13 敵の敵は味方
圧倒的な暴力によって叩きつぶす。
そのことについて、「彼」は善悪の定義などしようとは思わない。そもそも「善悪の定義」などというものは、時代によって変わっていくものなのだ。おそらく、と「彼」は思う。今――現在こうして「良かれ」と判断されていることもまた、過去には違った定義付けをされていただろうし、これから訪れる「彼の知らない未来」もまた「そう」だろう。
時間とは冷徹に移ろっていくものだ。
ひとりの一生において、雄大なほどの時間の行く先を見極めることなど困難なのだ。
いっそ刹那的とも言えないことを考えながら、溜め息をつくと事務所の自分の机にぞんざいに上着を投げ捨ててから乱雑に椅子を引っ張り出すとどっかりと腰を下ろす。
彼がナチス親衛隊に所属していないのは、外国人であるからだ。民族的ドイツ人であるならばともかくとして、根本的に彼はドイツ人ですらない。
元々は、イギリスの特殊部隊の人間だったが、紆余曲折を経て強制収容所から国外諜報局長であるヴァルター・シェレンベルクに「救出」されて、国家保安本部に子飼いされて今に至っている。
ゲシュタポのハインリヒ・ミュラーなどは、彼に対して不信感を拭えない眼差しを向けてくるが、それをのらりくらりと交わして説得してくれているらしいシェレンベルクには頭が上がらない。
ちなみに彼の現在の上官でもあるアルトゥール・ネーベ親衛隊中将は、ハインリヒ・ミュラーほど気難しげな眼差しを向けるわけでもなければ、不信感を募らせているわけでもないからその点では気楽なところもあるのだが、どちらにしたところで一般の捜査官たちである親衛隊員たちからはやはり、ゲシュタポの捜査官同様に不審の眼差しを向けられていた。
もっとも、それについては彼もやむを得ないと自己完結している。
仕方がないのだ。
自分が元々、イギリスの特殊部隊にいたことは疑いようのない事実であったし、要するに彼らの敵であり、殺しあいを繰り広げた間柄なのだから。仮に自分が反対の立場であったとしても不信感を拭うことはできないだろう。
一度「裏切った」人間が、再び裏切らないと誰が信じるだろう。
――そういうことだ。
そんな状況であったから、彼は刑事警察局にあっても孤立していたし、特に親しい相手がいるわけでもない。親しい相手というと少し異なるが、かろうじてヴァルター・シェレンベルクが気兼ねなく言葉をかけてくる程度で、局長であるアルトゥール・ネーベもなにかを警戒してなのか、それほど彼と言葉を交わすわけでもなかった。
――キーン・マクナリー。それが彼の名前だった。
愛称はミッキー。
自分の名前がマクナリーだから、わからないでもないが正直なところを言えば「ドイツ人は馬鹿なんじゃないか?」とマクナリーは思う。
もちろん、彼の正式なコードネームは「ミッキー」などという単純なものではない。作戦の時に「ミッキー」などと呼ばれていたら、マクナリーが何者であるのか誰だって勘ぐりたくなるだろう。それはもっぱらプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセのみで呼ばれる彼の名前だ。
いつものように興味深そうな周囲からの視線を受けながら机に向かっているマクナリーは、ひきだしからファイルを取り出すとその間に挟み込まれた白黒の写真を凝視する。
後ろ姿で映っているのは国外諜報局に所属するヴェルナー・ベスト中将だ。かろうじてその横顔から人物の特定ができた。
根っからの特殊工作員ということもあって、キーン・マクナリーは人の顔を認識する技術に長けている。もっともそれは技術と言うよりはセンスと言った方がより近いのかもしれない。
相手が敵か味方かを瞬時に判断できなければ、自分の命が危険にさらされるという極限状態に常に身を置いてきた故に、彼のそうした器官は発達したと言ってもいいだろう。
ヴェルナー・ベストは確かに国家保安本部内でも重要人物のひとりだ。かつてはラインハルト・ハイドリヒの右腕とも、副官とも呼ばれ、現在のシュトレッケンバッハの前任として人事局長を務めた。
今の国家保安本部の安定の影にベストの尽力があったと言っても良いのかも知れない。
「……どこまで組織内の捜査に首を突っ込んでいいんです?」
マクナリーは数日前に自分を呼び出したネーベにそう問いかけた。
部外者であるとは言え、一応、国家保安本部の関係者として捜査を続けている以上、マクナリーが好むと好まざるとに関わらず、国家保安本部内の事情にも首を突っ込むことになる。それを示唆したマクナリーに対して、アルトゥール・ネーベは重々しく口を開いた。
「時と場合に寄るが、それが”問題”の解決のために必要なことであるならば、こちらで尽力してやろう」
明確な提示はしない。
