8 看過の罪
――この世の地獄を予見する。
その地獄とはいったい何なのだろう。ユダヤ人たちを含めた、異民族やロマニーのことか。それとも、地獄に突き落とされるべきはドイツ民族なのか。
後世の人間は、彼らに対してこう言うかもしれない。
「残虐な殺戮であるということを知りながら黙認したのだ」
そう言うだろう。
だけれども、「知って」いてどうなるというのだろう。国家とは決して一枚岩であるわけではないし、ただひとりの考えが国策を左右するわけではない。それは得てして大きな意識の集合体とも言えるだろう。
人間がありとあらゆる表情を持つように、国家という巨大なモンスターは同様に悪魔の表情を見せることもあれば、天使の表情をも覗かせる。そこには「一個人」の思惑など「存在し」ない。
時の流れに人間が介入することができないように、その存在は「全くのゼロ」である。
けれども人というものは、そんな時代の変化、あるいは事象の変化に対して順応しながら生きていくもので、思う以上にその心は柔軟性に富んでいる。
人が人として生きるためには、必要なこと。
人が生きていくためには必要なこと。
がちがちに凝り固まったものは、いずれ崩れて壊れてしまうだろう。
じっと手元にあるプロパガンダも甚だしい新聞を凝視しながら、自宅の書斎で黙り込んだまま考え込んでいた。
ナチス党の党首にして、国家元首であるアドルフ・ヒトラーは危険極まりない男だ。
本人にどれだけ政治的能力があるかどうかはともかくとして、彼の取り巻きである過激派共は更に厄介だ。
アドルフ・ヒトラーとその側近たち。それらを見ていると、まるで打ち合う鐘かなにかのようにも思えてくる。過激な発言は、過激な発言に粉飾されて、やがて取り返しのつかないところまでたどり着いてしまうのではないだろうか。そんな懸念に青年は眉をひそめて新聞の見出しを睨み付けた。
四年前――まだ戦争がはじまる前のことだ。
ハンス・ベルント・ギゼヴィウスは、当時の陸軍参謀本部総長であったルートヴィヒ・ベックに賛同し、クーデターの計画に加わりもしたが、それらは結果として実行に移されることはなかった。
「四年、か」
ラインハルト・ハイドリヒがこの六月に死んだ。
彼の死はドイツにとって非常に大きなものだったのではないか、とギゼヴィウスは考える。
ハイドリヒという男が、悪名高い親衛隊長官のハインリヒ・ヒムラーの腰巾着だったとは言え、本当の意味で傀儡だったのは果たしてどちらだったのだろう。少なくとも、ヒムラーなどよりもずっと影響力の大きな男であったし、古来から言われるように、毒というものは時として薬にもなるものなのだ。
扱い方さえ間違わなければ、ラインハルト・ハイドリヒは反ヒトラー派にとっても重要な人物になるはずだった。
ハイドリヒには、思想や善意など存在していない。
ただ恐ろしいほど利己的に、自分の野心に対して率直であるだけのことだ。そうしてその「才能」をたまたま親衛隊長官のハインリヒ・ヒムラーに供与していただけのこと。ただそれだけのことと考えると、不意にギゼヴィウスは末恐ろしいものを感じてぞっと背筋を震わせた。
ドイツ第三帝国は決して一枚岩ではない。
ラインハルト・ハイドリヒの一派のように、自分の野心の行く先にしか興味のない者たちもいることは百も承知だった。
そういえば、とギゼヴィウスは思い出して首を傾げた。つい最近、問題のルートヴィヒ・ベックの自宅に国家保安本部に配属されているという「小娘」が預けられていたらしい。ギゼヴィウスが彼女を見かけたのはたった一度だけ――しかも窓越しに見えただけ――であるが、知己でもあるアルトゥール・ネーベの言を借りれば、国外諜報局に所属しているものの「素直で良い子」だと言うことだった。
彼女は、アドルフ・ヒトラーの周辺に対する一斉摘発を行い不穏分子を根こそぎ排除するに至った。
どれだけ危険な人物なのか。
そんなことをギゼヴィウスは考える。
