7 策謀
――なるほど、面倒臭い仕事を押しつけられたものだな。
国家秘密警察局の局長ハインリヒ・ミュラーは片手で口元を押さえるとぽつりと呟いた。
寡黙な中間管理職のゲシュタポ長官は、切れ者で知られている。もっとも、つきあう友人は選ぶべきではなかろうか、とも思うのはヴァルター・シェレンベルクだが。
つきあいに問題のあるミュラーの友人。
ヨーゼフ・アルベルト・マイジンガー。シェレンベルクの記憶では、マイジンガーは一九三三年三月にナチス親衛隊に入隊した。正式に党員になったのはこの年の五月で、この辺りのいきさつはシェレンベルクと逆である。もっとも、シェレンベルクは先に入党してたものの同じ日付でナチス親衛隊に入隊していたから逆もなにもないのではあるが。
マイジンガーは一九三九年のポーランド戦役において、アインザッツグルッペン四隊の指揮官代理を拝命し、占領地区のポーランド、その首都ワルシャワで多くの指導者階級の殺害に関与した。しかし、このやり方に問題があり、あまりにも残忍な方法を好んだため、上官ラインハルト・ハイドリヒのみならず、この副官でもあるヴェルナー・ベスト博士からも不快に思われていた面がある。
ちなみに、マイジンガーに陥れられそうになったのはシェレンベルクも同じだ。
危うく弱みを握られて脅迫を受けたものだ。
ワルシャワでの蛮行によって日本の大使館に左遷されることになったのだが、おそらくマイジンガーの持つ残忍な性はさして変わっていないだろう。
というのは、同盟国の大日本帝国の大使館からの情報では、余り積極的ではない日本政府のユダヤ人政策に業を煮やして、この占領下に置かれていた上海でユダヤ人の始末を日本領事に提案したらしいが、一九三八年当時にすでに日本政府がユダヤ人迫害に荷担しないことを五相会議において決定されたため、マイジンガーの提案は却下されたらしい。
要するに、マイジンガーの行動の根源にはドイツ首脳陣へ対するおべっかしかないのである。
それがまたシェレンベルクなどには鬱陶しいものを感じさせる。
そんなマイジンガーを友人としていたミュラーですら、時折彼の野蛮な残虐さが鼻につくらしく悪態をついていたことを思い出した。
「宣伝省の大臣はおそらく、自分がまき散らしたわけではない噂で思わぬ方向へと事態が動くこと懸念されているのだとは思われますが。ミュラー局長はどのように思われますか?」
少なくとも、ゲシュタポの長官にまでのし上がったミュラーは、いささか官僚的なところはあるもののヨーゼフ・マイジンガーなどよりも遙かにましな警察官だ。
一九三三年まではナチス党に対する反対勢力として活動していたが、彼がミュンヘン警察の政治部を運営しているといった関係から、ヒムラーやハイドリヒと知り合うきっかけとなった。
もっともこのナチス党の反対勢力であったという過去もあり、一九三九年にやっと入党を許されるのだが、それはそれでシェレンベルクにはどうでも良い話しだ。
党への忠誠心。
そんなものは犬にでも食わせてやればいいというのに。
内心でシェレンベルクはそんなことを考えてから、訪れたゲシュタポ長官の部屋で今ひとりの人物を待っている。
「……遅くなってすまない」
「いえ、こちらものんびりとしたものですからお気遣いなく」
扉が開く音と同時に、放たれた声にシェレンベルクは振り返りながら微笑した。
これで室内に三人の男たちがそろった。
第六局――国外諜報局局長ヴァルター・シェレンベルク親衛隊大佐。
第四局――国家秘密警察局長ハインリヒ・ミュラー親衛隊中将。
第三局――国内諜報局局長オットー・オーレンドルフ親衛隊少将。
諜報局のふたりの局長が同じ場所で顔を合わせることなど珍しいことだった。それほどまでに彼らは仕事に忙殺されている。
尚、その場にいる三名の中のうちふたりはアインザッツグルッペンの司令官を拝命していない国家保安本部でも珍しい高官だった。
「全く、ミュラー中将とシェレンベルクが羨ましいものだ」
溜め息混じりに告げたオーレンドルフにシェレンベルクは苦笑した。
「そうは言っても、本官もなかなか無茶振りされることが多いですから、その辺りはどうなのでしょうか……?」
シェレンベルクが関わった諜報活動は数知れない。
「それに、国内諜報局長がいらっしゃらないとこちらに余分な仕事が回されますので、オーレンドルフ少将閣下が戻ってきてくださってほっと致しました」
「無茶振りもなにも、君が優秀だからだろう」
そういう評価なのではないか?
