彼は生き残っている。

 五十歳にもなろうかというヨーゼフ・アーベントロート。彼は暴力的で嗜虐趣味を持つ男だ。かといってその精神状態が異常であるのかと言われると、決してそうではないとシュタインマイヤーがかつて師事した精神科医は言った。

 彼はごく冷静に、そして理性的に殺人を行っているのだという。

 人間としてはある程度まともな精神状態のラルス・シュタインマイヤーなどにはさっぱり理解ができないが、専門家でもある精神科医がそう言うのであるからそうなのだろう。少なくともアーベントロートは確かに、やっていることは異常な手口のようにも感じられるが、彼の瞳は確かに理性を保っていた。

 一方、シュタインマイヤーが見た「マリー・ロセター」は、はじめこそシュタインマイヤーを恐れる表情も見せたが、次第にその瞳から表情が失われていき、彼女の調査書類に寄れば最近では随分長い時間を眠っているらしい。時に、マリーの花の家ハウス・デア・ブルーメンを訪れると、その瞳に見えるようになったのは、次第に欠落していく「人間らしさ」だった。

 アーベントロートとマリーは、同じものではないのか。

 それがラルス・シュタインマイヤーの頭にかすめた疑念。

 口の中で舌打ちしてから彼は、ベンツで待機していた下士官に車を出すように命じた。

 彼はゲシュタポに所属しているものの、今でも心は殺人課の警察官であるという自負がある。警察官であり続けるためにナチスに入党し、親衛隊にも入隊することになったが、彼にとって主義思想などどうでも良いことだ。

 言葉には出さないが、ラルス・シュタインマイヤーのそんなナチス的ではなく、さらに警察官として有能であったところなどが、シェレンベルクの信頼を寄せられるところとなったのだろう。

 後部座席にどっかりと座った長身の刑事は、腕を組んだままでしかめ面のまま考え込んでいる。

「どうかしたんですか?」

 彼の車を運転する親衛隊の下士官は殺人事件の捜査などにほとんど関わったことのないゲシュタポの捜査官だ。数多くの殺人事件捜査で場数を踏んでいるシュタインマイヤーにしてみれば力不足も甚だしい。

「……いや」

 なんでもない。

 そう応じたシュタインマイヤーは、プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセにある国家保安本部のオフィスに戻ってからの仕事の段取りを頭に組み立てつつ不機嫌な表情のままで目を閉じた。



  *

「お久しぶりです」

 ラルス・シュタインマイヤーは一冊のファイルを小脇に抱えてベルリンの一角にある総合病院の研究室を訪れた。

 その研究室の古びた本棚に雑然と放り込まれているのは、専門書やファイルだった。余りにも雑然としすぎていて、どこに何があるのか部屋の主でもわからなくなるのではないかとも思えてくる有様だ。

 丁度コーヒーを煎れたばかりだったのか、その(かんば)しい香りが室内には漂っている。

 どうやら代用コーヒーなどではなく本物のコーヒーらしい。

「……やぁ、君か。久しぶりだね、シュタインマイヤー君」

 本棚と同じように古めかしいデスクに向かって万年筆を走らせている壮年の医学博士は、ぎろりと気難しげな視線を上げて入室するナチス親衛隊の士官を見つめた。

 立ち上がってナチス式の敬礼もしないこの壮年の紳士にシュタインマイヤーはぺこりと小さく会釈をする。

「何年ぶりになるかね?」

「……十年ほどになります、博士」

「ふむ、十年か」

 この歳になると、十年というのも長いようで短いものだ。

 そう続けてじっと片目をすがめた白髪の壮年の男は、鼻からずり落ちた眼鏡を指先で押し上げてから、ペンを置くと姿勢を正した。

「今はゲシュタポに所属していると耳にしたが」

「はい」

「そうか」

 しばらく沈黙してから椅子に深く腰掛けていた彼は思い出したように「コーヒーでも飲むかね?」と聞いてきた。

「はい、いただきます」

 立ち上がってコーヒーの準備をする壮年の医師は、部屋の中央に置かれたソファに座るシュタインマイヤーを見やってから、片手でパイプをゆらすとしみじみと息をつく。

「……君の知識がゲシュタポで役に立つとは思えないが」

 ラルス・シュタインマイヤーは絵に描いたような殺人課の刑事だ。

「はい、ゲシュタポよりも刑事警察(クリポ)のほうが、わたしの経験を生かせるのではないかと、申し上げたんですが、上司からゲシュタポのほうで腕を振るうようにと言われまして」

