4 確執の行き着くところ
カール・コッホと、その妻であるイルゼが訊問の対象とされてからザクセンハウゼン強制収容所のハンス・ローリッツは苛立たしいものを隠せないままでいた。かろうじて部下たちを制御しているが、本来、強制収容所の看守としての仕事を任されるような者たちは決して清廉潔白というわけではない。
簡単に言えば、”叩けばいくらでもホコリが出る”のだ。
そんなことから彼は苛立たしい気分を隠せないままで、所長室のデスクについてむっつりと唇を引き結んでいた。
なにからなにまで面白くない。
なによりも、一番問題だと思うのは上層部の態度である。
強制収容所総監のリヒャルト・グリュックスは国家保安本部に対して協力的な姿勢を見せているものの、さらにその上にいるオズヴァルト・ポールはそうではない。どちらかと言えば国家保安本部の捜査官たちとは対立する態度を見せているようだ。
上層部がこの態度では現場はどう対応すれば良いのかわからなくなってもやむを得ないではないか……!
もちろん、内心で文句たらたらな状態のハンス・ローリッツ自身も決して清廉潔白とは言い難い。
管理者としての責任が、ローリッツには課されている。
要するに、部下たちの行ったことは同時にローリッツ自身の問題でもある。
そしてその問題というのは、コッホのやった犯罪行為のせいで突然噴出してきた。おそらく各地にある強制収容所、あるいは強制労働収容所の所長たちが同様の問題で頭を抱えているだろうと思われる。
何度目かの大きな溜め息をついたローリッツは、先日の不愉快な一件を思い出してから苛立たしげにうんざりと頬杖をつくとタバコのパッケージを手に取った。とてもタバコなどを吸う気分にはなれなくて、イライラと指先でそれをもてあそぶ。
「まったくもって子供は気楽で良いものだ」
思い出したのは退役した参謀総長のルートヴィヒ・ベックのもとに預けられていた痩せすぎた少女のことだ。
ローリッツが彼女を見たのはあれで三回目になる。
一度目は国外諜報局長のヴァルター・シェレンベルクと親衛隊長官のハインリヒ・ヒムラーと訪れた時。二度目は国外諜報局に転属になった親衛隊中将のヴェルナー・ベストと強制収容所総監のリヒャルト・グリュックスと訪れた時。そうして、三度目はベック家だ。
ローリッツが受けた印象は、おかしなもので三度ともが異なる印象を受けた。
その理由など、所詮は強制収容所長でしかないローリッツにはわからないことだが、それにしても、人間の印象がこれほど短期間で変わることなどあり得るのだろうか?
そんなことをローリッツは考えた。
深い溜め息をついてから、ローリッツは時計を見やった。
時刻は夕方だ。
これからベルリンに赴くには汽車を乗り継いでも夜半近くになるだろう。一介の強制収容所長程度でしかないハンス・ローリッツが飛行機を使うなどできるわけもないし、これから日が暮れ出すことも考えると航空省の連中は飛行機など飛ばさないだろうということは目に見えている。
デスクの上に置かれた電話の受話器を取りあげたローリッツは、唇をへの字に曲げたままで電話帳を眺めるとダイヤルを回すのだった。
本来は、強制収容所長などが強制収容所の外の世界に対して大した権限を持っているわけではない。
端的に言うならば、ローリッツを含めた「彼ら」は「お山の大将」でしかないのだ。民族的闘争の最前線などと奇麗事のように言われているが、実際のところ華やかなエリート部隊とも呼べる武装親衛隊の兵士たちとは存在を異にしていた。
彼ら――強制収容所の看守たちは、ならず者集団だ。
あえて見ない振りをしてきた現実だったが、それをローリッツはわかっていた。
*
「しかしですな、ポール大将閣下」
リヒャルト・グリュックスは背中の後ろで両手を組み合わせて眉をひそめた。
グリュックスはポールが、ナチス党の中でも高官中の高官である国防軍空軍総司令官を務め、アドルフ・ヒトラーからの信も厚いヘルマン・ゲーリング国家元帥に取りなしを依頼したことを知っている。
しかし、とグリュックスは思う。おそらくそんなことをしたところで無駄なのだ。
