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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XIII 失楽園
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10 変転する事象

 腕時計の文字盤を見つめてからマイジンガーは溜め息をついた。

 ゲシュタポの部長が言うように、確かにそろそろ多くの人間が帰宅の途に就く時間だった。先日の会議の連続で復帰したばかりのマリーはすっかり参っていたようだが、それはそれで彼女の仕事なのだから仕方あるまいとも思う。

 そんなことよりも、とヨーゼフ・マイジンガーは思考を巡らせた。

 カレンダーはすでに十月に切り替わり、北方では冬将軍の足音が聞こえはじめる頃となる。ソビエト連邦との戦争は事実上終結し、これによって英米仏の連合各国は徹底抗戦をせずに講和を受け入れたことと、このような時期に軍事クーデターを引き起こしたことは重大な犯罪であると主張した。

 もっとも、国家元首であったヨシフ・スターリンが雲隠れしてしまったため、政権の維持も必要とあって、新政権の成立を渋々認めていたが、それらの国の間に横たわる溝は非常に深くなった。とは言っても、ソビエト連邦を強く非難しているのはイギリスのみで、アメリカ合衆国に至っては国内世論の動揺によってドイツ、及び大日本帝国の枢軸連合との交戦に対してひどく及び腰になり始めてもいる。

 ざっと国際的な動向に考えを巡らせてから、赤い警察犬を連れたマリーが歩いてくるのを視界の片隅で捕らえた。

 彼女の身辺警護のために局内に配置された優秀な警察犬。犬嫌いのマリーだが、一ヶ月以上立つ頃にはどうにかこうにか、その存在に慣れたようだ。だが、犬という動物の性質を考えると、「主人に褒められるようなことをしているのに撫でもしない」というのはどうなのだろう。

 マイジンガーはそんなことを考える。

 もっとも、それでも優秀で機転の早い警察犬の赤号(ロート)は、マリーが自分と距離を取りたがっていることもわかっているのか、必要以上に近寄ったりするようなことはない。これでは、人間よりもずっと頭が良いのではないかとマイジンガーは思った。

「帰りかね? マリー」

「はい」

 言いながらマリーはにっこりと笑う。

「風邪をひかないようにな」

 しばらくの長期休暇でいささかふくよかになったように感じられたものの、世間一般的な視点から見ればマリーはまだ痩せている。そんなことから、多くの捜査官たちから「ヤセギス」の扱いを受けているがそれについては、マイジンガー自身も多いに同意せざるを得ない。

 いくらか医療が進歩したとは言え、体力のない者は病気のリスクを高める。こと、長い冬期ではその危険性はさらに高まった。

 ドイツの冬は長く厳しい。

 そこまで考えてから、マイジンガーはそっと眉をひそめた。

 一九三九年の半ばから昨年の半ばまでの二年もの間に行われていたT4作戦アクチオン・ティーファ。マイジンガーは、少し前にカール・ゲープハルトにT4作戦について問い詰めたことがあった。

 問い詰めたとは言っても、噂話のついで程度に口にしただけだ。

 そのことがヨーゼフ・マイジンガーの琴線にひっかかった。

 当時、マイジンガーはポーランドのアインザッツグルッペンの指揮官代理として赴任しており、ドイツ国内の状況については余り詳細に知らない。しかし、その間に行われたT4作戦のことを考えるといくつか疑問点が残る。

 確かに、医学的に明かな障害などがないならば、作戦の対象になるわけもない。だが、彼女の体格から鑑みるに、普通の医師であれば彼女に次代を引き継ぐ能力があるのだと考えるだろうか?

 それらのことを淡々と考えていたヨーゼフ・マイジンガーは、探るような視線を感じて、はっとしたように顔を上げた。

 ”マリー”が彼を見つめている。

「……マイジンガー大佐」

 少女の桜色の唇が動いた。

 それはまるでスローモーションのようにマイジンガーの瞳に焼き付いて、彼の内側をえぐり出す。

「――……マリー?」

「余分なことは考えなくていいんですよ」

 余分なことは追及するな。

 余分なことに首を突っ込むと言うことは自分の身を滅ぼすことなのだ、と。

 ――自分の生命(いのち)が惜しければ、引き際を見極めろ。

 なにを告でもない少女の青い眼差しに、ヨーゼフ・マイジンガーはぎょっとしたままで背筋を正した。背中を冷たい汗が流れ落ちていくような感覚に、マイジンガーは言葉を失っている。