ギシリと椅子を鳴らして立ち上がった彼は、部屋の隅のチェストの上に置かれている電話の受話器をおもむろに取りあげてから、そのままの姿勢でダイヤルを回そうとしてから再び考え込んだ。
目の前にちらつくのは、青い瞳だ。
いったいその瞳が誰の所有物なのかと、思い出すまでに数十秒の時間を要した。考え込んだまま、青い瞳の所有者を思い出したギゼヴィウスはぎょっとしたようにダイヤルを回しかけていた指を止めると、やや乱暴に受話器を戻す。
神経質で不快な音が書斎に鳴り響いて我に返った彼は、改めて室内を見回すと深く大きな溜め息をついた。
あの瞳は、「狩人」の瞳だ。
腕時計のベルトを締め直すと、ギゼヴィウスは片腕にスーツの上着を引っかけたままで大股に自宅を出ていった。
現状、どこでなにが画策されているのかはわからない。
しかし、国家保安本部の。
今は亡きラインハルト・ハイドリヒが育て上げた諜報部員たちの情報収集能力は未だに健在で、それは恐れるに足るものだった。
決して隙を見せてはならない。
それからしばらくして、ティルピッツ・ウーファーにある国防軍情報部のハンス・オスター大佐を訪れたギゼヴィウスは、辺りの様子を窺うように室内を見渡してから、薦められたソファに腰を下ろした。
ハンス・オスターは国防軍情報部長官を務めるヴィルヘルム・カナリスとは異なり、長身で痩せ型の彼はハンサムで、どこか用心深そうな眼差しが彼を思慮深く見せている。
「珍しいものがあるものですな、ギゼヴィウスさん」
向かいのソファに腰を下ろしたオスターが静かにほほえむと、ギゼヴィウスは視線をテーブルの上に落としてから沈黙する。
情報組織に所属するハンス・オスターが、ギゼヴィウスに対してどこまであけすけに物事を告げるかはわからない。しかし、オスターはおそらくギゼヴィウスがどんな立ち位置にあるのかを知っているはずだった。
「スイスに”滞在中”の”ご友人”はお元気ですかな?」
タバコに火をつけながらオスターがそう切り出すと、どこかこわばった面持ちのままでギゼヴィウスは「えぇ」と頷いた。
「それで、スイスのご友人は、話がドイツの国内事情をどこまで把握されているのです?」
婉曲的なハンス・オスターの言い回しに、ギゼヴィウスは思考を巡らせる。
諜報組織の人間というのは見事なものだ。そう彼は思った。カナリスにしてもオスターにしてもそうだが、ギゼヴィウスの知己とも言える国家保安本部の刑事警察局長――アルトゥール・ネーベも同様に、顔色ひとつ変えずに謀略めいた言葉を口にする。
もちろん彼らはそうした技術を生き残るために現場で磨いてきたというところも強いだろう。しかし、それでも多くの人間が「後ろめたい謀略」に顔色を変えないでいられるわけではない。
「……あぁ、そうですね。例のベーメン・メーレン保護領で起こった事件については強い関心を寄せているようです」
「なるほど」
短く応じながらオスターは首を傾げるとソファの肘掛けに肘を突いたままで目の前の空間を見つめるとしばしの間なにかを考えている。
「こういった不安定な時期ですから、さぞや”ご友人”もドイツ国内の情勢を”気に掛けている”のではありませんか?」
不気味なことこの上ないのは、アドルフ・ヒトラーを含む政府高官のことでもなければ、彼らに追従する国防軍高官たちのことでもない。ヒムラーの指揮するナチス親衛隊の動向こそが不気味なことこの上なかった。
言ってみればハインリヒ・ヒムラーなど、ナチス親衛隊の数多い知識人たちの傀儡でしかない。親衛隊知識人にとって幸いだったことは、彼ら自身に好き勝手に振り回されていながら、そのことに愚鈍なヒムラーが今ひとつ深刻なものを感じていなかったという点だ。
要するに、危険なのはハインリヒ・ヒムラーではなく、ヒムラーの背後に控えている親衛隊知識人なのだ。
「ベーメン・メーレン保護領と言えば、今は実権を握っているのはクルト・ダリューゲでしたか」
突撃隊上がりの無能者。
それがオスターのダリューゲに対する評価だ。
