1 雷雲きたる
親衛隊長官ハインリヒ・ヒムラーの召喚に応じて、その執務室に顔を揃えていたのは親衛隊全国指導者個人幕僚本部長官カール・ヴォルフ大将、作戦本部長官ハンス・ユットナー大将。さらに武装親衛隊装甲軍団司令官パウル・ハウサー大将、第三SS装甲擲弾兵師団長テオドール・アイケ大将が同席している。
ハンカチを片手にしてかきもしていない汗を拭う素振りを見せるヒムラーはわざとらしく強気な表情に改めてから口を開いた。
「アイケ大将にも言い分はあるだろうが、すでに決定は下されている」
――覆すことはたとえアイケ大将の陳情があったとしても相成らん。
しかし、そう言ってからヒムラーは、覗うように作戦本部長官と武装親衛隊装甲軍団司令官を覗き見る。そんなどこか小心めいた親衛隊全国指導者と武装親衛隊高級指導者らの一連のやりとりを見守っていたカール・ヴォルフは短い息をついてから肩を落とした。
どのみちヴォルフなどでは、粗暴で激情家のアイケの怒りを静めることなどできるわけもないとわかっている。それ故に、ヴォルフはあくまでも口出しを控えた。
一般親衛隊高級指導者であるヴォルフが、武装親衛隊の問題に口など差し挟めば火に油を注ぐ結果になるだろうことは火を見るより明らかだ。もっとも、そんなヴォルフもアイケの巻き起こす問題の数々に、ユットナーが頭を抱えていることも知っている。
よく言えば破天荒ながら人情味がある。悪く言えば粗暴で過激だ。そんなテオドール・アイケのどこか反社会的で規律を乱す行動は、ユットナーの目指す武装親衛隊の正規軍化への大きな障害として立ちはだかっていた。
そんな事情から、ハンス・ユットナーはヒムラーが強制収容所の看守らを、武装親衛隊から一般親衛隊の身分に戻したことは歓迎すべきものだった。そんなユットナーの思惑をよそにアイケはヒムラーに食ってかかった。
そもそもテオドール・アイケは、親衛隊全国指導者であるハインリヒ・ヒムラーに対して非常に恩義を感じていて、そんな彼がヒムラーに食ってかかる場面など珍しいことだ。
眉をひそめたユットナーはわざとらしく咳払いをしてから、アイケの名前を呼んだ。
「長官閣下は時代は変わっていくものだと言っているのだ。アイケ大将」
時代は流れ、時代は変わる。
未来とは「彼ら」がかつて目指し、夢見たままの形では決して訪れることはない。時代は残酷で、ひとつの価値観に縛り付けられる者は問答無用で置いていく。
そうした残酷さを持っていた。
「……しかし、こうも急な改革では、反発も予想される以上に大きいのではないか?」
このヒムラーの決定を機に強制収容所の堕落した看守共を武装親衛隊から追い出せるのであればユットナーとしては願ったりかなったりで、それがヒムラーの改革に賛同する理由だった。
ハンス・ユットナーのアイケを諭すような言葉に、助け船を出したのはパウル・ハウサーだが、それはそれでもっともらしい意見でもある。なにより、ハウサーもユットナーもアイケの第三SS装甲擲弾兵師団が不要だと言っているわけでもない。
「別にわたしは、強制収容所の看守共の話しをしているだけであって、アイケ大将の髑髏が不要である、と言っているわけではない。ハウサー大将」
「……ユットナー大将とハウサー大将はそうは思っていないだろうが、強制収容所の看守たちは国内にあって”民族的闘争”の”最前線”で戦っているのだ。それが一般親衛隊なぞと同列に扱われなければならんなど、納得いかぬ」
怒鳴りつけるようなテオドール・アイケに、驚いた様子で小さく肩をすくめたヒムラーは、目の前の装甲擲弾兵師団長の強面に、顔色を赤くしたり青くしたりしながら口を開いたり閉じたりしていた。
結局、忙しなく百面相していたヒムラーは意気消沈してうつむいてしまった。
気が弱いヒムラーのことだから、アイケの迫力に負けてしまったのだろう。もちろん、アイケの方はヒムラーを威圧したいわけではない。顔は生まれ持ったものだったし、彼が威圧するような空気をまとっているのは、アイケがそれだけ真剣に事態を捕らえているということだろう。
たかが一般親衛隊と言われて面白くないのは、もちろん一般親衛隊の長官を務めるカール・ヴォルフ大将だ。しかめ面をしたままでアイケの言い分を聞いていた彼は、その段になってからやっとひどく不愉快そうなまま口を開いた。
「アイケ大将はそう言うが……」