それがマクナリーにとっては胡散臭いものに感じられて、わずかに目を細めるが彼の経験上、ネーベの口が重いときというのはそれ以上追及したところで意味がないことをわかっているため言及はしなかった。
「わかりました」
マクナリーにとって、ネーベの態度は理解不能なところが多々ある。元々、それほどつきあいが長いわけでもないが、第三者としての立場で物事を見ている彼にはどこか脈絡がないようにも見受けられた。
感じる違和感がなんなのか、マクナリーにはわからない。
それは恐ろしくかすかなもので、もしくは彼が「外国人」であるからこそ感じ取ったものであるのかもしれなかった。
ネーベの表情を思い出してから、キーン・マクナリーはやれやれと肩をすくめてから椅子に座ったままでふんぞりかえると腕を組んだ。
たまたまマクナリーが入手した写真の一枚。しかし、それを入手した先が問題でもある。彼が取り押さえたのは、日本大使館の関係者でポーランド系の満州人だ。満州国と大日本帝国の庇護があるため逮捕には至らなかったが、男から応酬した写真が問題だった。
車に乗り込もうとしている色素の薄い直毛の少女の後ろ姿と、その顔立ちを隠そうとするように広い背中で阻んでいる親衛隊中将のヴェルナー・ベスト。車の後部座席の扉を開いているのは親衛隊員の下士官だろう。
写真に写りこむ人物の冷静な鑑定をしてから、中央にかろうじて写っている小さな頭を凝視するとマクナリーは数秒考えを巡らせた。そしてすぐに男たちに守られるように写っている小さな頭の持ち主に思い至った。
国外諜報局、ヴァルター・シェレンベルク上級大佐の部下で、写真の隣にヴェルナー・ベストが写りこんでいるということは特別保安諜報部のマリア・ハイドリヒ親衛隊少佐だろう。
同じ写真が何枚あるのかもわからないし、ネガがどこにあるのかもわからない。もしかしたら、すでに写真はドイツの外に持ち出されたのではないかとも想定される。もっともその写真を見た人間がヴェルナー・ベストと共にいる少女に対して疑念を持つとも限らない。
しかし。
自分自身が特殊部隊の一員であり、秘密工作員でもあるという立場から考えた。
キーン・マクナリーの「過去の」上官とも言えるイギリス海軍情報部の長官、ジョン・ゴドフリーの例もあった。
疑問を持たない保障はない。
そしてドイツにはヴァルター・シェレンベルクが存在し、イギリスにはジョン・ゴドフリーが率いる情報部の猛者たちが存在するように、世界中に諜報関連の強者がひしめいている。
誰も彼も油断のならない相手であることをマクナリーは理解していた。
もしかしたら、自分が考える以上に巨大な組織が蠢いているのではないかとも思うと、なにやら背筋に冷たい汗が滑り落ちるのを感じ取った。
おもむろに椅子を鳴らして立ち上がったマクナリーに親衛隊員たちが視線を投げかけるが、そんなことには構うこともせずに靴音を高く鳴らすと、キーン・マクナリーは荒々しく事務所を出て行った。
「失礼します」
言いながら特別保安諜報部の扉を開く。そこは局長であるシェレンベルクの執務室ではないから、実のところ廊下からすぐの扉が室内へと通じていた。
入ろうと思えば誰でも入れるのだが、正式な来訪の場合、秘書を通すのが慣例だ。マクナリーはぶっきらぼうにそんな慣例を蹴り倒して、ノックを鳴らすと室内からの返事を待たずにドアノブを回した。
よくよく考えれば無礼極まりない行為ではあるが、マクナリーは気にしない。ちなみにマクナリーは気にしなくても、特別保安諜報部長の首席補佐官と次席補佐官は、扉が開く音に同時に首を回した。
「確かに失礼だな」
ぶっきらぼうな物言いをするヴェルナー・ベストに怖じ気づくこともせずに、にやりと口元で笑ったマクナリーは、ひらひらと手にしている白黒写真を振って見せた。
「シェレンベルク上級大佐にはすでに通してありますが、ご存じですかね?」
からかうような「外国人協力者」の口調に、ベストは「む……」と呟くように言いながら、マクナリーに対して長い右腕を差し伸べる。暗に「寄越せ」という意思表示に、キーン・マクナリーはベストやヨストには写真が見えないように裏面だけを示して見せてからゆっくりと主人のいない執務机の前まで歩み寄った。
特別保安諜報部長のマリア・ハイドリヒがプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセの中を飛び回っているのはいつものことだから、マクナリーも気にしない。彼女がオフィス内を飛び回っていると言うことは、彼女の執務室がいつも空であるということなのだ。
「中将閣下の失態ですな」
意味深なマクナリーにベストは不愉快そうに眉尻をつり上げて、彼の差しだす写真を奪い取る。
