6 忠誠
「やぁ、おはよう。マリー」
慌ただしく執務室へ入ってきたマリーが案の定、絨毯の毛足につまづいて前方に倒れ込みかかるのを片手を伸ばして支えてやった次席補佐官のハインツ・ヨストはにこやかな笑顔でそう言った。
「おはようございます、ヨスト博士」
「三四分四五秒」
ぼそりと低くヴェルナー・ベストの声が響いた。
自分のデスクについてすでに仕事を始めていたベストが、無愛想な眼差しでマリーを見つめてから数秒後に立ち上がる。
「まぁ、特に大した問題ではない。どうせ、どこぞの局長にでも呼び止められていたのだろうからな」
マリーの行動を特に追及する様子もなくハイドリヒの副官と呼ばれた男は、自分のデスクの上に山と積まれていた書類の束の端を軽く揃えてからマリーのデスクの上に置いた。
「マイジンガーからの追加報告もある、午前中のうちに全部目を通すように。それと、午後二時から親衛隊全国指導者個人幕僚本部で会議、午後四時半から国家保安本部で部長以上の人間を集めて強制収容所と外務省関連の捜査に関する会議が入っている」
ベストの無慈悲なこの日の予定を聞きながらマリーは思わず口をあんぐりと開けた。「えー」とでも飛び出してきそうな抗議の声を制止して、ベストは更に続けた。
「それと、午後七時から国外諜報局と国内諜報局合同の会議がある」
会議の連続だ。
ゲシュタポとクリポによって行われている捜査が佳境に入っていることから、国家保安本部の高官たちは連日のように提出される報告書を前にして変わりつつある状況を把握するために協議を重ねている。
「先ほど、人事局の方からシュトレッケンバッハ局長の副官が来て、新しい腕章を置いていったから今日は来なくても良いそうだ。それと、ゲシュタポのミュラー局長からの伝言で、至急確認したいことがあるそうで、会議の間で良いと言うことだから顔を出してほしいということだ」
おそらく外務省と、君の傷害事件に関する件だろう。
そう続けて、今日の予定を聞きながら呆然としているマリーの片手を取って、紳士的にエスコートするとデスクへと座らせた。
「別にわたしがいなくても会議なんてできるじゃないですか……」
思わず唇を尖らせた少女に、ヴェルナー・ベストは表情を変えないままで視線を走らせてから、山になっているファイルの一番上を開いてから、片手の指を揃えて指し示した。
「君の復帰を待っていれられていた会議は親衛隊全国指導者個人幕僚本部の会議だけで、他のふたつは別にここ最近では特別なものではない。おかげで、強制収容所の情報解析を行っているメールホルン上級大佐とコルヘル博士はもう四日ほどプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセに缶詰だ」
「……大変なんですね」
まるで他人事と言ったマリーの台詞に、声もなく苦笑したのは次席補佐官のハインツ・ヨストで、マリーの座る椅子の隣に立って副官まがいの仕事をしているヴェルナー・ベストはぴくりと片方の眉毛をつり上げただけだった。
部長を務めているとは言え、たかが親衛隊少佐の補佐を生真面目にしている親衛隊中将の姿が、ほほえましく見えて声に出すこともせずかすかに笑ったハインツ・ヨストも自分の仕事に戻る。
主にヨストの仕事と言えば、現在行われている特別保安諜報部内での調査報告書の総括だ。
部内で行われる捜査のほぼ九割以上がベストとヨストの目を通ることになる。もっとも例外もあって、ごく一部の報告は、直接マリーに提出されており、その「ごく一部」だけがふたりの補佐官の感知できないところとなっていた。
「失礼する、マリーが出勤してきたと聞いたが」
これまた無愛想な声を響かせて、制服に白衣を羽織ったカール・ゲープハルト親衛隊中将が姿を見せた。
彼は、マリーが負傷した際の功績を認められてつい先日中将に昇進したのだが、これについては国家保安本部の高官たちは疑いの目を向けており、せいぜいハインリヒ・ヒムラーの幼なじみという欲目がかった評価があったのではないかともされている。
もちろん真相は闇の中である。
「おはようございます、ゲープハルト少将」
「やぁ、おはよう。マリー。傷はすっかり良いのかね?」
「はい、大丈夫です」
自己顕示欲の強いゲープハルトは、「少将」と呼ばれたことには大した反応を見せずに、鋭い眼差しで室内を見渡してから、ことさら重々しく口を開いた。
「ベスト中将と、ヨスト少将には申し訳ないが、十分程席を外してもらえぬだろうか」
「我々に聞かれては困ることだとでも?」
もったいぶったゲープハルトの物言いに、ベストはいつもの如く表情をかけらも変えはしない。
いちいち他者の言う言葉に振り回されているようでは、かつてのラインハルト・ハイドリヒという獣のような男の補佐をすることなど不可能だった。ヴェルナー・ベストのそんな理性的な態度はそういった経歴に磨かれた面もありはしたが、本来の彼の気質によるところも大きかったのかもしれない。
ヴェルナー・ベストは大学生だった頃から常に政治的な青年だった。
国の行く末を見据え、外国の横暴なとも言える侵略を目の当たりにしてきた。
――ドイツが先の大戦で負けたことを良いことに、彼らはドイツにある全ての財産を奪おうとしてきたのだ……!