肩をすくめたオーレンドルフは、ミュラーの執務室のソファに腰掛けるとデスクについている部屋の主と、そして窓際に立っている少しばかり小柄な年下の青年を見やる。
三人の局長が同じ部屋で顔を合わせているなど、異様な光景だ。
よほどの事態がなければそんなことはないと言ってもいいだろう。
「それで、面倒ごとでも?」
「連合国と占領地区である噂が流れているのをご存じでいらっしゃいますか?」
オーレンドルフの言葉に、シェレンベルクは切り出した。
「……噂、か。山ほどありすぎてな。どれがどれやら」
国内諜報局の局長として。
そしてゲシュタポの局長として。
オーレンドルフとミュラーは多くの秘密を握っている。
「殺されたハイドリヒ長官は影武者である、という”あれ”です」
「あぁ、あれか……」
ソファの国内諜報局長が相づちを打って、もったいぶったシェレンベルクの言葉にデスクについていたミュラーが首を傾げてみせた。情報と言うにはあまりにも馬鹿馬鹿しすぎて忘れかけていた。ミュラーなどにしてみれば、せいぜいできの悪い噂程度の扱いでしかない。
「仮に長官が生きていても、死んでいても、人間ひとりの生死などで戦局が左右されるわけでもなし。調査すべき案件でもないようだが」
「そうは思うのですがね、ミュラー中将には先ほども申し上げましたが宣伝大臣が随分と”噂の出所”を気に掛けておられまして」
「……暇ではないと突っぱねればよかろうに」
冷静なオーレンドルフの指摘に、シェレンベルクはにたりと笑った。
「いえ、本官が興味を持ちましたのはそんなところではありません」
「なるほど」
最年少の青年の様子に、オーレンドルフは胸の前で両腕を組むとちらりと視線だけを放り投げた。
鋭利な刃物を思わせる青灰の瞳がぎろりと宙を滑る。
「噂が出るということは、その逆もまた可能、というわけか」
シェレンベルクの意図を正確にくみ取ってオーレンドルフが指摘する。
「そうです」
噂の出所を調べ、それを逆に利用しようとシェレンベルクは言っているのだ。
「大臣は少々あからさまですが」
「まぁ、あの方は政治家だからな」
宣伝と煽動のプロだが、ヨーゼフ・ゲッベルスはあくまでも政治家でしかない。個々に高い能力を持つ諜報部員たちとは質が違う。
「軍人や諜報部員が政治家であるよりはましだろう」
「ごもっともです」
部屋の主たるミュラーは黙って二人の諜報局長のやりとりを聞いている。
「本官はあくまで国外諜報局の人間ですので、おふたりにご協力をお願いしたく思いまして」
少なくとも表面上は相手を尊重しているようにも聞こえるが、口調はともかくシェレンベルクの表情はあくまでもふてぶてしい。しかし、そんな彼のふてぶてしさにも、ミュラーもオーレンドルフもすっかり慣れてしまった。
自分の管轄を越えて活動すれば、国家保安本部内での自分の立場が微妙な位置に立たされる。それをシェレンベルクはよく理解している。国外諜報局長として、シェレンベルクは国内諜報局と国家秘密警察局の助力を求めることにより、自分自身とその部下がより動きやすい状況を作り出す能力にも長けていた。
「……噂の出所、か」
しばらく考え込んだオーレンドルフはぽつりと呟いて、デスクに着いているミュラーを見やる。
「ミュラー中将はどのように思われますか?」
「疑わしい者を探し出し、その罪を暴くのが仕事だ。必要な調査ならばいくらでも人手を割こう」
国家の敵を探し出す。
そのための警察機構だ。
「……ありがとうございます、おふたりのご助力があれば鬼に金棒です」
「わかった、なにか進展があれば大佐のところへ報告を回そう」
そうオーレンドルフは告げると立ち上がった。
――恐怖の為政者、ナチス親衛隊のラインハルト・ハイドリヒが生きている。
「しかし、中世の迷信でもあるまいし。馬鹿馬鹿しいものだな」
鼻から息を抜いてオーレンドルフがつぶやいた。