腕を組んだまま神経質に人差し指で二の腕にとんとんとリズムを刻んでいたカール・ヴォルフは、テオドール・アイケに視線を流しやった。
ごく冷静に声を放ったヴォルフにアイケは彫りの深い顔立ちの中にある両目でぎろりと、親衛隊全国指導者個人幕僚本部長官を睨み付けるが、もちろん当のカール・ヴォルフもそんなアイケの反応に気を止める素振りも見せない。
「アイケ大将も知っての通り、その一般親衛隊こそドイツ国民を守っているのではないか」
機嫌の悪化したヴォルフの台詞に「はっ」と、馬鹿にしたように息を吐き出してから、テオドール・アイケは乱暴に座るソファの肘掛けを大きな手のひらでたたいた。
「……国家保安本部か!」
「そうは言っていない」
過去、テオドール・アイケと政争を繰り広げたラインハルト・ハイドリヒ。
巨大な警察権力を振りかざして、ハイドリヒの力はドイツ全土、もしくはそれ以上に及んだこと。
時代は変わっていく。
そして変わりつつある時代に人は自分を適応させなければ生きていく事などできはしない。
軍人上がりのユットナーや、ハウサーらなどよりも。もしくは、一般親衛隊に所属する多くの無法者たちのほうが、変幻自在に時代の変化に対応していけるのではないか。
「しかし、現実的な問題として強制収容所の不正は見過ごすことができる範囲を超えている。これ以上、彼らの問題を放置すれば、我々武装親衛隊首脳部の管理責任の問題と受け取られることになるのだと言っているのだ」
強制収容所総監から下は武装親衛隊の管轄だが、その強制収容所総監であるリヒャルト・グリュックスの上官であるオズヴァルト・ポールの経済管理本部は一般親衛隊となる。それらを考慮すると、強制収容所の問題に武装親衛隊側からもアクションを起こせると言うことになるが、今回のように悪い問題が持ち上がった時に武装親衛隊の兵士らの士気にも関わってくるということがまた大きな問題とも言えた。
「人の口に戸は立てられぬ。いずれ、噂話の類として強制収容所の連中の悪事が武装親衛隊の兵士らの間に広まるだろう。そう考えると、仮に強い不満が出るとしても組織の大きな改革は必要なのではないかと考えられるが」
理論的なハンス・ユットナーの言葉にテオドール・アイケは両目の間に深いしわを刻み込んで、これ以上不愉快なものはないと言いたげな目つきになった。普通の人間であれば、そんなアイケの表情に卒倒するだろうが、その場にいるのは政治の場において場数を踏んでいる親衛隊の高級指導者らだ。
もっとも彼らの中で一番高い地位にいるはずの男は、おろおろと言葉を交わしている四人の高級指導者たちを視線で追いかけていた。
「強制収容所の管理官共が、武装親衛隊員であるか、一般親衛隊員であるかという問題よりも重要なことは、彼らが堕落した生活を送っており、戦場で戦っている武装親衛隊の兵士たちと比較するとまず危機管理もなっていないことだ。なによりも、以前アイケ大将自ら指揮した”髑髏部隊”と比較してみれば、アイケ大将もわかるはずだ」
ユットナーは、アイケの感情に配慮する風もなくゆっくりと言葉を綴った。
こういった場合、正直、ヒムラーが役に立たないことはわかっている。
「アイケ大将の育てあげた”髑髏部隊”は今や立派なエリート部隊として成長した。しかし、今、強制収容所を管理する”髑髏部隊”はそうではない。もしくはアイケ大将の教えは守っているかもしれんが、彼らの行動を見ていればそうではないということはわかるはずだ」
テオドール・アイケが、ラインハルト・ハイドリヒから守ろうとし、そして全力で育て上げた強制収容所の管理部隊「髑髏」。それは、ヒムラーとヒトラーの号令を受けて、前線部隊のひとつとして選抜された。アイケもまた部隊が選抜されたことにより、強制収容所総監としての地位を辞して、現在の装甲擲弾兵師団長を拝命して今に至る。
それがそこにある現実だ。
「……なにより、我々武装親衛隊は、アイケ大将が支えた強制収容所の”労働力”に大いに支えられて発展を遂げることができた部隊でもある。それは、他でもないアイケ大将自身が知っているはずだ」
言葉をかみしめるように告げるユットナーの物言いは、アイケの自尊心を巧妙に持ち上げる。
テオドール・アイケ。彼が指揮したかつての髑髏部隊がなければ、当然のことだが今の髑髏部隊も存在しない。
過去と現在と未来は、折り重なるように繋がっているのだということ。
アイケの働きは決して無駄ではない。