この男は、かつての国家保安本部長官であったラインハルト・ハイドリヒの生前から、国家保安本部とは警察権力的なところでも対立を激しくしていて、常にどうすればハイドリヒの寝首を掻くことができるかと画策しているような男だった。もっとも、そんなダリューゲはハイドリヒなどと比較すれば頭の足りない小者でしかない。
良かれ悪しかれ、ラインハルト・ハイドリヒはカリスマだった。
残念であったのはハイドリヒが敵だったことだ。もしも彼が味方であれば、どれほど頼りになっただろう。
「”例の事件”の後の”奴ら”のやり口はどうにも好きませんな」
「まったくです」
一連の捜査の指揮を執ったのは、親衛隊及び警察高級指導者を務めるカール・フランクであるという話しだったが、それにしたところで伝え聞いた強制捜査はやり過ぎだ。おそらく生前のハイドリヒが積み重ねた懐柔政策を一瞬で無に返したことだろう。
感情論で物事を語る趣味はないが、愚鈍なフランクは理解などしていない。自分の命令がなにに火をつけてしまうことになったのかを。
はたしてそんなカール・フランクと、クルト・ダリューゲのどちらがより優秀だろう。
「そういえば、”これも”噂ですが”連中”がどうやら”組織”の拡大を図っているらしい」
「しかし、噂なのでしょう? 大佐」
「無論、ただの噂でしかありません」
おそらく本当にまだただの噂の段階でしかないのだろう。ギゼヴィウスもアルトゥール・ネーベからはなにも聞かされていない。仮にネーベが国家保安本部内の動向を多少は把握していたとしても、確実性のある話しでない限りギゼヴィウスに流すことはしないだろう。
「時に、シャハト閣下はお元気か?」
不意にオスターが話題を変えた。
「まぁ、相変わらずと言ったところですか。なにせ、閣下は総統閣下の覚えがあまりよろしくありませんから」
老練なかつてのドイツ帝国銀行の総裁は、ナチス党と現政権がの推進する反ユダヤ主義に対して余り好感を抱いていない。たびたびヒトラーと衝突を繰り返し実質的な権力を失って今に至っている。
「正常な人間ばかりが割を食うようでは、この国の未来もたかが知れていますな……」
ぼそりと小さくつぶやいたオスターに、ギゼヴィウスはひどく悲しげに笑う。
――あの男は狂っているのではないか。
時にギゼヴィウスはそんな思いに捕らわれた。
そうして、狂った男の過激な演説の前に、多くの人間たちの良心がかき消されていく。それこそ、揺らめくろうそくの炎が消えていくように。いつかは声すら上げられなくなるのではないか。
そんな懸念に胸が押しつぶされそうな感覚さえ覚えてならない。だからこそ、この負の連鎖をどこかで断ち切らなければならないと思うのに、それがうまくいかないのだ。
「あの方も、そろそろお年を召しているからな。若い連中たちのように声を荒げるわけにもいきますまい……」
「はい、ですが、閣下の名声は小さなグループのそれぞれをまとめて行くには有効です」
著名な人間が声を上げているとなれば、及び腰になっていた小さなグループの者たちも声を上げやすい。そしてその声がドイツ全土を覆ったときにこそ、ヒトラー政権を転覆させる力とできるのではないかとオスターらは考えた。
だからこそ、ハンス・オスターは自分の身の危険を承知で各々の反体制派組織を結びつけるための工作員的な役割を担っている。それがゲシュタポの捜査官たちに察知されれば一貫の終わりだ。
そんなことはわかっている。
「とりあず、スイスのご友人には未確認の情報を流さないよう心がけてくださればありがたく思います」
「わかっています、オスター大佐」
アドルフ・ヒトラーを倒さなければドイツに未来はない。
仮に戦争に勝ったとしても、ユダヤ人たちを含めた異民族やロマニーなどに対して行った殺戮行為の現実は、ドイツという国家の名誉そのものに禍根を残す。
ドイツの名誉はアドルフ・ヒトラーによって「絶滅」させられるだろう。
だからこそ、戦わなければならない。
彼らの行う無辜の人々に対する残酷な行為を、告発しなければならないのだ。
それがドイツの知識人としての「責任」だと、ギゼヴィウスはそう思っていた。