彼はハイドリヒが死んだ時は東部戦線にいたのだが、それでもそんな噂は愚の骨頂だと思う。
親衛隊全国指導者のハインリヒ・ヒムラーや、総統代理のルドルフ・ヘスのようにオカルトに手を借りる人間を全くもって馬鹿らしく感じている。
一般庶民であればオカルトを信じるのも構わないが、政府首脳部がそれでは困る。
「まぁ、信じる信じないは人それぞれだからな」
余り表情を変えないままミュラーが言うと、シェレンベルクとオーレンドルフは顔を見合わせた。しかし、そんなことを言うミュラーがオカルトの類を信じているとは思えないし、そもそもユダヤ人が害悪だなどと、「生粋の」警察官であるハインリヒ・ミュラーが信じているとは到底考えられなかった。
「それでは、捜査の件はお任せしてよろしいですか?」
「承知した」
確認を取るシェレンベルクの言葉に、ミュラーは視線を上げると頷いてからオーレンドルフを見やる。
「……ところで連合国ですが、彼らはドイツ第三帝国の反ユダヤ主義を悪だと受け取っているようですが、本当に果たしてそうなんでしょうか」
こつりと、ブーツの踵が足音を立てた。
ミュラーの執務室を出て行きながら、彼はふたりの将官に背中を向けたままで薄く笑う。それこそが、付け入る隙なのだと。
暗に告げる。
「誰も気がついてなどいないんですよ。プロパガンダによって操られ、ほとんどの人間が真実から目を眩まされている……」
目を背けているわけではない。
「……では、失礼いたします」
踵に重心を移動して、くるりと室内を振り返るとナチス式の敬礼をすると律動的な動作でミュラーの部屋を出て行った。
室内に取り残されたふたりの局長は、しばらくの無言の後に顔を見合わせてから息を吐き出した。
「彼はどうにも頭が切れすぎる」
どうやって操るつもりなのだろう。
そんなことをオーレンドルフが言うと、ハインリヒ・ミュラーは目の上に指を当てて息を吐く。
「やろうと思えば、彼は指一本で人を殺せるからな」
行動部隊などの、司令官などに命じられずとも。
理性的で穏やかな人間性という恐ろしい仮面を被った、冷徹な諜報部員。
それこそが、国外諜報局長ヴァルター・シェレンベルクだった。
*
「ほっとするんだろう。こういうご時世だからな」
シェレンベルクはハインリヒ・ミュラーの言葉を思い出した。
「……ほっとする?」
「我々警察も、君ら情報将校も”そう”だが、誰も変わらない、”人間”だ。たまたま我々が権力を握る側にいたからに過ぎん」
人間である。
それはどういった意図で彼が使ったのだろう。
少なくとも、ゲシュタポ・ミュラーと恐れられる彼は他者を弾圧し逮捕する側の人間だ。
「人間というのは、弱いものだからな」
弾圧する側だからといって、人間らしさがないわけではない。
それが果てしなく歪なものであったとしても。
「なんだろうな。彼女を見ていると権力や打算といったそういうものがどうでも良くなる」
まるで、無邪気な赤子を見ているようだ。
そう。
「中将?」
「……不思議なものだ。自分にもまだ、癒されたいと思うような心が残っていたというのが、な」
それこそが人の弱さの証し。
誰だって愛らしい少女を見ていて嫌な気分にはなりはしない。
ゲシュタポの捜査官たちは自分自身の身の安全の確保と言うこともあり、最大限まで神経をすり減らしている。加えて、昇進を約束されるにはアインザッツグルッペンの指揮官などを務めなければならない。
それはかつてラインハルト・ハイドリヒが部下たちに忠誠を強いるために作り上げた義務の制度だ。
人殺しに疲れ果てた捜査官たちの目に、マリーはどのように映ったのだろう。
「ほっとする、か」
人間の精神というものは、緊張しっぱなしではいずれ途切れてしまう。ヒトがその能力を最大限に引き出すためには適度な緩急が必要だった。
彼女は「なにも」知らない。