「そういうことであれば、強制収容所の管理が武装親衛隊下に置かれようと、一般親衛隊下に置かれようと、そこにある志は何ら変わらないのではないかとも思われるが」
ハンス・ユットナーの説得めいた言葉にテオドール・アイケは、気難しい顔のままで黙り込んだ。
「武装親衛隊から、一般親衛隊に所属が変わったからといって、強制収容所の管理官らも崇高な理念を志したエリート部隊であることには違いない。仮に、その強制収容所の看守たちに不正が横行しているならば、エリート部隊であるからこそ厳粛に裁かなければならない」
アイケの勢いがおさまりつつあることを確認すると、ハインリヒ・ヒムラーは執務机の影に隠れるようにして椅子に身を沈めたままで四人の高級指導者たちの会話に割って入った。
「エリート部隊」というところを強調して、ヒムラーはちらりとテオドール・アイケを覗った。そうして、追いかけるようにハンス・ユットナーとパウル・ハウサー、そしてカール・ヴォルフを見やる。
これでまたアイケの怒りに火がついてしまえば、ヒムラーでは手に負えない。
いや、親衛隊高級指導者の中でヒムラーの手に負える相手などほとんどいない。虎の威を借る狐とはよく言ったものだが、まさにそんな印象さえ感じたほどだ。
「……――では、長官閣下。髑髏部隊に所属しているとは言え、罪なき者を裁くような真似だけはどうぞご考慮いただきたく思います」
不満そうではあるが、ヒムラーの言葉になにか納得したものでもあったのだろう。
「もちろん、罪のない者にまで罪を着せようなどとは思っていない。心配はいらん」
「了解しました」
武装親衛隊と一般親衛隊の差など些事でしかない。
そう言いたげなヒムラーの態度に、アイケは煮え切らない様子のままで同僚の大将たちを見渡してからソファの肘掛けに頬杖をついて憮然とした。
どちらにしたところで、すでにヒムラーによって下された決定は覆すことができないだろう。もっとも、今までのヒムラーであれば強く訴えれば、肝の小さな彼はすぐに折れたのだが。
こうしてテオドール・アイケの訴えも虚しく、順調に強制収容所の管理は武装親衛隊から一般親衛隊に移管された。
*
ヒムラーの前を辞したカール・ヴォルフは、重い靴音を鳴らしながら長い廊下を大股で歩く。
「……少佐殿!」
唐突に声が聞こえてカール・ヴォルフは顔を上げた。
聞き覚えのある青年のその声は、国家保安本部に所属する特別保安諜報部のアルフレート・ナウヨックス少尉のものだ。そして、彼が「少佐殿」と柔らかい声で告げるのはひとりしかいない。
ちなみに一般的には一介の少尉でしかないナウヨックスが上官でもある「少佐殿」に対して、礼を欠いた物言いをすればそれだけで処罰される対象になるだろうが、ナウヨックスの場合はそうではない。
スキップでもしていそうな歩調のマリーの後ろを追いかけるナウヨックスは、親衛隊全国指導者個人幕僚本部長官の姿を認めて足を止めるとさっとナチス式の敬礼をした。
「ヒトラー万歳!」
「……ハイル・ヒトラー」
片手を軽く上げて返礼をしたヴォルフは、ナウヨックスを見てから、ヴォルフの姿とナウヨックスの声に気を取られて見事に廊下の突き当たりの壁に激突したマリーに、親衛隊全国指導者個人幕僚本部長官はぐったりと肩を落とした。
いわゆる前方不注意だが、不注意にも程がある。
窓ガラスに激突する小鳥ではあるまいし。
鈍い悲鳴を上げてうずくまってしまった少女に怪我はないかと動揺するナウヨックスは、歩み寄ってきたカール・ヴォルフと床に座り込んでいるマリーを見比べた。
「大丈夫かね?」
「……はい」
鼻の頭を片手で押さえた彼女は涙目になりながらも顔を上げるとようよう応じて、ナウヨックスに支えられたまま立ち上がる。
「今日はヒムラー長官に用事かね?」
「はい、最近、あんまりお話ししていなかったので」
壁に激突した際の痛みをこらえながらマリーがほほえむと、ヴォルフは先ほどまで背中を向けて歩いてきた廊下の先に体を向けるとヒムラーの執務室を振り返って顎をしゃくった。
「閣下ならばまだ部屋にいるだろう。つい先ほどまで会議をしていたからな」
「はい、ありがとうございます。ヴォルフ大将」
「……それと、ちゃんと前を見て歩くように」
「はーい……」
床に転がったベレー帽を拾い上げて少女に手渡したカール・ヴォルフは、最後に苦言を付け足して「それでは」と言って彼女の前を立ち去った。
またマリーのお茶会だろう。
そんなことを頭の片隅で考えて。




