1 毒
親衛隊内部の勢力争いは、傍観者たちの目から見ても眉をひそめる程明らかに表面化する事態となっていた。
現状、天然痘の汎発流行によって膠着状態に陥っている北アフリカ戦線でドイツアフリカ軍団を指揮するエルヴィン・ロンメル元帥と、ドイツ空軍第二航空艦隊を指揮するアルベルト・ケッセルリンク元帥は、イギリス軍に決定的な一撃を加えられないままでいた。
天然痘の流行によって陸軍での作戦は非常に難航している。
ともすれば、ドイツ軍がイギリス軍同様の被害を被るような事態になりかねないのだ。ケッセルリンクの指揮する空軍での作戦にも限界があり、そんな状況を打開するために、ロンメルとケッセルリンクの両元帥は急遽、ベルリンへ直談判のために戻っていた。
もちろん、イギリス側とは絶え間ない外交努力が一応は続けられている。
「意図的に伝染病を拡大させ、その被害に乗じて敵の殲滅を計るなど、人道的にあってはならないことです」
詰め寄る勢いのロンメルに、執務机についたフランツ・ハルダーは鼻の上にしわを寄せたままで、ドイツアフリカ軍団の指揮を執る若い陸軍元帥を凝視する。
八月の半ば、参謀本部はまさにそのことで親衛隊首脳部と協議をもった。
彼らが言うところによると、今回のエジプトでの天然痘の発生は、決して彼らの意図するところではないと言うことだった。
インド在住のドイツ系アメリカ人。
彼らは連合国に対して強い憎悪を抱いていた。その恨みからナチス党に所属する一家の娘は独断で復讐のためにエジプトに向かったということだった。
親衛隊側の説明を真に受ければそういうことになる。
「わたしが把握しているのは、アメリカ合衆国に対して、総統暗殺計画に対する報復攻撃が実行されたということだけだ。元帥」
計画の概要は、ほぼナチス親衛隊――国家保安本部のみで立案され。ヒトラーとヒムラーの承認の元に実行された。しかし、それはあくまでもアメリカ合衆国に対する報復であって、イギリス軍を対象にするものではなかった。
コントロールのできない兵器など、使用すべきではない。
それはごく当たり前の認識だったから、アメリカに対する報復攻撃を計画したナチス親衛隊でも、綿密に計画されたのである。
「ではどうしてエジプトで天然痘など発生したのです!」
くってかかるロンメルに、ハルダーは沈黙してからしばらく視線をさまよわせた。
現在、医師団を派遣して事態の沈静化を図っている。イギリス本国に対しても外交努力を続けているがそれらしい成果は今のところない。
要するに完全に八方ふさがりの状態だ。
「……危険に晒されるのは兵士たちです、ハルダー上級大将」
低く告げられた言葉がロンメルの内側の怒りをひしひしと伝えている。しかし、当然のことだがハルダーもそんな最年少の陸軍元帥に対して動揺しない。それが軍人としての彼らのプライドだ。
銃火の前に突撃して死んでこいという命令を下すのが司令官の仕事だ。
それがエルヴィン・ロンメルとフランツ・ハルダーの仕事でもある。しかし、だからこそ東部戦線で凍死した兵士たちのように、戦闘以外の要因で兵士たちが死ぬことを決して許容できるはずがない。
それが「死んでこい」と命令する人間の責任でもある。
「わたしがそれをわかっていないと思っているのかね?」
だからこそ、最大限の努力を払っているのだ。
なにも安全なベルリンでのうのうと暮らしているわけではない。
国防軍情報部の収集した情報では、すでに英米両国は現地に大規模な医師団を展開して伝染病の収拾に尽力しているらしい。
北アフリカ方面にほぼ封じ込められる形となった天然痘ではあるが、現地に軍隊を展開する指揮官からしてみれば頭の痛い話しでもあった。
「元帥も知っていることとは思うが、我が軍も医師団を派遣している。時間はかかると思うが徐々に事態は沈静化するだろう」