そうしてそこに写るふたつの後ろ姿に表情を曇らせた。
「シェレンベルク上級大佐はすでに知っているというのは本当か」
「えぇ、一応ネーベ中将にも報告済みです。おそらく国家保安本部長官のところにも届いているとは思いますが」
シェレンベルク辺りが、写真程度の流出であれば問題ないと考えているのだろう。
マクナリーはそう考えた。
八月の半ばに起こったマリーに対する傷害事件に関してもそうだが、ベルリン市内にいることが多いからとはいっても「絶対に」情報が流出しないという保障などありはしない。
「閣下もご存じかと思いますが、わたしはイギリスの秘密情報部にいました。あちらの上層部では明確な個人の特定こそされていませんが、ドイツの”無名の”大物諜報部員がいることも把握しています。そうしたことを考慮すれば、彼らは些細なことでも情報の一部として収集しているかとは思われますが……」
まだ続きそうなマクナリーの言葉をベストは片手を上げて遮ると、不機嫌そのものと言った表情のままで手にした写真を睨み付ける。
おそらく公用かなにかで移動するときに盗撮されたものだろう。
マリーはあどけない。
だからこそ、所属を示すものを身につけないで街中を歩いている分にはそれほど危険が大きいわけではない。危険が大きいのは、やはり国家保安本部の一員として動いているときだ。そして、彼女の正体が「敵」に知られることとなれば厄介なことになるだろうというのが、国家保安本部に所属する多くの人間たちの認識するところだ。
神経質に写真を手にしていないほうの手の指先が首の後ろを軽くたたいている。
キーン・マクナリーが言うように失態だった。
けれども彼女と行動するときに、外部の人間に見られずに行動することなどできるわけもない。たとえどんなに厳重に神経を配ったとしても、だ。
「もちろん、わたしは閣下を咎めるつもりなどありませんし、そんな権利もありません」
飄々と告げたマクナリーは、首を傾げてから言葉を続ける。
「社会生活をする以上、誰にも見られずに生活することなど王室の人間だって不可能ですから」
そうだとしても慰めの言葉にもならないマクナリーの言葉に、黙り込んでしまったベストに対してハインツ・ヨストが立ち上がると問題の写真を覗き込んだ。
「確かに、親衛隊員と共に写っている女性が何者であるのかは勘ぐりたくもなるだろうな」
ヨストは元国外諜報局長でもある。
万が一、その写真が流出しそれを諜報機関の人間が見たらなにを感じるか。いや、普通の人間でも勘ぐりたくなるかもしれない。
ベストの横顔や、親衛隊員の表情はとても不審人物を連行する人間のそれではないし、荒々しさもない。黒塗りの公用車も一般の捜査官たちが乗っているようなものではないことは誰でも見て取れる。
一枚の写真から得られる情報は膨大だ。
「それで、この写真がどうかしたのか?」
ハインツ・ヨストはマクナリーの発言を促すと、ヴェルナー・ベストも顔を上げる。
「単刀直入に言いますが、この写真に関して国内にスパイが潜入したと思われます。現在、刑事警察のネーベ局長に協力をいただいて捜査をしていますが、どうもスイスが一枚噛んでいるようです」
「……スイス?」
永世中立国のスイス連邦。
「正確にはスイス政府が絡んでいるわけではありません。連合国の諜報機関が動いているらしいという”連絡”を受けました」
スイスは敵ではない。……が、味方でもない。それが国家保安本部の見解だ。スイス政府はどうやら連合国側に傾いている嫌いがある。
「まぁ、わたしにとってはスイスのことなどどうでもいいんですがね。とりあえず、……あぁ、いえ、なんでもありません」
コホンとわざとらしい咳払いをしてからマクナリーは笑うと、ひらひらと片手を振った。
「とりあえず、先方がその写真に興味津々だとすれば、遠からずあちらから接触してくると思われます」
「根拠は?」
ヨストが尋ねた。
「スイスにいる情報提供者から、連合国の……――フランス情報部の諜報部員がドイツに向かったらしいと言う情報を得ました」
そこまで言ったキーン・マクナリーは、探るような眼差しのベストとヨストを見やってからさらに続けた。
「安心してください、わたしは少なくとも敵ではありません。……今のところは」
「敵の敵は味方、ということか」
「さて」
低く笑ってから軽く会釈をすると踵を返した。
「わたしもわたしの目的のために、尽力しますのでお気遣いなく」
パタンと音を立てて扉が閉まったことを確認してから、写真を手にしたままでヴェルナー・ベストは舌打ちした。
「あの”アイルランド人”が」
苦々しく独白した彼は乱暴に執務机の上に置かれた内線電話の受話器を上げると、通話口に向かって苛立たしげに怒鳴りつけた。
「マリーを捜して連れてこい」