 マリーと呼んだ彼の声は掠れていた。

「ね……?」

 言いながら少女は小首を傾げると、口角を引き上げるようにしてほほえんだ。傍目に見ているだけならば、彼女がただ子供らしくほほえんだだけのようにも見えるかもしれない。けれども、今、マイジンガーの目の前にいる男は「何」だろう。

「”わたし”に”わたし”の役割があるように、マイジンガー大佐にはマイジンガー大佐の役割がある。たったそれだけのことで、ただそれだけのことを小難しく考える必要なんてないんです」

 この世は、”主”の回す手回しオルガンみたいなものだって、”彼”も言ってたじゃないですか。

 にっこりと笑顔を浮かべる少女の不気味さに、マイジンガーは思考を停止させた。これ以上、彼女の内側を見透かそうとするのは危険だと、彼自身の本能が告げていた。

 人には、決して触れてはならない領域が存在していること。

 ぶるりと背中を震わせてから、ヨーゼフ・マイジンガーはぎこちなくマリーに対して笑顔を向けた。



  *

 カール・コッホを含む一味の悪行はコンラート・モルゲン率いる警察部隊の手によって暴かれた。

 そこで行われている横領や汚職たるや眉をしかめるもので、それらが国家保安本部の手によって大々的に公表されるや否や、武装親衛隊の司令官たちから大きな非難の声が上がった。

 自分たちと同じ武装親衛隊に所属していながら、彼らは強制収容所という環境にあって怠惰と享楽に溺れて過ごしている。対して、フランスで訓練を続け、あまつさえ東部戦線で命のやりとりを行い、戦友を亡くしてきた武装親衛隊の「兵士」らにとってみれば、とてもではないがこれらの汚職は許されるべきものではない。

「屑は所詮屑でしかない」

 むっつりとした武装親衛隊の作戦本部長官ハンス・ユットナーは、仏頂面のまま兄のマックスにぼそりとこぼした。

 そんな六歳年下の弟を無表情で眺めてから、チコリの代用コーヒーを煎れながら兄のほうは首を傾げた。

「噂ばかりでなんだが、ハンス」

 意味深な物言いをする突撃隊参謀長の兄にハンスはちらと視線をあげてから、兄の差しだすコーヒーカップを受け取った。

「”突撃隊(うち)”の大将から聞いた話だが……、あぁ、世間話の噂程度と思ってくれて構わんが」

 付け足すようにそう言ってから、リビングのソファに腰を下ろしたマックスは顎を片手の平で撫でてから数秒考え込んだ。

突撃隊(SA)の、というとルッツェ大将ですか」

 ハンス・ユットナーも常々、突撃隊幕僚長のヴィクトール・ルッツェがヒムラーのナチス親衛隊に対して面白くないものを感じているのは知っている。ちなみに、ルッツェのほうは、一般親衛隊アルゲマイネ・エスエスに所属するマリア・ハイドリヒのことを大変かわいがっているが、それについてはマックス・ユットナーとハンス・ユットナーが兄弟として溝がない事実と大差がないことであるため、あくまでそれは個人的なこととして言及しないことにしている。

 個人的なことに対してまでいちいち疑いの目を向けていたら、自分も親衛隊情報部の無法者と変わりがないこととなるだろう。

強制収容所(KL)にある一部の作業所の管理業務を改めるらしい」

 ハンスの口から出た強制収容所に関係する話題に、思い出すことがあったのだろう。マックスはのんびりとまずい代用コーヒーの口に含みながら長い足を組んでいる。

 彼らにとって強制収容所というのはあって当たり前の存在であって、それが存在することについてなにか思考を巡らせられるものでもない。

 強制収容所など、昔から存在していた。

 ただそれだけの存在で、さらに言えば彼らにとっては自分とは関係のないものとした上で、噂に聞こえる強制収容所の看守たちの悪行を考えると距離を取りたいところだった。もちろん、突撃隊参謀長であるマックスと親衛隊作戦本部長官のハンスではいかに距離を置きたいと考えたところで距離を置けるわけもない。

「ハンスには、同じ武装親衛隊ヴァッフェン・エスエスだと考えると、不愉快なこと甚だしいだろうがな」

「……嫌なことを思い出させないでください」

 ただでさえ報告書に記されていた強制収容所の看守たちの悪行を考えると反吐が出るというのに、その不快感に拍車をかけているのは彼の指揮下にあるかつての強制収容所総監であり、現在の第三SS装甲師団「髑髏(トーテンコップフ)」の指揮官でもあるテオドール・アイケの猛烈な抗議と釈明がハンス・ユットナーを不愉快にさせた。