ゲシュタポの悪どさも。
ナチス親衛隊の恐ろしさも。
知らないからこそ何一つ偏見もなく彼らに接することができるのだ。
ザクセンハウゼン強制収容所で倒れて、一週間も眠り続けた後マリーは明らかな性格の変化があった。どこがどう、と聞かれると難しいところがあるが感触が違うとでも言えばいいのだろうか。
初めはただの少女だと思っていた。
けれども、次第に感じるようになったのはどろりとしたぬめる感触の、得体の知れない気持ちの悪さだ。
「中将閣下ご自身はどのように思われているんですか?」
独身のこの警察官僚は、そっと眉根を寄せてからいかつい眼差しでシェレンベルクを見つめた。
「そうだな、わたしに娘がいればこんな感じかと思ったことはある」
言葉少なに告げた彼に、シェレンベルクは低く笑う。
確かにマリーとミュラーでは親子ほど年齢が離れていた。
「彼女の花の家に行かれる理由は何なんです?」
問いかけられて、ミュラーは首をすくめるとタバコを唇にくわえて視線を窓の外に流しやる。
「君とカナリス提督が後見されているというところに興味があったのと、部下たちが余分な情報漏洩をしないよう監視ついでと、あとは個人的な興味だな」
「それにしては随分熱心に捜査されていたようですが」
「身元のはっきりしない者の捜査をするのは当たり前だ」
なんでもないことのように言い切るハインリヒ・ミュラーは表情を動かさない。自分に後ろ暗いところがないのだから、表情など変えるわけもない。
女だろうが、子供だろうが彼は部下たちの指揮をとって逮捕してきたのだ。そんなことはすでに任務上の変哲のない日々の出来事でしかなく、良心の呵責など感じるわけもない。そしてそんなものを感じているようでは、ゲシュタポの長官は務まらないのだ。
「そうですね」
身元のはっきりしない少女。
こんな時代だ。
疑われてもやむを得ない。事実、彼もまた疑いを抱いている人間のひとりだった。だけれども、ユダヤ人でもなければ、ジプシーでもなく、政治犯ですらもない少女を守ろうと思ったのはなぜだったのか。
疑い、気持ちが悪いとすら感じているというのに。
「花の家、か……」
ミュラーがぽつりとつぶやいた。
まるでなにかを思い起こすかのように。
「……小さな社交場だな」
暴力的な世界の中にあって、神経をすり減らすように生きる人間の全てが、そうした性を持っているわけではない。そんな生活の中で癒しを求めても何の罪になるのだろう。
「わかりませんね」
「わからんな」
シェレンベルクにミュラーが言った。
わからない。
それが唯一の答えだった。
なにか大きな力が働いているような気もするが、それだけで済ませて良いものではないだろう。
「まぁ、実害がなければ咎めることもなかろう。いざとなれば簡単に取り押さえることなどできるんだからな」
相手は非力な少女なのだ。
それがミュラーに余裕を持たせたのかも知れない。
痩せた小柄な少女など力尽くで逮捕することなどいつでもできるのだ。それをしないでいるのは、彼女に実害がないことと、なにより国防軍情報部の長官たるヴィルヘルム・カナリスの顔を立てただけのことだ。
「ところで、先日は忙しく走り回っていたようだが」
「あぁ、それですか。別に大したことじゃありません。一応、それのことで今日は国防軍の司令部に行ってきますが」
「……ふん、それなりに大事ということか」
それなりに、というところにわずかな力をいれて告げたミュラーにシェレンベルクはかすかに笑った。
「まぁ、”それなり”に」
そんな話しをしたのはオットー・オーレンドルフがミュラーの執務室へ入ってくる前のことだ。
――それなりに、大事ですよ。
シェレンベルクは誰の姿もない国家保安本部の廊下に足を進めながら、口の中でつぶやいた彼は一度、両目を閉じると一瞬で表情を改めてかつりとブーツの踵を鳴らした。