「聞かれて困る、というわけではないが、内容が内容だからな。そもそも、医学の心得もない貴官らがわたしの話しを聞いて理解できるとも思えんし、余分な吹聴をされて話しが広まってもわたしとしては大迷惑だ」
ばっさりと一刀両断するようなゲープハルトの台詞に、ベストは無表情のままでヨストに視線を放つ。一方のヨストは、ベストの視線を受けてからほんの数秒考え込んでから無言で頷いた。
「わかった、十分だな」
「感謝する」
制服の袖を軽くたくし上げて腕時計の文字盤を確認したベストは、執務机に座っていたヨストに片手を振ってから退室を促すと廊下へと出て行った。
「……カール・ゲープハルト、か」
マリーが親衛隊長官のハインリヒ・ヒムラーに求め、その求めに応じる形で国家保安本部に出向することになった医師だ。
ヒムラーの幼なじみであり、なによりも信頼に厚い。
「どう思う? ヨスト少将」
「どうと言われても、わたしも中将も医学は専門外だからな」
確かに中途半端に医学博士の話を聞いてそれについて勝手な判断を下されては、ゲープハルトとしてもたまったものではないだろう。
しかしベストが危惧しているのはそこではない。
「……マイジンガーの動きも気になるところだ」
「ゲープハルトとマイジンガーがどう繋がるというのだ?」
いまひとつ関連性がなさそうなベストの発言に、壁に背中を預けたままでヨストが問いかけると、ややうつむきがちな眼差しのまま床を見つめていた首席補佐官は、しばらく黙り込んだままなにかを考えていた。
「マイジンガーがマリーからなにかの指示を受けて党の高官共を調査しているのは知っているな?」
「まぁ、それなりにはな。だが、あれは報告書は直接、マリーに上がっているだろう?」
「それだ」
党の高官に近しい者に対して、ゲシュタポの警察官僚と囁かれたヨーゼフ・マイジンガーが緻密な捜査を続けている。そして、政治的な捜査に関してはベストとヨストが囲い込むように捜査を行っている。
「彼女……、マリーが仮に党高官、政府高官共の侍医に疑いの目を向けているなら、”ハイニー”に医師の手配を求めたことは合点がいかないか?」
「たとえばケルステン辺りか?」
「……あのマッサージ師か」
どこか侮蔑するようにつぶやいたベストは、鼻の上にしわを寄せてから再びむっつりと不機嫌な様子で黙り込んだ。
ちらちらと時計を気にしている。
「政治のこともろくに知らんような男が、余分な口を出してもろくなことにならんぞ」
「だが、”あの”ヒムラーに対する影響力はそれなりらしい」
どこか不機嫌そうな顔になったベストをたしなめるように言葉を綴るヨストは、廊下の天井を見上げてからハインリヒ・ヒムラー付きのマッサージ師であるフェリックス・ケルステンの顔を思い浮かべた。
確か、この歳五四歳になる男で、ハインツ・ヨストなどからしてみるとどうにも問題のケルステンの考えていることは謎が多い。
一説にはヒムラーの理解者でもあると言われているが、どこまでの影響力を持っているのだろう。
そんな会話をふたりの補佐官が交わしていると、ぴったり十分程たった頃、執務室の扉が開いて余り面白くなさそうな表情のままのカール・ゲープハルトが出てきた。
「話しは済んだ、それでは失礼する」
手短にそう告げるとベストとヨストの前をゲープハルトは立ち去った。
そんな親衛隊医師の背中を見送って、執務室へと戻った彼らはゲープハルトが持ち込んだらしいファイルの中の書類を見つめているマリーを、興味深げに見やる。
「何の話しだったのだね? マリー」
ベストの言葉に、少女は長い睫毛をまたたかせてから顔を上げた。
「はい、ゲープハルト少将にモレル医師の件で調べてもらっていたんです」
「……なるほど」
テオドール・モレルは、ドイツ第三帝国の国家元首アドルフ・ヒトラーの主治医である。
「わたしは医学は門外漢だが、なにか疑わしい点でも?」