 結局のところ、自分の息の根のかかった強制収容所の管理官たちを擁護しようとしているようにしか見えないというのはハンスの穿った見方なのかもしれない。しかし、そんなことはどうでも良い。

 規律の乱れは正さなければならない。

 そうしなければ今後も同じようなことが繰り返されるだろう。

「それで、その今後の強制収容所の管理については武装親衛隊の管轄下から外れるそうだ」

「ふむ……、それはそれは」

 それはまたアイケが強硬な反発をしそうなものだが、と思いながら首を傾けるとマックスはそんな弟に気に掛けることもなく言葉を続けた。

「現在、強制収容所の看守共は武装親衛隊の管理下に置かれているが、その所属は今後一般親衛隊の身分として切り替えられるらしい。これについては、強制収容所の所長共がえらく反対をしているらしいが、この音頭をとったのが国家保安本部のカルテンブルンナーと法制局のフランツ・ブライトハウプトらしい。もっとも、だからといって別に強制収容所の利権を国家保安本部が狙っているというわけでもないらしくてな、この管理については正式にポールの経済管理本部に移管されるとかされないとか。カルテンブルンナーの真意は知らんが、ブライトハウプトはこれにゴーサインを出したらしい」

「……なるほど、数年前のハイドリヒとアイケの間で起こったもめ事の折衷案といった感じですね」

 ところでどうして突撃隊参謀長である兄が、親衛隊作戦本部の長官である自分よりも親衛隊の内情に詳しいのだろうか。

 ハンス・ユットナーがチコリのコーヒーを口にしながら、当たり障りのない切り返しをしつつ考え込んでいると、兄のマックスは爆弾を落とした。

「先日、マリーと一緒にカルテンブルンナーが突撃隊本部まで来てな。こちらが聞いたわけでもないのにべらべらと機嫌良さそうにルッツェに話しをしていったからな」

「いつの間にそんなに仲良くなったんです」

 誰と誰が、とハンスは言わない。

 マックスのほうもそのときはさすがに驚いたが、彼らふたりの間にマリーという少女の存在があることになぜか納得した。

 彼らを結びつけているのは互いの利益でもなければ謀略でもない。

 ただひとり――華奢でヤセギスの少女なのだ。

「もっとも、真相はルッツェがマリーと話しをしたかっただけらしいが」

 タバコに火をつけながらそう言ったマックスの憮然とした表情に、ハンスは思わず声を上げて笑ってしまった。

 マリーの素質ならば、ハンス・ユットナーもよく知っている。彼女は他意もなければ罪の意識などかけらもなく大人たちの間を自由に行き来していた。時に、その危機感のなさに眉をひそめるほどだが、それでも子供らしくあちらこちらに余分な好奇心を抱いていることがほほえましい。

 要するにマックスの言葉を借りると、マリーと話しをしたかったヴィクトール・ルッツェが彼女の上官である国家保安本部長官のカルテンブルンナーに打診をしたことによって、保護者付きでマリーが突撃隊本部を訪れたというあたりのいきさつなのだろう。

 たびたび彼女がヴェルナー・ベストや、ハインツ・ヨストらと突撃隊本部を訪れていたらしいが最近では余り音沙汰がなく、「お父さん(ファティ)」的には愛娘の顔が見れなくて寂しかったというところかもしれない。

「まぁ、カルテンブルンナーがどこまでハイドリヒの陰謀を再現しようとしているかはともかくとして、強制収容所(KL)国家保安本部(RSHA)の指揮下ではなく、経済管理本部(WVHA)の指揮下に正式に移されるということは朗報かと思います」

「そうだろうな、組織の資金繰りを管理する部署なぞふたつもいらんからな」

 そんなことを言うマックスに、ハンスは静かに頷くとコーヒーの黒い水面を見つめたままで、やがて深刻な眼差しになって眉間を寄せた。

国家保安本部(RSHA)と言えば、ひとつ気にかかることがあるんです。兄貴」

「……うん?」

「いえ、親衛隊情報部のほうで特殊部隊を設立するという動きが見られており、これを我々の方でも承認するにはしたのですが、彼ら……――SD共の目的が見えてこない。奴らはなにを目論んでいるのか」

 独り言でも言うようにぶつぶつと呟いたハンスに、兄は靴音をかすかに鳴らして立ち上がると窓際へと歩み寄ってガラスの向こう側を凝視した。

「ハイドリヒの後継者、か……」

 ヴァルター・シェレンベルク。

 人当たりの良い穏やかな青年だ。

 彼が何を考えているのかわからないのはハンスだけではなかった。マックスもまた彼の真意がどこにあるのか理解などできるわけがない。

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