もちろんそれは軍人であるハルダーにとって苦々しい事実であることには変わりはない。伝染病の沈静化はともかくとして、その間に戦況がどうなっているのかなど想像もつかないことだった。
しかし、それでも天然痘の流行を食い止めなければ、話にもならない。どうしようもない状況に板挟みにされてハルダーは大きな溜め息をついた。
そんな押し問答のような会話を交わしているハルダーとロンメルは、唐突に前触れもなく執務室の扉が開いた音にそちらに向かって視線を放った。
「ハルダー上級大将ー」
どこか間延びした少女の声にフランツ・ハルダーは片方の眉毛をつり上げると唇をへの字に曲げる。
「えーっと……?」
礼儀がなっていないと、一時間ほどフランツ・ハルダーにコンコンとお説教されたマリーは、その日が初めての「ハルダー主催の勉強会」だった。
顎に人差し指の先を当てたままで、金髪の少女は青い瞳を興味深そうな光を閃かせながらエルヴィン・ロンメルを見つめている。
ぱちぱちと瞬いた少女の瞳に、一瞬、ロンメルは毒気を抜かれかけた。
どうして陸軍参謀本部に年端もいかない少女がいるのだろうか? 混乱しかけて思考を巡らせているロンメルを横目に、ハルダーがデスクから立ち上がった。
「だから、礼儀がなっていないと言っただろう」
機嫌の悪そうな声は、しかしあからさまに怒っているわけではない。
それはどこか孫娘に対して厳しい祖父のようにもロンメルの目には映った。
「マリーです、おじさま」
にっこりと笑った金髪の少女の笑顔に、エルヴィン・ロンメルはぷっと吹き出すと声を上げて笑い出す。
あいさつも、敬礼も飛び越えて名乗った少女は小首を傾げながら、イギリス軍にすら恐れられた名将に対して片手を差しだした。おそらくこの様子では相手がドイツ軍切っての名将と呼ばれるロンメルだとも気がついていないだろう。
「……おじさま、か。よろしく、お嬢さん」
ロンメルは言葉を返しながら少女の手を握りかえした。
清楚なハイウェストのスカートと、袋袖になっているリボン帯のブラウスを身につけた彼女は、よもやハルダーの孫でなければ隠し子でもないだろう。
「それでこの子はどうして参謀本部に?」
当然、規律に厳格なハルダーのことだ。施設内に女子供の自由行動を許しているわけではないだろう。
マリーに「そこに座っていなさい」と命じながら、ハルダーが両目に片手を当てると大きく息を吐き出してからロンメルに手招くとどっかりとソファへと腰を下ろした。そんな参謀総長の様子を眺めたエルヴィン・ロンメルが続いてソファに座ると、一方の少女のほうはふたりの年長者を覗うようにしながら静かに腰をおろす。
「帰ったのではなかったのかね?」
「……あの、ショールを忘れてしまって」
取りに戻ってきたのだと告げるマリーに、フランツ・ハルダーはソファに置かれている手編みのショールに視線を走らせた。
どうにも彼女には緊張感というものが欠けている。
この有様で国家保安本部の一部署を任されているわけだから、彼女と仕事を共にしている将校は頭痛が絶えないだろう。足を組んでじろりとマリーを睨むように見つめたハルダーに対して、少女は咎められている自覚もないらしい。
「この子は、国家保安本部の国外諜報局に所属する親衛隊将校だ」
簡単にマリーを紹介したハルダーに、驚いた表情を隠せないのはロンメルだった。屈託のない表情で浅くソファに腰を下ろしている彼女は、興味深そうなロンメルに視線を返した。
「彼女が?」
「国外諜報局長、ヴァルター・シェレンベルクの部下だそうだ」
真偽はともかくとして、シェレンベルクがマリーを連れて歩いているらしいということは風の噂でハルダーも聞いている。
彼女の行動規範はさっぱりわからないが、それなりの地位を得ているらしい。そうでなければ、親衛隊高級指導者たちを自分の「部下」とすることなどできないだろう。
「こちらは北アフリカ方面の司令官、ロンメル元帥だ」
「はい、”知っています”」