武装親衛隊の事実上の最高権力者とも呼べる作戦本部長官であるハンス・ユットナー親衛隊大将の仲介を受けてリヒャルト・グリュックスに接触した国家保安本部に所属するマリア・ハイドリヒと言葉を交わしてみて、考えたことがあった。
マリーは、彼女の父親よりもずっと年齢が上であろうグリュックスに対して、マリーとグリュックスの関係性はゼロでしかない、と言った。
確かに、彼と彼女は、マリーがグリュックスを訪ねた時が初対面だった。初対面である以上は、彼と彼女の間に先入観は存在しない。
あるとすれば、マリーが国家保安本部の所属であり、グリュックスが経済管理本部に所属しているということだけだ。加えて、国家保安本部はグリュックスの上官であったアイケと凌ぎを削ったラインハルト・ハイドリヒの因縁があると言ってもいい。
それでも尚。
マリーとグリュックスの間には何一つの「関係性」が存在しないのだ。
だからこそ、強制収容所総監として彼女がザクセンハウゼン強制収容所に収容されているヤーコフ・ジュガシヴィリと話しをしたいという依頼を、ポールの意志を無視して受け入れたのだ。
ザクセンハウゼン強制収容所で、マリーとヤーコフ・ジュガシヴィリが何を話していたのかはわからない。彼女の補佐官として同行してきていたヴェルナー・ベストも、マリーに対して話の内容を追及しなかったところを見ると、余程ベストは彼女を信頼しているのだろうかとも思えた。
しかし、それでもポールが国家保安本部の捜査の手を逃れようとして躍起になっているところは、得策であるとはとても思えなかった。つまるところ、それはオズヴァルト・ポール自身が、強制収容所の管理について問題を感じているということにほかならない。
「これでは経済管理本部で後ろめたいことがありますと、語っているようなものではありませんか」
切り込むようなグリュックスの言葉に、黙り込んで強制収容所総監の言葉に聞き入っていたポールは改めて視線を上げると口を開いた。
「グリュックス少将も知っていることと思うが、国家保安本部が親衛隊長官の全権委任の命令を受けて全面的な強制収容所の捜査に乗り出している。奴らは、これを機に強制収容所に関する主導権を握ろうとしてくるだろう。だが、強制収容所の主導権を奴らに握られれば、経済管理本部のみならず親衛隊全体の資金管理が危うくなるということだ」
だからこそ、決して国家保安本部に強制収容所管理に関する主導権を握られてはならない。それを阻止するためには、経済管理本部による強制収容所管理権の独立が維持されるべきだ。
オズヴァルト・ポールはそう考えた。
「ただでさえ国家保安本部の連中は、武装親衛隊のことなど考えていないではないか」
「しかしですな……」
仮にもリヒャルト・グリュックスもポールの言う武装親衛隊員である。しかし、彼は強制収容所総監として、武装親衛隊と強制収容所の看守たち。そして武装親衛隊と一般親衛隊たち。あるいは国家保安本部の捜査官たちと強制収容所の看守たちの間に横たわる深い溝を熟知してもいる。
強制収容所の管理官など、言ってみれば「たかだかその程度」の存在でしかない。
「確かに我々は武装親衛隊の一員です。ですが、閣下。かつて、アイケ大将が強制収容所総監を務めていた頃とは異なり、強制収容所管理官の一部が国家保安本部の連中が言うように腐敗しているということは事実でもあります」
長い台詞を一気に言い放って、グリュックスは数秒の沈黙を挟んだ。
「経済管理本部の強制収容所管理の主導と、その独立性が維持されることは大変結構なことと思いますが、それでも経済管理本部の主導によって強制収容所内の自浄作用が期待できない以上は、他の行政組織による第三者の視線からの捜査は必要なのではないかと思われます」
論理的なグリュックスの言葉には、彼なりの苦渋の決断が忍ばれた。
リヒャルト・グリュックスはテオドール・アイケの部下だった。そして、テオドール・アイケは、初代国家保安本部長官を務めたラインハルト・ハイドリヒと、強制収容所の経営権を争ってしのぎを削っていた。