ベストは鉄面皮の下に不審を押し隠したままでそう問いかけると、マリーは花のように笑ってからファイルを男に差しだした。
彼女はいつもそうだ。
なにを考えているのかわからない。
「場合によっては、ヒムラー長官の寵愛を受けるケルステンさんにも”こちら側”の陣営についてもらおうかと思っています」
「……どういう意味だ?」
マリーの言っている事が理解不能だ。
彼女は何を言っているのだろう。
カール・ゲープハルト、テオドール・モレル、そしてフェリックス・ケルステン。
名だたる第三帝国の医師ばかりだ。
「ゲープハルト少将には、わたしがお休みに入る前から独自に動いてもらっていました。少将の名声はドイツ国内で無視できるものではありません。ですから、その立場でなければ集められない情報もあると思っています」
「それはそうだろうな、専門的な世界の情報を集めるなら、その筋の優秀な専門家がいることがなにより重要なことだ」
ゲープハルトの名声は無視できない。
同意するようにマリーの言葉に頷きながら、マリーから手渡されたファイルをめくると、そこにはナチス党高官、そして親衛隊、及び突撃隊、国防軍、及び政府高官の名だたる名士たちの簡単な病歴の記録がおさめられている。
しかし高官とは言え誰しも人間だ。
人間である以上は誰だって病気からは逃れられないだろう。
彼女はなにに疑いの目を向けているのかわからない。
「そういえば、最近では”国家元帥閣下”のモルヒネの量が激減したらしいですね。ご夫人も随分安堵されていたみたいです」
ニコニコと、彼女が笑っている。
「体重も落ちてきたらしいな」
書類をめくって内容を確認しながらベストはちらりと椅子に腰掛けている少女を見下ろした。
膝丈のスカートは布を多めに使ってはいるものの清楚で品が良いクリーム色だ。白いブラウスは紺色のスカーフが首元に留められていて、白いパイピングがさわやかさを演出している。
夏場は肌を大きく露出したドレスを身につけていることも多かったが、どうにもマリーには露出度の多いドレスは似合わないのではないかともベストは思う。
「マリー。君はもう少し自分の体重維持に気をつけなさい」
このくらいの身長であれば最低百ポンドはほしいところだ、とベストは思う。
なにせ食が細い。そのうえ食べた先から痩せていく。
本人は余り気にしている様子はないが、見ているほうは栄養失調で餓死するのではないかとか、伝染病の流行で根こそぎ体力を持って行かれるのではないかと心配になるレベルの体格だ。
「とりあえず、昼食までに書類を終わらせてしまいなさい。午後からは忙しいのだからな」
午後だけで会議が三本入っているなど狂気の沙汰だ。
それだけ親衛隊内部は切羽詰まっているということなのだが、はたして少女の体力がついていくのかということが問題だ。
ベストはそんなことを思いながら踵を返すと、マリーに手渡されたファイルを自分の机の上に置いて、彼女が休んでいる間に溜まっていた仕事へと戻るのだった。
「はーい……」
唇を尖らせながら万年筆を握ったマリーの視界の外で、ベストはわずかに頬を緩めると目尻を下げてかすかに笑う。
まるで嫌々ながら宿題をしている子供のようにも見えて、ヴェルナー・ベストはつい小言を言いたくなってしまう。彼女は決して無能ではないことを誰よりもベストが一番知っているし、彼女の功績があったからこそ赤いオーケストラの一斉検挙に踏み切ることができたのだ。
彼女には、特別な才能がある。
それはかつてのラインハルト・ハイドリヒにすらありえなかったもの。
――国家保安本部のみならず、ナチス親衛隊、あるいはドイツ第三帝国というバラバラに動作していた歯車を大きな枠組みとして組み直す力だ。
「わたしは、君にならば忠誠を誓おう。……”友”のひとりとして」
やかましくマリーに指示を出しながら、ヴェルナー・ベストは口の中だけで声もなくそう呟いた。