 刑事警察(クリミナルポリツァイ)

 今では刑事警察も、ゲシュタポも大差はない。

「まぁ、どちらでもかまわんか」

 シュタインマイヤーが、かつてベルリンの警察官であった頃に師事した臨床心理分析官の医師。名前をルーカス・フォルツという。

「それで、今日はどんな用事かな?」

 ルーカス・フォルツは煙を吐き出してから、シュタインマイヤーを凝視した。

「フォルツ博士、以前、ハンブルクで逮捕した男のことを覚えていらっしゃいますか?」

「……ハンブルク、と言うと、アーベントロートかね」

 連続少女殺人事件を起こしたヨーゼフ・アーベントロートは、ハンブルクで逮捕された。アーベントロートはベルリンでひとり暮らしをしていたが、生まれ故郷はハンブルクだった。

「そうです。彼は今、ブーヘンヴァルト強制収容所で特別労務隊員をしています」

「……ブーヘンヴァルトか。彼の移送先としてはマウトハウゼンのほうが適していると思うが」

「どうしてそれをご存じでいらっしゃるのですか?」

 犯罪者の移送先は、関係者にも明確にはされていない。

 だからルーカス・フォルツが知るはずはないはずだった。

 本来であれば。

(じゃ)の道は(へび)、と言うからね。それに、この世界で彼らのことをよく知るのは、わたしと君くらいだろう?」

「……――そういうことですか」

 シュタインマイヤーはフォルツの言葉に頷いてから、かすかに片目を細めてみせた。

「それで、そのアーベントロートがどうかしたのかね?」

「はい、逮捕した当時、フォルツ博士はアーベントロートが正気であり、責任能力も確かにあるとおっしゃっていらっしゃいましたが、その判断に今でも確信がおありですか?」

「無論」

 シュタインマイヤーは決してフォルツの判断に疑いを抱いているわけではない。むしろ、目の前の精神科医に対して無二の信頼を抱いてさえいる。だからこそ、彼はフォルツに確かめたのだ。

 ぎらりとフォルツの瞳が強い光を放ったような気がした。

 この鋭い瞳こそルーカス・フォルツの眼差しだ。ラルス・シュタインマイヤーは彼のこの瞳に引きずられるようにして多くの殺人現場に相対してきたのだ。

「彼――ヨーゼフ・アーベントロートは確かに正気だ。多くの者は精神異常者だと言うが奴は精神に異常を来しているわけではない。我々と同じように、ごく冷静に、そして理性的に判断を下している」

「ありがとうございます」

 ヨーゼフ・アーベントロートが「異常ではない」という言葉を聞ければ充分だった。彼が異常ではないという現実は、シュタインマイヤーにとってひとつの指針だ。

 それを判断材料とすることができる。

「なにを抱えているのかは知らんが、君は、君の判断を信じるのが一番だ。シュタインマイヤー君」

「……はい」

 まだ二十代だった頃、彼は多くのことをルーカス・フォルツが学び取った。

「君はゲシュタポになっても、刑事魂を捨てていないようだな」

「わたしは、ゲシュタポの中でも、特に殺人事件に多く携わっています。おそらく、それはわたしの経歴によるものだと思われますが……」

「ひとつだけ聞かせてもらいたい」

 フォルツの言葉に、シュタインマイヤーは強い視線を上げて彼を見返した。

「今の体制にあってわたしが君の役に立てるとは思えんが、君が抱えているものはわたしが力になれることかね?」

「……――残念ながら」

 壮年の医師が問いかける。

 シュタインマイヤーは薄くほほえむとゆるくかぶりを振った。

「そうか」

 コーヒーに口をつけるシュタインマイヤーとフォルツの間に短い沈黙が流れた。

 重く、空気を揺らす。

「……シュタインマイヤー君、わたしはもう捜査の第一線に戻るつもりはない。医師として、罪なき者の罪を作り出すために利用されることもご免だからな。だが、もしも君がわたしに個人的に力を借りたいということであればいつでも訪ねてきなさい」