それを考えれば、グリュックスも長官が変わったとは言えども国家保安本部に対する不信感は拭いきれない。それでも、ありとあらゆる内部データに目を通してきた彼は思うのだ。
――非常に残念なことではあるが、今現在の強制収容所には堕落と腐敗、そして享楽が渦巻いている。
しかもそれが本来、規律正しくあるべきとされている親衛隊員が堕落のただ中に置かれていた。
「グリュックス少将の言いたいこともわからんではないが、国家保安本部などどこまで信用できるというのだね」
ポールがルートヴィヒ・ベックの家で出逢ったひとりの少女。
彼女はまるでなにも考えていないような顔つきで、ベックを前にしてナチス党が推進している異民族に関する再定住計画を口にした。マリーは、とポールは思う。
彼女は本当になにも考えずに発言をしていたのか、それともなにかを計算していたのか。それはポールにはわからない。
「確かにお言葉の通りですが、国家保安本部の連中が信用ならんという理由だけで彼らの捜査を拒み続ければ不信感は払拭されません。拒めば拒むほど彼らに不審を抱かせ、付け入る隙を与えることになるのではありますまいか」
これが、気性の激しいテオドール・アイケ相手であったなら、グリュックスも自分の立場を考えてこんな進言をしなかっただろう。しかし相手はオズヴァルト・ポールである。彼はアイケとは異なる意味で、親衛隊員の理念からはほど遠い場所にいる。
ナチス親衛隊を、自分が社会的な意味で上り詰めるための道具であるとしか認識していないポールは、アイケとはまた違う考え方をする男だ。
「……なるほど」
グリュックスの言うことももっともだった。
国家保安本部は経済管理本部に不審を募らせ、そして、経済管理本部は国家保安本部に対して不審を募らせる。
彼らの政策はまさに真逆であり、その間にあって強制収容所管理官たちは揺れていた。
「つまり、ここは国家保安本部と正式に協議を行い妥協点を探るべきだとグリュックス少将は言いたいわけだな」
「……はい」
国家保安本部長官のエルンスト・カルテンブルンナー。彼に主導権を握られることは甚だ面白くない。だからこそ国家保安本部と経済管理本部で正式に話し合いを持つべきなのだと真顔で告げるリヒャルト・グリュックスの意見には、ポールも思うところがあった。
強制収容所に収容する異民族たちは、経済管理本部にとっては重要な労働力だ。その重要な労働力を国家保安本部の高官たちは問答無用で「絶滅」させようとしている。
安価な労働力が失われると言うことは、経済管理本部にとって極めて重要な問題なのだ。カルテンブルンナーは強制収容所内の看守たちの行為が、オズヴァルト・ポールの言う労働力を無駄に浪費しているのだと言っていた。そして、そのために武装親衛隊の地位を得た刑事警察が大々的な強制収容所の捜査に乗り出したこと。
その背後にいるのは親衛隊法制局と親衛隊全国指導者。
どちらにしたところで、敵に回すのは厄介だ。
「なるほど、少将の意見は参考になった」
ポールは重々しい口調でそう言ってから、右手を軽く振った。
出て行けという彼の無言の行動に、グリュックスは敬礼をするとオズヴァルト・ポールの執務室を後にした。
長い廊下を歩きながら、ちらりと肩越しに視線を走らせたリヒャルト・グリュックスは手のひらで顎をなでるとそっと目を細めた。
強制収容所の捜査の全権は親衛隊長官のハインリヒ・ヒムラーから委任された。これをポールが心底面白くないと思っているのはわかりきっている。しかし、いつまでも国家保安本部の捜査に非協力的な態度をとっていることは余り好ましい結果を招くとは言えない。
経済管理本部が頑なな姿勢を取れば取るほど、彼らは強硬な態度を取るようになるだろう。
ゲシュタポや刑事警察を束ねる警察機構である国家保安本部を敵に回すような事態は余り好ましくない。
どちらにしたところで、親衛隊全国指導者のハインリヒ・ヒムラーが強制収容所の捜査を国家保安本部に全権委任したとなれば経済管理本部には拒む術がない。そんな状況で国家保安本部に対立姿勢を取ることは経済管理本部の立場を危うくさせる一方になるのではないか。
それこそがグリュックスの危惧だった。