ハルダーに一時間ほどお説教されたばかりだというのに、馬耳東風と言った様子のマリーは、悪びれもせずにそう言った。ハルダーの渋面などまるで知った事ではないと言った様子だった。
「元帥も”いろいろ”と大変ですね」
含みを持たせたマリーの物言いに、ハルダーは思わず背筋に冷たいものが伝い落ちていくような感覚を覚える。
ハルダーは、そんなどこか不躾な少女の反応に、またマリーが兵士の命を消耗品とでも思っているような発言をするのではないかと危惧をした。
彼女は、ナチス親衛隊で行われた天然痘に絡む作戦を知っている。
そしてそれを知っていて、顔色を変えることもなく「兵士の命は消耗品だ」と言い切った。司令官である自分たちがそう認識することと、第三者であるマリーがそのように考えることは根本的に違うのだ。
戦場での命のやりとりを知らない人間に、人の命を軽々しく語る資格などありはしない。
フランツ・ハルダーはそう思っていた。
「いろいろ?」
「”大変”じゃないんですか?」
まるでマリーの言葉は相手の思惑を探ってでもいるようだ。そしてマリーの言葉に引きずられた者はあっさりと彼女の手に絡め取られてしまうだろう。
「君の言いたいことが今ひとつわからんな」
ロンメルが言うとマリーはわずかに眉をひそめてから、視線をテーブルに落として考え込んでいるように見える。もっとも、それが大概的外れであることは、最近になってハルダーはやっと理解した。
マリーはどこか世間ずれしていると言ってもいいかもしれない。
「そりゃあ、わたしは軍人だからな。そういった意味では”大変”なのかもしれんが、君の言いたい”大変”がどういうことなのかわからん」
子供の他愛のない質問に答えてやっている大人とでもいった様子のロンメルに、ハルダーは黙り込んだままでマリーの様子を観察していた。
「あ……」
時計を見ながら声を上げたマリーは、慌てた様子でショールを取りあげるとハルダーにぺこりと頭を下げる。
「ベックさんに待ってもらっているので帰りますね」
ベックさん。
前参謀総長のルートヴィヒ・ベックをそう呼んだ。
強面の彼を普通の人間ならば怖がるのかもしれないが、マリーはそうではない。
「ベックさん?」
マリーの言葉にロンメルが反応した。
片腕にショールをかけた少女が「はい」と言いながらにこりと笑った。
「前参謀総長のルートヴィヒ・ベック退役上級大将のことだ。彼女は諸事情あってベックのところに預けられているからな」
「ほぅ……」
マリーが失言しないことにフランツ・ハルダーが安堵した瞬間だ。
「ロンメル元帥、またね」
扉の向こうに消えていこうとするマリーの瞳が無邪気に笑う。彼女の表情にはいつもそうだ。
笑顔が絶えない。ハルダーやベックにお説教されてもそうなのだから、頭のねじが一本か二本抜けているのではないかとすら思わせた。
蝶のようにひらりと廊下の向こうに消えていったマリーを見送って、ハルダーはしばらくすると長く息を吐き出して背中をソファに預けるとナチス党のプロパガンダに利用されることも多い「ヒトラーお気に入りの戦術家」を見やる。
彼女の瞳には底知れないものを感じる。
なぜ彼女は確信めいたことを言わないのか。
そして、なぜ彼女には他者の心の傷を抉るようなことを言えるのだろうか。なぜ彼女は人の心を傷つける毒を簡単に吐き出すことができるのだろう。
……それはまるで、彼女が他者に対して共感能力がまるでないような印象をハルダーに感じさせる。
今もそうだ。
まるでロンメルの不信感など気にも留めていない。
彼女にとって、他人の感情の動きなどどうでも良いことなのだろうか。
多くの「なぜ」ばかりが頭の中を駆け巡って、ハルダーはただロンメルの視線を受けたままで目を伏せた。
彼女の存在は、まるで毒のようだ。
扱い方次第によって、それは毒にも薬にもなる。
――毒そのもの。