先日の調査結果を持ってこれから国防軍総司令部に向かわなければならない。
問題は非常に重大だった。おそらく今後のドイツの行く末を大きく左右する程度には重大な問題だろう。
そもそもの事の発端はマリーが先日国家保安本部に持ち込んだ暗号の記された紙切れだった。
彼女の持ち込んだ暗号を解析した結果、ドイツ第三帝国にとって非常に不利な状況が発覚したのである。それを早急にドイツ国防軍司令部に報告しなければならない。
元々、ドイツ国防軍とナチス親衛隊は全く指揮系統の異なる組織である。だからナチス親衛隊に所属するシェレンベルクが国防軍に対して何らかの権限を持っているわけではない。彼ができることはあくまで情報を提出し、指導部の尻をさりげなくひっぱたくことばかりだ。
「やれやれ……」
独白したシェレンベルクは、ウルリヒ・マッテゾンを呼びつけると公用車であるベンツを出した。
途中でマリーの花の家に寄り、彼女を拾う。
「君が持ち込んだ例の紙切れの解析結果が出てね」
そう告げたシェレンベルクにマリーは目を丸くすると、その次に首を傾げた。
「わたしは捕まるの……?」
シェレンベルクとマッテゾンが国家保安本部の職員であることを理解しているマリーが問いかけると、彼女に杖を手渡しながら腰を抱くようにして支えてやる。
「ゲシュタポとアプヴェーアの捜査で君は無罪だと証明されているからな、そんなことは心配いらない」
心配などする必要はない。
はい、と返事をしてにこりと笑った彼女に、かすかな薄気味の悪さを感じつつもシェレンベルクはマリーをベンツの後部座席へと座らせた。
彼女と会うのは何日ぶりだろう。
「ウィーンに行っていたって聞いたんですが」
「あぁ、バイオリンは受け取ったかい? カルテンブルンナー中将から預かったんだが」
「……はい」
どうしてバイオリンを? そう尋ねたシェレンベルクにマリーは朗らかに笑うと男に顔を向けて肩にかかるショールを手で引き寄せた。
「はい、以前、博士が来てくださったときに音楽の話しになったときに、興味があるならなにかのきっかけのときに送ってくださるとおっしゃってくださって、それでだと思います」
「なるほど」
カルテンブルンナーは苦学生の出身だったからクラシック音楽に興味があるとはとても思えないが。
そんな話しをしている間に、国防軍総司令部に到着したシェレンベルクはその情報部の長官であるカナリスに出迎えられた。彼の隣には首席補佐官であるハンス・オスターが立っている。
どちらもなかなか抜け目のない将校だ。
「初めてお目にかかる、お嬢さん」
「は、じめまして……」
ぺこりと頭を下げた彼女に、オスターは神経質そうな瞳をそっと細める。大きな手のひらを差しだしたオスターに、少しだけ気後れした様子のマリーは、数秒してからおずおずと彼に自分の手のひらを差しだす。
まるで遠慮がちな彼女の握手に、オスターはおそらく観察しているのだろう。
余談になるが、彼女の経歴を捏造したのはハンス・オスターだ。
「棺桶の中に紛れ込むのが趣味のなかなか変わったお嬢さんだとお聞きしている」
「……――それは、その」
皮肉めいたオスターの言葉に、マリーはどもってから助けを求めるように視線をシェレンベルクとカナリスへと彷徨わせる。
そんな彼女の様子に、カナリスは笑い声を上げた。
「オスター、お嬢さんが困っている。追及もほどほどにしてやれ」
「これは失礼」
にこりと笑った彼に、少女はぽかんと口を開いて、ややしてから自分の周りにいる制服を身につけた男たちを見渡すと薦められたソファに腰をおろした。
それからしばらくして、ドイツ第三帝国国防軍総司令部の高官たちが部屋を訪れた。軍人ではない少女は一番下座に座っているが、表情を見る限りはあまりその場の異様な空気を感じている様子も見られない。
図太いのかそうではないのか判断しかねるところだった。
「まず、率直に申し上げます」