 精神科医として臨床にも、捜査現場にも立ち返ろうとは思わない。

「フォルツ博士、お心遣い感謝いたします」

 フォルツは、シュタインマイヤーの立場を理解しているから、彼を咎めるようなことをしない。現実とは常に、裏と表。正義と悪徳。そして多くの事象が複雑に絡み合っているものなのだ。

 ルーカス・フォルツに礼を告げて、彼の研究室を辞したラルス・シュタインマイヤーは小脇に抱えたファイルを抱え直して眉をひそめた。

 マリー・ロセターを理解するために必要なものは鍵だ。

 そしてその鍵は、少女連続殺人事件を引き起こしたヨーゼフ・アーベントロート。おそらく、シュタインマイヤーが考える限り、彼と少女は決して血縁などではないだろう。

 ふたりをつなぐものはもっと別のところにあるはずだ。

 そんなことを考えながら、彼は国家保安本部のオフィスへと戻ると、自分のデスクの上にヨーゼフ・アーベントロートのファイルを開いた。

 それはかつて、フォルツが書いたもので、アーベントロートに関する情報だった。



  *

 マリーはベッドに横になったまま天井を見上げている。

 ゆらゆらと揺れる意識に、少女は時折自分を見失った。

 いくつもの意識が浮上しては消えていく。その中で、唯一、勝ち残ったものだけが彼女自身を支配するのだ。

 細い足を投げ出して、腹の上で指を組む、

 そうしてただ声を上げるでもなくただまばたきをすることもなく天井を見上げている。

 必要なものはきっかけだ。

 彼女はただそう思った。

 なにか、「彼女」を覚醒させるためのものが必要なのだ。

 透明な卵の殻にはひびが入っていて、あとはそれを突き崩すためのきっかけが必要であるに過ぎない。

「……マリア」

 彼は言っていた。

 マリーのことを「わたしの天使」だと。そもそも天使とはなんの暗喩なのかとも思ったが、そんなことには大して意味はない。

 マリーの中でマリアが眠っている。

 現実の世界に呼び起こされるのを待ちながら、ただ眠り続けている。

 マリーがマリーとして生まれる以前から、マリーの魂に巣くい続けたひとつの意識。それが彼女――マリア。

 けれどもマリアはマリーの意志だけでは起きることはない。

 どんなにマリーが呼び掛けても、彼女はとろとろと眠り続けている。やがてマリーはマリアに引きずり込まれるように、眠りの奈落へと落ちていく。眠るマリアの力に抗う術もなく。

 夢の中でマリーは杖もなしに裸足で道を歩いていた。

 白いワンピースの長いスカートの裾がひらりと揺れる。

 赤黒い空の下、彼女の足元でガシャリと硬いものがこすれあう音がなる。けれども不思議なのだ。

 見上げると空は抜けるように青く、太陽の光に満ちていて、彼女の目線の先には陽光の降り注ぐ森の小道が続いている。だというのに、ガシャガシャと嫌な音が鳴る。それは確かに「嫌な音」だというのに、彼女の心はそれを「嫌な音」だとは認識していない。

 心と精神と、理性と感情と、視覚と聴覚と感触と。

 なにもかもがばらばらだった。

 おそらく、と彼女は思った。

 一度バラバラに破壊されたものがいずれひとつになるのだろう。

 この道はどこに続いているのだろう、そんなことを思い始めたマリーの意識は一気に現実へと引き戻される。大きく両目を見開いた少女は、どこか焦点の合っていない瞳で天井を見上げたまま、むくりと体を起こした。

 そうして、一瞬後、糸が切れた操り人形のように瞼を閉じるとそのままベッドへと倒れ込む。

 見ている者がいたならば異様な光景だったかもしれない。

 やがて聞こえはじめたのは規則正しい寝息だった。

 枕に横顔を埋めた少女はいったいどんな夢を見ているのか、それは誰にもわからない。

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