ナチス親衛隊員であり、国防軍の指揮下にはないシェレンベルクが一同を見渡して口を開いた。
国防軍の指導部にある将校たちは揃って同席しているマリーに不審の目を向けているが、シェレンベルクは動じない。
「エニグマが解読されております」
ずばりと核心を衝いたシェレンベルクの言葉に、男たちがぎょっとしたように体を揺らす。腰を浮かし掛けた将校に、シェレンベルクは涼しい眼差しを向けた。
指揮系統が全く異なっているから、シェレンベルクが彼らに怯むはずもない。
「このまま従来の暗号を使い続ければ作戦は必ず失敗を繰り返し、ドイツは敗北に突き進む結果になるでしょう。ですから、なるべく早急に暗号の刷新を提案させていただきます。現実として、試験的に東部での作戦において、国家保安本部国外諜報局の秘密工作員の暗号を刷新いたしましたところ、こちらの情報は相手に読まれておりません」
「なぜ、それが発覚したのだね?」
一同を代表してカナリスが口を開くと、シェレンベルクはそろえた膝の上に手のひらを乗せて男たちの様子を窺っているマリーの頭頂部を見下ろした。
「彼女に、スパイが接触していたと思われます。そのうちの何者かが、彼女の自宅に暗号文書を残していきました。その意図はわかりませんが、それを解析した結果、エニグマが連合側によって解読されているという結論に達しました」
「……――それは」
余りにも衝撃的なシェレンベルクの報告に絶句した将軍たちの顔から血の気がひいていく。
「それは、なにかの間違いではないのかね?」
「可能性としては大いに考えられるはずです。撃沈されたUボート、捕虜となった将校から文書やエニグマ暗号機が捕獲されることもありえます。それらを考慮してもあり得ないと言い切るのは愚の骨頂です」
つまりシェレンベルクは確かに暗号が解読されているのだと告げているのだ。
「彼女がスパイである可能性は?」
彼女――マリーに関する調査書類はすでにこの面会以前に国防軍総司令部に提出している。
「すでに報告書は提出させていただきましたが、彼女がスパイである可能性はありません」
「確かに、本当にスパイであればもっとうまくやるか」
提出された報告書は徹底的に第三局と四局によって調べ上げられたものだ。本物のスパイであれば調べ上げさせるようなへまはしないだろう。
「十中八九疑われると思いましたので、それで今日は連れてきたのです」
「……なるほどな」
疑いを向けられるのがわかっているのであれば先手を打つのが定石だ。諜報部員であるシェレンベルクには最初からわかりきっていたから彼女を国防軍総司令部に連れてきたのだった。
「本官は軍人ではありません。ですからこの情報をそちらが信じるか否かはお任せいたします」
その情報がどの程度、軍、あるいは政府首脳部を動かせるかはわからない。
しかし信じなければドイツが負けるだけの話だ。
「調査書類はこちらです」
革のカバンから取り出したタイプライターで打たれた書類をテーブルの上に置くと、シェレンベルクはじっと国防軍の高級将校を見つめる。
「報告ご苦労」
カナリスが口を開いた。
事の重大さを認識してか、彼の表情もどこか硬い。
「総統閣下にはわたしから報告しよう」
エニグマが漏れたということはもっと重大な情報が漏洩していると見て良いだろう。カナリスはシェレンベルクの言いたいことを察して低くうなった。
今は青作戦のまっただ中だ。これを成功させなければ、東部戦線で二度目の冬が訪れる。そうすればドイツの消耗はより巨大なものになるだろう。
早く決着をつけなければならない。
それは危機感だった。
「現在、東部では親衛隊情報部の秘密工作員を潜入させております。我ら親衛隊員は立場こそ違えど国防軍と思うところは同じです。この戦いに勝つために戦っているのです」
同じドイツ人として、思いは同じだ。
彼はそう言った。




